プロローグ

 空から、燃える星が落ちてきていた。

 夜の空を流れる星は幸運の兆しだと言われている。それを目にすることができた人は望みがひとつだけ叶うという、他愛のない言い伝えだ。

 だが、吉兆と凶兆は表裏一体というのが世の常である。

 美しい流星は、ごく希に地上まで落ちてくることがあるという。

 その瞬間、流星は幸運の兆しから死の鉄槌へと変貌する。

 激しく燃えさかる、この星が落ちた場所にはなにも残らない。

 どんなに優れた魔術師も、どこまで鍛えた戦士も、どれほど強固な城塞も、この天から落ちる災厄から生き延びる術はないのだ。

 ゆえに、落ちる星は〝神の裁き〟と呼ばれている。

 雷以上に抗いえぬこの力は、神がそう定めた死なのだと。

 そんな燃える星が、自分に向かって落ちてきていた。

 ――逃げなきゃ……。

 心がそう訴えても、圧倒的な〝死〟を前にした体は一歩も動いてくれなかった。

 だって逃げる場所など、どこにもないのだから。

 そんなときだった。


「マスター。質問があります。〝恋〟とはなんでしょうか?」


 夜の泉で頭まで水に濡れた少女が、小首を傾げてそんなことをつぶやいた。

 じっと見つめてくるのは浅瀬の海のように透き通った翠の瞳。ツンと尖りながらも小さな鼻。薄い唇は桃色で、腰まで流れる淡い銀色の髪。そんな髪が絡みつくのはどこかの軍服のような奇妙な衣装――彼女が言うには『ジョシコウセイ』という組織の正装なのだそうだ――で、どこか浮世離れした容姿だった。

 歳のころは十五くらいだろうか。ミコトと同じくらいである。

「いまっ? それ、いま聞かなきゃいけないことなのっ?」

「はい。記憶領域破損データの修復が完了しました。断片的な情景ではありますが――」

「待って? あれ見て? 星が落ちてきてるの! 僕たち死んじゃうんだよっ?」

 涙を浮かべてそう訴えると、少女はようやく地獄のような空を見上げてくれた。

「対象を解析。静止軌道を逸脱したスペースデブリと断定。マスターの驚異と認識――撃破します」

「……え?」

「――<ウェルテクス>起動――」

 少女の背から歪な翼が突き出す。頭上には光でできた円環が浮かぶ。腕を伸ばすと、まばゆい光があふれてその腕を包み込んでいく。

 そうして現れたのは甲冑……ではなく、鋼でできた槍のようなものだった。

 ような、というのはその先端に刃はなく、後方には魚類のヒレのような板がいくつも突き出しているからだ。とうてい、槍そのものの形状ではない。

 騎兵の突撃槍に似てはいるが、その太さは人の胴ほどもある。表面には血管のように緑の光の筋が走っていてどこか有機的な形状だ。そもそも右腕そのものを覆うようにして出現したそれは槍のように振り回せる形状ではなかった。

 その槍からいくつもの管が飛び出し少女の背中、正確にはその翼に突き刺さる。

 翡翠の瞳に、魔法陣のような光が浮かんだ。


「対象をロックオン。<ウェルテクス>チャージ完了――発射ファイア


 ささやくような少女の呼びかけに解き放たれたのは、だった。

 矢でも弾丸でも雷でもなく、光だ。

 ミコトの知る限り、これにもっとも近い現象は竜の吐息だろう。

 それも赤竜の焔や青竜の水の吐息ではない。黄金竜が放つ光の吐息である。人が操る魔術風情ではとうてい届き得ぬ力の頂。万物の摂理を焼却する最強の吐息だ。

 光の反動で槍が跳ね上げられ、踵が地面を抉って少女の体が後ろに押し出される。

 吐息のごとき光は、音よりも早く落ちてくる燃える星を狙い違わず貫いていた。

 そして、弾けた。

 夜の空が昼のように明るくなり、パラパラと塵のような光が降ってくる。

「ほ、わあぁ……?」

 〝神の裁き〟が人の手によって粉砕される様に、ミコトはそんな間の抜けた声をもらして立ち尽くすことしかできなかった。

「対象の消滅を確認。任務完了しましたマスター」

「えっ、え、あ、はい……」

 少女は無機質な声でそう報告すると、その手と背から槍と翼を消失させる。破れたかのように見えた衣服も、乱れのひとつもない。

「………………」

「え、え?」

 それから、なぜか銀色の頭頂部をぐりぐり押しつけてくる。銀色の髪が空の炎に照らされ、可愛らしいつむじを中心に光の輪が浮かんで見えた。

 ――もしかして、褒めてほしいのかな……?

 目の前のできごとが現実と受け止めきれないミコトは、半ば条件反射のようにその頭を撫でてあげた。

 初めて意識的に触れた女の子の髪は、自分の髪とは明らかに異なるものだった。

 ――え、髪? なにこれやわらかぁ……。

 滑らかでやわらかく、なんだか花のようないいにおいがした。

 思わず夢でも見るような心地に目を細めて、そこでミコトはようやく我に返る。

「ハッ、これは違くて……ッ」

「……?」

 キョトンとする少女に、しかしミコトはまず自分が言わなければいけない言葉を思い出した。

「えっと、助けてくれてありがとう。すごいねサイファー」

「はい」

 なにやら誇らしげに吐息をもらす少女の頬は、どこか紅潮しているように見えた。

 ――どうしよう。ちょっと感じたことのない感情がこみ上げてくる。

 それは庇護欲だろうか――実際に庇護されているのがどちらかというのは置いておいて――それとも親愛だろうか。

 顔が火照って、心臓が早鐘を打っていた。

 うろたえるミコトをよそに少女は満足したようで、小さくうなづく。

 そして、また同じことを問いかけた。


「それでマスター。〝恋〟とはいったいなんでしょうか?」


 ――そんなの僕も知りたい……。

 答えることができなくて、ミコトは紅蓮の夜空を見上げる。

 少女の名前はサイファー。本人が言うには、厄災戦争の時代に生まれた最終兵器なのだそうだ。そんな少女のいまの関心は、どういうわけか〝恋〟とやらにあるらしい。


 ポンコツ最終兵器は恋を知りたい。


 ことの発端は、前日の昼のこと――

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