第2話 「万全を期して」
きょうの出口は、風呂だった。
いつかはこんな日が来るような気がしていたのだが、思ったより早かったな……。
湯煙の奥には、湯船に浸かったままこちらをきょとんと見つめているふたりの女の子たちがいる。
ひとりはリルネ。そしてもうひとりはスターシアだ。
リルネは長い髪を後ろでまとめていて、スターシアも彼女を真似たのか同じようにアップしていた。本来は奴隷と主人が一緒に湯浴みするなんて考えられないことだろうが、そこはリルネがきっと押し通したのだろう。友達になれたのだろうか。よかったな。
当然どちらも全裸で、珠のような汗がうなじや鎖骨を滑り落ちるその様子すらも見えてしまう。ただひとつ首に光るスターシアの金属製の首輪が、なんだかやけに艶めかしく見えた。
リルネの胸はまだまだ成長途中といったものだが、スターシアはなかなか立派なものを持っていた。着やせするタイプなんだな、ということが知れる。鑑定スキルではバストサイズまではわからなかったからな。
なんてことをのんびりと考えている場合じゃない。
俺は凍りつくふたりに、小さく謝った。
「あ、なんかすいません」
スターシアが「きゃあああああああ!」と叫ぶ。魔女と呼ばれていた割にはなんとも可愛らしい悲鳴だ。
そしてリルネは顔を真っ赤にしながらこちらに手を突き出してきた。
「あんたわざとやってんじゃないでしょうね!」
「出てくる場所は選べないんだってば!」
俺は慌てて浴室を飛び出した。背後でなにかが爆発するような音が響く。あいつ人に魔法打ちやがったぞ!
駆けつけたお年寄りのメイドさんたちに事情を説明すると、「あらあらまあまあ、リルネお嬢様もお年頃になりましたのねえ」だなんて笑っていたので、子ども扱いされたリルネは余計にむくれる結果になってしまった。
ま、来る時間帯が悪かったな。これから夜の六時ぐらいは避けるとしよう……。
パジャマ姿のリルネがソファーにふんぞり返っている前で、俺は床に正座をしていた。
「まったく……、早いところあんたがどっから出てくるのかの検証をしないといけないわね……」
「そうだな……」
風呂上がりのリルネに客間へと通された俺は、こくこくとうなずく。変なことを言ったらぶっ飛ばされてしまいそうだ。
それでもあまり怒っているように見えないのは、俺の来訪がわざとではないと知っているからだろう。どちらかというと恥ずかしいので怒っているフリをしているようだった。
「ま、とりあえずきょうはいいわ」
お許しが出た。
腕を組んでいたリルネは、生乾きの髪に手を当てる。
「風魔法と、炎魔法をミックスして、と……」
するとその小さな手から熱風が巻き起こった。風はリルネの髪をあっという間に乾かしてゆく。ドライヤーである。
「大したものだな」
「でしょ、髪は乙女の命だからね。自分で編み出したのよ」
「へー」
なんでも混合魔法と呼ぶらしい。これほどスムーズに発動ができるのは、学校の生徒だけではなく教師を含めても一握りしかいないのだとか。
「あと、あんたに見せたいものがあるのよ」
「ん、なんだ?」
「スターシア、入りなさい」
すると小さく「失礼します」という声がして、ガチャリと扉が開いた。
そこには、ひざ下まで伸びたロングスカートのメイド服に身を包んだ、黒髪の乙女が立っていた。彼女はスカートをつまんで優雅に一礼すると、こちらに頭を下げた。
そうして、少し恥ずかしそうに聞いてくる。
「ど、どうでしょうか……。おかしくは、ありませんか?」
「かわいい」
思わず口走ってしまった。するとスターシアは顔を赤くして目を見開いた。リルネもまた、満足そうにうなずいている。
「いいじゃない、似合うわシア。さすがあたしの見立て通りね!」
「いい仕事するじゃないかリルネ」
「ふふん、でしょう。こう見えても現実世界ではばっちりコスプレとか……」
「とか?」
「……、なんでもないわ」
リルネは憮然と顔をそむける。こいつ、もしかしてと思っていたが腐ってやがったのだろうか。
褒められたスターシアは「えへへ……」と笑顔を見せていた。かわいい。
「とりあえず、あんたがいない間はうちでメイドをやってもらうことにしたわ。なかなか飲み込みがいいから助かるってばあやが言っていたのよ」
「きょ、恐縮です……」
そんな彼女の左目には、眼帯が取り付けられていた。
魔眼に対する偏見はあちこちにあるらしい。というのも、かつて
というので、おとぎ話になっているぐらい魔眼は恐ろしい存在だと思われているようだ。
そういう意味では、彼女に眼帯を送ったのはいいアイデアだと思う。スターシアだって自分に関係ないところで怖がられたりしたくないだろう。
せっかくあんなに綺麗な目を隠すのはもったいないなーって思わないでもないのだが、まあそれはふたりきりのときに見せてもらえばいいだけだ。
しかもあの眼帯には蝶々の飾りが取り付けられていた。髪飾りにする予定だったやつを眼帯にくっつけたのだろう。オシャレだな。
「ナイスだぞ、リルネ。あとでご褒美をやろう」
「コンソメパンチがいいわ」
味を指定してくるようになりやがった。贅沢になってこの。
「じゃあスターシア、ジンを部屋に送ってあげてちょうだい」
「あ、はい……、かしこまりました」
俺とリルネの視線が交錯した。
リルネはしっかりとうなずく。その目にはわずかな不安の色が隠れているのを、俺は見た。
リルネに彼女が辿る運命を告げたのは、先日のことだった。
『……なによ、それ』
帰り道。リルネは狼狽していた。知り合って間もないが、俺の前ではいつだって自信満々だった彼女が、だ。
『そんなの、あるわけ……』
最初はリルネも信じ切れない様子だったが、俺が知らないはずの彼女のスキルや称号を当ててゆくと、やがて声が震えてきた。
『あたしが死ぬって言うの……? あと三日で……? ちょっと待ってよ! なんなのよそれ!』
俺はリルネを諭した。
そうして俺が知る限りの状況を渡す。
今まで鑑定スキルで『エンディングトリガー』などというものが見えたのはリルネだけであること。もしかしたらこの力が間違っているのかもしれないこと。だが、十分に気を付けてほしいこと、など。
俺が辛抱強く語りかけると、リルネはすぐに落ち着いたようだ。
『……わかったわ、ジン。そうね、考えてみればこれはチャンスなのよね』
背に隠したリルネの右手がわずかに震えているのを、俺は見てしまった。
……こわいよな。自分が死ぬなんて言われたら。
『事前情報がなければ、あたしはなすすべもなく死んでいたかもしれないわ。あんたが教えてくれたから、あたしは立ち向かえる。準備だってできるし、心構えだってできるわ。ありがとう、ジン』
しかしリルネはそう言った。微笑んでみせた。
その儚い笑顔を前に、俺の胸には込み上げてくるものがあった。
『お礼を言われるのは、まだ早い』
『え?』
聞き返すリルネに、俺は自らの胸を叩いた。
『こいつはお前に与えられた指令じゃない。俺が為すべきことだ。だってエンディングトリガーには、死の運命を回避せよって書いてあったんだからな』
『だからって、あんた普通の人間でしょ!? そりゃ、多少体を鍛えているからって』
『なんとかなるさ。俺には唯一無二の能力がある』
現実世界と異世界を行き来できる能力。
そして目の前の人物の特性がわかる鑑定スキル。
『だから、一緒に頑張ろう、リルネ。俺も協力するから』
『あんた、本当にあたしなんかのために……?』
リルネはエメラルド色の瞳を大きく開いた。こちらに向けてゆっくりと伸ばしてきたその指先を、しかし彼女は途中で引き戻す。
『……なにが目的なの? あたしを助けたら、あたしのこともスターシアみたいに奴隷にしようって思っているの?』
投げつけられた言葉に、俺は目を見開く。
『なにを言ってんだよ』
『領主の娘と結婚して、イルバナ領を自分のものにしたいの? そんなことをしたって無駄よ。だってわたしは父様にはあまりよく思われて――』
『そんなことは言わなくていい!』
俺が怒鳴ると、リルネはビクッと震えた。
『俺はお前を助けたいから助けるんだ。お前がなんと言おうが、俺はお前を勝手に助けるぞ』
『……なんなのよ。現代日本から来たんでしょ、だったら自分のことだけ要領よく考えてりゃいいのに!』
『そうだな。だから俺はあっちの世界で馴染めなかったんだ。人を騙したり騙されたりなんて、もう嫌だ』
俺がつぶやくと、リルネは肩を震わせた。
母親と生き別れ、父親と仲が悪く、友達がいなくて、メイドたちにも打ち解けている様子はない。リルネは恐らく異世界でずっと閉塞感を抱いて過ごしていたのだろう。もしかしたら己の魔法の才能をひけらかすのは、そんな自分の立場を認めたくなかったからかもしれない。
そんな彼女がかすかな希望を抱きながら俺を見た。
『……信じて、いいの?』
ゆっくりとこちらに伸びてくる小さな指先を掴んで。
『当たり前だ。よろしくな、リルネ』
俺はそう言って笑ってやった。
そんなことを思いながら、俺はヴァルゴニス家の離れのベッドに潜り込んでいた。
もう日付は変わった頃だろうか。俺は現実世界から持ち込んだ時計を眺める。時刻はまだ二十二時だ。異世界の夜は早いな。
きょうはまだ二月二十五日。日付が変われば二月二十六日になる。
俺は前日から泊まり込みで、リルネの身辺警護をしようと思っていた。リルネに近づくやつを片っ端から鑑定するのだ。
スキルで得られる情報は大したことがないかもしれない。だが、少なくとも相手がどんなスキルを所持しているのかはわかる。素性を偽った暗殺者ならおそらく職業で知れるだろう。
他にも屋敷の警護のためにたくさんの防犯グッズを買ってきた。異世界の道具だ。とっさに隙を作るぐらいのことはできるかもしれない。
緊張で目が冴えてきた。
そんなとき、部屋のドアが控えめにノックされた。
俺が入室の許可を出すと、ランプを片手に入ってきたのはスターシアだった。ベッドから身を起こす。
「どうした?」
「あ、……もう、眠ってらっしゃいましたか?」
「いいや、少し考え事をな」
「そ、そうでしたか……」
スターシアはその場にとどまっていた。よく見れば彼女は先ほどのロングスカートのメイド服ではなく、なにやらネグリジェのような薄絹の上からナイトガウンを羽織っていた。
浴室で見た彼女の裸が思い浮かび、どきりとしてしまう。
「え、えと、なに?」
「……私、こういったことは不作法なのですが」
スターシアが部屋の中に入ってくる。後ろ手にドアをしめると、彼女は緊張した面持ちで告げてきた。
「もしご主人様がよろしければ、今宵の夜伽をさせていただきにと、参りました」
「えっ、ちょっ」
俺が狼狽すると、彼女は小首を傾げる。
「ご主人様のために体を差し出すのは、女奴隷の仕事のひとつと聞いております。……ご迷惑でしたか?」
「いや、迷惑ではないのだが!」
ど、どうしよう。
リルネが奴隷を買おうと言ったときから、この展開を想像していたなかったわけではないのだが。
「す、スターシアは嫌ではないのか?」
するとスターシアはくすりと微笑んだ。かわいい。
「私も人間です。嫌だという感情はもちろんあります。ですが……、ジンさまに対しては、どうもうまく働かないようです」
「……それって?」
「あの暗い牢獄で、私はずっとご主人様をお待ちしておりました。いつかこうなる日も、夢見ていたのかもしれません」
なんということだ。なぜだかわからないが、俺たちは両想いだったようだ。
スターシアはめちゃくちゃ美人だ。それに胸も大きいし、お尻も結構むっちりしている。抱き心地はきっとたまらないだろう。しかもスターシアはそれを望んでいると来たものだ。なんて都合のいい展開だ。
俺だって人並みに性欲はある。今すぐにスターシアを抱き寄せてあれこれしてしまいたいという気持ちは嘘じゃない。
――これが平時なら、だが。
俺は頭をかく。
「……そうだな、実は三日後、リルネの誕生日なんだ。無事その日を迎えることができたら、そのときはスターシアに世話を頼むよ」
「三日後、ですか?」
スターシアはきょとんとしていた。
「ああ。ちょっと今、心配事があって、なかなか寝付けないぐらいでさ……。それが終わったら、だな」
「……そうですか、わかりました」
くすりと微笑むスターシア。かわいい。
「でしたら、こういうのはいかがでしょうか」
スターシアはランプをテーブルの上に置くと、俺の手をぎゅっと握ってきた。やわらかい。
そのままベッドまで導かれる。
「私が、ご主人様の眠るまで、おそばにおりますので」
「そ、そうか」
「ええ、ご主人様はわたしの光。どうか、ごゆるりとお眠りくださいませ」
俺はベッドに横になった。すると、その隣でスターシアが添い寝をしてくれる。彼女の髪からは甘い匂いが漂ってきた。
落ち着く。
「……その、ご主人様っていうの、やめないか? むずがゆい。俺のことはジンでいいよ」
「では、ジンさま」
ん……、まあ、いいか。
「……その目、いつもはなにが見えるんだ?」
「ときどき、ジンさまのお姿が見えます」
「……俺の未来、か?」
「わかりません。ですが、以前に見えた光景では、傷だらけのジンさまの前にたくさんの暗闇が道を塞いでおりました」
「不吉な暗雲かな……」
きっと困っている人を見捨てられなかったんだろうな。俺はそういう性分だから仕方ないな……。
「しかしジンさまの周りにも、たくさんの光が浮かんでいます。きっと、ジンさまはおひとりではなかったのだと思います」
「そうか」
だったらいいな。
「おやすみ、スターシア」
「おやすみなさいませ、ジンさま」
翌日からは、たくさんの来客が屋敷を訪れた。
屋敷は来客のお出迎えでてんてこ舞いだった。
魔法学校の天才リルネお嬢様の十五歳のお誕生日の準備をするために、だ。
もちろん老メイドたちは全員駆り出されていたし、リルネお嬢様もまたお綺麗な赤いドレスに身を包みながら、来客たちのお相手をなさっていた。
お誕生日パーティーの前々日からこの盛り上がりだ。本格的なパーティーが始まるのは当然明後日なのだが、それにしてもすごい人気である。
「当然でしょ、あたしの将来は西方四領だけじゃなくて、神聖王国、海洋国家、それに魔法使いの行き着く最高峰『ヴァルハランドの塔』の使徒だって注目しているんだから」
「ヴァンルハランドの塔?」
なんだそれ。
リルネは得意げに語る。
「全世界で百人にも満たない魔法使いの聖地よ。そこでは命を蘇らせる魔法や、異世界から人を召喚する魔法、時空を遡る魔法、不老不死の研究など、さまざまな魔法の秘奥が日々探求されているのよ!」
「そ、そうか、すごいな」
俺は何度かうなずいた。なんだかわからないがすごいのはわかった。
そんなすごいお嬢様の近くにいる俺は、相変わらず彼女の護衛という立場だ。借り物の衣服に身を通し、髪を整えた姿はリルネに言わせると『馬子にも衣裳ね』ということらしい。やかましい。
「じゃあ、あんたは引き続きお願いね」
「あいよ、お嬢様」
手を振ると、彼女は再び屋敷の門のほうへと向かった。出迎えの役目がまだまだ残っているらしい。
「……さて、と」
俺はポケットの時計を見やる。時刻は午後二時。あと十時間で運命の日がやってくる。
現代から調達してきたのは様々な防犯グッズだ。窓枠に取りつけた電池式のセンサーライトは、この世界の人間ならきっと驚くだろう。
屋敷の死角っぽい場所には防犯ミラーも取り付けた。ひとつ一万円もするから、ふたつぐらいしか買えなかったが。
リルネには防犯アラームを持たせてある。もしかしたら声が出せない状況に追い込まれるかもしれないからな。
屋敷は二階建てになっていて、一階には玄関ホール、食堂と給仕場、洗い場、浴室、それに客間や応接間、衣裳部屋、それに住み込みで働くメイドや執事たちの部屋がある。体育館並に広く、部屋数は十二部屋だ。
だが二階にあるのは、リルネの部屋の他、空き部屋が三つだけ。本来は両親など家族のための部屋らしいが、今は使われていない。
ああ、あと地下室もあったな。食料貯蔵庫と物置か。離れも三つある。急な来客のための客室だ。今俺が泊まっているところだな。
貴族の屋敷ってのはすごい。東京だったら土地代合わせて数億しそうな建物だ。
ま、これぐらいの大きさなら、リルネの防犯アラームも隅々まで届くだろう。近所に迷惑を掛けちまうかもしれないが。
俺は玄関ホールでもし侵入者がやってきたとしたらどうするのだろう、と思い浮かべる。そんなときだ。
ガチャリと開いた扉から、リルネによく似た雰囲気を持つ男性が現れた。
「……君が、リルネが最近雇ったという護衛か」
「あ、はい。ジンと言います」
撫でつけた銀髪といい、遠目から見たら上品な優男といった風だ。しかし、その目は抜身の刃のような光を放っていた。
俺はピンと来た。彼がリルネの父親にしてイルバナ領領主、クルス=ヴァルゴニスだ。
彼がわずか二十六歳で領主となったのには理由がある。彼の妻と両親、兄弟たちが、南方にある自由都市群への視察の際、現れた刺客に殺害されたのだ。
クルスはそのときただひとり家族の下を離れていたため、難を逃れた。その後、彼は速やかに家督を継ぐと、兵を動かして下手人たちを皆殺しにしたという。
まあ、明らかに胡散臭い話ではある。リルネが警戒するのもわかる。彼女はクルスを『実の父親ながら、なにを考えているかわからない不気味な人物』と評していた。
クルスは俺の前で微笑んだ。
「初めまして。話は先ほど窺ったよ。とても見聞の広い人物だと聞いている。これからもリルネのために働いておくれ」
「は、はい。もったいないお言葉です」
こんな感じの言葉遣いでいいのだろうか、と俺はぎこちなく返す。
参ったな、リルネにこの世界の社交マナーとか少しでも教わっておくべきだった。ぎくしゃくした俺を見て、クルスはひょうひょうとした笑みを浮かべている。
しかし『見聞の広い人物』とはよく言ったもんだな。間違っちゃいない。
「ではまた」
クルスが通り過ぎてゆくのを、俺は頭を下げて見送った。
一応、鑑定しておこう。
名 前:クルス
種 族:人族
性 別:男
年 齢:32
職 業:領主
レベル:38
称 号:イルバナ領領主、血塗られた過去
スキル:人族語、森族語、岩族語、政治第六位、用兵第六位
しかし、大した情報は出てこなかった。
すぐに日が暮れた。今夜俺は、リルネの部屋に潜むことになった。
『死の運命』がなにを差すかわからなかったため、俺は手当たり次第の物資をリルネの部屋に置いていた。
災害に対する備えとして防災リュックを。二階の部屋の窓からは縄梯子を落とせるようにしたり。あとは救急医療セットもだ。毒を持つ生物が入ってきたときのために殺虫剤なども用意した。
リルネからは『用心のしすぎよ』と笑われたが、備えあれば患いなしっていうしな。
「見ててね」
パジャマ姿のリルネはクローゼットを開く。たくさんの服が詰め込まれていた。本来は衣裳部屋が他にあるものだが、普段使う服はここに入れてあるらしい。
さらにその奥の壁にリルネが触ると、それは引き戸になっていた。ちょうど人ひとりぐらい寝転べるようなスペースがある。
どうやら今夜の俺の寝床のようだ。ちゃんとシーツが敷いてあるのは、まあ、ありがたいな……。
「どう? あたしが作ったのよ。秘密基地ってわくわくするでしょう?」
「子どもっぽいところもあるんだな、お前……」
「なによその目。あたしはまだ十四歳よ」
「合わせたらとっくにアラサーだろ」
俺がそう言うとギロリと睨まれた。すみません。
時刻を確認する。午後十時。あと二時間か。
「そういえば聞いていなかったけどお前、心当たりとかあるのか?」
「潔癖に生きているから恨みを買っている覚えはないけれど、あたしぐらい優秀で高名なら逆恨みぐらいはあるでしょうね」
よく言うよ。奴隷商とつながりを持っていたくせに……。
「……しいて言えば、父様かしらね」
「クルスか?」
「あの人は、あたしが有名になればなるほどに、あたしをわずらわしく思っているはずだわ」
「なんでそんな」
俺は昼間に見たクルスの顔を思い出していた。確かに得体のしれない雰囲気は出していたが。
「あの人は自分が領主の座を手に入れるために、事件を仕掛けたのよ。みんなそう言っているわ。あの事件で、優しかった母様だって死んでしまった」
「……それは、確かなことなのか?」
俺の言葉にリルネは答えなかった。
「もしあの人があたしも殺そうとするなら、そのときはこの手で……」
「……」
思いつめたようなリルネの顔に、俺はなにも言えなかった。
そして運命の二月二十七日が訪れた。
朝からドレスをまとって玄関ホールで客人を出迎えるリルネは、その腰に大層な
「り、リルネさま、すごいですねその魔導杖は。これからどこかにご出陣ですか?」
「いいえ、わたくしの魔法の成果を皆様に見ていただきたくて。もしリクエストがあればお答えしようと思って、持ってきたんですの」
「は、ははは、左様ですか……」
白髭を生やしたどこかの貴族が乾いた笑い声をあげる。
俺たちは昨夜の零時を回ってからずっと起きているため、さすがに疲労が蓄積しつつある。リルネもなんだか眠そうだ。
「なあ、ジンくん。少しいいかい?」
クルスに声を掛けられたのは、昼に差しかかろうとするときだった。
「え? 俺、ですか……?」
「ああ、君に用があるんだ。僕の部屋に来てくれないかな」
当然その言葉はリルネも聞いている。俺はリルネを見やった。彼女は小さくうなずく。
ここで断ったら怪しまれるだろう。それにもしリルネを殺害する計画があるなら、俺が話に乗った方がいい。
「わかりました」
うなずくとクルスは俺を二階の空き部屋へと案内した。メイドや使用人のひとりも連れてこないのが、怪しいと言えば怪しかった。
「さて、悪かったね。僕の娘の話だ」
「リルネお嬢様、ですか」
クルスはうなずく。
「あれが十五歳になって学校を卒業したら、どこでもいいんだが、僕は彼女を遠ざけようと思っていてね」
「……それは」
「僕は自分によくない噂がまとわりついているのを、知っている。僕が領主になった経緯を、君も聞いているだろう?」
「まあ、人並みには」
クルスは胸に手を当てた。
「僕は父には愛されていなかったからね。長男のくせに、出来の悪い息子だと思われていた。だから僕は人の力を借りることにしたんだ」
俺はドキッとした。父親に愛されていないと語るその姿が、リルネそっくりだったからだ。
「独自の情報網を作り上げた僕は襲撃を察知した。しかし父は聞いてくれなかった。僕はせめて自分の家族を守ろうと傭兵を集めにいったが、帰ってきた頃にはすべてが終わっていたんだ。本当に、間の悪い男さ」
クルスはひょうひょうと笑う。だがその目は笑っていなかった。
「幸い、リルネには魔法の才能も人望もある。彼女まで僕の醜聞に付き合う必要はない。どこか遠くで幸せになってもらいたいんだ」
その言葉が嘘か本当か、俺にはわからない。鑑定スキルでも人の心までは思いしれない。
だが、俺はそれが本当だと信じたかった。
「……どうして、俺にそんな話を?」
「さて、どうしてだろう」
クルスは顎に手を当てた。
「そうだな、君はリルネに似ているんだ。君ならリルネのよき理解者になれると思っている」
「……似てますか?」
「ああ、なんだろう。目の奥の輝きが、かな。こう見えても信頼と信用だけでこの地位にやってきたんだ。僕は人を見る目には少しだけ自信があるんだ」
そう言ってクルスは笑った。
そこには父としての頼りない笑みが浮かんでいた。
「でもしばらく離れて暮らしていたからな。今のあの子は誕生日になにをほしがるだろうか」
「なんでも喜びますよ。彼女もあなたに嫌われていると思っていますから」
「この年になると、父も僕のことをそう思っていたのかもしれないって考えるときがあるんだ」
クルスは肩を竦めた。
すべてが終わってリルネの誕生日がやってきたら、ぜひ酒でも酌み交わしたいと俺は思った。
「君がいいなら、ずっと彼女のそばにいてやってくれ。あの子は昔から自分の本心を他人に打ち明けたがらない子だった。君ならその殻を破れるかもしれない」
「……それは、リルネお嬢様次第ですね」
俺も笑って、頭を下げた。
「それでは失礼します」
「ああ」
部屋を出ると、廊下に背を預けたリルネがいた。
聞いていたのか。
俺が心配だと思って、そばにいてくれたのかもしれないな。
なあ、リルネ――。
俺は声を掛けようとしたが、思いとどまった。
代わりに、彼女の頭を撫でる。
「いい親父さんじゃないか」
「…………今さらそんなこと言われても、……信じられないわよ」
リルネは俯いたまま泣いていた。
「なによ、ずっと……、ずっと、あたしを放っておいたくせに……、今さら……」
涙に濡れる頬をリルネは手の甲で拭う。
「いつからだっていいじゃないか。無事明日を迎えられたら、そのときはまた仲直りすればいい」
「……」
なにも言わないリルネのそばにしばらく立って、彼女の頭を撫でていた。
その前にまず、きょうの運命を乗り越えないとな。
時刻が深夜に近づき、辺りが夜の帳に包まれた頃。
来訪者は俺の必死な警戒をあざ笑うかのように、現れた。
玄関を叩き、真正面から――。