第二章 しかしながら最終兵器と呼ぶにはあまりにポンコツで(2)
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道を歩けばなにかしらの不運と遭遇するのがミコトである。
中でも馬車の暴走は週に数回という頻度で発生しており、いつも通りといえばいつも通りの光景である。ミコトは諦観めいた瞳で馬車を見つめ返し――
そこで、自分がいまひとりではないことを思い出した。
「避けてサイファー!」
「――<リパルス>――」
ミコトが手を引こうとすると、サイファーは逆にミコトを守るように前に出て両腕を広げる。
そんな少女の体から、光でできた円環が広がった。
ひとつではない。天球儀のように軸の異なる円環が、幾重にも重なっている。
その円環が直径で数メートルまで広がると、暴走馬車はその範囲の中に飛び込んでしまっていた。
直後、突進する馬の姿が、ゆっくりになる。
人は死に瀕すると周りがゆっくりに見えるという話を聞いたことがあるが、そういう現象とは異なる。地面を転がる枯れ葉はそのまま転がっていくし、空の鳥は変わらぬ速度で飛んでいく。馬車以外は正常に動いているのだ。
――いや、馬車だけじゃない。僕たちもだ。
ミコトが取り落とした串肉は、未だ地面に到達することなくゆっくりと落下し、やがてその落下自体も停滞してしまう。
それに手を伸ばそうとしても、その腕がまったく進まない。力が入らないわけではなく進んでいる実感もあるのに、そこまでの距離が無限に続いているような感覚だ。
円環の内側にあるもの全てがゆっくりになって、止まっていく。
馬はまだ走る姿勢のままだ。地面に目を向ければ、よほどの勢いで駆けていたのだろう、四つの足が地面から離れている。なのにゆっくりと進んでいるのだから奇妙である。
速度という概念が減衰していくような、そんな形容しがたい現象だった。
――これも、サイファーがやってるの?
恐る恐る隣に目を向けてみると、少女の目の前の空間が波紋のように歪んでいた。
馬の方も暴走より困惑が勝ったのだろう。足が地面につくとそのまま動きを止め、やがて馬車は完全に停止する。
そこで円環が消失し、体が動くようになる。
串肉を拾おうとした行為は覚えていたようで、意外にも宙のそれを摑むことができた。腕を伸ばすという推力が働き続けた体と、重力に引かれて自由落下が始まる串肉とでは同じ動くにしても時間差のようなものが発生していたようだ。
奇っ怪な現象にあんぐりと口を開けていると、サイファーが声を上げる。
「マスター。対象に接触調査を試みてもよいでしょうか?」
当のサイファーはというと、目を輝かせてふり返り、そんなことを言っている。
「えっと、怖がらせないように優しくね?」
「了解しました」
そう言うと、サイファーは優しく馬の首を撫でてやる。馬の方はというと、たったいままで暴走していたとは思えぬほど従順になっていた。もしかしたら逆らってはいけないと感じているのかもしれないが。
「マスター。とてもやわらかくてあたたかいです。これは可愛いですか? より大きな意味合いの言葉が必要です」
「そっかあ。超可愛いとかでどうかな」
「はい。馬は超可愛い。情報をアップデートしました」
「よ、よかったね」
頬ずりまでしている姿を見ると、ミコトも苦笑することしかできなかった。
「お、おい。あんたたち、無事かい……?」
ようやく御者も我に返ったのだろう。恐る恐る声をかけてくる。
「あ、はい。大丈夫です。サイファー、そろそろいいかい?」
「………………」
「サイファー?」
「……はい」
名残惜しそうにキュッと馬の首に抱きつくと、サイファーはようやく馬車から離れた。
初めは怯えていた馬も最後にはまんざらでもなかったのか、長いしっぽをぶんぶんと振ってサイファーの顔を舐めていた。
馬車が通り過ぎていくと、通行人の興味も引いたのだろう。やがて通りは喧騒を取り戻していく。
それを確かめて、ミコトは小声でサイファーに問いかける。
「サイファー、いまのなにをしたの? 馬車がひとりでに止まったように見えたけど」
「<リパルス>は物理慣性を吸収緩和する
「そ……う、なんだ?」
言っていることの意味は半分もわからなかったが、ともかくサイファーが馬車を止めたらしいことはわかった。
――この子は、僕といっしょにいても平気なのかな……?
《人型災害》とまで命名された不運体質は、周囲の人間も巻き込む。
いまのように暴走馬車が突っ込んでくる程度なら避けられなくもないが、突然嵐に巻き込まれたり鉢植えが降ってきたり――
「――マスター、この鉢植えはどうすればいいですか?」
「なんでそんなもの持ってるのっ?」
「この建物の上からマスターの頭部めがけて落ちてきました」
「助けてくれてありがとうね! 鉢植えは扉の前とかに置いといていいと思うよ」
ともかく、いっしょに歩いているだけで命の危険にさらされるのだ。ミコトの傍にいようと考える人間はそうそういない。
なのに彼女は不運に巻き込まれるどころか、正面からねじ伏せている。
それどころか嫌な顔ひとつ見せず、逆にミコトのことを守ろうとしてくれていた。
サイファーのような存在は、初めてだった。
扉の邪魔にならないところに鉢植えを置くと、どこか名残惜しそうに葉をツンツンと突く。表情はわかりにくいが、どうやら好奇心は人一倍強いように見える。
それからまたサイファーはミコトの隣を歩いてくれる。
――いい子だな……。
放っておけないし、彼女の力になってあげたい。
そんな気持ちが自然とこみ上げてくるが、現状ミコトの方が守られてしまっている。
ミコトだって男なのだ。
それを不甲斐なく思いながらも歩いていると、やがて繁華街を外れて寂れた通りへと足を踏み入れる。
ミコトが立ち止まったのは、レンガ造りの古めかしい屋敷の前だった。
周囲の建物は空き家が多いようで、庭も荒れ放題だ。目の前の屋敷も綺麗とは言い難い状態だが、郵便受けにぐちゃぐちゃと手紙やチラシが突っ込まれている。少なくともここを所持している誰かはいるのだろう。
「さて、ついたよ」
門を開けて玄関に進むと、サイファーが首を傾げる。
「マスター。ここはなんの建物ですか?」
「僕の……えっと、なんて言ったらいいのかな。ひとまず今回の依頼人――」
答えながらノッカーに手を伸ばすと、その前にガチャリと扉は独りでに開いた。
「……少年。やはりキミか」
気怠そうな声で出迎えたのは、ひとりの女性だった。