第一章 初恋の彼女は、薄幸の美少女と呼ぶには強すぎた(6)
◇
「ほわあああああああっ?」
ミコトはいま、空にいた。
自分を飲み込んだ大地の亀裂を遙か下に置き去りにし、雲が摑めそうな高さにいる。
西のヴァイスラント公国には空飛ぶ船があると聞くが、そういうことではない。その身ひとつで宙に舞い上がっているのだ。
いや、その身ひとつというのは正確ではない。その体は宙にありながら、姫のように優しく抱きかかえられているのだ。
王子のようにミコトを抱きかかえるサイファーの背では、水晶の翅が羽ばたいている。果たして風を摑めるとは思えぬ翼だが、少女は実際に空へと飛翔しているのだ。
先ほどの地震はやはり大きなものだったようで、遺跡はあちこちが陥没して人の近寄れる状況ではなくなっている。
サイファーは深紅の瞳でそんな大地を睥睨すると、やがて鈴を転がすような音色で静かに囁く。
「地形分析完了。着陸に適した座標を確認。
独り言のような言葉とともに、サイファーは突然急降下を始める。
遺跡地帯を大きく外れ、それを囲む森林さえも飛び越えて荒野へと。その速度は優に全速力の馬の数倍はあった。
「ひいいいっ?」
枯れた大地が見る見る迫り、ミコトは悲鳴を上げる。
大地に衝突する寸前で水晶の翅が大きく羽ばたき、勢いが殺される。この速度で急停止すれば息が詰まりそうなものだが、不思議と制動力を感じなかった。最後には羽根のようにふわりと少女の細い足を地へとつけていた。
それと同時に、背中の翅と円環も役目を終えたように崩れていく。その様は散りゆく花弁のようでありながら、まるで質量というものを感じさせなかった。
そういえば、鉄の扉を切断した剣もいつの間にか消えている。
「マスター。着陸に成功しました」
「ひゃい!」
丁寧に畳まれたローブを抱きしめて、ミコトは情けない声を上げる。
それから、ミコトは無様にお姫さま抱っこをされたまま、少女にしがみ付いている自分に気付く。
慌てて手を離すと、顔を真っ赤にして怖ず怖ずと訴える。
「あの、あの、降ろしていただけると……」
「腰部から下半身へかけて神経的麻痺を確認。自立困難と推定。推奨できません」
「あうぅ……」
〝腰が抜けている〟ことを明確に解説され、ミコトは両手で顔を覆った。
――なんかやわらかくていいにおいが……じゃなくて女の子に抱っこされるなんて恥ずかしい!
普通は逆さろう。羞恥心だかなんだかよくわからない感情に苛まれ、ミコトは生まれたての子鹿のようにプルプル震える。
そんなミコトをよそに、サイファーは興味深そうに周囲を見渡していた。
「マスター。環境データが既存データと一致しません。アーカイブのアップデートを要請します」
「えっと……?」
またしても聞いたことのない単語がいくつも聞こえて、ミコトは首を傾げた。
ミコトの声が聞こえているのかいないのか、サイファーは周囲を見渡している。その表情からどういう感情なのかはうかがい知ることはできないが、どことなく不安そうにしているようにも見える。
それでいて、遠くを見つめるその横顔は愛らしくも凜々しく、ミコトは自分の胸が高鳴ってしまうのを感じた。
――遺跡の中で眠っていたし、周りが自分の知ってるものと違うのかな……?
ミコトは乙女のように胸元で手を握ると少女を見上げて問いかける。
「もしかして、なにか見たことないものでもあるの?」
「はい。まず、あの翼手目哺乳類に類似した生物はなんですか?」
サイファーが視線を向けたのは、空を飛ぶ翼竜だった。
先ほどの急降下に驚いたのか、森林の上に翼竜の群れが集まっている。
「たぶんワイバーンだと思う。あの大きさだと、まだ幼体じゃないかな。小さいからちょっと可愛いよね」
亜竜の一種である。竜は言葉を介し、人よりも遙かに高度な魔術を行使し、さらには羽ばたくだけで嵐を呼び、その吐息は世界の全てを灰燼と帰す超常の存在である。
本来の竜は魔物とは明確に区別された高位の生物だが、亜竜は言葉もしゃべらず知能も低いため魔物に分類されている。
「ワイバーン=可愛い――認識しました」
「僕の感想は認識しないで!」
それから、サイファーはまた首を傾げる。
「〝可愛い〟とは、どのような状態を定義しますか?」
「えうぅっ? それはそのっ……」
――キミみたいな子だと思う――喉元まで出かけた言葉を慌てて飲み込み、ミコトはしどろもどろに口を開く。
「えっとえっと……、小さかったり、やわらかかったり、あとは……なんていうか、守ってあげたくなるようなもの……とか、でどうでしょうか……?」
自分はいったいなにを言わされているのだろう。
また赤面して顔を覆っていると、少女はようやく得心がいったと頷いた。
「可愛い=小さくやわらかい庇護対象――認識しました」
それからミコトを真っ直ぐ見つめてこう言った。
「マスターは〝可愛い〟――情報をアップデートしました」
「どうしてそこに僕を含めたのっ?」
サイファーはキョトンとして首を傾げるも、次の質問を続けるのだった。
「マスター。ワイバーンと同種個体の接近を確認。あれも〝可愛い〟ですか?」
「へ?」
少女が見上げた先を視線で追ってみると、そこにはちょっとした小屋ほどもある翼竜が飛来してきていた。遠くに見えていた幼体とは異なり明らかな成体、それも百年以上は生きていよう個体だった。
ひゅっと、喉の奥から息が漏れた。
「あれは可愛いというより〝怖い〟かな……?」
竜とはいえ翼竜の習性は魔物のそれだ。人を捕食することからもちょくちょく討伐対象になっている。空を舞うミコトたちを見て餌とでも思ったのだろう。ずいぶんと興奮しているようだった。
急降下してくるワイバーンを、ミコトは半ば諦観めいた眼差しで見上げた。
――それはまあ、襲ってくるよね。
ミコトは自分の不運体質を思い出す。それにしたって、本日の不運はいくらなんでも多すぎるが。
「……って、そうじゃなくてサイファー。僕を置いて逃げ――」
ようやく我に返って声を上げるミコトをよそに、少女は独り言のようにつぶやく。
「――怖い=恐怖対象。驚異と認識。排除します」
「んぇっ?」
サイファーだけなら逃げられるかもしれない。そう言おうとしたのだが、少女はミコトから片腕を離して支えるように抱え直すと、その左腕を突き出す。
「――<テスタメント>――」
囁くような呼びかけに、サイファーの前に光が集う。
光の粒子は瞬く間に物質化し、板状のなにかを生成していく。
紡がれたものは、ひと言で表すなら棺だった。厚みこそ棺には足りないが、少女の体くらいすっぽり覆い隠してしまう大きさだ。盾と呼んでもいいかもしれない。
表面には見たこともないような精緻な紋様が刻まれているが、いかなる意図の意匠なのか読み取ることはできない。強いていうなら、血管に似ているだろうか。
――今度はなにを召喚したんだ……?
サイファーはその盾を握ると、しかしその先端をワイバーンに向けるように構える。
とても身を守る行為には思えない。
そうして、ミコトは自分の思い違いを思い知らされた。
「<テスタメント>照射します」
パカンと、棺のような盾が中央からふたつに割れ、その隙間に強大な雷が灯る。
落雷のような轟音とともに放たれたのは、光の槍だった。
――これは、<
ただ、ミコトの銃など比較にもならない高度な代物だ。
大気を焼き、電光をばらまいて放たれた光は、狙い違わずワイバーンの巨体を貫く。
いや、それたけに留まらずワイバーンを貫いてなお止まらず、空の雲にさえ巨大な穴を穿った。
直後、小さな小屋ほどもあろうかというワイバーンの巨体が爆ぜた。
ワイバーンだったものは真っ赤な破片となってバラバラと落ちていく。
「はわ、はわあぁ……」
あまりに凄惨な光景に言葉にならない声をあげていると、光を放ったそれはブシュウッと蒸気を上げて再び盾の形に戻る。
「驚異の消滅を確認。引き続き小型個体を掃討します」
そう言って、今度は森林の上を飛び交う幼翼竜の群れに狙いを定める。
「待って待って待って滅ぼすつもりっ?」
「それがわたしの存在証明です」
「そんな物騒な存在証明しないでよぉっ!」
そう叫ぶと、少女はさも驚いたようにまばたきをした。
「では、わたしはなんのために存在すればいいのですか?」
「それはわからないけど……えっと、もっと楽しいことのために生きたらどうかな?」
銀色の髪をしゃらりとゆらし、少女は困ったように小首を傾げる。
「〝楽しい〟とはどういった状態を定義しますか?」
「えっ? なんていうかこう、わくわくしたり、ドキドキしたり、心地良かったり……そういう感じ、じゃないかな?」
少女は小さく頷く。
「楽しい=わくわくする。ドキドキする。心地良い――認識しました」
それから、自分の胸に手を当てて少女は無機質につぶやく。
「マスター。胸がドキドキしています。わたしはいま〝楽しい〟ですか?」
「そう……なんじゃない、かな?」
それは単に戦意が高揚しているというか興奮したせいではないかと思ったが、ミコトにそれを指摘する勇気はなかった。
まあ、間違ってはいないような気がするし。
――でも、ちゃんと心臓は動いてるんだ……。
液体で満たされた柱の中に閉じ込められていたのだ。本当に生きているのか不安だったのだが、どうやらちゃんとした人間のようだ。
なんとか自分の足で立てるようになって、ミコトはサイファーに向き直る。
それから、手を差し出す。
「また助けてもらっちゃったね。ありがとう」
「はい、マスター」
それからじっと差し出された手を見つめ、やがて怖ず怖ずと握り返してくる。
「これで、合ってますか? マスター」
「う、うん。合ってるよ」
たったいま翼竜を粉砕した少女とは思えぬ反応に、どういうわけかミコトも嬉しくなった気がした。
――そういえば女の子の手を握るのなんて、初めてな気がする。
迷子の子供の手を引いたことくらいならあるが、同年代の少女というのは初めてで、なにやらうろたえながらもミコトは歩いていくのだった。