【1st】リグレット・リグレット(3)
夜の7時を過ぎていたから、空腹感もある。近所のスーパーで買った惣菜を口に運んだ。安物の発泡酒を添えて。テレビを付けても、どこかで見たようなグルメ番組かクイズ番組しかやっていない。本当に面白くない。
桃花愛未と握手した手の感触は、もうすっかり俺の手のひらに溶け込んでいる。だから普通に手も洗ったし。石鹸でしっかりと。
(……終わったんだなぁ)
もう彼女を表舞台で見ることもない。そもそも一ファンというだけ。これまでの体験が異常なだけで、繋がりなんて――。そう思ったのも束の間。
発泡酒を喉に流し込みながら、俺はスマートフォンで確認する。あの日のやり取りを。
その向こうには、確かに居たのだ。桃花――いや、名前を知らない本当の彼女が。
このまま、SNS上で繋がっているのは得策じゃないはずだ。酒に酔った勢いで、余計なメッセージを送ってしまうだろう。
せっかく知ることが出来たのに。普通に生きていたら、好きなアイドルの裏アカと相互関係だったなんて知れるはずもない。
でも……これで良い。消してスッキリした方が、俺の精神衛生を保つ上で重要だ。
フォロー解除のボタンを押そうとした、まさにその時だった。ぶるりと震えて、手紙マークに①という数字が刻まれる。妙に切ない。
躊躇った。右手に持ったスマホは熱を帯び始めた。直感だった。このメッセージは間違いなく、ブルーローズ、桃花愛未からであると。
あぁ。せっかく消そうとしていたのに、それなのに、どうしてこの子は俺なんかに連絡を寄越すのだろう。
報道に巻き込んだお詫びのつもりなら、もう十分に受け取った。だからこれ以上はもう良い。その意味を込めて、俺の方からこの縁を断ち切ることが正解な気がした。
――だけど。
『今日はありがとうございました』
それを出来ないのが、男というモノだ。
もう一度だけ、もう一度だけ。そう言い聞かせて彼女と話したいと思ってしまった。温めた惣菜が冷えてしまおうが、僅かに残った発泡酒がぬるくなろうがどうでも良い。
あぁ、少しだけアルコールが回っているらしい。強いはずなのにな。まぁ疲れているだけだ。
『いえ、こちらこそ。お疲れ様でした』
当たり障りのない返信をして、発泡酒を口に含む。喉を駆け抜けていく感じがいつもより重くて、やっぱり酔いが早く回っている気がした。
既読を示すチェックマークはすぐに付いた。ここで変な駆け引きをするつもりはなかったから、彼女とのトーク画面は開いたままにする。
『どうして、あんなことを言うんですか』
何のこと? なんて揶揄うのは良くないか。あの時、彼女の顔が歪んだのは、やっぱり見間違いじゃなかったらしい。
『アイドルやりたいだなんて、そんなこと思っていないのに』
返信を入力する前に、彼女が連投した。文面で見ると、ひどく質素に見えてしまう。怒っていると受け取られてもおかしくないぐらいには、重くて。
でも。思っていないのなら、わざわざ俺に連絡なんて寄越さない。聞き流せば良い。でも、それをしないということは――図星だからだ。確信に満ちた感情が俺の胸に溢れた。
すぅ、と息を吸った。
『嘘、つかないでください』
『捨てきれないから、連絡してきたんですよね』
彼女のように連投する。既読マークはすぐ付いて、それからすぐ吹き出しが画面に表示される。短くて、あっけない言葉が。
『違う』
『違わない』
そんな必死の否定を簡単に打ち砕いた。
『後悔しているんですか?』
彼女が抱いている感情は、とても一般人には分からないモノであろう。
それでも、少しだけ分かる気がした。今なら、彼女の悩みを受け止められる根拠のない気持ちが胸を覆う。現役アイドルのままだったら、俺はきっと適当なことを言ってやり過ごしていただろうに。
『この気持ちは、後悔と呼べるのでしょうか』
俺の問いかけに応えるように。彼女は、おもむろに言葉を紡ぎ始めた。ゆっくりと、噛み締めるように。自身の気持ちを、分かりやすく、俺に伝えようとしている。頼られている気がして、胸が高鳴った。
発泡酒を飲みながら、返信を考える。ここでキザなことを言うつもりはなかったが、酔いのせいでどうも思考がそっち寄りになってしまう。そんなこんなで、先に吹き出しを現したのは彼女の方であった。
『全て私が蒔いた種なんです。辞めたいから、あなたを巻き込んでしまって、報道されて。でも、終わったこの瞬間、全然爽快感は無くて。むしろ寂しくて』
自業自得だというのは、本人が一番理解しているようだ。少し安心する。
辞めたいという気持ちは事実として、彼女の胸の中にある。でも、それは100%というわけでもないらしい。
『こんな面倒な性格だから、辞めて良かったんです』
自嘲する彼女は、今どんな顔をしているのだろうか。さっき見せてくれたあの綺麗な顔は、歪んでいないだろうか。そうだと良いな、なんて思っても難しい話だ。
桃花愛未は、自分自身にそう言い聞かせているだけだ。言うことが矛盾しているし。本人は気づいているのかどうか分からないけれど。
『そんな訳ないです』
即座に否定する。二度目にもなれば、抵抗感は減っていた。
発泡酒を一、二缶ぐらい呑んだところで酔うことはない。それなのに、今日は違った。疲れと、慣れないこの状況のせいで、雲の上に居るみたいだ。
酔った勢いでとはよく言ったモノで、気が大きくなったから、彼女にお説教でもしてやろうと思った。こうして歳を取っていくんだと思うと、虚しくなる。
連投する。君にこのボールを届けたくて。
『あなたは綺麗です。誰よりも。キラキラしてて、アイドルらしいです』
『そんなことはないです』
強めの謙遜が返ってきた。けれど今の俺には何も響かない。
『疲れたのなら、少し休んでください。俺たちファンは、待っていますから』
こんなことを言えば、困るのは彼女だと分かっていたのに。酒に酔うと言いたいことを言ってしまう。明日には忘れているだろうから、ここまで来たら全部言ってやろう。
『辞めても良いって言ってくれたじゃないですか』
『嘘だよ』
『お疲れ様って、言ってくれたじゃないですか』
『嘘に決まっているじゃない』
『ひどい人。ずるい人』
あぁ、ふわふわとして気持ちが良い。
ひどい人、なんて言った彼女はどんな表情をしているのだろう。笑ってくれたら嬉しいなんて思うのは、ワガママか。
だけど、どのみち。
アイドルであり続けたかったのは間違いない。いろんな要因が重なって精神的に追い詰められたのが原因だろうが、それが無ければ続けていたわけで。つくづくネット社会が憎い。
気にしいな性格は、人前に出る仕事に向いていないのは確かだ。本人もそれを分かっているからこその苦悩。それに手を差し伸べることも出来ない。俺にそんな才能は無いし、やり方も分からない。
『嘘つく人は嫌いです』
『よく言うよ。君も同じじゃないか』
あっかんべーの顔文字が出てきた。不思議だな、さっき会った時よりもどこかイキイキしている。そう、まるで――友達と話しているみたいに。
友達、ねぇ。俺と彼女はそんな関係じゃない。仕事を辞めるために俺を利用しただけに過ぎない。そういう意味では、ある種のビジネスパートナー的存在? いや無理あるか。
いずれにしても、不思議な縁で結ばれているのには違いない。社会人になってからドルオタになった俺と、アイドル一筋の彼女。あまりにも釣り合わないが。
『俺たちは待っていますからね』
『もうっ。何回も言わないでください』
『何度だって言いますよ』
たとえ、歳を取って戻ってきたとしても。俺は彼女を応援するだろう。辞めても良いなんて嘘つかなければ良かったな。あそこで止めていたら、桃ちゃんのままだったかもしれないのに。
嫌いなタラレバを何度も思ってしまう。
これじゃあまるで、後悔しているのは俺の方じゃないか。いやそうなんだけどさ。
もう会うことも無いかもしれない。話すことすら。だから、これ以上の深入りは不要なのだ。なのに――。
『また、話せるといいですね』
ずるい言い方だった。これは二人きりじゃない。握手会だ。そこで話せるといいねと言っただけ。それに、後悔はしたくない。彼女の行く末を見届けたい。
頭の中にそんな言い訳を並べながら、残り少なくなった発泡酒を飲み干した。