第3話 「深夜来訪者」
俺の名は、
先祖代々にさかのぼると、なんとかという武家の末裔らしい。
婆ちゃんは厳しくも優しい人で、俺に『人のために尽くしなさい』と毎日のように言って聞かせてきた。悪さをしたときには今どきだったら問題になるぐらい頭を引っぱたかれたし、いいことをしたときにはとびきり旨い飯を作ってくれた。
俺にいいことをしろと常に言ってくれた。俺はいいことをしようと思って生きていた。小学校も、中学校も、高校も、大学もだ。
でも、こんなご時世だ。そんなまっすぐな心がいつまでも通じるはずがない。
俺は疲れていた。いろんなことがあって、人を助けたってバカを見るだけだと思って、婆ちゃんに顔向けできないようなことにまで手を染めていた。
そんなときだった。異世界への扉が開いたのは。
川に映った異世界へと、俺は飛び降りた。
そうしたらこの世界に来て、なんやかんや居ついてしまったのだ。
異世界が現実世界より居心地がいいのは、こいつのおかげかもしれないな。と俺は近くにいたリルネを見やる。
俺たちはリルネの部屋で、きょうという日付が変わるのを待っていた。俺の視線に気づいたリルネは、目をぱちぱちとする。
「……? なにかした?」
「いや、お前と初めて会ったときのことを思い出していたんだよ」
「あんたが酒場で大乱闘をしていたときね」
俺は頭をかいた。
「止むを得なかったんだよ。給仕の女の子が絡まれていて、誰も助けてくれなさそうだったからさ。誰が相手でも見て見ぬふりはできないだろう」
相手は屈強な男が五人だったが、俺は構わず助けに入った。それがケンカを売ることになってもだ。現実世界の俺では考えられない行動だった。たぶん異世界に来て、気分が高揚していたというのもあるだろう。
そのうち、給仕の女の子に味方するやつらも出てきて、なんか知らないけど二十対二十ぐらいの大乱闘に発展しちまってな。
そこに現れたリルネが辺りを一喝。たまたま虫の居所が悪かった彼女は、氷の魔法を放って一瞬でみんなの頭を冷やしたんだ。
そうして、俺とリルネは出会った。
「あんときはなんかやばいやつ拾っちゃったな、って思ったわ。それがまさか、同郷出身とはね」
「俺だってやばい女に目をかけられちまったな、って思ったとも」
時計を見やる。時刻は二十三時。もしかしたらこのまま何事も起きずに、死の運命を回避できるのかもしれない。そんなことを思う。
あるいは、俺たちがひどく警戒していたため、知らないところで問題は解決していたのだろうか。だがまだ油断はできない。
きょうはクローゼットの奥に隠れることもなく、俺たちはベッドサイドで身を寄り添っていた。なにかあったときに、すぐ飛び出せるようにだ。
昨日から丸一日起きているのに、全然眠くはならなかった。気持ちが高ぶっているからだろうか。
「誕生日を迎えて無事だったらさ、これからお前はどうするんだ?」
「そうね、やっぱりこのまま魔法を極めたいって思うかな。せっかく天から授かった才能だしね。でもあんたと組んで商会を立ち上げるのも楽しそうよね」
「異世界貿易か」
「そうそう。従業員はみんなあたし好みの美形ばかり揃えちゃったり」
「スターシアに役員をやってもらったりな」
「いいわね。あの子は飲み込みも早いらしいし、教えたらなんでもできるようになりそう」
俺は時計を見た。当然時間はほとんど進んでいない。
長い。きょうはなんて長い一日だったんだろう。この緊張がまだ一時間も続くのか。
色々なことがあった。早く過ぎ去ってほしい。人生で一番長い一日だ。
「……ねえ、ちょっと寒くない?」
「そうか?」
だったら毛布でも持ってこようかと俺が立ち上がろうとすると、裾を掴んで引き止められた。
「……だから、寒くないかって、聞いているのよ」
「上着でも取ってくるよ」
「じゃなくて……、もう!」
リルネが無理矢理俺の手を握る。
彼女の手は冷たくて、小さかった。
いつもしっかりしているリルネだけど、さすがに不安なのだろう。
目を丸くする俺に、リルネはすねるように口を尖らせた。
「……さ、察してよね、……もう、ドンカン」
「あ、はい、すみません」
なんだか反射的に謝ってしまう。まあ年上だしな。
ランプの薄明かりに照らされた室内において、リルネの手の感触だけがやけにリアルに感じられた。柔らかくて、なんだか大事にしたくなるような、そんな手だ。
もし俺に妹がいたら、こんな感じだったのだろうか。十歳ぐらい年が離れちゃっているけど。
そのときだった。
ランプの火がフッと消えた。
「え?」
どちらともなくつぶやく。屋敷全体を揺るがすような震動が起きたのは、直後のことだった。
地震? まさか。
――これは明らかに人為的なものだ。
「な、なに!?」
「わからない! だが、玄関ホールのほうからだ!」
暗闇の中にうっすらと光るリルネの碧い綺麗な瞳。俺は彼女の手を強く握り、その目に言い聞かせる。
「今から様子を見てくる。お前はここにいろ」
「そんな、あたしだって、――ちょっとっ」
俺はリルネの声を置き去りにして、部屋を飛び出した。
二階から一階へと階段を三段飛ばしに駆けつける。メイドさんや使用人たちも飛び起きたのか、玄関ホールに集まっていた。その輪の中にスターシアも不安そうな顔をして混ざっている。俺は年老いたメイドたちやスターシアを守るようにして前に立った。
細切れにされた入口の扉の破片が、外側から内側にかけて散乱している。その断面は鋭利な刃物で切り裂かれたかのようだ。
そして――、夜を背に。
皆の注目を集めながら、――そいつはそこにいた。
頭まですっぽりと覆った黒いローブを着ていて、顔はおろか体格もよくわからない。両手も長い袖の中に納まっているため、肌は一切見えなかった。まるで亡者のようだ。それなのに目を放すことができないような強烈な存在感を放っている。
おもむろにそいつは両手を広げた。まるでこれから芝居を始めるかのように。
「やあやあ――お集まりいただきまして誠にありがとうございます私の名はメーソン今宵は貴方達にこれ以上ない素晴らしき芸術をお見せいたしましょうではありませんか」
それが言語だと理解するのに、俺はわずかな時間がかかった。
息継ぎもなく一息に発せられた彼の声は男とも女ともつかず、まるで陸に上がった魚が口を開いたような、しゃがれた聞き取りづらい声だった。
俺は直感した。こいつが招かれざる客だ。
「――ジャッジ!」
反射的に叫ぶ。
名 前:メーソン
種 族:不明
性 別:不明
年 齢:不明
職 業:不明
レベル:不明
称 号:不明
スキル:不明
固 有:不明
が、しかし――、ほとんどなにもわからない。
なんだよこれ、肝心なときに意味がないじゃねえかよ!
得も知れぬ不吉な気配に飲み込まれそうな俺たちに、怜悧な声が降り注いだ。
「……こんな夜更けに、騒々しいね。これはいったいどういうことなのかい?」
二階へと続く階段の上から声をかけてきたのは、ガウンを羽織ったイルバナ領領主クルスだった。手にはクマすらも撃ち抜けそうなほど大きなクロスボウを抱えている。
来訪者メーソンはまるでピエロのような大仰な動きで飛び上がり、そうして恭しく頭を下げた。
「これはこれはニンゲンさまご機嫌麗しゅう! お騒がせしたのは大変申し訳ございませんなにぶん無作法者でして本日は貴方さまの大切なお嬢さまをいただきに参りました!」
今度はなんとか聞き取ることができた。やはりこいつがリルネを狙っていた男か。
嬉しそうに声を挙げたメーソンに、クルスは肩をすくめて。
「扉の開け方も知らないような男に娘をあげるわけにはいかないな」
「それはそれはなんという――」
メーソンが言葉を続けることはできなかった。
クルスがクロスボウを構えた途端、四方八方から風切り音がした。いつの間にか、メイドや使用人の格好をした人たちがクロスボウを手にして物陰に潜んでいたのだ。
皆が放ったボルトはメーソンの衣に突き刺さる。メーソンは一瞬で針山と化した。領主さますげえ!
だが、メーソンは風に揺れる柳のようにびくともしなかった。ボルトは内側から押し出されるようにして抜け落ちる。辺りがざわめいた。
なんだこいつ……、人間じゃないのか……?
突き破られた個所からは、黒い霧のようなものが噴出していた。メーソンは背を逸らせながら両手を広げる。
「おお、おお、貴方も来客の歓迎の仕方を知らない模様ですがこれはこれはご丁寧に誠にありがとうございますそれでは早速このメーソンの演目を始めさせていただこうではありませんか! ――準備の手間も省けましたので」
黒い霧が空気中を漂い出した瞬間、屋敷は異変に包まれた。
俺の後ろにいたメイドが、ごほ、ごほ、と激しくせき込み出した。俺はメーソンから意識を外さないようにして振り返る。
つんざくような悲鳴が響いた。
「ああああ! 私の、私の手が!」
「イヤアアアアアアア!」
「足が動かないの! 誰か、たすけて!」
俺は信じられないものを見た。
白髪のメイドの腕が、精悍な顔つきのコックの顔が、クロスボウを持っていた若いメイドの足が――、次々と灰色に染まってゆく。
灰色の面積はどんどんと広がり、上へ、あるいは下へと伸びてゆく。――それがなにを意味しているのかがわかった途端、俺の背筋は恐怖に支配された。
――人が石に変わっているのだ。
俺は口元を押さえながら怒鳴った。
「みんな、息を吸うな! あの黒い霧に近づいてはダメだ! 落ち着いて順番に、裏口から逃げてくれ!」
皆は一斉に身を翻す。だが、扉に駆け寄った年老いたメイドがその前で完全に石に変わってしまった。そのせいで後ろのものたちがつっかえた。ドアを通り抜けることはできなくなる。パニックが加速した。
庭師の老人が急いでそのメイドをどかせようとした直後、大きな音を立てて倒れたメイドは――、地面に激突し、粉々に砕け散った。
足元に破片が飛び散る。悲鳴が舞う。
「あ、あ、あ、わ、ワシは、これは、違うんじゃ、これは!」
庭師は顔を押さえ、絶望した表情のまま石へと変わってゆく。たるんだ頬と血走った眼までもが、まざまざと残されている。
阿鼻叫喚だった。無事なのは俺と口元を押さえて凍りついているスターシア。それに二階にいるクルスたちぐらいで――。
俺はハッと気づく。そうか、この黒い霧は空気より重いのか。
「ジンさま……」
「二階だ、逃げようスターシア!」
俺はスターシアの手を引いて、二階へと向かう。肩越しに振り向くと、メーソンは石に変わった人々をひとりひとり見定めているようだった。顔を覗き込みながら、ブツブツとつぶやいている。
「うーんこれは出来がよくありませんねえ……。これも美しくない。これも美しくない。これも美しくないこれも美しくないこれも美しくない。これもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれも」
なんなんだあいつは――。
俺は吐きそうだった。人が殺される場面に立ち会ったのは初めてだが、まるで現実味がない。
あんなの、人の手でどうにかできるようなやつじゃないだろう。先制のクロスボウが突き刺さっても微動だにしないやつが相手だなんて、俺の想定外だ。物理攻撃無効キャラかよ。
俺とすれ違いざま、クルスが腕を振って叫ぶ。
「衛兵に連絡を! それに魔法学校にも応援を要請しろ! こいつはただの人間じゃない!」
二階にいたメイドや兵士たちが散らばってゆく中、クルスはひとり逃げなかった。
「あんたはどうするんだよ!」
俺の言葉に、クルスはこわばった顔で無理矢理口元を緩めた。
「……娘を頼むよ、ジンくん。僕にはこの家を守る責任がある」
俺は目を見開いた。
くそ……。俺はリルネの下へと向かおうとして。
そして足を止める。
「スターシア、二階のリルネを連れて逃げてくれ」
「えっ、ジンさまは……?」
「ここで踏みとどまるとか言う野郎を連れて、俺も逃げるさ! 早く行け、スターシア!」
スターシアは混乱しているようだが、しかし俺の命令には逆らえないのか、その言葉に従ってくれた。去ってゆくスターシアの背を見送り、俺はクルスの横に並ぶ。
クルスは驚いたように俺を見る。
「信じられないな。バカなのか? 君は」
「そうなんだろうな、こんなのどう考えても逃げた方がいいのに……。くそ、一緒に逃げようぜ、クルス。日が変わったらきっとあいつはいなくなるんだ」
「へえ、さすが見聞が広い。なにか知っているようだね。だったらなおさら娘のことを任せられる」
俺はクルスの肩を掴んだ。そうして怒鳴る。
「なんでだよ! 見てみろ! みんななすすべもなくやられているだろ! お前だって逃げろよ!」
「そうしたら今度は領民を見捨てて逃げた領主という醜聞が回るのだろう。今度こそ僕は自らの汚名をそそぐ」
クルスは眉根を寄せて、自らを恥じるように笑った。
「すまない、君は優しい男だな」
ひとり踏み止まろうとするクルスを見て、俺の目頭が熱くなる。
こんな一瞬で何人もの命が奪われて、なにがなんだか俺にだってわからない。だが、こんなの許されることじゃないだろう。
石像をすべて砕き終わったメーソンはこちらを見上げてきた。
「もっともっと美しい芸術でなければニンゲンさまにお見せするわけにはいきませんね。もっともっともっともっとたくさんの石材を集めて唯一無二の完全無欠なる芸術品をそう神の頂にも届くようなものをご用意いたしますがゆえ!」
俺はポケットから取り出した爆竹にライターで火をつける。侵入者をおどかして追い払うために持っていたものだ。投げつけると、メーソンは激しい音を立てて炸裂する爆竹に、一瞬だけ気を取られたようだ。
そこに、クルスは再びクロスボウを打ち出した。ボルトはメーソンの顔面に突き刺さる。メーソンは揺らぎもしない。それはやはりなんの痛痒も与えてはいないようだった。
「どうすれば死ぬんだよ、あいつは……!」
俺は思わず歯噛みする。クルスは応援が来るまでここで時間稼ぎをするつもりだろう。だがその見込みは薄い。近づかれたら、――終わりだ。
化け物がスローモーションでこちらに近づいてくる中。
闇を祓うように、少女の声が響いた。
「――精霊召喚:サラマンダー! 我が命に従い、常闇を砕く炎となれ!」
振り返り見上げれば、彼女は銀糸を編んだような美しき銀髪を揺らして、階下の化け物へと杖を向けていた。
杖に輝くのは煌めく炎。フレアマスターの名の由縁となる、彼女だけが操る炎だ。
リルネは叫ぶ。
「
玄関ホールのシャンデリアを飲み込むようにして出現した炎の塊が、まるで神の拳のようにメーソンに激しく打ち下ろされた。
激高した炎は怒号とともにメーソンを覆い尽くした。立ちのぼる火の先端は天井にまで届き、弾けた火の粉が屋敷のあちこちに飛び火する。
凄まじい震動によって階段の四段目までが崩れ落ちた。屋敷中にもうもうと立ち込める黒煙によって、メーソンの姿は影も形も見えなくなる。俺とクルスはともにむせた。
なんつー威力だ……。
手りゅう弾なんて目じゃない。ミサイルが直撃したかのような騒ぎである。
炎は青白い火の粉をまき散らしながら収束し、そうして一条の赤い光となってリルネの肩に舞い戻った。すると光は一匹の蜥蜴へと姿を変える。
「……どう? やった?」
リルネは恐る恐る肩の蜥蜴に尋ねていた。
真っ赤な炎を尻尾の先に宿した蜥蜴は、妙齢の男性のような声でつぶやく。
『いいや』
煙が晴れてゆく。
メーソンは爆心地の中心にいながら、両手を天に突きあげるようにして立っていた。
『無傷だ』
そう言い残し、蜥蜴は火の粉をまき散らしながら虚空に消えた。
リルネは青ざめながら、つぶやく。
「……そんな、炎魔法第三位の、
前に鑑定スキルで見たとき、リルネの使える魔法の最強ランクは第三位だった。つまりこれは、リルネのあらゆる魔法が通じないということじゃ――。
「っ、だったら!」
リルネは杖をかざした。風の刃や氷の槍、岩石などさまざまな魔法がメーソンに降り注ぐ。しかしそのどれも効果がない。
「なんで! どうして! あたしの魔法がなにも、なにひとつ!」
彼女は愕然としていた。メーソンはゆっくりとこちらを見上げて、そうして不気味な声にはっきりとわかる喜色を混ぜた。
「ああぁ――、見つけましたお嬢様――!」
メーソンは歓喜に震え、跳躍した。これまでの挙動が嘘のような俊敏な動きだった。俺は凍りつくリルネを押し倒す。今までリルネが立っていた位置にメーソンが着地した。
炎で焼かれても刃で切り裂かれても槍で突かれても、メーソンは平然としており、またローブすらその形状を保っていた。
「ば、化け物……!」
リルネがうめく。俺は確信した。こいつは最初から倒せるような相手ではなかったのだ。俺たちにできることはただひとつ、逃げることだけだ。
俺はリルネを抱き起こして、その部屋へと飛び込む。後ろからクルスも追いついてきた。
部屋にはスターシアの姿はない。
「シアは安全なところにかくまったわ……、だから、大丈夫だと思うけど……」
「そうか、よくやった」
「あいつ、なんなのよ……、人を石に変える魔法なんて、見たことも聞いたこともないわ……!」
俺はリルネの部屋に隠していた消火器を手に取り、安全栓を引き抜く。ホースを持って扉に向けた。こんなもの、時間稼ぎにもならないと思うが。
「リルネ、窓から縄を垂らしてある。クルスと一緒に逃げるんだ。俺はここでなんとかあいつを食い止める。逃げ切ってくれよ」
「な、なに言ってんのよ! あんたになにができるっていうの!」
「それを言われるとつらいな」
俺は口元を緩めた。
「でも、自分が助かるより、誰かが助かるほうが嬉しいんだ。俺はさ」
「なにを考えてんの偽善者バカ! いいから行くわよ! 父様も――」
俺が精いっぱい格好つけた台詞を、リルネは一言で切り捨てた。無理矢理腕を引かれる。力強い。
横から伸びた手が、俺の持っていた消火器を奪い取った。
クルスだ。
「このレバーを引けばいいのかな。変わった武器だ」
「ちょ――」
扉に亀裂が入った。破裂するように残骸が散らばる。その奥にメーソンの姿が見えた。
「ああ私の芸術品芸術品芸術品芸術品を貴方には渡しません渡しません渡しません渡しません渡しません渡せ――!」
「それはこっちの台詞だよ!」
立ち止まったクルスが勢いよく薬剤を放射する。メーソンの姿は真っ白い粉に包まれた。
リルネが息を呑む。
「っ」
俺は踏み止まろうとする。だが、リルネは俺の腕を引いて窓へと向かっていた。抵抗ができない。彼女が風の魔法かなにかを使っているのだ。
「リルネ! クルスが!」
「喋ると舌噛むわよ!」
俺の悲痛な叫びも届かない。リルネは俺の腕を掴んだまま、その体を窓へと投げ出した。
「クルス――!」
視界が目まぐるしく入れ替わる。銀髪の伊達男の姿はすぐに見えなくなった。
ただ、声がした。
「――リルネ! お前がどんなに僕を嫌っても、僕はお前を愛していた! 亡き妻に誓って、本当だ!」
二階から一階へ飛び降り、着地した俺たちはその声を聞いた。
戻ろうとした俺の手を、リルネはさらに強く引く。
「お前、クルスが――」
リルネが俯きながら怒鳴った。
「――応えたら、それが最期になっちゃうでしょう!」
リルネが噛み締めた下唇から血がしたたり落ちているのを見て、俺の頭が冷えてゆく。
彼女はあの場で救えるだけの人命を救って、逃げ出したのだ。頭のいいやつだ。
対して俺は、このざまか。
全身に疲労がのしかかってくるが、まだ終わってはいない。
俺たちは走り出す。
リルネの目は紅く燃えていた。
「あいつ、殺してやる……、よくもあたしの家族のみんなを……、絶対に、殺してやる……」
俺たちは裏庭を出て、魔法学校へと向かった。
学校へ向かって俺たちはひた走る。
こんな時間でも教師が残っている可能性があるとは、リルネの弁であったが。
正直、リルネの魔法が通用しない相手に教師なら勝てるのかというと、その目は厳しいのではないだろうか。
夜の大通りはまったく人の気配がなく、街全体が眠っているかのようだ。
俺は己の行動を悔やんでいた。
拳銃とか、手りゅう弾とか用意できればよかったのか? 一般人の俺にそんなことができるわけない。だいいち、それらが用意できたところで恐らくあの化け物に効果はなかっただろう。
だったら三日間の間に魔法だとか、覚えておけばよかったとでもいうのか。あんな曖昧な記述を頼りにか。
俺には想像力が足りなかったのだ。この世界に存在する『脅威』がどの程度のものかという想像力だ。
どうして俺は個人の力でリルネを守れるはずだと考えてしまったのだろうか。もっとなりふり構わず色んな人に助けを求めるべきだったのに。
あらゆる後悔に押し潰されそうになる中、リルネがなにかに足を取られてつまづいた。
慌てて起き上がろうとした彼女は、信じられないものを見たかのように目を見開いていた。
俺はリルネを助け起こそうとして、その正体に気づく。
「……え?」
石化した町人がそこに横たわっていたのだ。その形相はまるで生きながら焼かれたかのようにむごたらしく歪んでいる。
まさかという気持ちと、もしかしてという気持ちが相反して現れる。
「あ、あ、あ……」
嗚咽のようなリルネのうめき声に、俺は振り向かずにはいられない。
見た。道の先にあるという魔法学校から、何人もの生徒が飛び出してきている。だが、そこに生きている者はただひとりもいなかった。皆、――石になっている。
あらゆる音が失われた街の中心に立ち、俺はようやく気づいた。
メーソンはとうに住民すべてを、石に変えていたのだと。
数日間に出会った人々の顔が、走馬灯のように脳裏を駆け抜けてゆく。
イルバナ領、テトリニの街は今、死の都と化していた。