経学少女伝 ~試験地獄の男装令嬢~

 試験会場に女の子がいる。

 びっくりするほど女の子である。


          □


 もちろん科挙は男しか受けることができない。

 けいしょにも「女子は家で仕事をしていろ」みたいなことが書いてある。


 現代的な目線で見ればいかにも旧弊的だが、時はこうけん四年、西洋の暦に直せば一五八四年のことだ。女の子がしんとうだいを目指して聖人の何たるかを学習する、などと言ったらヘソで茶を沸かすほど阿呆らしい話なのである。


「だーかーらぁっ! 私は男だって言ってるでしょー!?」


「嘘に決まってらあ! どう見たって女だろうが!」


「男だよ! 試験を受けに来たの!」


 女の子はぴょんぴょん跳ねて自己アピールしていた。

 場所は県庁、科挙の第一関門たるけんが行われる会場――その前庭である。


 どうせいたち(受験生のこと)は見送りの親類や老師からエールを送られ、続々と建物へと入っていく。

 が、件の女の子は意地の悪い童生に絡まれているようだった。

 あんな端整な顔立ちをしていたら目をつけられるに決まっている。

 そもそも服装がどう見ても女の子なのだ。

 裾がゆったりした、派手派手しい花柄のほう

 身分を偽って侵入するつもりなら、もっと頭を働かせて然るべきだった。


「じゃあ確かめてやるよ! じっとしてな」


「ちょっと……」


 男は卑しく笑って女の子に手を伸ばした。仮にも堂々たる進士を目指す者の言動ではないが、ああいう輩に倫理道徳を期待するのは無駄である。


「やめろ。ここは県試の会場だぞ」


 それまで距離を置いて成り行きを眺めていた童生――らいせつれんは、ついに耐えきれなくなって声をあげた。正義感ではない。単に男の顔がムカついたからだ。


 その時、女の子が夢から醒めたように振り返った。


 玉のようにきらめく瞳が、大きく見開かれていった。市井の娘にしてはいやに器量が好いなと思いつつ、雪蓮は男のほうへと冷ややかな視線を向ける。


「問題を起こすな。あんたも勉強を頑張ってきたんだろ」


「はあ? 誰だお前は」


「受験資格を剥奪されるぞ」


 男は、うっ、と声をつまらせる。盗人のような目で辺りを見渡し、自分が注目されていることに気づいたのか、謝罪をすることもなくコソコソと立ち去っていった。


 ああいう手合いは社会問題になっていると言えよう。

 科挙の受験勉強は過酷を極めるから、しょきょうを会得するかわりに人間としての大切なモノを失ってしまうケースが多々あるのだ。


 雪蓮はそのまま立ち去ろうとしたが、ぐいっと腕を引っ張られて立ち止まる。


「あなた、お名前は何ていうの?」


 女の子がこちらを見上げて言った。


「私はこうぎょく! ああいう人はあんな感じに撃退すればいいんだね! 勉強になったよ、ありがとう!」


「そうか。それはよかった」


「ねえ、お名前は?」


 キラキラした目だった。逃げようと思っても何故か振り払うことができない。


「……僕は雷雪蓮」


「じゃあゆきって呼ぶよ! よろしくね」


 その馴れ馴れしい振る舞いを見て、雪蓮は己の行動を早くも後悔した。

 雪蓮の郷里では年頃の女子が男子に笑みを向けるのは推奨されていなかった。この梨玉という少女が浮かべる天真爛漫な表情は、経験の乏しい雪蓮にとっては猛毒にも等しい。


 雪蓮が歩き出すと、梨玉も子犬のようについてきた。


「ね、小雪はどうして科挙を受けるの? やっぱりお金持ちになりたいから?」


「違う」


「じゃあ権力を振りかざしたいとか?」


「そんな不純な動機じゃない。僕は雷家のために官吏を目指しているんだ」


 この時代、一族の名誉のために頑張ることは何ら不思議ではなかった。

 梨玉は、へえ、と感心したように呟いた。


「同じだね。私は郷里のために頑張っているの」


「男装してまでか。いや、それは男装にすらなっていないが……」


「これは女装なの! や、女装っていうか、お姉ちゃんの形見の一張羅で……これを着て進士登第を果たすことが私の目標だから! たとえ女の子に間違われたとしても関係ないよ! ちゃんと受験資格は持ってるんだからね」


 話しぶりからして、何か訳ありのようだった。

 雪蓮はこの少女に深入りをするつもりはなかった。

 ロクでもない背景事情に巻き込まれたくなかったし、同じ年度の科挙を受験するとあっては進士の椅子を奪い合うライバルだからだ。


 だというのに、この男装少女は小鳥が囀るように話しかけてくる。


「私の村はとっても貧しいの。昔、とんでもない洪水が起きたことがあってね? 村の家や畑が全部流されちゃって、それからずっと生活に困ってるんだよ」


「それってえいそうそんのことか?」


「そうそう! 小雪は詳しいんだねえ」


 当時は雪蓮も小さかったので伝聞でしか知らないが、父によると、朝廷の水利政策が大失敗して洪水が起こったのだという。公式に発表された犠牲者数は四十二名。しかしそれは明らかに虚報で、実際は数百から数千の人間が亡くなったと言われる。


「だから私は科挙を受けるの。合格すれば家族にいい思いをさせてあげられるからね」


「だったらその服はやめたほうがいい」


「言ったでしょ? これは流されちゃったお姉ちゃんの形見なの。ちなみにお父さんの形見の大工道具も持ってるよ。亡くなった家族には私が立派に出世するところを見ていてほしいんだ。だからこれは私にとっての勝負服なんだよ」


 草葉の陰から……という言い回しは儒教由来だという説がある。

 佛教や基督キリスト教とは違い、儒教における死人は霊魂の形で現世に留まり続けて大切な人を見守ることになるのだ。梨玉は洪水で喪った家族とともに科挙へ臨んでいるらしい。


「……そうか。でも金持ちになりたいんだったら後宮にでも行けばいいじゃないか。その見てくれなら採用されるだろ」


 梨玉は途端に頬を膨らませた。


「宮女じゃ世界は変えられないでしょ! 私は堂々たる進士になって世界を変えたいんだよ! 二度とあんなことが起こらないようにね」


 殊勝な態度だが、その台詞は「私は女である」と白状したようなものだ。

 雪蓮は敢えて指摘せずにおくことにした。


「立派だな」


「立派でしょ?」


 ふふん、と胸を張る。

 やはり女の子にしか見えない。


「……でも合格できるのか? 問題は難しいぞ?」


「甘く見ないでよ? 私は学問のことを知り尽くしてるんだから」


「経書は暗記できてるか? がく第一の最初は?」


シュエアーシーシーヂーブゥイーシュオフー! って馬鹿にしないでよ! それくらい子供でも分かるったら」


 梨玉はぷんぷん怒る。

 それこそ子供みたいに表情がくるくる変わる女の子だった。

 今度は不敵な笑みを浮かべて言った。


「小雪には悪いけど、じょうげんは私がいただくかんね」


「そうか。頑張れ」


「うん、一緒に頑張ろうね!」


 ちなみに状元とは殿でん(科挙の最終試験)を第一等の成績で合格した者のことを言う。

 誰もがその座に憧れ、挫折していく天上の高みだ。

 梨玉がどれだけ優秀なのかは知らないが、まずは身体検査で女性であることがバレないように頑張ってほしいものである。


          □


 科挙は一朝一夕で終わるような試験ではない。

 県試が終わればがあり、府試が終わればいんがある。院試に合格すれば国立学校に入ることを許され、晴れてせいいんと呼ばれる身分を獲得する。生員として優秀な成績を修めなければ本試験に進むことはできないのだ(ゆえに院試までは科挙そのものというより入学試験にすぎない)。


 雪蓮が今日受けることになっている県試は、長い長い道のりの第一歩でしかなかった。しかもこの県試にしたって五回も連続で試験が行われる。一回ごとに合格発表が行われ、落第者はすぐさま県庁から叩き出されるというシビアなシステムだ。


「では健闘を祈る。決して不正のなきように」


 試験官たるけんが権柄ずくにそう言った。

 姓名はようどうという。かつては中央でぶいぶい言わせていたらしいが、何かの拍子で失脚し、雪蓮が住んでいるこの田舎に左遷させられたという話だ。

 その肥えに肥えた姿は豚を連想させた。

 やはり科挙に合格すれば美味しいものがたくさん食べられるのだ。

 ふと、隣の男装少女がこっそり耳打ちをしてきた。


「豚さんみたいなおじさんだよねえ」


「……静かにしてろ。聞こえたら投獄じゃ済まないぞ」


「あ、ごめん」


 何の因果か、この梨玉という少女は雪蓮の隣の席に座ることになったのである。

 ちなみに性別に関してだが、先ほど答案用紙をもらいに行った際、保証人の生員が「耿梨玉は男です」と明言した。賄賂でも渡したに違いない。知県は最後まで不審そうにしていたが、結局は梨玉が受験することを認めた。


 いや、梨玉のことなんてどうでもよいのだ。

 ほどなくして知県により試験開始が告げられ、係員が問題の書かれた榜を持って巡回を始めた。


 最初の問題は――〝『論語』へんの「君子にきゅうあり」について述べよ〟。


 儒学をまったく知らない者からすれば何が何だか分からないだろうが、雪蓮は幼い頃から経書を読み込んできたどくしょじんの卵だ。問題を一目見た瞬間、さらさらと川が流れるように筆を走らせていく。


 ちらりと横を見れば、梨玉がうんうん唸って頭を悩ませていた。

 梨玉とは初日でお別れかもしれない。


 雪蓮はそれから危なげなく問題に解答していった。

 ところが、日が傾き、とうじょう(県試の一日目をそう呼称する)も終わりが近づいてきたところでハプニングが発生した。


「笑止! これは儂が求めていた試験ではない!」


 試験会場を揺るがす大音声。

 筆をへし折って立ち上がったのは、憤怒の表情を浮かべた男だった。


「やり直しを要求する! こんなことでは人物を獲得することはできぬ!」


「おい! 騒ぐな!」


 係員が慌てて殺到した。

 老境に差し掛かったその男は、しきりに試験問題についての文句を言っていた。ああいう手合いも珍しくはない。科挙に年齢制限はないため、不合格を重ねるうちに髪がすっかり白くなり、社会そのものに対して憎悪を募らせるようになるのだ。


「ええい放せ、ろくでもない問題ばかり出しおってからに!」


「何を言うか! 知県様に無礼であるぞ!」


「儂はこくへいてんを目指して戦っておるのだ! だいじゅんのために身を粉にして働きたいと熱望しているのに、児戯のような試験でふるいにかけられておる! もう四十年だぞ!」


「もういい! 連れていくぞ!」


 老童生は係員たちによって試験場の外へ連行されていった。

 他の童生たちはぽかんと呆けるしかない。

 梨玉もびっくりしたように瞬いていた。


「ど、どうしちゃったのかな……?」


「問題が分からなかったんだろうさ。それよりあんたは大丈夫なのか。さっきから筆が止まっているように思えるが」


「だ、だいじょぶ……」


 梨玉の額にはうっすらと汗が浮かんでいる。

 ほどなくして、知県が大きく咳払いをした。


「そこまでだ! 今すぐ解答をやめろ! おらそこの顎鬚、筆を置け!」


 試験が終わった。

 手応えは十分だったため、よほどのことがない限りは合格しているはずだ。

 雪蓮は荷物をまとめると、他の童生たちと列をなして会場を後にした。


 一つ心配なのは、隣で憔悴していた男装少女のことである。

 や、べつにライバルのことなんてどうでもいいのだけれど。


          □


 通常、答案審査には数日を要する。

 しかし、今回は童生の数が少ないため中一日を置いた後に発表されるようだ。先の洪水の被害は甚大で、将来科挙に臨むはずだった大勢の若者も摘み取ってしまったらしい。


「――悪政か。いずれ天に見放されるかもしれないな」


 雪蓮は薄汚れた天井を見上げながら呟いた。

 童生たちは県庁の宿舎で寝泊まりすることになっている。


 部屋には雪蓮しかいない。普通は八人部屋で雑魚寝をすることになるが、金さえ払えば個室で休むことも可能なのである。父親から軍資金をたっぷり預かっているため、試験に集中するためにも贅沢をさせてもらうつもりでいた。


 その時、こんこん、と扉を叩く音が聞こえた。


「小雪! こんなところにいたんだね!」


 こちらが出迎える前に顔を覗かせたのは、件の男装少女だった。

 派手な服の裾をふわりと靡かせ、小動物のような動きで雪蓮の個室を観察している。


「待て待て! 僕の部屋に勝手に入るな」


「お願い、私を泊めて! あっちの広間は男の人でいっぱいなの」


「もう性別を隠す気はないんだな」


「ち、違うよ! 私のことが女の子に見えたら困ったことになりそうじゃない?」


 屁理屈はともかく、確かに男たちに囲まれて寝るのは不安であろう。

 しかし、それで雪蓮を頼ってくるのはどういう了見か。


「僕も男だぞ」


「小雪は大人しそうだから」


 帰れ、と言いかけてから考える。

 童生たちは末生りの瓢箪みたいな連中だが、これだけ美しい娘を放り込んだらどんな事件が起こるかも分からない。とはいえ部屋に入れるのも憚られた。一人でゆっくりするために大枚を叩いて個室を準備したのだから。


「お願いだよぉっ! このままじゃ安心して眠れないのっ!」


「どうして僕があんたを助けなければならないんだ」


じんだよ! こう先生も言ってるでしょ!?」


 他人への思いやりは儒学で説かれる普遍的な真理だった。

 でも。しかし。それにしたって。


「お願いお願いお願いっ! 小雪だけが頼りなの~っ!」


「ああもう分かったよっ! そんなところで駄々を捏ねるな!」


 雪蓮は頼まれたら断れないタイプだった。

 梨玉の表情がぱぁっと輝いた。


「ありがとうっ! 小雪、大好き!」


「……寝台は一つしかないぞ。お前は床で寝てくれ」


「やったあ! じゃあ一緒に寝ようね」


「帰れ」


「ごめんて。お礼に按摩したげるよ」


 急に腕をつかまれ、雪蓮は我知らず顔を赤くした。


「ぼ、僕に触るな! いらないから! さっさと入れ!」


「はーい」


 我が物顔で入ってきた梨玉は、これまた我が物顔で雪蓮の寝台に腰を下ろす。蝋燭の火がゆらりと揺れた。雪蓮は彼女の傍若無人な振る舞いに呆れ果ててしまう。


「あんた、嫁の貰い手もいないんじゃないか」


「失礼! 私は郷里じゃ一番の美人さんって有名なんだからね」


「それについては同意するが……」


「え? ほんと?」


「何でもない」


 梨玉はにんまりと笑った。

 この少女に懐かれる謂れが分からない。


「ねえ小雪。私、受かってるかなあ」


「そんなの知らないよ」


「私ね、やっぱり進士にならなくちゃいけないの」


 梨玉は、ぽすん、と寝台に倒れ込んだ。そこは雪蓮の寝床である。


「あんな洪水は二度と起こしちゃ駄目。あれって単なる事故じゃなくて人災だかんね、役人さんが工事を適当にやったんだって。そのせいで私のお姉ちゃんやお父さんは……」


「それはご愁傷様だ」


「地震とかイナゴとは全然違う。こう言っちゃ悪いけれど、今の役人さんたちはぐーたらしてるの。だから私はじゅんちょうの官吏になって世界を変えていきたい。生き残った家族に楽をさせてあげるために、そして、私みたいな思いをする子がいなくなるように」


 進士登第は栄耀栄華のための手段と見られて久しい。

 今時、これほど真摯な思いで科挙に挑んでいる者も珍しかった。


「変えられると思っているのか。そのぐーたらしている王朝を」


「うん。進士になれば天子様にも会えるからね」


 それは理想に溺れすぎの感もある。現実は厳しい。勉強だけで世界を変えられたら苦労はしない。弱者が平穏を勝ち取るためにはもっと別の手段が必要だと雪蓮は思っている。

 だが、梨玉の純粋な思いは、雪蓮の鬱屈とした気質にわずかな曙光を投げかけた。


「……そのためには次の試験も頑張らないとな」


「うう。今日の問題も難しかったなあ」


「知県は性根が腐ってるんだ。ねちっこい出題ばかりする」


「そうだ小雪、勉強教えて!」


「今から詰め込んでも仕方ないよ。寝ろ」


「じゃあ小雪と一緒に寝るー」


「寝るな!」


「小雪、すごい荷物だねえ。何が入ってるの?」


「やっぱり寝ろ! 触るんじゃない!」


 夜は更けていく。

 雪蓮は簡単には寝付けそうになかった。

 合格発表が不安なわけではない。

 すぐそこに女の子がいるからドキドキが止まらないのである。


          □


 発表は前庭で行われた。

 梨玉がいつまでも寝惚けていたため出遅れてしまった。すでに貼り紙の周りには大勢の童生たちが集まっており、喜びを露わにする者、悲嘆に暮れる者、答案審査の不備を訴える者などなどで大騒ぎだった。


 雪蓮は梨玉に手を引かれて人いきれのする中を突っ切り、門に貼り出された結果を矯めつ眇めつ確認した。成績が優れている者から順番に名前が連ねてある。雪蓮はどうやら四番目のようだ。


「あ、あった! あったよ小雪!」


 梨玉が喜色満面で飛び跳ねた。彼女の名前はかなり下のほうに記されていたが、ここに載っている時点で合格であることに変わりはない。


「やっぱり私って秀才? このまま状元になっちゃうかもねえ」


「調子に乗るなよ」


「小雪はすごいねえ! 四番だよ四番!」


「どうせなら一等になりたかった。次は負けない」


「残念! 次に一等になるのは私だかんね!」


 梨玉は合格できたことでテンションが高まっているようだ。

 明日にはじょうの試験が始まるのだが、この一時ばかりは存分に喜んでおくのがよいだろう。雪蓮は何となしに貼り紙を眺めた。一等に列されたのはしゅうこうという男のようだ。次は後塵を拝することがないよう頑張ろう。


「おい。あれ」


 その時、にわかに童生たちがざわついた。

 ざわつきは波紋のように広がり、やがて大きな波濤となって県庁の前庭を包み込む。童生の一人が頭上を指差して叫んだ。雪蓮と梨玉も何となしに見上げる。衙門と呼ばれる県庁の入口の門、その上部に、縄で括りつけられた何かがぶら下がっている。


 梨玉が息を呑んだ。

 それは人間大の――否、まさに人間に他ならなかった。


「人だ! 人が死んでいるぞ!」


 縄で首を絞められ、化け物のように剥かれた目で童生たちを不気味に見下ろしている。風に吹かれてぷらぷらと脚を揺らす様は何かの悪夢としか思えなかった。縄は門のへりに引っかけられているらしく、合格発表の貼り紙のちょうど真上に位置していた。


 事態を悟った群衆から悲鳴がほとばしった。

 県庁のぐんたちが何事かと駆け寄ってくる。

 青褪めて立ち尽くしていた梨玉が、ぽつりと呟きを発した。


「あの人、一等の周江さんだよ」


「何だって?」


「前庭で絡んできた人。小雪が追い払った男の人……」


 雪蓮は驚いて死体を仰ぎ見た。

 死相が凄まじいので気づけなかったが、確かに見覚えのある顔だった。

 蕭々と風が吹く。

 それは死のにおいを孕んだ不穏な風。

 喧噪の中、雪蓮と梨玉はいつまでも棒のように突っ立っていた。


          □


 自殺ではなく他殺ということになった。直接の死因は窒息ではなく、頭部を刃物で突き刺されたことによる失血らしい。といってもこれは童生たちの間で囁かれる噂にすぎず、実際のところは県庁が目下調査中である。


 とにかく、県試で死人が出るなど前代未聞の大惨事だった。

 童生たちは怯え、自分の身も危ういのではないかと不安がっていた。

 周江を殺した犯人は県庁に潜んでいる可能性が高いからだ。

 梨玉も雪蓮の部屋を訪ね、思い詰めたような顔をしていた。

 殺人事件が起これば誰でも怖いものだ。


「県試、やっぱり中止になっちゃうのかなあ」


「だろうな。こんなことが起こったら試験どころじゃない」


 梨玉はそっと雪蓮に身を寄せてきた。

 どぎまぎしたが、今晩ばかりは撥ねのけるのは無粋に思えた。


 いずれにせよ、県試の全責任は知県にある。

 上に報告が行けば、あの楊士同という豚も処罰を受けることになるだろう。

 県試が中止になるのは残念だが、人の命が奪われたのだから仕方があるまい。

 雪蓮は梨玉の頭をそっと撫でながら溜息を吐くのだった。


 しかし、知県の対応は想定の数段上をいった。


「殺人事件など起こらなかった」


 翌日、なんと二場は平常通り行われることになったのである。

 しかも試験が始まらんとする時、知県は堂々とそんなことを言ってのけた。さすがに童生たちも唖然とするほかない。頭場で一等となった周江が無残に殺されたことは、この県庁にいる全員が承知していることなのだ。


「とはいえ、未来ある童生が亡くなったのは確かだ。他言すれば無用な混乱を招くであろうから、諸君は決してこのことを外部に漏らさぬように。あと、諸君の恐懼を和らげるために細やかながらお土産も用意した。ありがたく受け取るがよい」


 金品を渡すから黙っていろ、と童生たちを脅している。

 この豚は上に報告するつもりがないのだ。

 責任を問われることを恐れているのだろう。


「殺人事件は起こらなかったが、しかし、このまま放置しておけば第二の被害が出るやもしれぬ。ゆえに以後の試験においては、不合格者であっても県庁から出ることを禁ずる。そして諸君にお願いしたいことがあるのだが……」


 豚は童生たちを睨めつけながら言った。


「何か不審なことがあれば、臆することなく報告してほしい。もしそれで不埒者を捕まえることができたならば、諸君の望むように便宜を図ろうではないか」


 試験場は動揺の渦に突き落とされた。

 紛れもない汚職の片鱗を見せつけられたからである。


「では二日目を始める。並行して犯人捜しも励行してくれたまえ」


 知県は黄色い歯を見せて笑った。

 隣の梨玉は、呆然と彼の面を見つめている。


          □


「小雪ーっ! 今日もお邪魔するねっ!」


「わあっ!? くっついてくるな!」


 日が暮れて後、梨玉がいつものように部屋を訪れた。戸を開くと同時に猫のように身体を擦りつけてくるものだから、雪蓮はぎょっとして飛び上がってしまった。引っぺがされた梨玉は、悪びれた様子もなく「えへへ」と笑った。


「どうだった? 合格してそう?」


「僕は問題ないが……」


「私も問題ないよ! 詩作は得意だかんね!」


 そういえば、今日は詩に関する設問がメインだった。

 科挙は四書五経さえ暗記すれば受かるものではない。経書の注を頭に入れ、注の注たるも頭に入れ、古今の政治課題や学説を隅から隅まで咀嚼し、さらには唐詩を完璧に作り上げる技術も要求される。ゆえに問題の種類も多岐にわたるのだ。


「まあ、今は試験よりも殺人事件のほうが盛り上がってるよな」


「うん……不純だよね。犯人見つけたら合格だなんて」


「あの豚はあらゆる意味で汚い」


 県庁の童生たちは躍起になって探偵ごっこに興じている。

 豚の覚えがよくなれば、県試を問答無用で通過できるのだから無理もない。


「ねえ小雪。周江さんはどうして殺されちゃったのかな……」


「あの性格だ、恨みを買っていたのかもな」


 雪蓮は二場が終わってから色々と調査をした。

 周江と同郷の童生が言うには、周家は代々官吏を輩出してきた家系らしく、その嫡子たる周江は家の権勢を頼りに好き放題やっていたようだ。無銭飲食や婦女暴行は日常茶飯事で、あの男に陥れられた無辜の人は両手の指では数えきれない、らしい。


「でもさ、どうやったんだろうね? 死体をあんな高いところから吊り下げるなんて」


「吊り下げること自体は難しくない。門の上には誰でも登ることができるそうだ。周江を誘き出して殺し、首に縄を括りつけて落としたんだろう」


「じゃあ何でそんなことをしたの?」


「そうだな。それが問題だ」


 梨玉は不安そうに雪蓮を見つめてくる。

 瞳がきれいだったので思わず目を逸らしてしまった。


「普通は犯行が露見しないように死体を隠すはずだ。わざわざ人の集まる門に吊るしたということは、周江が死んだことを大勢に知らせたかったのかもしれない」


「あんなの普通じゃないもんね……」


「普通じゃないやつの思考を推測しても仕方がないよ。犯人捜しは他のやつらに任せておけばいい。僕たちは正攻法で県試を突破するべきだ。そのための勉強はあんたも頑張ってきたんだろ?」


「うん。事件のことは考えないようにするよ」


 そこで梨玉は途端に笑みを浮かべた。


「小雪、今晩は安全のために一緒に寝ない?」


「触るなって言ってるだろうが」


「あれ? お顔が赤いよ?」


「赤くない!」


 赤かった。

 雪蓮は経書ばかりを読んで育ったため、梨玉のような美しい娘と触れ合う機会がなかったのだ。平たく言えば耐性が欠如しているのである。


「ははあん、女の子に慣れてないんだ」


「……だから何だっていうんだよ」


「可愛いなー、と思って」


「追い出すぞ」


 梨玉は「ごめんごめーん」と子供のように笑っていた。

 雪蓮は再び溜息を吐いて蝋燭の火を消した。

 夜は深まり、県庁は漆黒の闇に包まれる。


 梨玉の振る舞いには呆れるばかりだが、その比類なき明るさ・純粋さは、昨今の官吏たちが忘れてしまったものに違いない。もし梨玉が進士登第したならば、天下はよい方向に導かれていくのだろうか……。

 ぼんやりと考えつつ、雪蓮はゆっくりと瞼を閉じるのだった。


 その二日後、二場の結果が同じように発表された。

 雪蓮も梨玉も労なくして突破し、さらに翌日のさんじょうに備えることになる。


 本来ならば不合格者は追い出されることになるが、前述の通り、知県のお達しによりすべての童生が県庁に閉じ込められることになっている。


 特に頭場、二場で落第した童生たちは敗者復活を望み、周江を殺した者の捜索に熱を上げていた。県試が始まった日から誰も外部に出ていないため、殺人鬼は今もどこかで息を潜めているに違いないのだ。


 互いが互いを探り合う、疑心暗鬼の県試がスタートした。

 だが、この時点では誰もが思いもしなかった。

 事件はまだ始まったばかりだということを。


「おい! 大変なことになった!」


 二場の結果発表があった晩のことだった。

 珍しいことに梨玉が来なかったため、雪蓮は蝋燭の火を頼りにぼうっと注釈書を読み込んでいた。すると、にわかに宿舎の外が騒がしくなったのである。ただならぬ気配を覚えた雪蓮は、書物を放って中庭へ飛び出した。

 童生たちが血相を変えて行き交っているのが見える。


「何があったんだ」


「ああ、あんた、雷雪蓮か」


 何日も同じ施設で寝泊まりしていれば顔見知りも増える。

 猿のような顔をしたその童生は、人だかりの真ん中を指差して言った。


「ひ、人が死んでるんだよ。二場で首席だったしゅこうってやつだ」


「はあ? そんな馬鹿な……」


「嘘じゃないぞ! 俺はこの目で見たんだからな……!」


 雪蓮は男を無視して人込みのほうへと駆け寄った。

 中庭の端っこの厠の近く、井戸のすぐ隣である。


 童生たちに囲まれていたのは、ぽっかりと口を開けて仰臥している男だった。眠っているのではない。首筋からは赤い血がどくどくとあふれているし、その瞳からは生き物らしい生気が少しも感じられなかった。


「ほんの少しの間だったんだ! こいつ、ちょっと厠へ行ってくるって……気づいた時には殺されていた!」


 朱子高と同室らしい青年が顔を青くして喚いていた。

 雪蓮は唖然として死体を見つめた。

 周江の時と似たような刺し傷だ。

 本人のまったく意識せざるところで命を刈り取られた形跡である。

 童生たちは恐れおののき、周江を殺した者がやったのだ、と騒ぎ立てていた。


「また一等の人だね……」


 鈴を転がすような声がした。

 振り返ると、梨玉が柳眉をひそめて死体を見つめている。


「あんた、どこ行ってたんだ」


「散歩だよ。気分転換しようと思って……」


 梨玉は雪蓮の服の袖をつまんだ。その指先が震えているのが分かった。雪蓮は咳払いをしてから死体に視線を戻す。


「……しかし、一等の者がまた殺されるとは。周江に対する怨恨かと思っていたが、どうやら面倒な思惑が絡まっているらしい。科挙そのものに対する不満があるのかもな」


「周江さんを殺した人と同じなのかな……?」


「だろうな。殺人鬼が何人もいるとは思いたくないよ」


 科挙のせいで人生を棒に振った人間は大勢いる。

 巷間に流布する白話小説などには、何十年も進士登第を果たせなかった老人が肚の内で太らせていた不平不満を爆発させ、勉学に打ち込む将来有望な若者を手当たり次第に殺害していくという激烈なものもあるのだ。しかもこれは完全なるフィクションに非ず、こう年間に起きた現実の事件を題材としている。


 それと同じようなことが起こっているのかもしれない。

 かくも由々しき事態が起これば、さすがに知県も重い腰を上げるだろう。


「どうしよう? 私たちは何をすればいい?」


「戻ろう。僕たちにできることはない」


「うん、そうだね……」


 雪蓮は梨玉の手を引いて部屋に戻るのだった。


          □


 しかし、己の地位に対する豚の執念はすごかった。

 知県・楊士同のもとに事件の報告が入ったのは、彼が夕餉の豚肉を平らげ、寝室へ向かってのろのろ歩行を始めたその瞬間だった。二人目の死人が出たと聞くや、またたく間に赤面して赫怒した。


「うすのろが! さっさと犯人を捕らえないからそうなるのだ!」


「ひいっ」


 報告に上がった部下が尻餅をついた。知県の太い腕で突き飛ばされたのである。


「捜査のほうはどうなっている!?」


「下手人の行方は杳として知れず」


「ぷああああ!」


 知県はまさに獣のように吼えた。

 昔からこの男は思い通りにならぬことがあると咆哮を放つのである。

 その脳味噌の内側で自問自答されているのは、いかにして事態を隠蔽するかという一点に尽きる。すでに中央で失態を演じ、こんな僻地に左遷させられる災難に見舞われた。


 そのうえ厳粛なる県試の場で殺人事件を起こしたとなれば、罷免どころか流刑に処される恐れもある。(知県よりもえらい人)に知られるわけにはいかないのだ。


「とにかく現場を検めろ! 童生どもの取り調べも行え!」


「はい」


「それと、この件は絶対に外部に漏らすんじゃない」


「しかし……」


「口答えをするな! その口を削ぐぞ!」


 部下は平謝りしながら辞去した。

 豚は勢いよく拳を卓子に叩きつける。

 童生にも調査を命じたものの、はたしてどれだけ使い物になるのやら。互いを監視させることで次なる犯罪を未然に防ぐという効果も期待できるはずだったが、結局第二の犠牲者が出てしまったので意味がない。


「私の経歴を曇らせおって……」


 誰が誰を殺そうと露ほどの興味もないが、やるなら自分の知らないところでやってほしいと豚は思っている。

 その時、にわかに叩扉する音が聞こえた。苛立ちまじりに「入れ」と叫ぶと、恐る恐るといった忍び足でさっきとは別の部下が入室する。


「知県様にご報告が」


「どうした」


「目撃情報です。女物の袍衣を着た何者かが夜間に出歩いていたと……」


「何だと?」


 豚はぎょろりと目玉を動かす。

 長年の放蕩生活で錆びついていた記憶力が躍動した。

 そういえば、童生の中に奇妙な風体をした者がいたような。


          □


 県試は続行されることになった。

 知県はどこまでも事件を隠し通す腹積もりらしい。これから官吏にならんとする童生にとっては恰好の反面教師と言えるが、半ば恐慌状態に陥った彼らには知県を糾弾するという観念が端から存在しない。


 試験で一等になれば、正体不明の殺人鬼に殺される。

 その厳然とした事実が童生たちの精神を蝕んでいたのである。


 雪蓮には知る由もないことだが、三場では、答案審査にあたった官吏が思わず首を捻ってしまうような珍妙な解答が続出した。童生たちは下手に優秀な答案を提出してしまうことを恐れていたのだ。もはや試験は試験の体裁を成していなかった。


 そして、三場の結果が発表された日の夕刻。

 一等になったりゅうけんという男が殺されているのが発見された。


 劉謙も馬鹿ではないから、自分が一等だと分かるとその日は宿舎に閉じこもり、同室の童生たちに周囲を警戒してもらっていたという。


 しかし、厠の個室で一人になったところを狙われて息絶えた。


 驚くべきことに、厠のある掘っ立て小屋の背面には、外部へと通じる不正な勝手口が急造されていたのである。殺人鬼は最初からこのタイミングを虎視眈々と狙っていたのだ。正面の入口で見張っていた童生たちは案山子ほどの役にも立たなかった。


 県庁の混乱は極致に達した。童生たちのアリバイ確認も行われたが、犯行に及べる可能性のある者は一人もいなかった。誰もが姿の見えぬ殺人鬼に恐れをなし、「幽霊の仕業だ」「いや鬼神の仕業だ」などと孔子が聞けば呆れるようなことをほざき始める。


 ところが、以下のような主張をする者が現れた。


「女がいたんだよ! 俺は見たんだ!」


 童生たちで今後の対応を話し合っていた時である。

 劉謙と同室の者が喚き立てていた。


「昼間、牖からチラッと見えたんだが、やつは木陰から俺たちの部屋を覗き見してやがった。顔は分からないが、派手な服を着た女だよ……劉謙を狙ってたに違いない」


「はあ? 給仕係じゃないのか」


「あんな恰好をした給仕係がいるか!」


 雪蓮は嫌な予感を覚えた。

 この話の行きつく先は決して気持ちのいいものではない。

 童生たちの目は紅一点へと吸い寄せられた。


「お前……確か耿梨玉とか言ったよな」


「そ、そうだけど」


 梨玉の肩が強張る。童生たちは険しい表情で彼女を見つめている。


「お前は本当に男なのか? 顔かたちも男にしては綺麗すぎるよな」


「私は男だよ! ここにいる時点で分かるでしょ」


「そりゃそうだ。しかし、そんな袍衣を着ていれば疑われても文句は言えないよな。たとえお前が男だったとしても、こいつが牖から見た女ってのがお前だった可能性は否定できない。その形では李下に冠を正しているようなもんだ」


「でも……」


「待て。こいつには現場不在証明アリバイがちゃんとある」


 雪蓮は思わず言葉を発していた。この男装少女に構う必要性は薄いが、しばらく同室で過ごしたよしみで助太刀することにした。


「僕がずっと見ていた。耿梨玉に殺人を犯している暇なんてなかったよ」


「そ、そうだよ! ちなみに小雪もずっと私と一緒にいたかんね!」


「それこそ待てよ。他の連中は複数人からの保証があるが、お前らは互いに『この人は潔白です』と言ってるだけだろ? それをどうやって信じろってんだ」


「その通りだ!」


「この二人が怪しい!」


 童生たちはヒステリーを起こしたように騒いでいる。この特殊すぎる状況下にあっては冷静さを欠くのも無理はないが、雪蓮にとっては甚だ都合の悪い展開だった。このまま知県に報告でもされれば、大した証拠もなしに処罰される危険性が否めない。


 だがその時、雪蓮は不思議な光を見た気がした。


「だったら! 私が事件を解決するよ!」


 梨玉は筆舌に尽くしがたい陽の気を放っていた。

 童生たちがぎょっとした瞳で彼女を見た。


よんじょうで首席になる。そうすれば犯人が私を殺すために襲いかかってくる。誘き寄せて捕まえればいいんだよ」


「あんた、それはいくら何でも……」


「わ、私が一等になるのは難しいかな……?」


「そういうことじゃない。身を削りすぎだと言ってるんだ」


「じゃあ小雪が守ってよ」


 そんなことを真剣に頼まれたら口籠るしかない。

 無言を肯定と捉えたのか、梨玉は他の童生たちを振り返って言った。


「悪いことをする人が許せないの。私は先の洪水で家族と故郷を失った。ここにいる人たちは知っていると思うけれど、あれは天災じゃなくて人災だった。自分の都合で他の人の命を奪うなんて、絶対にやっちゃいけないことなんだよ」


 梨玉の無垢な正義感は童生たちの心を大なり小なり動かしたらしい。彼らの中にも洪水の被害を受けた者はいるのだ。賛同する声がぽつぽつと上がり、やがて一同は「そういうことなら」と梨玉に協力する方向で緩く連帯することになった。


 まずは梨玉を四場で一等とすることが急務だ。こんな方法で一等を作り上げたとして犯人の食指が動くかどうかは不透明だが、一石を投じるという意味でも実行する価値はあった。かくして事件解決に向けた作戦が始まったのである。


 雪蓮は密かに梨玉の横顔を盗み見た。

 気づかれ、花が咲いたような笑みが返ってくる。

 この少女は鳳雛やもしれぬ――そんな予感が雪蓮の内に芽生えた。


 とはいえ、やはり梨玉のことを疑う者も一定数はいるようだ。場がお開きとなり、各々が宿舎に戻らんとする時、にわかに雪蓮を呼び止める声が聞こえた。


「なあ。耿梨玉のことなんだが」


 猿のような顔の童生である。朱子高が殺された時に言葉を交わした記憶があった。


「俺ぁ洪水の話を聞いてからピンと来るものがあったんだが、けだし耿梨玉は復讐のために動いているのかもしれんね」


 その梨玉が遠くで手を振っていた。

 何してるの小雪ー、はやく行こうよー、という無邪気な声がこだまする。

 雪蓮はそれを無視して猿に視線をやった。


「復讐? どういうことだ?」


「いや、知県の楊士同っていう男は中央で働いていた役人だったわけだが、十年ほど前、この辺りの水利事業の担当者だったことを思い出してな。官職はこうろうで、工人をまとめてたいしゅうの工事をしていたんだ」


「それが?」


って工費を懐にしまい込んだらしい。そのおかげで堤防が決壊、辺りの村々は水浸しになっちまったって寸法だ。耿梨玉の郷里もその犠牲になったんじゃないか」


 この男の言う通りだった。

 梨玉の故郷、英桑村も甚大な被害を受けた。


「で、今は県試が大騒ぎだ。庁舎で殺人事件が起きたとなれば責任問題。三人も死んだわけだし、あろうことか知県様は生来の意地汚さを発揮してひた隠しだ。このことが詳らかになれば、よくて流刑、悪けりゃ極刑かもな」


「何が言いたい」


「だから復讐だよ。耿梨玉が知県を追い詰めるために人を殺したんじゃないかって」

「なるほど。言われてみればその可能性もあるな」


 雪蓮は踵を返して歩き始めた。

 すでに県庁は薄暗く、夜の帳がおりている。

 梨玉は心配そうな顔をしながら待ってくれていた。


「何話してたの? 浮気?」


「何だよ浮気って」


「小雪を独り占めしていいのは私だけだからー」


「おい、くっつくなって言ってるだろ! 他の連中が変な目で見ている!」


「いいじゃん別にぃ」


 近頃は何故かスキンシップが増加しているので臓腑に悪い。

 さておき、はたして彼女は正義を体現することができるのか。

 その結果は試験が終わればすぐに分かる。


          □


「首席、耿梨玉……」


 四場の試験も強行され、その結果が発表されるや否や、童生の誰かが恐れにも似た声を漏らした。


 梨玉は終始緊張した面持ちだった。一等になった喜びを噛みしめる道理はなく、これから対峙することになる危難に対して不安を募らせているようだ。県庁側はすぐさま梨玉に護衛をつけた。豚にとっての焦眉の急は、何が何でもこれ以上の犠牲を出さぬこと、犯人を水面下で処理して不祥事を隠すことの二つだった。


 その日、梨玉はずーっと雪蓮のそばにいた。

 もちろん二人きりではない。雪蓮の部屋の周囲には県庁の係員が待機しているし、童生たちも遠巻きに注意をしている気配があった。


「すごいことになっちゃったねえ」


 梨玉は呑気なふうを装っていた。


「そんなに科挙が嫌なのかな? 人を殺しちゃうなんて信じられないよ」


「科挙には不思議な魔力があるからな。宮女や宦官にでもならない限り、市井の民が栄達するには進士登第を果たすしかないんだ。そういう社会構造が気に食わない連中がいたっておかしくはない」


「でも私は正攻法が一番だと思うな」


 梨玉は雪蓮の黒髪を手で弄んでいた。

 そういう過度な接触はやめてほしいと切に願う。


「誰かを犠牲にして何かを得ても虚しいだけだから。死んだお父さんがよく言ってたの、誰にでも胸を張れるような生き方をしなさいって」


 やはり梨玉の考えはちょっと理想に偏っている。

 雪蓮は思わず口を挟んでいた。


「理想だけでは立ち行かぬこともあるんじゃないか。暴力が最良の手段になることだってある。たとえば王朝が交代する時はだいたい武力が正義となるだろう」


「そうかもね。でも私は順朝を糺すために戦いたい。仁とか徳によって世界を変えていきたいんだ」


「最近では珍しいくらい清廉だな」


「そ、そうかな?」


「そうやって自分の信念を曲げずに頑張れる人はすごい」


「う……」


 明け透けな賞賛には無防備のようで、途端に赤面して俯いてしまった。日頃の意趣返しが成功したのを喜ぶべきなのに、梨玉のその仕草が意外なほど愛らしかったので正視に堪えなかった。雪蓮も雪蓮で視線を中空に彷徨わせる羽目になる。


「まあ。あれだ。あんたは頑張ってるな」


「ずっと不安だったんだ」


 梨玉は照れ臭そうに笑って言った。


「一人でここまで来て。本当にやっていけるのか怖くて。でも小雪にそう言ってもらえたら勇気が湧いてくるね」


「……何で僕にそこまで入れ込むんだ?」


 雪蓮は最大の疑問を口にした。

 梨玉は首を傾げている。


「最初に助けてくれたでしょ?」


「それにしては度が過ぎている」


「それだけじゃないよ。だって小雪は――」


 その時、乱暴なノックの音が室内に響いた。

 誰何するよりも早く扉が開く。

 ずかずかと部屋に足を踏み入れたのは、官服に身を包んだ男だ。

 梨玉の護衛として外を見張っていた者だろう。


「あの、お役人様。どうかしましたか?」


 梨玉が立ち上がりかけた瞬間のことだった。

 雪蓮は男の右手が奇妙に動いたのを見咎めた。あっという間の出来事だった。腰に佩いた剣の柄に指をかけ、一気にそれを振り抜いて見せたのである。


 梨玉は木石のように硬直していた。

 今まさに、明確な死が降りかからんとしている。

 雪蓮にとって梨玉は赤の他人。見捨てるのが利であることは分かっていた。

 しかし、梨玉の朗らかな笑みが脳裏を過ぎった瞬間、雪蓮は先のことなど微塵も考えずに飛び上がっていた。


「危ない!」


「えっ」


 梨玉の腕を引いて背後に押しやった。

 左腕に鋭い激痛が走る。

 男の描いた剣筋が肉を裂いたのだ。


 壁や床に血が飛び、梨玉の悲鳴が反響した。それでも雪蓮は怯まなかった。久方ぶりに味わった斬撃の痛みを噛み殺し、蛇が喰らいつくような勢いで男の顎を蹴り上げた。


 その時、雪蓮はついに気づく。

 苦悶に歪む男の顔、それは頭場で騒いだ老童生のものに他ならない。


「邪魔をするなああ!」


 老人が邪悪な叫びとともに突貫する。

 雪蓮はその腕をつかむと、背負い投げの要領で彼の身体を壁に叩きつけてしまった。


 どん、という骨が砕けるほどの音がする。

 それきり、老人は亀のようにひっくり返ったまま動かない。

 もごもごと動く口唇から漏れるのは、呪詛にも似た呟きだけだった。


「儂は大順のために……天下を安んずるために努めてきた。こんなところでくたばるわけにはいかんのだ。愚か者どもが跋扈する世界を変えねばならんのだ……」


 大方の想像通りだったようだ。

 この男は、科挙制度の峻嶮さに打ちのめされた哀れな老人であり、齢六十の坂を越えてもみみしたがうことがなく(孔子は六十にして他者の意見を素直に聞くことができるようになったという)、前途ある童生を殺して回るという凶行に及んだ。


「大丈夫か! おい、あやつが下手人だ! 捕らえろ!」


 大勢の男たちが部屋に踏み込んできた。

 怒りすら覚えるほど鈍間な、それは正規の役人たちである。


 老人が連行されていくのを尻目に、雪蓮はその場にゆっくりとしゃがみ込んだ。傷は命に係わるほどではないが、じくじくとした痛みが途方もなく不快だった。


「小雪! 大丈夫!?」


 梨玉が雪蓮の肩をつかんだ。その瞳には涙すら浮かんでいる。


「はやく手当しないと! じっとしてて!」


「大丈夫だ。放っておけば治る」


「治るわけないでしょ!」


 梨玉は衣服を引き千切って止血を始めた。姉の大事な形見だというのに。


「どうして守ってくれたの。そんな怪我までして……」


「怪我をするつもりはなかった。あいつが思ったより速かったから」


「だから、どうして守ってくれたの!」


 雪蓮は少し考えてから答えた。


「……あんたが僕にないものを持っているからだよ」


「え?」


「間違えた。身体が勝手に動いていたんだ」


「もうっ……!」


 梨玉は怒ったような顔で抱き着いてくる。

 耳元でそっと囁かれた。


「でも小雪は命の恩人だね。ありがとう」


 本当に身体が勝手に動いたのだ。

 他人は路傍の石程度にしか思っていなかったのに。すべては自分が勝ち進むための道具でしかないと思っていたのに。

 あの時、あの瞬間だけは、梨玉の命が喪われることに強い忌避を覚えた。


 周囲では役人や童生たちが大声をあげて行き交っている。

 県庁を騒がせた殺人事件は幕引きとなるだろう。

 雪蓮は梨玉の温もりを感じながら目を閉じた。

 これで計画は最終段階に進む。


          ※


 耿梨玉の原風景は水浸しになった郷里の風景だ。

 龍に呑まれるがごとく多くの人が消えた。耿家の人間もその憂き目に遭い、運よく難を逃れることができたのは、母と弟、梨玉の三人だけだった。働き盛りを失った耿家が窮乏したのは言うまでもなく、しばらく木の根を食うような生活が続くことになった。


 天は何の罪もない梨玉の家族を殺した。


 ぶつけどころのない口惜しさが胸の内に広がっていた。

 だが、物心がついた時に梨玉は知ることになる。あの水害は天の御業ではなく、朝廷の楊士同という役人が手抜き工事をしたことが原因だったのだ。


 それから梨玉の肚は決まってしまった。

 母のこと、家のことは弟に任せ、ひたすら勉強に打ち込むことにした。


 負けたくなかった。世界を変えてやりたかった。自分のように困苦に喘ぐ人たちを救いたかった。俗悪な官吏たちに平手打ちを浴びせるのが自分の使命だと思った。進士になれば日月すらも動かせると信じていた。


 梨玉の身体の内に燃えているもの。

 それは家族への愛情と、天下に対する揺るぎない正義感である。


          ※


 老童生が捕縛されて後、梨玉はつきっきりで雪蓮の世話をした。


「大した怪我じゃないからあっちに行ってろ」


「命の恩人を放り出せないよ! 着替えさせたげるね」


「いいよ! 変なとこ触るな!」


 梨玉は雪蓮が押しに弱いことを承知しており、猪突猛進といった勢いで四六時中へばりついてきた。人見知りな雪蓮としては胃に穴が空くような思いだったが、それはそれとして、この天衣無縫な少女に構われるのが満更でもない気がしてきたから始末に負えない。


 事件のほうはと言えば、今のところ県庁で取り調べ中らしい。

 犯人が見つかったことで、それまで容疑者として県庁に幽閉されていた不合格者たちは野放しとなった。もちろん県庁側は口止め料を彼らの懐に忍ばせたようである。


 かくして、県試は何事もなかったかのようにしゅうじょうを迎える。


 だがその直前、雪蓮と梨玉は知県から呼び出しを受けることになった。

 薄々予想はしていた。雪蓮と梨玉は下手人逮捕の功労者でもあるのだから。


「耿梨玉に雷雪蓮。その働きぶりは見事だった」


 知県は豚のような体躯を震わせて言った。

 ちなみに梨玉が一等になって賊を引き受けるという作戦は知県の耳にも入っている。通常は試験を冒涜する違反行為だが、今の豚にとっては些事のようだった。


「おかげで県試を健全に全うすることができる。そなたらは世の童生たちの鑑だな。何か褒賞でも出したいところだ」


「もったいなく存じます」


「が、犯人が妙なことをほざいておってな」


 空気が変わった。豚がねばねばした視線で見つめてくる。


「犯人、これはこうふくしょうという名だそうだが、こやつが人を殺す端緒となったのは自分の意志ではないらしい。得体の知れぬ女に『そうしろ』と依頼されたのだそうだ」


「どういうことですか?」


「その女が黒幕ということだ。そいつは県庁の内部で目撃されている。そして今、私の目の前に立っている」


 梨玉は展開を理解できていないようだ。

 しかし雪蓮には読めてしまった。


「耿梨玉。県試に刺客を放ったのは貴様であろう」


「えっ!?」


 梨玉は瞠目して言葉を失った。寝耳に水だったに違いない。確かに袍衣の女が徘徊しているという噂はあったが、それが梨玉であるはずがないのだ。


「ま、待ってください。私はそんな」


「とぼけるな! 県試を台無しにせんと企んだのは貴様だろう!」


 豚はのそのそと近づいてきた。


「否、私を陥れるつもりだったに違いない! だが残念だったな、その邪悪なる企みは未然に防がれた。まったく、嗚呼、まったく近頃の童生は性根が歪んでおるわ!」


「こいつが犯人? それは違いますよ知県様」


 雪蓮は梨玉の前に立つ。


「もしそうなら黄福祥がこいつを殺そうとしたのはおかしいです。依頼主を毒牙にかけるはずがありません。こいつを黄福祥に会わせればすぐに潔白だと分かりますよ」


「小雪……!」


 梨玉が救われたように声を震わせた。

 だが、豚にはその理屈は一切通用しなかった。


「あの男はすでに正気ではなかった。依頼主かどうかの区別もつかぬよ」


「正気でない者の言葉を信じたのですか」


「どうでもいい! 貴様も耿梨玉と結託した罪でひっ捕らえてやる! 大順に背いたことを後悔するがいい!」


「そ、そんな……小雪まで……」


 豚はこうやって数々の冤罪を生み出してきたに違いない。

 愚か者が権力を持つと弱者が損をするのは世の常だが、近頃は道徳を忘れた官吏の話があちこちから聞こえてきた。やはり大順は上から下まで腐りきっている。


「捕らえろ」


「ちょっと、放してくださいっ」


 県庁の軍夫たちが強引に腕を引っ張ってくる。

 梨玉は下手に暴れたため、あっという間にその場に組み伏せられてしまった。地に這いつくばりながら、それでも一生懸命な視線で豚を見上げていた。


「知県様はそれでいいんですか!? こんなことっておかしいと思います! 小雪も私も何もしてないのに! もっと調査とかをしっかりしたほうが」


「やかましい」


 知県が杖で梨玉の頬をぶっ叩いた。

 呆然とした表情で硬直する梨玉。


「天下は健やかだ。何も問題は起きていない」


 雪蓮は己の内側で黒い何かが膨れ上がっていくのを実感した。

 こういう悪人が跋扈しているから人が死ぬ。

 そして天はこの悪人らを放置している。


「わ、私は、私は……」


 梨玉が嗚咽まじりの声を発した。


「もういい。さっさと連れて行け」


「私は……楊士同さんに会いに来たの」


 豚が驚いたように目を向けた。軍夫たちに「待て」と命じる。


「どういうことだ」


「あなたは私の故郷を壊した張本人だから。いったいどんな人なのか気になっていたの。十年前にこの辺りを襲った洪水は、あなたの手抜き工事が原因なんでしょ……」


 豚の顔がみるみる紅潮していく。

 火薬が弾けるように怒りを爆発させた。


「痴れ者が! 私を糾弾すると言うのか! やはり事件を起こして私を失脚させようとしていたのだな! なんたる邪悪な小娘だ!」


「違う、そんなことしてない! 私はただ、あなたの気持ちが知りたかったんだ!」


「どうでもいい! 今すぐ貴様を牢にぶち込んでやる!」


「ど、どうでもいい……? あなたのせいでお姉ちゃんやお父さんは死んだのに……」


「黙れ黙れっ! 金にもならぬ民草の生死など私が考える領分ではないわ!」


 豚は散々に梨玉を叩いていた。

 もはや梨玉には抵抗するだけの力も心もなかった。

 この少女は本当に知県への復讐を企てていた。

 だが、それは決して暴力的な手段にはよらない。科挙という正当な手順で官吏となり、内側から人々を変えていこうと考えていたのだ。なんて輝かしい心意気であろうか。そんな将来の大器は今、取るに足らない小悪党によって沈められようとしている。


 雪蓮は耳を澄ませた。

 すでにタイムリミットのようだった。


「私を侮辱して! ただで済むと思っているなら! それは大間違いだ!」


「知県様。これ以上はやめてください」


 雪蓮は豚の太い腕をつかんでいた。それは神怪じみた流麗な動きだった。いつの間にか雪蓮を縛めていた軍夫たちは地に寝転がされ、壺中の天を彷徨うがごとく目を回しているのである。異変に気づいた豚が悲鳴にも似た吐息を漏らした。


「貴様! 何を」


「耿梨玉はお前よりもよっぽど官吏に相応しい。お前のような人間こそ害悪だ」


「小雪……!」


「大丈夫。あんたの思いは結実する」


 梨玉の瞳が満月のように見開かれていく。

 どこまでも真っすぐな光がそこに宿っていた。

 その想いが踏みにじられるのは我慢ならなかった。


 梨玉は立派だ。民を思い、その苦楽を自分のものとし、慈悲をもって行動できる女の子。まさに経書が理想とする聖人に至ることができる人材といえよう。


「放せ! 貴様も縊り殺すぞ!」


「そうはならない。お前にはもう先がないんだ」


「この……」


 左手で雪蓮を殴ろうとした直後、知県の身体がぐるんと回転した。

 力を込めて足を払ったのである。日頃の運動不足が祟ったのか、それだけで豚は面白いように転倒した。梨玉を取り押さえていた軍夫たちが大慌てで雪蓮に殺到する。しかし雪蓮の身ごなしはせんのごときで、誰一人としてその肌に触れることはできなかった。


 豚は呆然と天井を見上げていたが、頭に血が昇るのにそれほど時間はかからなかった。


「ぷああああ! き、貴様、よくも!」


「知県様! こやつ武術の心得があるようですっ」


「殺せ! 捕らえろ! 八つ裂きにしろ!」


「もう遅いよ」


 その時、扉を蹴破る勢いで役人どもが駆け込んできた。試験会場で終場の準備をしていた男たちである。彼らは悪い夢でも見たような顔で走り寄ってくる。


「知県様! 府の役人が来訪しております!」


「今はそれどころじゃない! 追い払え!」


「しかし、知県の行状を調査しに来たと仰っていて……」


「何だと……!?」


 豚の赤ら顔がみるみる青くなっていった。

 梨玉もびっくりして雪蓮の顔を見つめてくる。

 そうだ。すでに遅い。雪蓮が県庁に足を踏み入れた時点で運命は決していた。

 悪を誅するための準備は整っていたのだ。


「残念。お前の悪事は白日の下となるだろう」


「まさか……!」


「僕は何もやっていないよ」


 雪蓮は梨玉に手を差し伸べながら「大丈夫か?」と聞いた。梨玉は少し呆気に取られた様子だったが、すぐに「うん」と頷いて雪蓮の手を握り返す。


 役人たちは大騒ぎだった。知県の隠蔽工作に加担したことが露見すれば、自分たちの進退も危ういからだ。そのただ中にあって、豚は怒りに震えることしかできずにいた。


「ふざけおって! このような行いは許されるはずがない!」


「あなたに言われたくないっ」


 梨玉が立ち上がりながら叫んだ。

 その瞳は珍しくも怒気を孕んでいた。


「私は堂々たる進士になって世界を変える。あなたみたいな悪い人がいなくなるように。そんな悪い人でも心が清らかになるように。あなたは役人さんに取り調べてもらうのがいいよ。そうしてちゃんと反省してね」


「ま、待て」


「さようなら」


 梨玉は雪蓮の手を引いて部屋を後にした。

 背後からは動物じみた悲鳴が響いてくる。

 天道に背いた者は報いを受けて然るべきなのだ。


          □


 それから府とさついん(官吏を監察するための組織)による調査が進み、知県の不行状は公然のものとなった。殺人事件を放置し、あまつさえ己の都合で隠蔽するなど言語道断。さらに種々の汚職に手を染めていた事実も芋づる式に浮上したため、楊士同の名誉には回復できぬほどの傷がついた。豚の末路である。


 だが、これは多くの童生たちが証言したからこその結果だった。

 もし目撃者がいなければ、あるいは少なければ、府や都察院も揉み消していたのではなかろうか。大順の腐敗の度合いから察するに、それも決してあり得ぬことではない。豚を征伐するにはこの展開がベストだったのである。


 県試は有耶無耶になったが、府の判断で正式に無効となった。もはや試験の体裁を成していなかったのだから仕方がない。合格も不合格もなく、特例として半年後に再試験が行われることになる。


 童生たちは県庁から追い出され、再試験に向けた勉強に励むことになった。

 とはいえ、いつまでもこの街に逗留するわけにもいかぬ。

 各々はひとまず郷里に帰ることになったのだった――


「小雪ぃーっ! もう、何でそんなに薄情なのー!?」


 街の門を出ようとする時、後ろから大声で追いかけてくる者がいた。

 男装の少女、否、どう見てもただの少女、耿梨玉である。試験期間に飽きるほど見たその美しいかんばせは、何故か不満一色に染まっている。


「……別に薄情でも何でもないだろ。僕たちは赤の他人なんだから」


「赤の他人じゃないよ! 小雪は私の命の恩人だかんね!」


 梨玉は例によって雪蓮の腕に絡みついてくる。

 何度注意しても近すぎる距離感が是正される気配はなかった。

 雪蓮は溜息を吐いて苦笑する。


「まあそうだな。色々と世話になった。あんたの身を挺した作戦のおかげで殺人鬼を捕まえることができたわけだしな」


「ううん、小雪が大活躍してくれたおかげだよ。怪我はもう大丈夫なの?」


 雪蓮は袖をめくって腕を差し出した。

 もともと浅かったため、痕が残るような傷でもない。

 梨玉は「よかったあ」と心底安堵したように呟いた。

 そうして雪蓮の心臓が止まるようなことを言ってのけた。


「でも小雪って強いよねえ。女の子なのに」


「へ」


「武術を習ってたの? 剣とかも使えたりするのかな? すごいなあ、羨ましいなあ、やっぱり今時の女の子は戦えなくちゃ駄目だよねえ」


「ちょっと待て!」


 雪蓮は泡を噴くような気分で梨玉に詰め寄った。

 鼓動が速まり、全身からぶわあっと嫌な汗が溢れてくる。


「な、なんだ僕が女って。そんなことがあるわけないだろう」


「隠してもばればれだよ! 一目見た時から『あ、この子は私とおんなじだ』って思ってたの。すっごくお顔がきれいだし、ちょっといい匂いがしたから」


「いい匂いのする男もいるかもしれない!」


「でも見たよ」


「何を」


「寝ている間に服を脱がせて……」


 ちょっと頬を赤らめて目を逸らす梨玉。

 この少女が過剰に接触してくるのは性別を確かめるためだったのかもしれない。

 雪蓮はついに観念した。見られたとあっては反論のしようもないのだ。

 火照った顔を手で仰ぎながら、なるべく怖そうな顔で梨玉を睨んだ。


「誰にも言うなよ」


「言わないよ。小雪も私の秘密を言わないでね」


「何笑ってるんだよ」


「ふふ。仲間がいて嬉しいなって。小雪は可愛いし」


「か……」


 これ以上動揺を見せることは敗北を意味する。

 雪蓮は大きく咳払いをすると、髪をいじりながら関係ない方向を向いた。


「……まあ頑張れよ。僕も頑張る」


「私も頑張るよっ」


 梨玉は笑って雪蓮から距離を取った。

 春風が吹き、その艶々とした髪が揺れる。


「世の中には知県様みたいな人たちがいっぱいいるんだ。だから私は絶対に合格する。合格して天下を変えてみせる。次の試験も一緒だといいね、小雪」


「そうだな。梨玉」


「うん! 再見またね!」


 梨玉は微笑みを浮かべて去っていった。

 花のように可憐でいながら、鋼のような正義感を持っている少女。雪蓮は手を振って見送りながら、梨玉と出会うことができてよかったな、と内心でしみじみ思った。


『誰かを犠牲にして何かを得ても虚しいだけだから。死んだお父さんがよく言ってたの、誰にでも胸を張れるような生き方をしなさいって』


 梨玉の言葉が蘇った。それは本当に清らかな思いから発された言葉だ。幼い頃の体験に裏打ちされた彼女の意志は固く、世の官吏どもに爪の垢を煎じて飲ませてやりたいほどである。だが――


「――だが、それじゃ足りないんだよ」


 雪蓮は踵を返して歩き始める。

 身の内に蜷局を巻くのは、梨玉が抱いているものとは正反対の情念だった。


 結局、梨玉の正義感では楊士同を打ち破ることはできなかった。経書に則った王道を説くのは立派だが、現実はそう簡単にはいかない。何かを成し遂げたいと思うならば、必ずそれ相応の暴力が必要となるのだ。


 もちろん今回の殺人事件は雪蓮が起こしたものだった。


 目的は愚かな官吏の尊厳を破壊し、誅すること。

 手段は簡単だ。やつが監督する県試でアクシデントを起こせばいい。今回は権力を嵩に着て悪事に手を染めていた童生、周江に犠牲になってもらうことにした。科挙に恨みを持っている老人に金品を渡し、周江を殺してくれと依頼する。本来、あの黄福祥という男は夢破れた童生ではあるが、此度の県試の受験者ではなかった。だが保証人たる生員も腐りきっているから、雪蓮が賄賂を贈れば簡単に替え玉として受験することを認めてくれた。


 予想外だったのは、頭場の途中で黄福祥が怒りをぶちまけ退場させられてしまったことだ。問題を見ているうちにトラウマが蘇ったのやもしれぬ。とにかく雪蓮は再び黄福祥を県庁に引き入れるために動かねばならなくなった。擁壁に開いた未修繕の穴は把握していたので出入りは容易だったが、その際に女装(というか本来の姿)をしていたから「夜間に袍衣を着た女がうろついていた」などという噂が出回ることになってしまった。


 かくして再び侵入を果たした老人は、約束通り周江を殺した。しかも死体を門から吊るすことにより、より多くの童生たちに目撃してもらうことにも成功。実は事件を起こすよりも前に雪蓮は府に書簡を送り、県試の場で惨憺たる事件が起きた(起きる)ことを報告していた。終場の日の最後で都察院が調査に踏み込んできたのはそういう背景による。あれほど素早く動いてくれるとは思わなかったが、結果的に命拾いできたのでよしとする。知県は雪蓮の想定通りに事件を隠蔽していたから、その罪は甚だ重いものになるはずだ。


 ちなみにもう一つ予想外があったが、それは黄福祥が一等の者を殺して回ったことである。本来は周江だけでよかったはずなのに、科挙への怨念を暴走させた結果、雪蓮の制御を外れて童生たちを殺して回る暴挙に出た。雪蓮は彼を止めるために女の姿に戻って説得を試みたが、効果はまったくなかった。むしろ下手に女装姿を目撃されたせいで(劉謙の無事を確かめるためにちょっと部屋を覗いたりもした)、梨玉に疑いの目が集まってしまったのは誤算だった。とはいえ、最終的には死んだ人間の数が増えたので、知県はより追い込まれることになった。それに関しては嬉しい誤算である。


「梨玉。あんたは本当に立派だよ」


 梨玉が歩むのは徳による王道の路。

 一方、雪蓮がゆくのは武による覇道の路だ。


 目指す場所は同じでありながら、手段は根っこの部分から異なっていた。梨玉は最後の最後、あの豚を許すような発言をしていたのだ。雪蓮にはそんなことはできない。


 雪蓮は梨玉と同じ経験をしている。

 馬鹿な権力者によって平穏を破壊され、生きるか死ぬかの日々を送ることになった。こういう話は珍しくない。当節、俗悪な人間が猖獗を極め、ひゃくせいは理不尽な困苦に喘いでいる。これを打破することができるのは、手段を択ばない虎狼の心だけだ。


「……まずは進士登第しなくちゃな。大順をぶっ壊すために」


 最終試験たる殿試まで進めば天子に謁見することができる。

 その瞬間こそ大順の命脈が断たれる時に他ならない。


 女物の服が入った荷袋を担ぎ、雪蓮は春の道を歩く。

 梨玉とはまた会うことになるかもしれない。

 衝突することもあるだろうが、雪蓮の復讐は止まることがないのだ。


 あの少女の王道が、雪蓮の覇道を捻じ曲げない限りは。

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