第三章 清水さんのお弁当(2)
昼休み、早々に昼食を食べ終えた私は、特にすることもなく机に伏していた。
隣の席からは本堂と松岡が会話する声が聞こえてくる。
「やっぱ瀬戸さんの手料理食べたかったな~」
「俊也、調理実習の時のことまだ引きずってたの?」
「あの時は割り切ったつもりだったけど、好きな女の子の手料理食べたいって男なら誰しも思うだろ?」
「ちょっと主語が大きい気がするけど確かにそうかもね。好きな女の子に作ってもらった料理を食べる機会なんてなかなかないし嬉しいと思う」
やはり本堂も異性からの手料理に興味があるらしい。良かった、努力の方向性は間違っていないようだ。
「だよな! 瀬戸さんが手作り弁当作って俺にくれるって展開にならないかなぁ……」
「もうそこまでいくと想像というより妄想の域だけどね」
本堂は友達だからか、たまに松岡に対しては厳しい時がある。
「空想でも妄想でもいいから後で絶対現実にしてみせる!」
「頑張ってね」
「ああ、まあ好きな人の手料理じゃなくても、人の手料理ってなんかいいよな」
「それは同感かな。自分で作るのもいいけど、誰かに作ってもらった料理は何か特別な気がするよね」
これはいい情報だ。つまり好きな人からの料理でなくても、他の人に作ってもらえること自体に喜びを感じるということなのだろう。
「そういえば前の恋バナの時にちょっと思ったけど、大輝って自分でお弁当を作ろうとは思わなかったのか?」
松岡が本堂に唐突に疑問を投げかけた。
「考えたこともあったけど、結局朝早くに起きれなくて諦めたんだよね」
「そうなのか。じゃあ当分は購買生活だな」
「そうだね。でも前にお弁当の話をした時に少しお弁当食べてみたくなったから、今度早く起きたら挑戦してみたいな」
何気なく話を聞いていたら大変なことになってきた。私と本堂では料理スキルに天と地ほどの差がある。もし本堂が自分で弁当を作ってきたら、後からはなんとなく渡しづらい。
私は練習を重ね弁当が満足できる出来栄えになったら渡そうと悠長なことを考えていたが、急いで弁当を完成させる必要があると分かった。
「なあ、ここ一週間くらい清水さんの機嫌がずっと悪いけど、理由ってお前は知ってるか?」
「手の傷が日に日に増えているから他校の生徒と毎日ケンカしてる説、誰かが清水さんの逆鱗にふれた説、他にも説は聞くけどどれが正解かは分からない。ただ一つ分かってるのは、絶対にあの状態の清水さんに関わっちゃいけないってこと」
「そうだな。俺も気をつけるわ」
教室の片隅で私の噂話をしているクラスメイトがいる気がするが、反応する余力もない。
弁当を作り始めて一週間、結果を言うと、私は満足できる弁当を作れなかった。
愛が毎朝どんなに丁寧に教えてくれても私の料理の腕は上達せず、数日前からは見かねた母さんも教えてくれるようになったが、結果は変わらなかった。毎日できた弁当の失敗作を食べていくうちに私も愛も心が徐々に折れていった。
(私の料理スキルがここまでひどいとは……)
今朝に至っては誰も失敗作を食べる気力がなく、昼になんとか食べてしまおうと作った料理を弁当箱に詰めて持ってきたのだった。
これ以上弁当作りを続けるのは私にとっても厳しいし愛にも悪い。私は今日で一旦弁当作りをやめることに決めた。
昼休み、カバンから母さんが作った弁当と自作の弁当を取り出す。なんとか昼休みのうちにどっちも食べてしまわないと。ため息をつきたくなる。
「……はぁ」
声の主は私ではない。声のした方を向くと本堂が頬杖をついてボーっとしていた。
「どうした。そんな辛気臭いツラして」
本堂がため息をしている姿は普段見ないから、気になって思わず声をかけてしまった。
「ああ、ごめん清水さん」
「別にいいけど何かあったのか?」
せっかく私の方から声をかけたのだから、ため息の理由くらいは聞いておきたい。
「いや、今日ちょっと忘れ物しちゃって」
「何を忘れたんだ?」
「財布だよ。おかげでお昼ご飯買えなくてさ。どうしようかなって思ってたんだ」
確かに本堂の机を見ると、いつも昼休みに食べている惣菜パンの類いが見当たらない。ただそれくらいなら解決策はあるのではないか。
「金がないだけなら松岡にでも借りればいいんじゃねえか? アイツも昼飯代くらいなら貸してくれるだろ」
こういう時なら本堂が真っ先に頼るのは松岡のはずだ。
「そうだね。俊也がいればお金貸してくれたと思うんだけど、今日に限って俊也、サッカー部のミーティングで昼休みの間いないんだよね。俊也がいなくなる前に僕が財布忘れたことに気づけたらよかったんだけど」
そう言われて教室を見回すが確かに松岡の姿はない。
「まあ仕方ないから今日はお昼ご飯なしかな。清水さんも心配かけちゃってごめんね」
「別に心配なんてしてねえよ」
「だったらよかった」
会話がとぎれる。高校生の男子といえば食べ盛りのはずだ。そんな本堂が昼食を抜くのはさぞ辛いことだろう、などと考えながら自分の机に目を向けると、そこには弁当箱が二つも置いてあった。そうだ。今日は弁当が二つある。全く予期していなかったがこれはある意味チャンスではないか。
「おい本堂」
「どうしたの?」
本堂が再び私に視線を向ける。私は視線を合わせることなく本堂の机の上に弁当を一つ置いた。
「清水さんこのお弁当は?」
「……やる」
「え?」
「だからその弁当をお前にやる」
本堂はなぜとでも言いたそうな表情をしている。
「それは嬉しいけど、そしたら清水さんの分がなくなっちゃうよ」
「私の分はある」
自分の机の上にあるもう一つの弁当を指差す。
「あれ、ほんとだ。じゃあこれは誰の?」
「誰のでもいいだろ。……ほら、調理実習の時に世話になったからそれやる。どうせ私だけだと二つも弁当食いきれねえからお前も気にしなくていい」
本堂の頭の上にはクエスチョンマークが浮かんでいる。なぜ私が二つも弁当を持っているのか分からないのだろう。お前に渡したかった手作り弁当の失敗作を持ってきていたからだ、とは口が裂けても言えない。
「よく分からないけど清水さんの分があるならいいや。ありがたくいただくね」
「ああ」
本堂は完全に納得したわけではなさそうだったが、私の分があると分かり弁当を受け取ることにしたようだ。
そして気づく。私が本堂に渡した弁当は誰が作った弁当だ?
私が作った弁当も母さんが作ってくれた弁当も弁当箱は同じ形、同じ色で、中身を見なければどちらの弁当なのか分からない。そのため本堂に渡した弁当がどちらの作った弁当か、今の状態では判断ができなかった。
私がパニックになっているうちに、気づけば本堂は弁当箱を開けようとしていた。
「あまり人の家のお弁当って見ないからワクワクするな」
横から何気なく弁当箱の中身を確認する。本堂に渡した弁当はどこからどう見ても私が作ってきた方だった。
(……もうダメだ)
心がぽきりと折れた音が聞こえた気がした。私の作った黒々としたおかずたちが本堂の視界にバッチリ収められてしまっている。
今すぐ本堂から弁当を奪い取りたいという欲求に駆られるが、残っていたわずかな理性がブレーキをかける。自分で渡しておいてすぐに没収するというのはさすがにまずい。
「早速だけどいただいてもいいかな、清水さん?」
私の葛藤を知る由もなく本堂が声をかけてくる。今からでも弁当を取りかえてもらおうか。でも私が作った料理も食べてほしい気持ちもある。脳内で二つの派閥が争っている。
「……ああ」
最終的に自分で作った弁当を食べてもらう方に気持ちは傾いた。
「ありがとう。それじゃあいただきます」
本堂は禍々しい色のおかずに臆することなく箸を手にした。どれから食すか悩むそぶりを見せた後、一週間前から毎日作っている黒い卵焼きに箸を伸ばしそのまま口に運んだ。
本堂の顔色を窺うがそこまで大きな変化は見られない。おかしい、うちの家族から笑顔を奪った最恐クラスの料理なのに。
じっと観察していると、視線を感じたのか本堂がこちらを向いた。
「どうかした? やっぱりこのお弁当も食べたかったの?」
私は相当な健啖家だと本堂に思われているのだろうか。
「いや、何から食べるのかちょっと気になっただけだ」
「確かにお弁当をどこから食べるかってその人の性格が出るよね。僕はなんとなく卵焼きから食べてみたけど」
衝撃的なことに、あの黒々しい塊を本堂は卵焼きと認識したうえで食べていたらしい。
「家族以外が作った卵焼きあまり食べたことなかったけど、この卵焼きは面白い味付けだね」
「お前面白いって、それ料理の感想なのか?」
まあまずいと言われたり無理しておいしいと言われたりするよりはいい気もするが。
「ごめん、ダメだったかな。今までに食べたことがない味付けの卵焼きだったから、どう表現していいか分からなくて」
「……それならいい」
「もう少し別の言い回しを思いついたら言うね」
そう言うと本堂は食事を再開した。母さんの作ってくれた弁当を食べながら、横目で本堂の様子をこっそり確認する。
本堂が次に選んだおかずは、これまた一週間前から毎朝挑戦し続けているしょうが焼きだった。弁当の中には他にもう少しまともにできたおかずがあるのに、なぜ特にうまくできなかったと思うものばかり優先的に食べようとするのだろう。
(せめて心の準備が済むまで他のおかずを食べていてくれ)
私の嘆きもむなしく、本堂は迷うことなくしょうが焼きを口にした。しょうが焼きを食べる本堂に特に表情の変化は見られない。
愛が初めて試食した時はこれって料理なの、と真顔で言ってきた料理なのに。しょうが焼きといい先ほどの卵焼きといい、本堂の舌は本当に大丈夫なのだろうか。私が驚きを隠せないでいると本堂とまたもや目が合った。
「あの、清水さん? そんなに見つめられるとさすがに食べづらいんだけど」
「本堂お前平気なのか? 無理して食べてないか?」
つい思っていたことがそのまま口から出てしまった。
「その質問ちょっと怖いんだけど。このしょうが焼き、何か普通入れない調味料とか入ってたりする?」
「入れてねえけど。本堂、そのしょうが焼き食べて本当に何も感じなかったのか?」
愛が初めて試食した時は、しょうが焼きでここまで絶望を表現できるんだねと言われた料理なのに。
「なんだろう。僕、しょうが焼き好きだからワクワクしながら食べたけど……」
前に聞いた通り本堂はしょうが焼きが好物であったようだ。ただ今聞きたい情報はそれではない。
「別にまずいと思ったらまずいって言ってもいいんだぞ」
「なんで? そんなこと言わないよ。せっかく清水さんが作ったお弁当をくれたのに」
「お前、なんで私が作ったって……」
私は弁当を作っていると言っていないから、普通は親が作ったものだと思うはずだ。本堂は一体どこで気づいたのだろう。
「だって清水さん、しょうが焼きに何か入ってないかって聞いた時、入れてないって断言したでしょ? それは清水さんがしょうが焼き作ってないと出ない言葉だと思ったんだよね」
「でもそれだけじゃ根拠として弱いだろ」
「それにさっきまずいと思ったらまずいと言ってもいいって発言も、自分で作ってなければ清水さんは言わないと思うんだよね」
「うう……」
言い訳したいが下手な嘘はすぐに暴かれてしまう気がする。
「やっぱりそうなんだね。それで頑張って作ったお弁当、本当に僕が食べちゃってよかったの、清水さん?」
どうすればいい。いっそ真実を伝えるべきなのか。その弁当は本堂に食べてもらいたくて作ったのだから、お前が口にしてくれて嬉しいと。……ダメだ。想像しただけでも恥ずかしくて消えてしまいたくなる。私と本堂の間に沈黙が続く。
「清水さん?」
私から返事がないことに不安を覚えたのか、本堂が沈黙を破る。
「……いい」
「え?」
「気にしなくていいって言ったんだよ。弁当は私が気まぐれに作りたくなっただけだ。それで自分だけだと食いきれない量だと思ったからお前にやったんだよ!」
「一週間も作り続けるのは、それ気まぐれって言わなくない?」
本堂が痛いところをつく。本人は疑問に思ったことを口にしただけだと思うが。というか今、何気なく大事なことを言わなかっただろうか。
「お前、なんで一週間前から私が弁当作ってるって知って……」
そこまで言って慌てて口を閉じる。だが本堂はもうその答えが分かっているようだった。本堂が私のばんそうこうだらけの手を指差す。
「だってそのばんそうこうは、料理した時に指をケガしたからつけてるんでしょ? 最初はなんでケガしてるのか分からなかったけど、今日のお弁当を見てようやく分かったよ」
本堂は他のクラスメイトと違って、私がケンカでケガしたとは思っていなかったらしい。なんとも表現しがたいむずがゆい気持ちになる。
「清水さん? おーい」
まずい、本堂の言葉に揺さぶられて、一週間前から弁当を作っていた理由を考えることを放棄していた。急いで考えるがすぐには思いつかない。私は勢いでごまかすことに決めた。
「……私がいつから弁当作ってたっていいだろ! と、とにかくお前に弁当をやったのは特別な理由なんてない! いいな!」
「う、うん。まあ清水さんがいいならいいや」
本堂はこれ以上この件について深く追及しないことにしたみたいだ。
「分かったらさっさと食え」
「うん。ありがたくいただくね」
その後、本堂は黙々と弁当を食べ続けついには完食した。
「ごちそうさまでした」
「……食い終わったら弁当箱よこせ」
本堂の方に手を伸ばし弁当箱を渡すよう促す。
「洗って後日返したいんだけどダメかな?」
「この弁当は調理実習の礼って言ったろ。なら最後まで善意に甘えとけ」
「……分かった。それじゃ清水さん、改めてごちそうさまでした」
そう言って本堂は弁当箱の入った包みを私に手渡してきた。
「……おう」
「あと一つだけいいかな?」
「な、なんだよ」
改まって何か言われるとなると少し身構える。
「今日はお弁当くれてありがとう。財布を忘れて本当に困ってたから助かったよ。清水さんの作った弁当食べれて嬉しかった。今度何かお礼させてもらうね」
嬉しかった……。嬉しかった……。嬉しかった……。頭の中でその言葉が何度も繰り返される。本堂に今日までの辛く過酷で地獄のような一週間が決して無駄などではなかったと肯定してもらえた気がした。
「大丈夫、清水さん?」
本堂の言葉を聞きハッとする。どうやら感動で意識が遠くに行っていたようだ。
「礼はいらねえ。……ただ」
「何?」
「また気まぐれに弁当作ったら食えよ」
本堂は一瞬驚いた顔をした後、またすぐに笑顔に戻った。
「うん。その時はまたよろしくね」
私は心の中でガッツポーズした。