命を賭けないやつなら、やったことのある人も多いだろう。
脱出と頭についているぐらいなので、特定の空間からの脱出を目的とするゲームだ。が、なぜだかその出口には鍵がかかっていたりして、その鍵はどうしてだか金庫の中に収納されていたりして、そのダイアル番号はなんの計らいなのかベッドの下とか棚の裏とか壁の天井近くの隅っことかに隠してあったりするので、プレイヤーはあちこち探し回って、それを見つけないといけない。場合によっては、探索だけでなく、パズルや謎々を解かされることもある。
しかしこのゲームに限って言うなら──幽鬼の経験に限って言うなら──そう複雑な問題が出てくることはない。このゲームはあくまでショーであり、番組であり、ごっつい謎に挑むことは本筋ではないからだ。だいたいの場合、わかりやすいところに鍵はそのまま放置してあるし、その鍵で普通にドアは開く。真の問題は〈その周辺〉にあることが多いので油断はならないが、探索という要素だけをいえば、これは、まことにらくちんである。
だが、探索することにはするのだ。
そして、忘れてはならない、この建物は死の館である。
「とりあえず、最低限──」
食堂を後にし、廊下に出て、幽鬼はほかの五人にそう言った。
「心構えだけ伝えておく」
六人まとめて行動することに決定した。
幽鬼以外はずぶの初心者であるのだから、彼女だけが食堂を出て、必要な探索を行い、トラップの有無を見抜き、出口までのルートを完全確立した上で五人をエスコートする選択もあった。最大の安全を求めるのならそうするべきなのだろうが、しかし現実にはこうなった。誰かがそうしようと提案したわけではなく、自然の流れ、暗黙の了解という感じだった。その原因は、おそらく、取り残されることへの恐怖にあった。仮に幽鬼だけが先行し出口を発見したとして、彼女が、五人のもとへ戻ってきてくれる保証はない。そのまま脱出するかもしれない。そうならぬよう付いていこうというのは自然な考えだった。トラップまみれの館というと、一見、その場でじっとしていたほうが安心なようにも思えるが、しかしそれを言うなら、ゲームのベテランである幽鬼にひっついておくのも安心なのである。どちらの安心を取るかの話で、今回、みんなの支持を集めたのは幽鬼だったという構図だ。
「生き残るには、とにかく、臆病でいること」
幽鬼は言う。
「少しでも怪しいと思った場所には近づかない。いつもと違う感覚があったらすぐ声をあげる。タクシー代わりにすぐ救急車を呼ぶ人というのが世間にはいるけど、みんなが目指すべきプレイスタイルはまさに〈あれ〉だ。警戒しすぎて一歩も動けないぐらいでちょうどいい」
「そんなことでいいんですか?」
聞いてきたのは、王子様なメイドさん、紅野だった。
「監視されてるんでしょう、これ。あまりにも動きがないと、主催者側から介入があるのでは」
「それはない。私の知る限りは。プレイヤーの全員が警戒しすぎて一週間以上なんの動きもなかったゲームとか、私みたいな協力的なプレイヤーばかり集まってなんの山場もなく無傷でクリアしたゲームなんてのもあったけど、それでも、介入っぽいものはなかった。どうプレイするかは、参加者の完全な自由。……だと思う」
そういうお達しが正式にあったわけではない。幽鬼は語尾を弱めた。
「こういう場所では、ネガティブな人間のほうが強いんだ。だからとにかく、なんでもかんでも悪いように想像して。どんどん疑心暗鬼になって。それを心がけるだけでも、生存率はだいぶ変わってくるはず。あとは……そう、私がルート取りをするから、なるべく私から離れないようにしてほしい」
「安全なルートなんて、わかるものなんですか」
今度は金髪ツインテールの娘、金子が聞いてくる。
「経験上ね。かなり痛い思いしてきたから」
金子は気まずそうにしたが、「……〈痛い思い〉ということは……罠にかかったら、絶対死ぬわけでもないんですね」とさらに聞いてきた。今のうちにいろいろ聞いておきたいという気持ちの表れか、それとも、幽鬼が出した〈疑心暗鬼になれ〉という指示を守っているのか。どちらにせよ、答えは同じだった。「うん」
「一発食らってはいおしまいじゃ、見てる側も味気ないしね。相当に当たりどころが悪いか、あるいは、大型の障害でもなければ即死ということはない」
「大型の障害というのは?」
「絶対にかわせない罠っていうのがいくつかあるんだよ。こういう脱出タイプのゲームでは、特に。制作費のたくさんかかった、番組の山場になるところだね。プレイヤー数六人なら、たぶん、ひとつかふたつかな」
「……覚悟しておきます」
今度は〈ネガティブな未来を想像〉したのだろうか、金子はそれきり、口をつぐんだ。
幽鬼の右腕に、ぐい、と引っ張られる感触があった。すでに廊下に出ている現在、ある程度の警戒心を幽鬼は持っていたので、すばやく振り向いた。幸い、幽鬼の右腕になんらかの罠が発動したということはなく、ではなんなのかといえば、幽鬼に言われるまでもなくネガティブな気配を放っているメイドさん、青井が、幽鬼の袖をつかんでいた。
「あっ」幽鬼と目が合う。「ご、……ごめんなさい」小さく謝られた。
「いや、謝ることじゃないけど……どうしたの?」
青井は、それ以上いったら首が落ちるぞというぐらいうつむいて、「離れたらいけない、ですから」と答えた。
「ああ……」
ああ、と幽鬼は言った。
確かに、幽鬼と距離を空けないのにはそれがいちばんだ。しかしそんなの、提案することはおろか思いつきすらしなかった。人間、一定以上の年齢になったら、必要のない限りお互いの体には触れてはいけないという暗黙の了解ができるものだからだ。かわいいことするな、と思った。幽鬼の顔がほころんだ。
今度は左腕に感触を覚えた。見ると、金子が、左腕にまとわりついていた。青井のような袖にちょっと触れるのとは違う、がっつりとした接触だった。
「ありなんですよね、これ」
そう言った金子の顔は、しかし、やや照れていた。食べかけのお菓子を奪うのだって同じぐらい照れることだと幽鬼は思うのだが、彼女の基準では、違うらしい。
続いて、背中に、すごい感触があった。お腹に手を回されていた。このすごい感触は、つまり、後ろから桃乃に抱きつかれたのだということに疑いの余地はなかった。さらには右肩と右の腰にも手が当てられて、これは、消去法から紅野の手であることが推理できた。
「もてもてですな、幽鬼さん」
黒糖が前方にいた。悪い顔をしていた。
(7/23)
合体したままメイドさんらは廊下を歩いた。
二回目のため心に余裕があるのだろう黒糖をのぞき、全員がひっついていた。たぶん、みんな、口には出さねど不安を覚えていたのだろう。紅野が桃乃の背中をさすっていた理由と同じだ。人と人とが接触すれば、そこには安心が生まれる。氷点下の雪山でさえ通用する法則だ。
しかし、なんだ、ひっついているほうのみなさまはそれで安心なのだろうが、幽鬼はといえばどうしようもなく緊張気味なのだった。教科書通りの両手に花。最初は袖に少し触れるだけだった青井も、今やほかのメイドさんらと同じくがっつり接触している。嬉しいとか幸せとかではなく緊張というのがポイントだ。顔のいい女の子と触れ合ってしまったとき、人は、緊張するのだ。なぜだろう。顔がいいというのに。嬉しさが許容量を飛び越えてしまうのだろうか。そんなことを考えながら幽鬼は探索を進めた。
まず初めに、幽鬼たちは廊下を横断し、食堂とは反対側の突き当たりにある扉に向かった。おそらく、重要なものだろうと当たりをつけていたからだ。
扉は施錠されていた。鍵を探し出し、これを開くことがクリアへの順路だろうと幽鬼たちは考えたので、その他、廊下に立ち並ぶ扉の向こうを順番に回った。
繰り返しになるが、このゲームは、脱出ゲームというよりは人が死ぬゲームなのである。鍵を見つけ出すことよりも、道中プレイヤーが罠にかかり怪我を負うことのほうが本題だ。なので、鍵の隠し場所は、そう凝ったものにはならない。机の上とか、棚の中とか、すぐ発見できる場所にあることがほとんどだ。
しかし──。
「ありませんね」
誰かが言った。
幽鬼の寝室だった。
プレイヤーの初期配置場所──今回の場合は寝室──は通常、安全地帯である。寝ている間にうっかりプレイヤーが罠にかかったというのではゲームが台無しだからだ。そして、安全であるがゆえ、そこにゲームを進展させるアイテムの置いてあることはない。つまりここを探索するのは無駄とわかっているのだが、しかし、もう、残るはこの部屋しかなかった。ほかの部屋は、幽鬼以外の五人の寝室も含めて、すべてさらった。鍵があるとすればここにしかなかったのだ。
しかし、ない。あったのはないという事実だけ。
「どう考えるべきなんでしょうか」
幽鬼の左腕にくっついた金子が、言う。
「見えるところにあったのをうっかり見逃したのか、それとも、もう少し細かいところを探さないといけないのか。あるいは鍵を求めるというアプローチが違うのか」
「鍵なのは間違いないと思いますけどね……」紅野が答える。「ほかに、それっぽいものはひとつもなかったので」
「とりあえずもう一周しませんか……?」おどおどと言ったのは桃乃。「詳しく探すの、怖いですし」
妥当な意見だ。ベッドの下やタンスの裏、そういう場所にまで目を向けるとなると、比例してトラップ対面のリスクも増す。それよりも先に、これまで通ってきた、すなわち安全の保証されている道筋をたどり、見落としがないかチェックするのが堅実だろう。幽鬼もそれに賛成を言おうとするが──。
「なに言ってるんです、みなさん」
それは、ただ一人幽鬼と合体していないアウトロー、黒糖の声だった。
「探してない部屋、まだあるじゃないですか」
「え?」
「食堂ですよ。あの部屋は別にセーフエリアでもなんでもないでしょう?」
(8/23)
食堂の風景は幽鬼たちが出て行ったときのままだった。
ほかに人間がいないのだから、当然だ。食堂に入ると同時、幽鬼を締め付けていたメイドさんたちの力がゆるんだ。見慣れた部屋なので安心したということだろう。
見慣れた部屋。
その風景の中に、鍵は、なかった。
「ないですな」
黒糖が言った。
「考えてみれば、あれだけ長いこといた部屋なんだし、鍵なんてものがあれば気づきますか。すいませんね、お時間取らせて」
「いや、そんなことは……食堂っていうのは盲点だったし」
幽鬼は言った。本来なら自分が気づかなければいけないことだった。初心者の引率をするのなんて初めてだったからか、はたまたメイドさんたちにひっつかれて舞い上がっていたからか、視野が狭くなっていたらしい。
「せっかくだから、一息入れようか」
幽鬼はテーブルに近づいた。それとともに、メイドさんたちが幽鬼の体から外れた。触覚の喪失に、やや寂しいものを感じながら幽鬼は席についた。ほかの五人も同様にした。
探索に出ていた時間は、──この館には時計がないので幽鬼の感覚だが──せいぜい三十分程度である。休憩を入れるには短すぎる労働時間であるし、幽鬼としても、緊張こそ感じたもののさほど疲れは感じていない。が、なにぶん命に関わる話であるし、幽鬼以外の五人はゲームに不慣れなのだから、幽鬼の思っている以上に消耗しているはずだった。幽鬼にしたって、食堂を探索箇所から外すというポカをついさっきしたばかりなので、万全であるとはいえない。臆病すぎるぐらいでいい。そう言ったのはほかならぬ彼女だ。ここは、己の発言に忠実でいようと思う。
幽鬼はテーブル上の大皿に手を伸ばした。その手が標的としていたクッキーを、一足先に黒糖が奪い取った。「も……もういいでしょ?」
「あれだけ食べたんだからもうわかったでしょう。安全なんだよ、こういうのは。いいかげん好きなの食べさせてよ」
恨みがましい目つきで幽鬼は黒糖を見た。が、当の黒糖は、申し訳なさそうにするでもなく、なんだよこいつと睨み返してくるでもなく、ただ、まんじりと、思案顔でクッキーを見つめていた。
「……盲点……」
クッキーから大皿に視線が移った。
一度は取ったクッキーを黒糖は皿に戻し、そして、両手を使ってそれをつかんだ。Lサイズのピザほどもあった大皿を持ち上げ、長方形のテーブルのいくらでも余っているスペースにどかした。
果たして、その下には。
大皿の下には、黄金色をした鍵束があった。
「……はは!」
メイドさんたちは、ざわめく。
黒糖がリングの部分を手ですくった。
「じつに盲点ですな。私たちはずっと前から、鍵に手を伸ばしていたわけだ」
そのまま、黒糖は、一同に見せつけるように鍵を持ち上げた。
それに際し、下部にきらきらと光るものがあるのを幽鬼は見た。
それは。
それは、細い、マジックに使用されるような極細の糸だった。
幽鬼は立った。柄にもなく叫んだ。「──黒糖! 伏せろ!」
「は?」
ほひゅ、という間の抜けた風切り音がして、
(9/23)
そして、三つの音が連続した。
一つめは、高速で飛来した〈それ〉が黒糖の頭を貫いた音。小さくて、乾いていて、人間の脳を貫いたとはまるで思われぬ音だった。二つめは、自立できなくなった黒糖が、〈それ〉から受けた衝撃の方向そのままに倒れた音。そして、三つめは、彼女の取り落とした鍵束が、テーブルの上に帰った音だった。
また、厳密には、幽鬼の椅子が倒れる音も四番目として続いた。勢いよく立ち上がったため、椅子を蹴飛ばしてしまったのだ。しかしそれだけだった。三つにしろ四つにしろ、それだけで、黒糖の生命は終了した。
事切れた。
本ゲーム、最初の犠牲者だった。
「────!」
声にならない声があがった。
桃乃が、頭を抱えていた。座ったままの姿勢で小さくちぢこまって、叶うなら、このまま母親の胎内に戻りたいというポーズだった。
事態へのリアクションとしてはそれが最大で、ほかに、パニックを起こしたメイドさんはいなかった。それがせめてもの幸いだった。だが、あくまでパニックに至っていないだけであり、ショックを受けていないということは誰一人としてなかった。
全員、血の気の引いた顔だ。
これが死のゲームであると、心底、了解した顔だ。
「今、のは」
どれぐらい経っただろうか。口をきけるぐらい精神を回復させた最初のメイドさんは、金子だった。
「今のが、トラップですか」
まだ万全ではないのだろうなと思われる質問の内容だった。幽鬼はうなずく。
「よくある手だ。重要なアイテムの周辺に、特に危険な罠がある。もっと強く言っておけばよかったね」
黒糖の遺体を見つめながら、幽鬼は言った。
幽鬼をのぞく、唯一のゲーム経験者。脱出タイプのゲームにおけるこの黄金律を、知らなかったのか、それとも知識としては知っていたものの血肉になってはいなかったのか。真相を知るすべは今やもうなかった。
もうワンテンポ早く指示できたなら、と幽鬼は思う。罠の作動は止められなかったとしても、頭を下げさせるだけでもあの罠は回避できたはずだ。幽鬼がもう少し本調子でいたならば──初心者の引率をした経験が過去に一回でもあったなら──幽鬼が黒糖より早く鍵のありかに気づいてさえいれば──あるいは事前に意識して呼吸を整えておいただけでも、黒糖の運命は変わっていたかもしれない。
彼女には悪いな、と思った。
だが、口には出さなかった。
幽鬼は席を立ち、黒糖の遺体を検分した。遺体ということで間違いなかった。疑いの余地なく、事切れていた。アイスピックにも似た金属針が頭を貫通していた。右のこめかみから、左のこめかみへ、あたかもそういうジョークグッズをまとっているようなありさまだったが、まぎれもない、現実だった。
「その……それ」
言ったのは紅野だった。〈それ〉はまずいと思ったのか、すぐ言い直しがあった。「彼女、どうするんですか」
「どうするもなにも、ここに置いておくしかないよ」
幽鬼は答える。その声は淡々としていた。
「ここじゃ埋めることもできないしね。できることといえば手を合わせるぐらいだけど、あまり、おすすめはしない」
「なぜですか?」金子が聞いた。
「この先、手を合わせる余裕すらない場面が出てくるかもしれないからだよ。黒糖さんには祈ったのに誰々には祈らなかった。そうなると、心の中に弱いものが生まれる。その弱みは、決定的な場面で私たちに牙を剥くかもしれない。この手のゲームで、精神的な傷というのは想像以上に重い。だから私は、誰が死んでもそれを悼むことはしない。ゲームの終わったあとに、まとめてやることにしてる」
「……なるほど」
幽鬼はテーブルに目を向けた。正確には、テーブルの上の鍵束に目を向けた。トラップの引き金になったのだろう細糸は、まだつながっていた。二段構えの罠という可能性もあった。幽鬼は十分に警戒しつつ、細糸を切断した。
なにもなかった。
鍵束が、幽鬼の手に収まった。
「たぶん、これで、例の扉は開くと思う」
一人減ったメイドさんらを見渡し、幽鬼は続けた。
「みんな、まだ、進む気はある?」
(10/23)