第一章 英雄夫婦の離縁バッドエンド(3)
西方司令部に呼び戻されたアルマは、驚きの報告を受けた。
「本当に誘拐事件だった、ですって!? それは本当ですか?」
「本当だ。ワタシも耳を疑った。だが本当に…………本当だ」
憮然とした面持ちのドグマ大佐が一層顔色を悪くしながら言い切った。
震える指先で眼鏡のブリッジを押し上げると、やたらと目が泳ぐ様が露見する。
「外務大臣のご息女と思わしき少女を目撃した憲兵がいたのだよ。直に声をかけて本人だと確認も取れたが、保護しようとした矢先に妨害を受けたらしい」
「妨害?」
「ああそうだ、誘拐犯が実在したことの証左だよ。このような恐ろしい事態に発展することを、ワタシは初めから恐れていたというのに……!」
「……む? 外務大臣の妄想だと言っていませんでした?」
「シッ! 話の腰を折るな。話を戻すが、誘拐犯は女だったと聞いた。顔の見えづらい風貌でいたそうだし、不審人物であることは疑いようもない」
「思い込みが過ぎる気もしますが……ともかく、ご息女の保護を急ぎます」
「油断するな中佐! 相手は女とはいえ、すでに何人も返り討ちにあっている。きみのことだから心配は要らないとは思うが、失敗は許されない。心して掛かってくれ!」
余裕がなくなっているドグマの叫び声はヒステリックに響いた。
――と。
最も新しい目撃情報のあった現場へと速やかに到着したアルマは、次に誘拐犯が向かったであろう場所に考えを巡らせる。
が、現場は街道だ。幾筋にも道が分かれており、手掛かりもない状況で推測は難しい。
有効なアプローチを検討するアルマは、やがてひとつの方法を閃いた。
周辺を見回して、やがて背の高い建造物を見据えると、そちらへと足を向けた。
……数分後。
目を付けた建造物の頂部に、アルマは移動を終えていた。その道程は、道なき道を驚異的な身軽さでぽんぽん跳ねて飛び移るという、運動能力に物を言わせた力業で踏破した。
「――よし。ここなら周囲一帯を十分に見渡せる」
狙い通り、街並みを俯瞰するには絶好の位置取りだ。満足げにうなずく。
現在、誘拐事件を解決すべく憲兵やフェデン兵が街中に展開されている。そこでアルマが注視するのは、街を往来する人々の流れだ。
もし誘拐犯と接触があれば、騒ぎを聞きつけ、兵士たちがそちらへ流れ込むはずだ。
アルマの目はそれを見逃さない。鷹のように眼光鋭く、全方位を俯瞰する。
やがて――……
「――!」
補足した。
遠方で、憲兵らが慌ただしく移動していく光景が映る。それだけでなく、各地で別々で行動していた兵士たちも、目指すべき目的地を確信したように迷いない足取りで移ろう。
彼らの向かう先に、誘拐犯がいる可能性は高い。
高所の突風に背を押されるようにして、アルマは手近な建物の屋上へと跳んだ。それを何度か繰り返し、地面を走るよりも格段に速いペースで目的地に向かう。
間近に迫ってきたのはフェデン西方の名所――『勇気と慈愛のつがい』。
一組の男女が剣と花束を掲げる姿をかたどった像を中心に、大きな円形を描くように鎮座する荘厳な噴水広場だ。東西の終戦記念に設計された場所でもある。
どことなく像の意匠に見覚えがあるというか、自分たち夫婦に似通った造形をしているのが披露された当初から気がかりだったが……深くは考えまいと心を閉ざした。
ともあれ、近頃は若者たちにとって恋愛成就のスポットにもなっているらしく、今のような昼時であれば少なくない大衆が身を寄せていてもおかしくはない。
だが現状そうはなっていなかった。
憲兵たちの手で民間人の人払いは済んでいると見える。噴水広場には、続々と押し寄せるフェデン兵の姿も視認できた。
そして、とうとう物々しい喧噪が耳に届いてくる。
「交戦中か!」
迅速に状況を見極め、一息に跳躍して現場に降り立った。
付近にいた憲兵が瞠目し、文字通り降って湧いたアルマを起点に驚愕が伝播する。
「あなたは…………ストレン中佐!? 応援に来てくださったのですか、心強い!」
「ああ。きみ、状況を聞かせてくれ」
暗中模索のなか、一筋の希望を見たような反応の憲兵へ、アルマが尋ねる。
緩みかけた表情を再び引き締め直した憲兵は、口早に報告をした。
「敵はひとりです。国軍の方々が戦っておられますが戦況は芳しくなく……誘拐された女の子の救出は難航しています」
「大臣の娘は、無事が確認できているのか?」
「はい。あちらのストレン夫婦像の裏手に」
「……。あれはね、僕らじゃないよ。モデルになると許可した覚えもないんだ」
「ハッ。そうでしたか、失礼しました! それと誘拐犯は――あっ、ちょうどここから見えます。ストレン夫婦像の正面に!」
「だから僕らじゃない」
渋面をつくって否定するアルマはともかく、憲兵の指さす方角を眺める。
目を凝らし、その輪郭を正しく認識して――……絶句した。
アルマ以上の上背を持つ屈強なフェデン兵が仰向けに倒れこむ。その向かい側には、掌底を突き出した構えで佇む金髪の女性が周囲を威圧していた。
つぶらな小鼻に愛嬌のある眼鏡が乗ってさえ、和らげられない冷ややかな双眸。
鮮血に濡れた白刃のような鋭い視線に、屈強なフェデン兵や憲兵たちさえたじろぐ。
そんななか、ただひとりアルマは別の意味で固唾をのんだ。
「ご覧になりましたか、中佐! あの誘拐犯、只者じゃありません。ただどことなく見覚えがあるというか、似通った風貌のものを直近で見た感覚があるのですが」
憲兵が口惜しそうに呟く。その隣でアルマも口端を引き攣らせた。
それもそのはずだ。この噴水広場にいる誰もが視界に入れている男女の像、一方の女性像と誘拐犯である女の相貌とが酷似しているのだから。
引き攣ったアルマの口端は、出来損ないの笑みを形作っていた。
「……仕事疲れが祟ったか? なぜだろう、最愛の妻にしか見えない……」
「え? なにか言いましたか、ストレン中佐殿」
小さな独り言は、周囲の耳には届かなかったようだ。
アルマは激しくかぶりを振るう。自分がエリーゼを見間違うはずがない。
たとえ、容姿が瓜二つな他人であろうと、極度の疲労が見せた幻覚であろうと、本物を前にしてしまえば偽物はしょせん偽物だと看破する自信がある。肉眼ではなく心眼で。
それこそ夫婦の愛情が為せる技だろう。得意げにフフンと鼻を鳴らすアルマを、傍らの憲兵は感服するかのように眺めた。
「流石はストレン中佐殿。安心感が違います、状況に恐れなどないのですね」
「えぇ?」
咄嗟に尋ね返すアルマ。自信が違った形で捉えられてしまった。
とはいえ、この場にいる誰よりも状況を恐れていないのは事実かもしれない。それは誘拐犯の正体にアルマだけが気づいているがゆえだが、はたして……本当にそんなことがあるのだろうか。
「なあ。憲兵のきみたち、本当にあそこの誘拐犯が誰だかわからないのか?」
「ええ、我々一同、喉元までは出かかっているのですが、皆目見当つきません」
「そうか。ならば、どうかなさっているのは、きみたちさ。なんなんだ憲兵、顔面の識別能力が赤ん坊並みじゃないか。ともすれば、いないいないばあが現役で通用しそうだ」
「――よかった。ストレン中佐。早速駆けつけてくれていたか!」
背後からの声に振り返ると、いま到着したと思わしきドグマ大佐に肩を叩かれた。
事件解決を焦り、慌てて駆け付けたのだろう。荒い呼吸を整えていた。
「ふぅ、はぁ……あれが、誘拐犯か」
眼鏡を押し上げ、理知的な瞳を光らせたドグマが焦点を結ぶ。
アルマの背筋に冷たいものが走った。どんな経緯があったのかはともかく、エリーゼの立場は非常に危うい。このままでは犯罪者として捕らえられてしまう。
「あの誘拐犯どこかで…………」
「お待ちを。ドグマ大佐、これは――」
「見覚えがある気がするが、微塵も思い出せない」
「貴方も!? もういいので大佐は全員下がらせてください。僕が収拾をつけます」
頼りない味方を追いやってアルマが前進する。
英雄としての実績が周知されているだけあって速やかに前線を明け渡された。
「エリ……いや、誰だか知らないが、地上の誰よりも美しいそこのきみ、そこまでだ! 落ち着きたまえ!」
彼女の正体が周囲にバレないよう、名前を伏せて声高に呼びかける。
人の波を割って現れた彼の存在に気が付き、エリーゼが目を丸くした。
「えっ? あぁ……びっくりした。腰が抜けそうなくらい格好いい紳士が現れたかと思ったら、なんだ、アルだったのね。私の旦那さんに勝るとも劣らない最高の男性が、この世に二人と存在するのかと思って驚いてしまったわ」
心に決めたパートナーがいるにも関わらず、不覚にも心奪われかけたと、そんな軽薄な考えを抱かずにすんでエリーゼは胸を撫で下ろしていた。
生温かい眼差しで、アルマが微笑を掲げる。
「ふふ。夫婦だけあって、似たような考えをするものだな」
「その口ぶり、もしかして、あなたも?」
「ああ。きみがいるはずないと一瞬思ったが、これほど心惹かれる人は他にいないとね。それはそうと、僕のほうこそ驚かされた。一体全体なんだ、この状況は?」
「私は――……人助けをしていただけよ」
「……?」
大勢の人間を振り回した大騒動の中心にいながら、臆面もなくエリーゼは豪語した。
そこに後ろめたさは皆無だと、凛然とした佇まいに現れている。
詳しく聞きたいところだが、長話していては周囲に不審がられてしまう。もうすでに、誘拐犯を取り押さえないアルマに対し、兵士たちが怪訝な眼差しを向け始めていた。
悠長にしている暇はない。アルマは己の責務を果たそうとする。
「……すまない。もっときみと話したいところだが、僕は為すべき任務がある。きみが連れていた子どもはどこにいるんだ? 早急に、その子を連れ戻さなくては」
「ううん、それはできないわ。ニナのことは、後で私が責任を持って帰すから。悪いのだけど、あなたは周りの兵士さんたちを帰らせてくれない?」
「ん? いやいや、それは無理だ。任務だと言っただろう」
「……うん?」
エリーゼが首を傾げる。
アルマもそうだが、頼みを断られるとはお互い想定していなかった。
それから、言葉不足を補うためにエリーゼが、最も肝要な思いを口にする。
「私はね、ニナと約束したの。あの子にはあの子の事情があって、いま連れ戻されるのは駄目なのよ。私に全部任せて、いまは帰って。お願いよ」
「それは……できない相談だ。誰がどんな事情を抱えていようと、僕のすべきことは変わらない。その様子ではきみは知らないのだろうが、ことが東西和平の存亡に関わる以上、迅速な解決を遂行する」
「アル、あなた、わかっていないわ。本当に寄り添うべきは……助けを求める個人の事情なのよ」
「いいや。それは違うよ……大局を見据えて動かなくては、真に人を救っているとは言えない。個々人の願いや思いなど、捨て置くべきだ。それ以上に大きな問題が、他にあるのだから」
「――! 撤回しなさい、アル。いくらあなたでも、聞き流せない。今回だって、ニナの気持ちを無視していいはずがないのよ」
「……。子供はどこにいる? 先ほどから姿が見えないが」
エリーゼの要求には応えず、アルマは機械的に問いを投げる。
これでは埒が明かないと思ったのだ。話の雲行きがどうにも怪しい。
そして、不満げな表情で押し黙るエリーゼは、逡巡の素振りを見せた後に、
「教えられない」
と断言した。
アルマを見据える深紅の瞳は、不信感に滲んでいる。
彼女にそんな眼差しを向けられたのは久々だ。まだ面識が浅かった時期を思い出す。東西戦争の最中、互いを敵国の兵としか認知していなかった――あの時を。
……アルマは瞑目する。蘇る記憶のなかには、戦時中に幾度も抱いた己の不甲斐なさも含まれる。これだから、過去を想起するのはどうにも苦手だ。
取りこぼした命を思ったところで、未来が明るくなるわけではないというのに。
(……本当に大切なこと、それは心身に刻まれている。二度と癒えない傷として)
愛用の手袋が傷むほどに、固く拳を握りしめる。
東西和平を尊ぶのは、最大数の人々を救うためだ。延々と平和を体現し続けるのは至難の業だが、アルマが目指す理想こそ、その一点に他ならない。
平和を害する可能性があれば、当の脅威がどれほど些細であろうと、全力で叩き潰す。
それが、アルマが正しいと信じる己の英雄像なのだ。
「……」
顔を背け、視界からエリーゼを消した。
それから視覚と聴覚の神経を鋭敏に尖らせ、周辺の情報を限りなく知覚する。憲兵による包囲網を突破するのは小柄な子どもとて不可能なはずだ。必ず付近にいる。
そのとき、アルマは葉の擦れる音を捉えた。背の高い街路樹が目に留まる。
まさかと冷や汗を伝わせつつ、不自然に枝が揺れる一部を凝視した。一瞥しただけでは判然としないが、よく観察すると――……懸命に街路樹を昇る少女が発見できた。
「あんなところになぜ……存外におてんばだな」
「待ちなさい。最後の忠告よ。ニナに近づくなら、相応の覚悟を持ちなさい」
「覚悟? あまりに今更だ。僕は僕の信念を貫くと、とうに腹をくくっている」
「……そう。わかったわ」
エリーゼは――半身を逸らし、道を開けた。
思わぬ行動に、彼女の顔をまじまじと見つめる。
「どうぞ。通っていいわよ。安心して。後ろから急に蹴ったり、殴ったり、アレしたりなんてしないから」
(…………アレとは?)
と内心で思いつつ、アルマは彼女の脇を通り抜けた。
その直後――背後から、半端ではない勢いの上段蹴りが、アルマの側頭部を急襲した。
あまりにも唐突で、死角からの、情けも容赦もない一撃――。
ではあったが、アルマは腰をかがめることで、上段蹴りを回避した。
不意打ちを避けられるとは意外だったのか、エリーゼが目を丸める。
風に煽られてスカートの裾が舞い上がり、白皙が大胆に晒された脚部。長くしなやかな足を曲げて、エリーゼはブーツの靴底を再び地面に付ける。
「おとなしく倒れてくれていたら……これ以上、私も心が痛まずに済んだのに」
「だったら、もう少し表情を取り繕うべきだ。と言いたいところだが、本音を隠すという行為が何より苦手だったな、きみは」
アルマは乱れた前髪を指先で整え、彼女に向き直る。
「本当にわかっているのか、実力行使に出たら後には引けないぞ。短絡的だ。褒められた行いではない」
「私の意思を無視して、ニナを強引に連れ帰ろうとするあなたに、言われる筋合いじゃないわ。自分が正しいと本当に思っているの?」
「もちろんだ。大義がある、僕は東西和平という大局を見ている。きみとは人助けの尺度が違う」
「……。その言い方、嫌いよ」
深紅の眼差しが鋭さを増した。戦意がアルマの肌を刺す。
腰元のホルスターに収まるフェデン国軍支給の自動拳銃を一瞥した。
「こちらも最後の忠告だ。きみ相手では、僕も手心を加えられない。だから退け」
「……」
「取るに足らない言い合いに、これ以上無駄な時間は使えない」
「――。だからあなたは、どうしてそんな言い方しかできないのよ……」
顔を俯かせたエリーゼが、声音を震えさせる。
一拍置いて――キッとアルマを睨むと。
「そういう上から目線、大嫌い。前から思っていたけれど、人の気持ちに寄り添えないところは、あなたの最低な欠点よ!」
弦の張り詰めた弓矢を放つように叫んだ。
同時に戦意を解き放ち、エリーゼが殴りかかってくる。
アルマは即座に拳銃を引き抜いた。牽制に三発の銃声を轟かせる。
フェデン国軍でも有数の精度を誇る射撃の腕前だ。発射された弾丸は標準に合わせた通り、エリーゼの柔肌を掠めるほど近距離を通過した。
普通は臆する。肉体を貫く凶器に恐怖を抱くはずだ。
だがエリーゼは普通ではない。肉薄の勢いは少しも緩むことがなかった。
「平穏な生活に多少身を置いただけでは軟化しないか……精神力は流石だな」
「最愛の妻を撃つなんて、やっぱり最低!」
罵声を浴びせつつ、エリーゼはこちらの右腕に掴みかかる。
拳銃を奪う腹積もりか――否、アルマの予測を裏切り、彼女は銃口を自らの肩へと押し付けた。息を呑むアルマをよそに、彼女はそのまま{そのまま=傍点}自ら拳銃の引き金を絞った。
銃声が再度響く。エリーゼを貫き、血濡れの弾丸が身体の裏側まで抜ける。
正気を疑う蛮行。だが、そのおかげでアルマに隙が生じた。
握力の緩んだ拍子にエリーゼが拳銃を奪い取り、至近距離で構える。
「私は銃がうまくない。けど、この距離なら関係ないわ」
銃口からアルマまでは拳ひとつ分ほどの間隔しかない。
エリーゼは躊躇なく、弾倉が尽きるまで連続でトリガーを引いた。
――刹那、アルマの輪郭がぶれる。
常人では何が起こったのか見切ることは不可能だろう。
地面との摩擦で軍靴の底を焦がしつつ、流麗な体捌きで銃弾を避け切ったのだ。
アルマの動きは、人間の為せる身体機能を遥かに凌駕していた。
拳銃を奪われたのは失態だったが、冷静に回避を為した後で、一呼吸。
「……夫を撃つ妻も、同じ穴のムジナだろう」
「私のほうが良心的だったわ」
「その割に殺意すごくなかった?」
「私ならすぐに治癒{すぐに治癒=傍点}できるから。瞬きしたときには無傷よ」
……見れば、エリーゼの肩にある銃創からの出血が止まっていた。
それだけではない。指先で肌を拭うと、そもそも傷自体が消失している。
その現象を端的に言い表すならば、癒えたのだ。文字通り一瞬で。
「ああ、そうかい。そうだな……抜かったよ。予見して然るべきだったのに」
戦いとは無縁の平穏な生活を送る彼女と接してきて、勘が鈍ったのは己のほうだったと認める。これこそが彼女の戦法であると、つい失念していた。
――『西の英雄』たるエリーゼの特異体質。彼女は超人的な自然治癒力を持ち合わせ、なおかつ血液や唾液などの体液を介して他人を癒すことも可能なのだ。
その治癒効果は底知れない。だからこそ、先の蛮行は無茶だが、無謀ではなかった。
一方で、アルマの常軌を逸した身体能力にもタネがある。
フェデン国軍が有する人体改造技術――『施術』の恩恵だ。
筋力、敏捷性、反応速度、あらゆる身体機能を飛躍的に向上させる。ある程度の訓練を経て『施術』を受けたフェデン兵は、もはや常人を逸脱した超人と化す。
単なる一兵卒が一騎当千の猛者。フェデン国が周辺諸国に恐れられる所以である。
そもそも、軍事国家フェデンは、他国への侵略を繰り返して領土を広げてきた歴史を持つ。それに拮抗する戦力を持つのは隣り合う西側のウェギス国だけだった。
そして、ウェギス国が対抗できた理由こそ、エリーゼの特異体質に関係する。
彼女の体質は後天的に{後天的に=傍点}萌芽させられたものだ。フェデン国の『施術』と似て非なる、ウェギス国の超能力開発の技術によって。
わかりやすい身体強化とは違い、超能力と呼ばれる力は多岐にわたる。超自然的な現象を人為的に引き起こす異能なのだ。例えば発火、転移、透視、念話のような――……。
東西戦争の最中は、そんな常識外れの力のぶつかり合いが各地で生じたものだった。
……さながら、今のアルマとエリーゼのように。
無用になった拳銃を後方に放り、エリーゼが胸元に手を添える。
「何度でも言うわよ、あなたは何もわかっていない。どんな大義があろうと、目の前にいる人を助けない理由にはならないのよ。今救わなくちゃ、救えない人もいるのよ」
「僕だって、なにも命まで見限ろうとは思っていない。だが、現実を見ろ。優先するべき真の問題を見誤るな。未来の安寧まで視野に入れなくては、仮に今救えたところで、後々にすべて水の泡となる――そんな結末をいつか必ず招くぞ。それを……個人の事情? 平和な暮らしが保たれるのだから、一時の感情を切り捨てる程度、安いものじゃないか」
「だから、それが正しくないと言っているのよ。この変わらず屋!」
「それを言うなら、わからず屋だ! そして――それは僕じゃなく、きみのほうだ」
任務の邪魔をするエリーゼに、額に浮かぶ青筋を濃くするアルマ。
両者のあいだに漂う空気が静電気のように弾ける。
そして、この場にいる誰もが幻視した、些細な火種から爆心地を形成される様を。
もう止めることのできない亀裂は、このとき刻まれた。
「――取ったわ風船! まさかこんな樹のうえに引っかかっていたなんてね!」
必死に街路樹を上っていたニナは、揚々と目的の風船を抱き寄せる。太い幹のうえにまたがって喜色満面の笑みで頬ずりしていた。
これで妹に贈ることができる。憲兵に囲まれたときには観念しかけたが、エリーゼが時間を稼いでくれたおかげだ。
……当のエリーゼとその夫が、まさか熾烈な大喧嘩の最中とは気づいていないが。
平和な世の象徴として披露された噴水広場は、いまやブォンブォンと石材が千切っては投げられるフェデン兵も真っ青な戦場と化していた。
「……なんだかいろいろ飛んでくるわね。――って、ぴゃああああああ!?」
激闘の余波で飛来した瓦礫が街路樹に直撃し、へし折れる。ニナの悲鳴が響き渡った。