第一章 英雄夫婦の離縁バッドエンド(5)
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フェデン西方軍司令部の所在地でもある、西部の中心都市ジョンポート。
戦時中にはウェギスから深い侵攻を受け、軍の施設や一般の居住区にも広く被害を受けた。しかし、現在はその過去を思わせないほど急速に復興が進められている。
早朝。白い朝日に染められるジョンポートで真新しさを醸す、小奇麗な一軒家。
軍部の佐官として相応の収入のあるアルマは、そこでエリーゼと暮らしていた。
二階にある寝室。もとは夫婦でひとつのベッドを共有していたが――生活は変わった。
「…………」
時針が午前六時を指すと同時、規則的な寝息をやめ、アルマが瞼を持ち上げる。
寸前まで眠りに落ちていたのが嘘かと思うほど冴えた顔つきである。常に自身を律しているアルマは、いっそ人間味が乖離したような規則正しさで生活を送っていた。
と、いつも通りに身を起こそうとした矢先である。
――ガゴォ!
木製のベッドが悲鳴さながらの異音を立てて壊れた。
途端に生じた勾配により、アルマは床へと放り出され、転がり倒れる。
「…………身が持たん……」
仰向けから上体だけぷるぷると起こし、辟易と呟いた。
アルマのベッドは、一昨日の晩から――半壊した状態で使われている。
無論、それには訳がある。実を言うと、噴水広場で夫婦関係が決裂した一昨日から、自宅でもエリーゼとの衝突が絶えず、プライベートスペースを巡り争っていたのだ。
なかでも揉めたのは、一つしかないベッドの利用権である。
そう、半壊したベッドは元々倍の広さを有しており、以前はそこにエリーゼと二人で就寝していた。しかし、喧嘩中の相手と身を寄せ合うことなどできるわけがない。
互いにベッドを利用する権利を主張した。そして紛糾した口論の末、業を煮やしたエリーゼが愛剣で真っ二つにベッドを叩き切ってしまった。
こうなればやむを得ず、寝室も別々に分けることにして、アルマとエリーゼは左右片側しか支柱がない不格好なベッドを使う他になくなった。そうまでして一緒に居たくなかったのだから仕方ない。
失われた支柱の代わりに、手頃な高さの家具を差し込んで寝床を水平に保っているとはいえ、固定されていないために動くとこう{こう=傍点}なってしまう。
「新しい寝具を仕入れるまでの辛抱だ………耐えろ僕、戦地よりは上等だぞ……」
追い詰められた表情のアルマは自らを鼓舞しつつ、気を取り直す。
今日は早くから軍議の予定が入っている。時間には余裕があるが、万が一にでも遅れるわけにはいかない。身支度に着手し始めた。
冷水でシャワーを浴びた後、ズボンを穿き、皺のないシャツに袖を通す。ネクタイを締めると鏡の前に立ち、不格好な箇所がないか目を光らせると、納得がいったように頷く。
身支度が完了したわけではないが、次いで朝食の用意をする。
加熱した鍋にベーコンと卵を落とし、その脇でバケットも焼いておく。
キッチンに香ばしい香りが立ち込め始めた、そんなとき。
――ガゴォ!!
二階から耳なじみのある騒音が響いた。
「……起きてくるな、これは」
天井を仰ぎ、苦々しく呟く。
アルマの予測は数分後には現実になった。
「痛ぅ…………いい匂いね……」
乱れた金髪のうえから頭に掌を添え、エリーゼが姿を見せる。
アルマと同様、寝床の構造的欠陥に難儀させられているようだ。寝起きのせいか痛みのせいか涙目で、エリーゼは香り高い朝食に浅ましくも誘い出されていた。
朝が弱い彼女は例のごとく足元がおぼつかない。おまけも寝相も悪いことをアルマは知っていた。現に寝間着のボタンがいくつか外れ、そして掛け違えている。
几帳面なアルマからすれば信じがたい様相を呈していたが、注目すべきは他にある。
「……」
無表情で彼女の左手をじっと眺めた。
見紛うことなき剣である。自宅で起き抜けに帯刀する理由が見当たらないが、エリーゼは当然のように凶器を引っ提げて歩み寄ってくる。
そんな彼女の視線は、食卓に並べられた料理に釘付けだった。
「…………」
「…………」
言いたいことはあるが、安易に言葉を発せられない。
間合いを測っているのだ。もちろん物理的な話ではない、心理的な問題だ。
アルマは何事もないようにバケットを千切って口に運ぶ。気安く会話に踏み切らない代わりに、細めた双眸でエリーゼをつぶさに観察した。
一言も発せず、緩慢に瞬きを繰り返す彼女もまた、アルマと同じく一歩引いた距離感を意識している。そのように伺えた。
「…………すぅ、すぅ」
ふらりと揺れるエリーゼの唇から、寝息が漏れた。
アルマが真一文字にきゅっと唇を引き結ぶ。――うん、眠気に耐えかねて口を開く余裕がなかっただけかも、と認識を改めた。
ともかく、放置していては移動の際に邪魔になる。仕方なく声を掛けた。
「おい、そこで寝るな。起きたまえ」
「――……。寝てないわ」
見てくれだけは毅然とした態度を保つエリーゼが、半端なく鋭い目つきで反論する。
余人なら震えあがる眼力だが、アルマの目にかかれば、それが半端なく眠そうなだけだと看破できる。怯む理由がなかった。
「……」
多少眠気がマシになったのか、エリーゼがこの場から離れてキッチンに移動する。
そこに置かれていた片手鍋を一瞥した。
アルマが朝食の調理に使用したものだ。熱もまだ抜け切っていない。手を伸ばしたエリーゼが鍋蓋を持ち上げ、その内側に視線を落とした。
中身は空だ。
「――……」
余談だが――離婚報告をした昨日より以前は、二人分の朝食の準備はアルマが担っていた。別段、彼女の料理の腕が低いわけではない。むしろ主婦として家庭的な技術は申し分なかった。ただ、見ての通り朝が弱いので、朝食はアルマが手助けに回ったのだ。
もっとも今日ばかりは、その限りではなかったが。
「……スゥー……」
エリーゼが喉元で細く空気を絞る。
飢えた山猫がかちかちと歯を打ち鳴らすように、愛剣の白刃を鞘から晒しては戻す。
気迫に当てられたのが一般人なら、心当たりがなくとも命乞いを始めたことだろう。だが忘れるなかれ、彼女はただ朝食を食い損ねただけである。
恐るるに足らない。アルマは黙々と食事を続けた。
彼女の考えていることは容易に推察できる。朝食を自ら用意するのは簡単だ、しかし心底気だるい。いっそ奪ってしまおうかと、そんなところだろう。
実に短絡的だと、アルマは胸中で一蹴した。
そのときだ。キッチンから油が熱せられて弾ける音が届く。
咄嗟にそちらを見やった。
「……っ!?」
驚くことにエリーゼが片手鍋を振るい料理していた。あまりに猛々しい後ろ姿で。
先の眠気はどこへやら、得体の知れない執念が熱気と化している。
アルマは呆然とそれを眺め、冷や汗を伝わせた。
早朝にこれほど活動的なエリーゼは今まで見たことがない。どう足掻こうと冬ごもり前のカエルじみた鈍足ぶりから脱却できまいと侮っていた。
瞬く間に、向かいの席へ料理が並べられる。
冷蔵庫に残っていた高価な食材を惜しみなくつぎ込み、加減抜きの豪勢な朝食が輝くような存在感を放っている。つい生唾を飲んでしまいかねない。
着席したエリーゼは、精一杯に眠気を噛み殺しながら――
「……ふっ」
勝ち誇った笑みを見せつけてきた。
ガタン!と椅子を倒す勢いでアルマが立ち上がる。
「ええい、うっとうしい! 何だ、僕への当てつけのつもりか。自分だけ上質な食材を使って、あまつさえ朝食くらいその気になれば自分で作れると、そう言いたいのかっ!」
「……的確に言い当てられると、それはそれで気味が悪いわ」
「理不尽だな!? きみの考えが浅はかで、わかりやすいだけだ!」
「む……言ってくれるわね。でも見くびらないことよ。私はまだ本調子じゃないもの、きっと目にもの見せてやるわ。…………はぁ……」
「あっ、今『調子に乗って朝食を作り過ぎた、食べきれるかな?』ってため息が出ただろう。そら見たことか、これだから後先考えない奴は駄目なんだ。見くびるための判断材料しか出揃ってないぞ。目にもの見せるのがいつになるやら――」
「ああもう、うるさいわね。食事中に騒がないで!」
ここぞとばかりに責め立てると、ついにエリーゼが憤慨した。
その怒気を浴びても眉一つ動かさず、アルマは肩をすくめる。
「おっと、それはその通りだな。きみから正しい言葉を聞けるのは貴重だ。今回は素直に聞いてあげるとしよう」
「口の減らない男……喧嘩を売っているんでしょう? そうでしょう。買ったわ!」
ひとりでに納得したエリーゼが、食卓に立てかけていた愛剣を鞘から引き抜く。グリップを逆手に握ると、振りかぶった体勢からアルマの顔面に向けて投擲した。
「おい馬鹿それは――ぬわっ!?」
流れるような攻撃にアルマも焦りの声をあげ、咄嗟に首を横に倒して避ける。
エリーゼの投げた愛剣は、軌道上にあった観葉植物の鉢を粉砕してなお勢いを弱めず、家の内壁に突き刺さった。
投擲の強さを物語るようにビィィィン……と小刻みに震える剣。
床には観葉植物やら土やら鉢の破片やらが散乱し、その被害をアルマは唖然と眺める。
それから、凄まじい剣幕でエリーゼを怒鳴った。
「家を壊すな! この考えなしが!」
「……私が言うのもなんだけど、自分の命よりも先に家の心配なのね……」
「ベッドのみに飽き足らず、目に映るものすべて壊し尽くす気か。解体業者か。きみは特異体質のおかげで、何でも簡単に治せると勘違いしているんじゃないか」
「私が治せるのは人間だけよ。何でもは治せないわ。忘れたの?」
「額面通りに受け取るな。知っているよ。今のは皮肉だ!」
「でも治癒効果を発揮できるのが本当に人間だけなのか、おかげで疑問に思い始めたわ。だってあなたの傷だって治せてしまうのよ?」
「また僕を人間扱いしていないな、貴様……どうせ鬼畜ロボとでも言いたいんだろう。芸の無いことだ」
「うぬぼれないで。この産業廃棄物が」
「さらに格が下がった!?」
「ちなみに、今のは『ファミユニ』の劇場版で、ユニちゃんの持つ一角獣の力で浄化された鬼畜ロボに追い打ちをかけた、ガラクタ島の真の支配者である鉄クズ王の台詞よ」
「しかも結局、『ファミユニ』の括りから抜け出せていなかった!? 大体、鉄クズ王って名前からしてそいつも産業廃棄物だろう。鬼畜ロボを罵れる立場か!」
「ふうん……わかっているじゃない。見直したわ。暴言は撤回してあげる」
「そしてなぜかエリーゼを諫めることに成功している……。複雑な気分だ。僕がいくら促しても引き出せなかった反省を、こんな形で実現させてしまうとは……」
「仕方がないから、散らかした床は私が片付けるわ。それでいいわね、鬼畜ロボ」
「ああ。よし、格が戻ったな。――って馬鹿か僕は。なにを受け入れているんだ!?」
一瞬でも自然体で頷いてしまった自分に、アルマはショックを受ける。
しばらく打ちひしがれていたが、そんな彼を放って、食事を中断したエリーゼはさっさとの観葉植物の残骸を片付け始める。
壁に刺さっていた愛剣も引っこ抜き、鞘に収めた。
「……新居の壁に穴を開けるなど許しがたいぞ。まったく……」
怒りを原動力に立ち直ったアルマが、調子を戻すかのように悪態をつく。
取り繕う余地もないほど落ちぶれた新婚生活だが、このまま離婚となれば、共に暮らす時間もどうせ長くはない。そう思うと、幾分か気が楽になった。
「ちょうどいい――エリーゼ、少しそこで待っていろ」
「?」
そう言ってそのまま食卓から別室へと消えたアルマに、エリーゼが首を傾げる。
床の片付けも終えたところだったので、食卓の席に座り直す。
その後、再びダイニングに戻ってきたアルマは、妻の前に一枚の書状を見せつけた。
「昨日のうちに用意しておいた。今更協議の必要もないだろうが、記入したまえ」
「……これは」
「離婚届だよ。役所に提出して公的な手続きが通れば、僕らは晴れて他人だ」
「そう。ふうん」
事務的に告げるアルマの隣で、エリーゼがグラスを傾けて唇を湿らせた。
それから、ふぅと息をつき、二人の関係性を終わらせる紙切れを手元に引き寄せる。
差し出されたペンを握り、エリーゼは紙面に筆先を置いた。
「……」
難しいことはない。いくつかの項目を埋めるだけだ。
そこで、アルマは怪訝に眉を顰める。しばらく待っても筆が動く気配がなかった。
「どうした?」
「……」
沈黙するエリーゼは、背を丸める角度を深くした。
どうにも様子がおかしい。彼女の肩に手を置き、うつむいていた顔を持ち上げさせる。
「……すぅ、すぅ……」
「――寝ている、だと。そんな馬鹿な!?」
流石に狼狽した。その後、ハッと気が付いて、彼女が飲んでいたグラスを確認する。
中身の色味は透明、香りを確認する。微かだが酒気を感じた。
家にある中でも最もアルコール度数の低い果実酒だと看破する。
「……優雅な食事を演出するために、朝っぱらから注いできたのか。そこまでするか」
返事はない。
額に青筋を浮かべ、アルマが叫んだ。
「元々、一口で眠りに落ちるほど酒に弱いだろう。どれだけ衝動的だ。生粋のバカか!」
「うぅん……ばか、は、あなた……」
「えぇい、もうそのままで構わん! ほらペンをよく握るんだ。書面を見ろ、寝るんじゃない。枠をはみ出すな! 字が雑すぎる、それじゃあ読めんだろう、あぁもう!」
日向ぼっこで温まった猫のようにふにゃふにゃのエリーゼに悪戦苦闘させられつつ、どうにかアルマは離婚届を書かせていく。
危うく軍議に遅刻しかねない時間まで、それは続いたのだった。