第三話(2)
†
「あは。けっこーふかふかだね、お兄ちゃんのベッド」
ベッドに飛び込んだ一ノ瀬涼風は、マットの感触を確かめながらゴキゲンな様子。
抗えないからこその悪魔の発想である。
俺は悪魔の発想に抗えなかった。
俺の部屋に、寝間着姿の一ノ瀬涼風。
マジで。寝るつもりらしい。この人、俺の部屋で。
いや初日だぞ?
距離が近いなんてもんじゃなくね?
ひとりで寝るのが怖いだとか、添い寝しないとよく眠れないだとか、そんな理由があるにしたって。さすがにもう少し、自重ってやつがあってもいいんじゃないでしょうか?
自重すべきは俺の方だって?
いやいや無理ですから。
だって神絵師だぞ?
俺は彼女の絵の信者なんだぞ?
その神が、俺のリクエストでイラストを描いてくれるんだぞ?
崇め奉る神絵師がいる人にはわかってもらえるはず。いや神絵師じゃなくたって、たとえば推しのアイドルとかさ、いるとしてさ。その子が『あなたのためだけに一曲歌うから言うこときいて』みたいなこと言い出したらさ。オッケーしちゃうだろ普通は。
「……さっきの話、ガチっすよね?」
自分の部屋の入り口に立って、俺は確認する。
「マジでイラスト描いてくれるんすよね? 【心ぴょんぴょん】さんが、俺のリクエストでイラストを――それ、マジな話なんすよね?」
「うん。まじだよ」
ベッドの端に腰掛けて、微笑む一ノ瀬涼風。
「描けないものは描けないから、描ける範囲で、になるけど。キミのリクエストで描くよ、次は。バニーちゃんのイラストも、だいたい納得できるまで仕上げたし」
……神絵師【心ぴょんぴょん】さんは、仕上げ途中のイラストを積極的に公開していくタイプの絵師である。
俺が追っかけを始める前から、彼女は下書きやラフ絵を気前よく、思い切りよく、じゃんじゃん公開していた。
実感が湧いてくる――Twitter上でほとんどまったくプライベートを語らない【心ぴょんぴょん】さんだったが。目の前にいる一ノ瀬涼風と、俺が想像していた【心ぴょんぴょん】さんのパーソナルは、わりと一致するのだ。
さらにその上で、俺は彼女のスマホ画面を見せてもらった。
そこにあったのは、アプリのお絵かきツールと、制作途中のデータを含めた無数の画像ファイルであり、【一ノ瀬涼風=心ぴょんぴょん】だという事実を、俺はあらためて確認したのだ。
動かぬ証拠。
俺は、俺が引き当てた宝くじのすごさを、あらためて実感している。
「……わかりました」
俺は改めて覚悟を決めた。
もはや是非もなし。特大のニンジンを目の前にぶら下げられた以上、いけるところまで突っ走ってみるしかないだろう。
「一緒の部屋で寝ます。それでイラストを描いてくれるんすよね?」
「うん」
「じゃあ取引成立で。俺、となりの部屋から布団もってきます」
「え? 添い寝は?」
「それはさすがに無理っす。同じ部屋で寝るまでがギリギリなんで。ここが最後の妥協点っす。これ以上の交渉は応じられないっす」
「……ふーん」
ジト目。
そして、
「ま、いっか。添い寝はあとの楽しみにとっておこ」
一ノ瀬涼風は、ふふ、と微笑んだ。
その仕草が例によってやたら色っぽくて、俺はあわてて「じゃ、布団とってきます」とその場を離れたのだった。
いやー。
それにしても、やっぱ距離、近いよね? ギャルってみんなそういうもの?
数分後。
俺は部屋の電気を消した。
俺が床に布団を敷き、一ノ瀬涼風がベッドに寝転がる配置。
「ね、ね」
薄暗がりの中で声がする。
「お兄ちゃんお話して」
「……これから寝るんすよね?」
「お話してもらった方がよく寝れるから」
「子供か!」
「子供でいいもーん」
子供っぽい声真似が返ってくる。
子供だよ、マジでこの人……。
ギャルなのに。胸でかいのに。
「ええと、まさかとは思うけど」
「なに?」
「いつもこんな感じなんすか? お母さんに――侑子さんに、寝かしつけとか添い寝とかしてもらってる感じだったり?」
「うん」
「マジすか」
「ママが家にいる時は、だけどね。ママっていそがしいし」
ううむ。
母親に寝かしつけしてもらうギャル、という概念。
ギャップを通り越して、もはや訳わからんな?
というか、である。
この人、日常生活はいつもこんな感じなのか?
だったら母親の侑子さんが(いそがしくて家にあまりいないとはいえ)、かなりディープな感じで娘の面倒を見てる、ってこと?
よくよく考えると、料理をしようとすれば失敗するし、片付けをしようとしても失敗するし――さらには学校でも教科書を忘れる率がめちゃくちゃ高いし。
見た目は完璧なトップギャルだけど、中身はとんでもないポンコツ、ってことになるよな?
それでいて悪びれない、押しが強い。
なおかつ、神絵師というスーパースキルは所有しているという。
やっぱ訳わからん。
びっくり箱かよこの人。もはやおどろきの感覚がマヒしてしまった感じ。
「じゃ、お話して?」
「……面白いネタ、持ってないです」
「なんでもいーよ」
「ええとじゃあ……『心ぴょんぴょん』さんの話、聞きたいんですけど」
「それ、わたしの方がお話してない?」
「ダメっすか?」
「聞く方が好きなんだけどなあ」
ボヤいているが、ノーではないらしい。
だったらいくらでも会話できる。なんなら大歓迎でさえある。
さっきも言ったが、心ぴょんぴょん師はプライベートをほとんど明かさないタイプだ。
つまりこれは、推しに対するファンの単独インタビューである。
激アツじゃないか。
「ええと、心ぴょんぴょんさんは――あのすんません、呼びにくいので『ここぴょん』って呼んでもいいっすか?」
「涼風、って呼んでくれればいいんだけど」
「それはハードル高いんで。ここぴょんは、いつからイラストを描き始めたんすか?」
「んー……一年ぐらい前から?」
「一年? イラスト歴が一年ってこと?」
「うん」
「その前は?」
「うーん……友達との遊びでは、ちょっと描いてたことある」
あくまで俺個人の印象、かもしれないが。
女子ってやつは、男子よりもはるかにイラストの素養があるもんだ。小学校の休み時間、男子はボール遊びをやりにグラウンドへ我先にと駆け出し、女子は教室でお絵かきをしていた――みたいな経験、たぶん誰しも持ってるよな?
彼女の言う『遊びでは』ってのは、おそらくそいういう意味だ。
つまり事実上の素人。
それがたった一年で。
俺が神だと崇めるレベルまで。
「すごくないすか? イラスト歴一年で、あんなにうまいの?」
「へへー。ありがと」
「才能ありすぎでは?」
「わたしよりうまい人、いっぱいいるよ?」
のほほん、と謙遜する一ノ瀬涼風だが。
それはやっぱり謙遜なんだよな。
確かにここぴょんは、技術的にずば抜けているタイプじゃない。モチーフがどこか似通ってしまうという作風の狭さもネックだろう。
とはいえだ。
その色彩、その線、空間の捉え方、光と影の表現、質感を浮き彫りにするかのような塗り――挙げればキリがないが、きらめくような才能をいくつも持っている。
いわゆる『センス全振り』なタイプだ。
技術的に突出してるわけじゃないけど(といっても十分すぎるぐらい描けるんだが)、余人が持ち得ない才能を持った絵描き。
俺がどハマりする理由、少しはわかってもらえるだろうか?
「イラストを描き始めたきっかけは?」
「……ねえね、これって何かのインタビューなの?」
「そんなようなもんす。どんなきっかけでイラストを?」
「うーん……ノリで、なんとなく?」
「なんすかその、いかにも才能に恵まれた人が口にしそうな理由」
「えー? でもしょーがないよ、ホントにそうなんだから。なんとなくネットに上がってるイラストとか見てたら、いつのまにか描き始めてた、みたいな」
「……いや普通はそうならんでしょ? 『イラスト見てた』と『描き始める』の間には、かなり色んな段階があるはずっすけど」
「そんなことないよー。無料のお絵かきアプリで普通にいろいろ描けるし。それに『やりたい』って思うのと、『やれそう』って思うのが、わたしの場合はほとんど同じだったから。描いてみるとなんか楽しいんだよね、アプリでいろんなことできるしさ。それでなんかハマっちゃった感じかなー」
……ううむ。
軽く掘っただけで山ほど出てくるきらきらエピソード。
ペンもタブレットも使わないで、アプリを使うだけで――それもたぶん、スマホだけで描いてるんだよなこの人? ずっとスマホ触ってる人だな、って印象はあったけど、イラスト描いてたのか。学校とかでも。
そして『やりたい』って気持ちと『やれそう』って気持ちが同時に湧いて、それですぐにアプリをダウンロードして使いこなしてしまう行動力。
加えて、家事を任せてもすべて壊滅的だったことからして、どうやら生活能力が皆無であるらしいこと。
これ、典型的な天才パターンでは?
お母さんの侑子さんも世界的なデザイナーだって話だし、選ばれた人感がありありと。
その天才美少女トップギャル様が今、俺の部屋でいっしょに寝ていると。
さっきから何度か言ってるけど。なんかの妄想かな?
俺、そっち系の病院に入れられたりしないかな?
無言で悩んでいると、一ノ瀬涼風がふふっ、と笑い始めた。
「なんだかヘンな感じ」
「え? 何がっすか?」
「今日からわたしたち、きょうだいなんだねえ」
「……まあ。そうっすよね」
「ふふ」
「何笑ってんすか」
「おもしろかったから。ちょっと前までただのクラスメイトだったのに」
「それは、まあ。そうっすよね……」
「ねえね」
「なんすか」
「これって運命かな?」
「……お互いの親に振り回されてるだけでは」
「ふうん。クールなんだ、お兄ちゃんって」
「あの。そろそろ寝ないすか? もうだいぶお話、してますし」
「えー? まだぜんぜん眠くないんだけど。もうお話、おしまい?」
「むしろ話してたら寝られんでしょ」
もちろんたくさんあるのだ。
聞きたいこと。知りたいこと。
ここぴょんについて。そして一ノ瀬涼風について。
なんせ独占インタビューだからな。心ぴょんぴょんさんのファンが知ったら、あるいは友人ABが知ったら、まちがいなく火あぶりに処されるシチュエーション。
でもまあ。
寝ましょ、さすがに。
いろんなことありすぎて疲れたよ今日は。
「ふーん。もう寝ちゃうんだ」
「寝ますよ。明日だって学校あるんすから」
「ふーん」
ご不満そうだ。
床で仰向けになっている俺の目線からは、ベッドの上がどうなっているのか見えない。
見えない相手からのプレッシャーは少なくて済む。相手がギャル様であっても、多少は反論もできる。薄暗くてあんまり目が利かないしな。
とか思ってたら、
「ね、ね」
ぎょっとした。
身を乗り出してきたから。
ひょっこりと、ベッドの上から。下にいるこっちを。
一ノ瀬涼風は寝間着姿だ。
それもけっこう胸元が開いている、薄手の生地のやつだ。
大きな胸の質感と、ちょっとばかり覗いている胸の谷間が。
見えてしまうのである。こんな暗がりでも、男子高校生アイで。
「な、なんすか」
ドキドキしながらも聞き返す。
彼女は微笑みながら言う。
「他になにもしないの?」
「へっ?」
「ホントにインタビューするだけ? 他になにもしないの? せっかくふたりきりなのに?」
ヒュェッ、と。
喉からヘンな音が漏れた。
薄闇に浮かび上がる、一ノ瀬涼風の微笑が。ひどく艶っぽかったから。
問いかけの形を借りた〝お誘い”。
だよな?
俺の勘違いじゃないよな?
据え膳食わぬは何とやら。
せっかくの棚からぼた餅。
男ならここは、ってやつだろう。
普通ならそうなる。
そう普通なら。
「なにもしないっす」
ヒュェッ、となって、ちょっと間は開いたけど。
俺は迷わず答えた。
「なんで?」
「え?」
「なにもしない理由。なんで?」
一ノ瀬涼風は基本、言葉足らずである。
センテンス短め。核心だけ突いて、あとは微笑んで反応を待つ、そんなタイプ。
こういうキャラだからこそ、彼女はトップギャル様で、新進気鋭の天才肌な神絵師様でもいられるんだろう。
「言葉にするのは難しいんすけど」
俺は言葉を選んだ。
目には目を、の逆だ。
言葉が足らない相手にこそ、言葉を尽くす。
口下手な父が背中で教えてくれた、人生の知恵。
「すごいざっくり言うと……傷つく気がするんで。お互いに」
「わ。まじめだ」
「真面目で悪いっすか?」
「ううん。ぜんぜん」
微笑みを深くして。
ベッドの上から俺を見下ろして、一ノ瀬涼風はこう言った。
「やっぱりキミは、思ったとおりのひと」
「……なにが」
「というかキミ、えっちだね」
「いやアナタに言われたくないんですが⁉」
「でも想像したでしょ? えっちなこと」
「そりゃだって、あんな言い方されたら誰だって――」
「というかわたしたち、きょうだいだよ? えっちなことできないよ。さっきも言ったけど。えっちなことはなし、ね」
そりゃまあ!
理屈ではそうですけど!
俺は心の中で全力でツッコんだ。
いや全力でツッコんでも追いつかんのだが。この人のペースに巻き込まれると、めっちゃ調子狂う……というか、そういえばそうだった。一ノ瀬涼風は義理の妹になったんだった。一ノ瀬涼風=心ぴょんぴょんさんという事実が強烈すぎて、うっかり忘れそうになってしまうじゃないか。
というか、あくまで戸籍上は家族、ってことだからな⁉
きょうだいだからえっちなことできません、って、そんな理屈は通じないからな⁉
「いや、つーか。寝ようよ。そういう流れになってたでしょうよ」
「んー? そうだっけ?」
「そうです。賭けてもいいっす」
「じゃ、あとひとつだけ」
「いやもう寝ましょうって――」
「わたしね、ちょっとしたヒミツを持ってるんだけど。知りたくない?」
「…………」
んんんんこの!
またそういうこと言うんだからこの人は!
どうあっても寝かさないつもりか⁉
というか、話の引っ張りかたエグくないすかね⁉
「……ヒミツって、どんな?」
「気になる?」
「家族なんすよね? だったら気にしなきゃダメじゃないすか」
「あは。切り返しがうまくなってる」
ひと笑いしてから、
「んーとね。大きいヒミツがいくつか。小さいヒミツがたくさん」
「……つまり、とにかくたくさん、ってこと?」
「うん」
「そんなにたくさんヒミツがあったら、もう気にしても仕方なくなくね?」
「でもわたし【心ぴょんぴょん】だから。お兄ちゃんはわたしのイラストが推しなんだよね? しかも一緒に住んでる家族だし。気にしないのは無理なんじゃないかな?」
まあね!
そうなんすけどね!
見透かされてぐうの音も出ないまま、俺は白旗をあげる。
「じゃあ教えてくださいよ。とりあえず大きなヒミツってやつから」
「んー。それはホントにヒミツだから。教えない」
「ここまで引っ張っておいてその仕打ち⁉」
「ものごとには順番、ってものがあるよ。まずは小さいヒミツから、でしょ?」
「はいはい、わかりましたよ……それで? たくさんある小さいヒミツのうちのひとつを、教えてもらってもよろしいでしょうか、涼風さん?」
俺は彼女を名前で呼びながら、両手を合わせてお願いのポーズを取った。
涼風は「あ、名前呼びだ」とうれしそうに言ってから、
「じゃあヒミツ、ひとつ教えるけど。いいかな?」
「ええどうぞ。どんなんすか」
「わたし【いっしょに寝てる人がそばにいると、朝ぜんぜん起きられないタイプ】です」
「……なんすかそれ?」
「それに【頼れる人がそばにいると、遠慮なく頼っちゃうタイプ】でもあるから」
「……というと、つまり?」
「つまりね」
ふふ、と目を細めて、
「わたしは朝起きられないし、朝の仕度もなんにもできないと思う。ごはん作るのも、学校に行く準備をするのも、それ以外もいろいろ。だから、お兄ちゃんが手伝ってくれると、うれしいかな、って」
「手伝う。俺が」
「うん」
「ええと、それはどのレベルで? 朝起こすぐらいならできるし、朝ごはんの仕度も、まあ普通にできるっすけど」
「んーとね。もっとそれ以上、かな?」
「具体的には?」
「髪をコーミングして、ブローして――」
「え? そこから?」
「メイクもぜんぶお願いして――」
「いやいやそこは。あなたギャルなんだから。そういうのは自分で――」
「服も着替えさせてもらって――」
「それは【えっちなこと】のうちに入るんじゃ?」
「あと歯磨きもしてもらって――」
「いやあんたホントに何もできねえな⁉」
というかやるが気ないだろ⁉
そこまでいったら要介護レベルじゃん!
一体どこまで頼り切りになるつもり⁉
「でも、お兄ちゃんって、頼れそうな人だから。頼れたらうれしいかな、って」
「いやいやダメでしょ! 常識で考えて!」
「ほんとにだめ?」
可愛くお願いされた。
いやいやダメですって。
そんな顔されると――ただでさえトップギャルな人で、そのうえ推しの神絵師な人からそんなこと頼まれると――悲しき男の性ゆえか、それともオタク的な趣味を持ってしまったゆえの悲しみか。
ぜったいに嫌、とまでは。
言えないんだよなあ。ホント悲しいことに。