【2nd】コスモス(3)

 文房具メーカーだから、それっぽくしようなんて考えを持ちがちだ。構図を決める上で何が大事かと言うと、何よりもテーマである。

 会社として伝えたいことは何か。その根本を何よりも理解しなくてはならない。とは言うが、これが中々に難しい。

 無論、制作そのものは広告代理店へ依頼している。その話し合いの場でも、イマイチまとめ切れなかったのが本音である。

 10月も目前になって、雲一つない秋晴れが広がっている。だが、太陽は俺たちを苦しめる。まだまだ暑い。秋と言われても到底信じられないぐらいだ。人が暑いと言えば「夏」なのだから仕方がないと割り切る。

 撮影日にはもってこい、と言えばその通りだ。晴天は美しい彼女に良く似合う。

 撮影は広告代理店が依頼したカメラマンがするらしいが、業界では中々に有名な人らしい。よくそんな人を使えるなと思った。委託金はめちゃくちゃ渋ったのに。

 委託金というと、今回彼女には当然出演料が支払われる。多分サクラロマンス時代であれば結構な額を積まなければならなかったであろう。

 ところが、彼女は「いらない」と言ってきた。今回は迷惑をかけたお詫びもあるから、なんて言われたから、普通に言い返した。「そんなのは、ありがた迷惑だから」と。

 ノーギャラ出演が明るみになれば、それこそ俺たちが叩かれてもおかしくない。これは契約だから、と大人の言葉を並べて何とか納得してくれた。

 思い返せば、こういうポスター撮影に同席させてもらうなんて初めてだな。スタッフたちが慌ただしく動き回っている。太陽と睨めっこしている反射板や、彼女を彩るヘアメイク達。まるでドラマ撮影のようで、少し面白い。

 都内郊外にあるこの公園。コスモスが見頃を迎えていて、ロケハンした時もスタッフ等の評価は上々。今がピークと言ってもおかしくないぐらいに満開である。

 うん。コスモス畑の中に居る桃花愛未を想像するだけで、絵になるのは明らかだった。

 だが「桃花愛未」という名前は使えない。

 俺も完全に失念していたが、その芸名は前の事務所が考案したモノ。だから使用するには許可が必要なのだが……わざわざ辞めた場所に聞くのも変な話である。退職した会社にまた電話しろと言われるぐらいには嫌だな。

 じゃあ違う芸名でも考えようと言った俺に、彼女は笑いながら言った。

入りまーす!」

 彼女は本名を選んだ。

 山元美依奈やまもとみいな。それが桃花愛未の本当の顔。桃の仮面を外した、素直で綺麗な顔。

 やめたほうが良い、真っ先に否定した。隣に居た藤原も、話を聞いていた広告代理店の人間も、得策ではないと追撃した。

 なのに、彼女は言うことを聞かなかった。どうしてか理由を聞くと――。

『もう、後悔したくないんです』

 桃色の仮面を脱ぎ捨てて、素の自分で挑戦したい。その気持ちは分からないでもない。一度後悔した人間が考えそうなことである。

 思考の海に溺れていた俺の前に、山元さんが姿を見せた。よろしくお願いします、と頭を各方面に下げている。泥酔していたあの人とは思えないな。

 でも――。

「…………」

 言葉を失うというのは、こういうことか。

 生まれて初めて、俺は人に見惚れてしまった。あの頃は目を合わせるのが怖かったのに、今はジッと山元美依奈の瞳を見つめられる。

 見惚れて、見惚れて、胸が高鳴って――。秋の風に吹かれる煌びやかな黒髪も、白色のワンピースも、薄化粧も、その全てが美しくて、周りの音が何も聞こえない。

「それじゃあ、撮影始めましょう」

「よろしくお願いします!」

 コスモス畑の中に立つ彼女を遠目で見る。

 何というか、改めて痛感することになった。あの子は俺なんかとは生きている場所が違う。結果的に、これが背中を押すことになったのだろう。でもそれを素直に喜べない自分が居た。

 それもそうか。憧れのアイドルと知り合いになれたのだから。こんな偶然というか、奇跡はもう起こらないだろうに。少し寂しい。

「綺麗な子ですよね」

「え、そ、そうですね」

「ふふっ。いきなりごめんなさいね」

 彼女に見惚れていると、話しかけてきた一人の女性。金髪のショートカットが良く似合うスラリとした人だった。

「あなたなんですよね。あの子を起用しようと提案したのは」

「えぇ、まぁ」

 直感だが、この人も芸能関係の人なのだろうと感じた。都会に住んでいると、こういう撮影に遭遇することも多い。そのせいか、野次馬は全然居なかった。

 それなのに、この人はわざわざ俺と並んで見ている。もしかしてスカウトとか――。

「私、あの子のスタイリングを担当したの」

「あぁスタイリストさんですか……」

 全然違った。恥ずかしい。

 って、それもそうだな。起用の件も知っていたし、関係者と考えるのが妥当だ。俺、浮き足立っているなぁ。握手会の時みたいだ。

「あの子、お化粧も全然してないのに。そんな元アイドルがいるなんてね」

「僕は世界で一番可愛いと思ってます」

 ふふっと笑われた。

「それ、恋人に言うセリフよ。そういう関係?」

「ま、まさか。そんなんじゃなくて……」

「年の割にはウブなのね、あなた」

 ひどく揶揄われている気がしたが、何も言わないことにしよう。何となく、喧嘩を売ると後悔しそうな気がした。

 視線を山元さんに戻す。色々なポージング、と言っても、すごく自然な彼女に見える。アイドルというか、彼女そのものを見ている感じがする。

「――あの子には不思議な魅力があるわ」

「そうでしょう。僕のですから」

「あ、そういうことね。なるほど」

 平日真っ只中に、ただ撮影を見学するのも社員に申し訳ない気もするが……目を離せない。

 今回の件で、俺が桃ちゃん推しだったこともバレちゃったし、報道のことも耳に入っているかもしれない。だから尚更申し訳ない。

「アイドルとして、どう見えます?」

「随分と抽象的な質問」

「いえ……スタイリストさんの意見を聞けるなんて、そうは無いんで」

「確かにそうかもね」

 彼女が抜けたサクラロマンスは、今や飛ぶ鳥を落とす勢いでメディア露出をしている。ネットでの評価を見ると「桃花愛未が抜けたから」と書き込むバカも少なからず居る。

 そんなわけないだろうとレスしたくなるが、俺はいつもグッと堪えて飲み込む。

 ネット上での言い合いなんて、何も生まない。残るのは活字の残骸と虚しさだけ。それを楽しんでいるような人間は、人間じゃない。何も考えていない機械と同じだ。

 SNSで他人をディスるのは、現実的弱者に違いない。日頃のストレスを他人に向けるのは絶対にあってはならない。

 要は、桃ちゃんが抜けたことで人気になったのかどうかが知りたい。あんなに可愛くて綺麗な子が居なくなったのに、人気が上がるなんて考えたくなかったのだ。

「ファンの声と演じ手の意見は違う。それがこの業界なんです」

「――それは」

「印象操作なんてザラよ。メディア露出は立派な戦略。それを上手くやっているのが、サクラロマンスといったところかしら」

 ……ちょっと待て。

 その話を鵜呑みにするのなら、決して聞き逃せない。意を決して問いかけてみる。

「――桃ちゃんを踏み台にしたんですか」

「ざっくり言うとそうでしょうね。ネット、見てる?」

「一応。でも、彼女からは『事務所は古いから疎い』と」

 すると彼女は「まさか」と苦く笑う。

「イマドキの芸能事務所は、ネットに疎かったらやっていけない。戦略の一つを消してるようなものだから」

「……そんな」

「あなたが思っているほど、綺麗な世界じゃない。この仕事をしていると、よく分かる」

 冷静に考えるとその通りだ。時代の最先端を追わないとすぐに置いていかれる。そんな業界。でもそれは――月の光のように美しいモノではない。

 一般社会とは構造がまるっきり違う。常識から何から、生きる世界そのものが別物なのだ。だからあの世界に求める俺の常識は、向こうからすれば常識ではない。いわば、である。

 思考がまとまらないうちに、スタイリストはどこかへ行ってしまった。

 俺はもっと愚痴りたかったのに。彼女しか知らない情報をくれるかもしれなかったのに。

 コスモス畑の彼女は、この事実を知っているのだろうか。いや、知ったところで何になる。そもそも、まだ事実と決まったわけじゃない。そうだ。いくらなんでも早とちりすぎる。

 それでも、コスモスに負けない美しさを彼女は持っている。ワンピースが風に吹かれる度に見惚れていた。白色から赤色、水色だったり、色んな衣装に着替えながら。結局、撮影は夕方まで続いた。

 その間、俺はただ彼女を見守るだけ。これで給料が発生するのは気まずいが、会社も認めてくれているんだ。強気に行こう強気に。

 しばらく喫煙出来てなかったから、公園内の喫煙所で一服し、撤収作業中のスタッフ達に挨拶する。流石に疲労の色が見える。あの金髪のスタイリストの姿はなかった。もう帰ってしまったのだろうか。まぁいいけど。

 あとは帰社するだけだ。直帰したいのが本音だが、流石に気が引ける。報告と、飲みにでも誰かを誘ってみるか。撮影も無事に終わったし。

「新木さん」

 声を掛けられた。ドキッとした。

 振り返ると、ワンピースからジーンズと長袖シャツに着替えたあの子が居た。

「お、お疲れ様でした」

「どうしたんですか? 狼狽えて」

「狼狽えてはないですけど……」

「何か良からぬことを考えていましたね」

 それは無いと否定すると、疑わしい視線を送ってきた。どうやら気になるらしい。

 と言っても、何も言うことはない。完全に言いがかりである。でもそうしたところで、彼女は納得しないのも何となくイメージ出来た。

「本当に綺麗でした。見惚れていました」

 そう言うと、少し目を見開いた。俺の首元ぐらいまでしかない彼女。分かりやすく視線を逸らした。

「ありがとう……ございます」

 言わせといて、その反応はずるいな。顔が赤く染まっているように見えるのは、きっと夕焼けのせいだろう。地味目な私服でも、山元美依奈が持つ個性は消えそうにない。

「少し話しませんか。コーヒー、ご馳走しますよ。缶のやつですけど」

 ふと自販機とベンチが目に入ったから、無意識に言葉が出てしまった。言った後にナンパっぽくなったことに気づいたが、貫き通すことにした。

 彼女は笑った。「ナンパみたい」と俺が考えていたことを言った。丁重に否定して、自販機で缶コーヒーを2本買った。微糖とブラック。好きな方を受け取ってと言うと、ブラックを手に取った。少し意外だった。

「今日はどうでしたか」

 ざっくりとした質問になった。営業トークだと思えば何とでも言えそうだったのに、こうやって二人きりで公園のベンチに座ると緊張してしまう。

「すごく、楽しかったです」

「それは良かった」

 缶コーヒーを両手でキュッと持ちながら、そう言う彼女。きっと本心なのだろう。ここで嘘をつく理由はない。こうして表舞台に立とうとしているのだから。

 幸い、俺たちのことを怪しむような視線も無い。彼女はフリーである故に、送迎なんてのは無い。マネジャーも存在しない。だから今回に関しては、俺が送迎を担当することになった。

 送迎と言っても、タクシー拾って自宅まで帰すだけだけど。無論、同乗はしない。

 後片付けの手伝いをしたい気持ちはあるが、遠慮されたからやりづらい。だからこうして、彼女のメンタルケアでもやっている風を装うのが一番かもしれないな。

「……一人で撮影したのは、初めてなんです」

 山元さんが、おもむろに言葉を漏らした。

「そうだった?」

「はい。基本的にメンバーの誰かと一緒で」

 全然意識してなかったが、言われてみるとそうだったかもしれない。桃花愛未ソロ写真集とかも無かったし、雑誌のグラビアでも常にメンバーが隣に居た。

 スタイルについては、好みが分かれるから何も言わない。一つ言えるのは、決してグラマラスではないということ。別に気にしない。

「どうでした? 一人で撮影した気分は」

 彼女は恥ずかしそうに笑った。

「絵の中の主人公になったみたいでした」

「実際そうでしたよ。キラキラしていて、本当に綺麗でした」

 微糖の缶コーヒーって、こんなに甘かったっけ。普段ブラックしか飲まないから分かんなかったけど、全然微糖ではない。激甘だ。胸焼けしてしまう。

 撮影していた彼女はまさに、清涼剤のように爽やかで、秋の始まりを遅らせるような輝きがあった。この時間になると、少しだけ肌寒い。念のためにスーツのジャケットを持ってきて良かった。

「弊社史上、一番綺麗なポスターになります」

「ふふっ。言い過ぎです」

「本当ですよ」

 ポスターの中身については、また広告代理店との打ち合わせになる。その時に撮影してもらった写真も見せてもらうが、密かにこれが一番楽しみだったりする。完全に公私混同だな。別にいいけど。

 10月下旬には印刷して、取引先等に配る予定だ。展示会までのアピール期間は約1ヶ月になる。その間に見た人の心をくすぐることが出来ればいいが。

 夕焼けが、もう少しで沈んでしまう。

 ちらりと横目で彼女を見る。相変わらず綺麗な黒髪。甘い匂いが風に乗ってやって来る。ドキリと胸が痛んだ。

「どうかしました?」

「あ、あぁいや!」

 まさか問いかけられると思わなかったから、咄嗟に否定した。チラ見していたのがバレたようだったが、彼女はそれ以上何も言わなかった。

 不思議な時間が流れている気がした。こんなにふわふわとした感触はいつ以来だろう。握手会じゃない。それよりもずっと前に体験した、あの青春の味に似ている。

「……学生時代を思い出して」

「今もお若いのに」

「30越えたおっさんですよ」

 人間、こうやって歳を取っていくのだろう。自分で言っておきながら、少し虚しくなった。ごほん、と咳払いをして喉に詰まった虚無感を胸に返す。

「どんな恋をしてきたんですか?」

「興味あります?」

「うーん。あまり」

「なんだそりゃ」

 なら聞くなと言いたくなる。苦笑いすると、彼女は手を口元に当てて笑った。

「すごく物思いに耽っていたので」

「年は取りたくないですね」

「えぇ。全くです」

 同窓会でもやっている気分だ。彼女に関してはそんな年でもないし、俺より年下だし。

 それでも、きっと濃い人生を送ってきたであろう。人前に立ち、あることないことを言われながら、俺たちに夢を与えてきた。そんな人生は、幸せなのだろうか。よく分からない。

「桃花愛未が居なくなって、幸せですか」

 夕焼け色に染まった風が吹きつけた時、そんなことを言われた。あんなに暑かったのに、こんな時に秋風が吹くなんて聞いていない。冷たい缶コーヒーを渡してしまったのに。

「幸せが手元から、するりと」

「ロマンティック」

「見栄っ張りだからね」

 そんなこと言われたことなかったな。そんな一面があったとしても、恥ずかしくて遠慮してしまうタイプだから。

 そう考えると、ロマンチストというのは見栄っ張りなのかもしれないな。本音を言いたくないから、洒落たことを言って誤魔化す。だとしたら、俺はその類になる。

「そうなると、私は誰かの幸せになっていたんですね」

 その通りだ。あんなにネガティブなことしか言わなかった彼女の口から、思いもしなかった言葉が出てきた。

 嬉しくて嬉しくて、溢れる笑みを隠せなかった。隠すつもりも無かったけれど。今日の撮影が何かのきっかけになってくれたのなら、それはそれでも。

「いまさら実感しましたか?」

「ふふっ。まさか。ずっと前からですよ」

 ちょうど撤収作業が終わりを迎えていた。スタッフ達が俺たちのところまで挨拶に来てくれたから、二人して立ち上がって返した。

 撮影した写真は後日の打ち合わせで確認することになった。予定通りだ。とりあえずは一安心。プロに撮ってもらったのだから、そんな心配はいらないだろう。

 さっきまで吹いていた秋風は止んで、俺たちは公園を出ようと彼らに背を向けた。

「あの……新木さん」

 呼び止められたから、振り返る。ブラックの缶コーヒーを顔の前に差し出して、可愛らしい表情をした彼女がそこに居た。

「まだ飲み終わってなくて」

「――奇遇ですね。俺もです」

 もう少しだけサボりましょうか。

 そう言うと彼女は「良いですね」と笑う。会社に文句は言わせない。だってゲストのワガママなのだから。なんて、笑った。

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