第一章 英雄夫婦の離縁バッドエンド(6)
◇
司令部に到着し、軍議に間に合ったことを確認したアルマは人心地つく。
軍服の懐にはきちんと離婚届がある。まだ役所は始業していないので、雑務の間に隙を見て抜け出すのがいいだろう。エリーゼの記入した箇所だけ異国の言語かと思うような悪筆だが、これで押し切るしかない。早々に離婚するためだ。
急ぎ足で温まった体が、やがて落ち着いた頃、施設内に足を踏み入れた。
「……む」
どうにも妙だと、すぐに肌で感じる。
司令部の空気がピリついている。職務中の軍人たちもみな表情が硬くなっており、いつも以上に精力的に活動している――肩肘を張り過ぎているようにも映るほどだ。
足を止めて何事かと見回していると、遠目から小走りで駆けてくる人影。
「あっ、アルマくん。こっちこっち」
「ホワイト中将……。この雰囲気、なにかあったのですか」
「それがね、大変なんだよ。ひとまず、ついてきて!」
ただ事ではない事態を裏付けるような慌てぶりでホワイトが腕を引っ張る。
いつにない強引さだ。立ち話もままならず案内されたのは中将の執務室だった。
すぐさま扉に手を掛けたホワイトが、直後、思い直したかのようにアルマへ向き直る。
「ホワイト中将?」
「……いや。ぼくとしたことが、気が急いていたね。実は、さるお方が部屋でお待ちになっている」
「さるお方とは」
「それは言っちゃ駄目だって、口止めされているんだ」
「? なぜです」
「そのほうがびっくりするだろう、ってさ」
「……ずいぶん茶目っ気のある人物のようだ」
皮肉ったアルマが口端を持ち上げる。
「ですが、驚くことになると先んじて言われては、こちらも気構えましょう。どこの誰かは存じませんが、試すつもりなら望むところです」
「く、くれぐれも失礼のないようにね?」
念押ししてから、今度こそホワイトが扉を開いた。
何が来ても驚くまいと肝を据わらせておいたアルマは物怖じせず室内に入る。
はたして、そこには身辺警護の兵で傍らを固めた白髪交じりの男性がいた。
老体が身にまとう軍服の肩部には、軍事国家フェデンにおける頂点を指し示す階級章――この国に籍を置く人間であれば知らないはずがない人物だった。
こちらに気づくと、彼は相好を崩し、気安く片腕を持ち上げてくる。
「来ちゃった」
「ガ、ガルエデン閣下!?」
さるお方、その正体に理解が至ったアルマは驚愕を露わにする。
そんな反応を目敏くも見逃さなかったホワイトが小声で呟く。
「ね。びっくりしちゃうよね。アポ無しで急に来ちゃうんだもんなあ」
「道理で、みな心中穏やかじゃいられないはずだ……」
西方司令部全体を浮足立たせていた空気の原因に得心がいった。
そんな緊張感を生み出した張本人であるガルエデンは、朗らかな笑みを浮かべる。
「久方ぶりだな。アルマ中佐、息災だったかね」
「はい。おかげさまで」
「きみの評判は中央の総帥府まで届いて来るよ。よく働いてくれている」
「恐縮であります」
「がはは! そうかしこまるな。肩の力を抜くといい」
「は、ははは……善処します」
バシバシと肩を叩いてくるガルエデンに、アルマは渇いた笑みを返した。
国軍総帥という人は相変わらず、肩書きの割に異常なほどフレンドリーだ。身から活力が迸っているとでも言おうか。高齢を思わせないほど、言動に若さが感じられる。
そのおかげで、周囲の若輩が気後れしているのも事実なので、色々と恐ろしい。
「ふむ。では早速だが、話があるのだよ。――我々だけで」
ガルエデンは警護兵に目配せして退室を命じる。それからアルマとホワイトの二人に対面の長椅子へと腰かけるよう促した。
その真意を探るようにアルマが尋ねる。
「人払いが必要な話、ということですか?」
「うむ。こちらも急を要するゆえ、ジョンポートには別件で足を運んだのだが、ついでに寄らせてもらった」
「……総帥自らが動かれるとは」
「この懸案は人任せにはできんと判断したまで。これなら邪魔も入らん」
ガルエデンはフェデン国軍のトップで現政権を掌握する立場にもいる。そんな傑物にこれほど警戒を強めさせる『何か』が実在していることは、口ぶりから明らかだった。
事の真剣さを認めたアルマが表情を引き締める。
「何が起こっているのですか」
「これを……見るがよい。すぐにわかる」
懐から書状を取り出したガルエデンは、それを机の上に滑らせる。
アルマは流れてきた書状を掴んだ。泰然とソファに背を預けるガルエデンを一瞥し、その思惑を暴く糸口を見つけるためにも書面に目を通す。
「……!?」
目を疑う内容が、そこには記されていた。
冷や汗を首筋に伝わせ、思わず眼前のガルエデンに苦言を呈する。
「何をお考えなのですか。こんな命令――……ありえません」
「命令? ちょちょ、失敬するよ」
狼狽するアルマの横合いから、ホワイトが書面を借り受けた。
眉を顰め、腕を伸ばして焦点を合わせようと距離感を探るため、空気が間延びする。
「えっと、んーと、どれどれ…………とと、ここか」
老眼で難儀しつつも、ようやく書状の文字列を追い始める。
「『国軍中佐アルマ・ストレン殿。貴殿は妻、エリーゼ・ストレンとの離縁を一切禁止とする。ダメったらダメ』――って、これ総帥命令だ!? えぇ嘘ぉ、本当に!?」
「……いかにも」
重々しく首肯する最高権力者の面相に、ふざけている気配は微塵もない。
これも茶目っ気の産物であればどれほどよかったことか。眉根を寄せるアルマは納得がいかないと表情で物語る。
「こんなことが軍令だなんて……離婚したら軍令違反、ましてや軍法会議にかけられるなど御免です。第一、ここまで過剰な対応に及ぶ理由がわからない。たかだか一夫婦の離婚ではないですか」
「ア、アルマくん、相手は総帥だよ。落ち、落ち着いて……!」
「よい。中佐の言い分も理解は示せる」
理知的な声色の端々で苛烈さが滲むアルマを、ホワイトが宥める。いっそ気の毒なほど蒼白な顔色をしている彼に、助け舟を差し向けたのはガルエデンだった。
「だが見解の相違もある」
「……それはいったい」
「本当にわからないかね? きみら以外、たかが一夫婦の離婚だとは誰も思っておらんのだよ」
深く肺の空気を絞り出すガルエデンは、横目にホワイトを一瞥した。
意図を汲んだホワイトは逡巡を挟みつつ、やがて項垂れるように同調する。
「そうだね。それは、ぼくも総帥と同意見だ」
「ホワイト中将……」
「ごめんね、アルマくん。ぼくも総帥も、きみら夫婦の東西平和への影響力を高く評価している。当事者のきみたちに実感は伴わないかもしれない、でもこれはその証左だ」
「……」
「重ねて言うよ。終戦を迎えたばかりの東西がおおむね安定しているのは、ストレン夫婦の存在が大きい。夫婦ともに英雄という国家的な功労者だからね、夫婦の離縁は両国の対立という憶測を招きかねない。逆に、夫婦が良縁だと国民が信じているから、両国の 融和に信頼が発生しているのが現状だ」
「…………」
「だからどうか、早まった真似はしないでほしい。結婚式の仲人を任せてくれたことを引き合いに出すわけじゃないけど、ぼくの顔を立てると思って頼むよ」
訥々と慎重な言葉遣いで説得するホワイトのおかげで、アルマも冷静さを取り戻す。
黙考し、親心にも近い温情に浸りつつ、やがてふっと口元を緩めるアルマ。
一転して穏やかな相貌は、矛を収めてくれたと確信させた。
同じく頬を弛緩させるホワイトに対し、アルマは沈黙を破った。
「――嫌だ!!」
「えええええええええええ!?」
端的に拒否したアルマに、予想を裏切られたホワイトが絶叫する。
上官をのけぞらせたことなど気にも留めず、アルマは揺るぎない決意を瞳に宿す。
「僕とエリーゼの離婚が東西対立を煽るというのなら、その後のケアにこそ全力を注がせていただく。前にも申し上げた通り、第二の東西戦争は引き起こさせない」
「いやでも……そうは言ったってね、さあほら……」
「エリーゼとは、もはや終わったのです。この通り、関係の修復も不可能かと」
断言するアルマが、懐から取り出した離婚届を見せつける。
口ごもっていたホワイトも、それを視界に収めると、完全に勢いを失った。書面を凝視して、ただ一言、「エリーゼくん、字汚いね……」と悲しげに呟いた。
そこへ、有無を言わさない語気が割り込む。
「それでは困るのだよ」
ガルエデンが眼光を飛ばすと、アルマをして息を呑む。
「フェデンは先の東西戦争でずいぶんと消耗した。世が平和なうちに復興を進め、失われた国力を取り戻さなくてはならん。前時代のウェギス国と同様、我々を切り崩そうという近隣諸国との小競り合いは依然として続いているのだ」
「……」
理路整然とした言い分に反論できない。アルマは私情が勝っていたことを暗に認める。
卓上に戻ってきた総帥命令の書状が無視できない存在感を放っていた。
「こうして根回しでもしないと、きみらは何をしでかすかわからん」
こればかりは本気で悩ましいと言いたげにガルエデンが嘆息する。
と、あることに気づいたアルマが眉を持ち上げる。
「きみたち……ということは、エリーゼにも何かを差し向けるおつもりですか?」
無茶な軍令でアルマを封じたところで、エリーゼに対しては拘束力を発揮しない。
仮にエリーゼが離婚を強行しようと独自に画策し、そのとばっちりでアルマが軍法会議で裁かれることが自明でも、彼女が暴走を自重するとは考えにくい。
怪訝に尋ねるアルマに、ガルエデンは深くうなずいた。
「うむ。――……そろそろ到着する頃合いだ」
意味深にガルエデンが宣った。まさにその直後だった。
ドンドン、ドン。
執務室の扉からノッカーを叩く音が響いた。
思わぬ来客にアルマはホワイトと目を見合わせる。再度ノッカーが激しく鳴らされた。
「あっ、ちょ、強く叩かないで。しばしお待ちを!」
腰を持ち上げたホワイトが扉へと歩み寄る。
「はいはいはい。どちら様……や、きみは? ああ、へえ、お目付け役……なるほど、それでわざわざ……」
扉の向かい側に立つ人物から、ホワイトは何事か聞き受けていた。
しばらくすると室内へ向き直ってガルエデンに尋ねる。
「閣下、ちょうど今――」
「構わん。通したまえ」
「ふぁまだ何も言ってな……いえ、わかりました……」
食い気味のガルエデンに狼狽しつつもホワイトは従順に来訪者を招き入れた。
現れたのは――ひとりの少年。
年齢は十代半ばほど。ただ、身にまとう雰囲気は一般市民のそれとは違う。
執務室に踏み込んできた少年が、一礼する。
「はじめまして、フェデン国軍の皆さん。俺はロキ・ハインケル」
少年……ロキの一声は、たちまち室内の空気を一変させた。奇妙な雰囲気の男だ。
よく回る舌で流暢に、萎縮とは無縁の堂々たる口上を述べる。
「ウェギスでは君主警護隊の情報部員を務めていました。ですがこの度、女王陛下から勅命を賜り、英雄夫婦の離婚を阻止するための『監視官』に任命されたのです」
「……監視官だと?」
「ええ。アルマ・ストレン中佐。あなたがた夫婦の行動は逐一、俺の雇い主――つまりは女王陛下に報告させていただきます。有事の際、ウェギスの国家権力をもって、ストレン夫婦の離婚を速やかに妨害できるように」
「……」
「ご理解いただけましたかね。ウェギスも『平和の象徴』を失いたくはないのですよ」
饒舌に宣うロキを、鋭利な眼差しでアルマが観察する。
上背はアルマ以上に高いが、線が細く逞しさとは程遠い。
暖色系の明るい髪、その左サイドを二本のピンで留めている。自信に満ちた瞳と薄ら笑いを掲げ、どこか掴みどころのない飄々とした雰囲気。
臙脂色のシャツは襟元が緩く開かれ、裾をパンツの外に出して着崩されていた。ネクタイこそしているものの、気持ち程度に締められているだけだ。
羽織っているジャケットの裾も腕にまくり、やはり軽薄な印象が拭えない。
一言でいえば、そう――……
「胡散臭い男が来たと、そう思われていそうですね」
「……!」
考えを見透かされて驚くアルマに、ロキは肩をすくめる。
「まァ無理もない。お気を悪くさせたなら、ウェギス国を代表して謝ります」
「そんな規模で礼節を欠いてはいないから。自国を安く見積もり過ぎだろう……」
どこまで本気かわからないロキに、窘めるような口調でアルマが言う。
すると、今度はロキのほうが意外そうに目を丸める。
「かの『東の英雄』がどんな人物かと思えば、思いのほか優しいんですね。これほど温厚だったとは思いませんでした。いやはや、とても信じられない。本性を見せてください」
「想像上の僕が狂暴すぎない?」
「戦時中の武勇はあまりにも有名ですから」
「ウェギスでどんな脚色がされているんだ……」
胡乱な笑みのロキに対し、頬を引き攣らせるアルマ。
その様子を見守っていたガルエデンが一笑する。
「そこなハインケル君の言う通り、彼がきみら夫婦のお目付け役のひとり{ひとり=傍点}だ。いざというときのストッパーだな。とはいえ、存外に波長が合うようで、なによりじゃないか」
「だそうですよ、アルマ中佐。さぞ光栄でしょう」
「なんで光栄だと思うのが僕のほうなんだ。逆じゃないか?」
「正真正銘の英雄ですもんねー。かっこいいなー。すごいなー」
「少しは気持ちを込めて言ったらどうかね」
「思ってもないこと口に出せって言うんですか!」
「……急に怒るし、テンションの緩急についていけない……」
引き気味のアルマに反し、にやにやと憎らしい薄ら笑いを浮かべている。
その一部始終を眺めてホワイトとガルエデンはひそかに「やっぱり相性いいよね」「もうすでに仲良さそうです」と愉快そうに囁き交わしていた。
――そんなとき。
さながら外敵を察知した野生動物のような機敏さで、アルマが背後を見やる。
ロキは疑問符を浮かべた。視線の先には扉があるが、特に異変はない。
そう思った矢先、微かに届いてきた軽快な音。
規則的に響くそれは、段々と大気の振動を強めていく。
やがてロキにもわかった。これは人間が走っている足音だと。
まさかとは思いつつも扉の正面から退くと、その判断が功を奏した。
蝶番が弾け飛ぶかと思うような勢いで、執務室の扉が開け放たれる。
悲惨な軋みをあげる扉に、たまらずホワイトが叫んだ。
「あああ乱暴に開けないで。壊れちゃう!?」
「――え? わわっ、すみません。ごめんなさーい!」
つむじ風のごとく執務室に舞い込んできたのは、ひとりの少女。
身体の動きに合わせて溌剌に跳ねる黒髪のボブ。紫がかった前髪の一房が、爛々と輝く同系色の瞳と相まって深く印象を刻む。
全力疾走の直後で紅潮した頬に、汗で濡れて張り付く髪。
手櫛でそれを整える少女は、フェデン国軍所属の証である鷲をかたどったピンを身に着けていた。アルマが記憶を探る限り、ここ西方司令部では見ない顔だ。
肩部から指先まで惜しみなく露出する袖なしのブラウス。軍服は袖を結んで腰元に巻きつけ、軍部に導入したばかりの新制服でもあるスカートから、血色のいい脚部が覗く。
ロキとそう変わらない年代の少女は、掌を額まで持ち上げて敬礼する。
「本日付で中央から西方勤務になる、オリビア・フォーチュンです。まさかあのアルマ中佐のお傍で働けるだなんて感激のあまり走ってきちゃいましたっ!」
「…………」
眩いほどに瞳を輝かせるオリビアに、室内の全員が気圧されていた。
アルマは呻くように声を絞り、少女の辞令に通じているはずのガルエデンに訊く。
「ひょっとすると彼女もロキと同じ……?」
「うむ。私が任命したフェデン側の『監視官』だ。ようやく役者が揃ったわけだな」
何を企んでいるのやら、ガルエデンは不敵に笑う。
心底嫌な予感を覚えるアルマだったが、とうに外堀は埋められしまった。
もはや走り出した策謀を止めることは叶わず、満を持してガルエデンが嘯いた。
「夫婦を元の鞘に収める計画、題して『マジでLOVEする仲直り作戦』」
「……………………………………………………………………………………」
表情の死んだアルマに、その重厚な声はがらんどうのように響いた。
これを悪夢と呼ばず、なんと呼ぶだろう。
「……は?」
小声がやっとの抵抗だった。
立ち尽くすアルマをよそに、周囲は勝手な結束を強めていく。
「はハ。女王陛下にいい土産話ができるかな。あ、オリビアちゃんもよろしく!」
「はい、こちらこそ。ところで、あなたは誰でしょうか?」
「……ねえ扉、壊れてる……ああ取れちゃった!?」
挨拶を交わすロキとオリビア。その背後ではホワイトが板に成り下がった扉を抱えて慌てふためいていた。
感情が振り切ったのか、神経が擦り切れたのか、むしろアルマは落ち着いてきた。
そして、胸のなかではっきりと誓う。
(――……よし、抗おう。全力で)
愛用の手袋が傷むほどの握力で、拳を固く握りしめた。
表向きは冷静なものの、ふつふつと心で闘志が湧き上がる。
そんなアルマに、泰然とした態度のガルエデンが何気ない風に口にした。
「それからアルマ中佐。彼らは『監視官』だが、同時に夫婦の護衛でもある」
「はい。……はい?」
「正体不明の武装勢力が、きみら夫婦の暗殺に向けて動き始めているのだ」
ガルエデンの猛禽じみた視線に射抜かれ、アルマの頭の中が白く染まる。
徐々に意味が浸透するにつれて、表情が動揺に崩れていくのだった。