【prologue】いなくならないで(2)
真昼の新宿駅前はやはり賑わっている。普段会社の中に居ることが多いせいか、あまりこういうのには慣れていない。
貴重な昼休み。結局、俺は素直に応じることにした。仮病を使った翌日に出ていくのは気が引けたが、今まさに具合が悪い。それに何かあれば会社も気づくだろうし、念のためのボイスレコーダーも用意した。すぐ警察を呼べるようにスマートフォンもバッチリ。
少し早く会社を出て、駅のトイレで着替えてスーツをロッカーに預ける。この作業で既に10分を費やした。時計の針は12時を過ぎていた。遅刻である。そこまでして着替えるのは、流石に仕事着で向かい合う気にはなれなかった。ただそれだけの理由。
コヨイの酒という居酒屋は、全国チェーンであるから名前は知っている。だが行ったことは数えるぐらいしかない。目的のソレは、雑居ビルの5階にあった。なんとなく雰囲気があって怖い。
エレベーターを降りると、すぐに店に繋がった。店内はランチ営業で賑わっている。少し安心した。
「あ、えっと……ヤマモトですけど」
言われた通り、受付でその名を言う。すると女性の店員は「すでにいらしてますよ」と笑った。今から何があるのかも知らない笑顔だ。出来ることならこのまま帰りたい。
カウンター席はサラリーマンの昼休みで埋まっている。同僚と会わないことを願いつつ、普段はしない眼鏡とマスクもした。何で俺が変装していると心の中でツッコんだ。
案内された先は個室だった。全部で10室ぐらいあるみたいだが、その全ての戸は閉じられている。中からは笑い声も聞こえ、かなり繁盛しているみたいだ。
覚悟を決めて引き戸を引くと、そこに居たのは、一人の女性だった。
黒い帽子を被って、眼鏡を掛けている。咄嗟に俺が謝罪すると、彼女はぺこりと小さく会釈した。
正直、拍子抜けだった。イメージ的に屈強なチャラい男の一人や二人居ると思っていた。いや、これから出てくるのかもしれない。警戒心を怠らず、掘りごたつで向かい合った。
「ブルーローズ……さん?」
こうして見ると、オフ会というのは中々に可笑しな光景である。見た目は明らかな日本人なのに、名前はアクロバティック。生まれてこの方初めて口に出したよ。いや、そもそもこれをオフ会と呼ぶことに無理がある。
俺の問いかけに、彼女はまた頷く。
「遅かったですね。応援隊長さん」
というのは、俺のアカウント名である。口に出されるとダサさが際立つ。だがそもそもアカの名前に興味がない俺にとって、その程度の考えで付けただけの名。こうやって女性に言われることになるとは、当時思ってもいなかった。
「ちょっと仕事が立て込んでいて」
「いえ。責めているわけじゃなくて」
「そ、そうすか……」
怒っているわけではないらしい。確かに彼女を見ているとそんな気がする。
よく見ると、黒髪が背中の方までスラッと伸びていて、思わず目を惹かれた。
視線を少し落とすと、料理が置いてあるわけでもない彼女の手元にある厚めのメモ帳と少し高めのボールペン。思わず頬が緩みそうになった。と言うのも、俺が働いている文房具メーカーで作っているものだったからだ。
10年目にもなれば、ついつい目で追いかけてしまう。商談中だったり、今回みたいなよく分からない展開でさえも。実際に売り込んだ経験もあるせいか、純粋に嬉しい気分になった。しかもメモ帳はよれていて、十分に使い込まれている。売り上げ的にも人気な商品だけあるが、ここまで使ってくれている人は初めて見た。
「あの……?」
「あぁすみません」
にやけている俺を不審に思ったのか、彼女は不思議そうに問いかけた。俺からすれば、十分あなたも不審なんですけどね。
一つ咳払いをして、空気を変えた。
「昨日の件ですけど」
単刀直入に問いかける。そもそも、この場を長引かせるつもりもなかった。ポロシャツの胸ポケットに忍ばせたボイスレコーダーもしっかり稼働している。
するとこの人は、不思議そうな顔をした。
「その前に。すごく冷静ですね」
「え、ま、まぁ。話が気になりますし……」
「いえ、そういう意味ではなくて」
ならどういう意味だろう。問いかけようか迷っていると、彼女がおもむろに眼鏡を外した。
「……………え?」
言葉を失った。驚愕というのはこの事かと言わんばかりの波が俺を襲う。やがてそれは震えに変わり、握手会のような緊張感。
化粧こそ薄いが、その顔には間違いなく見覚えがあった。眼鏡だけでここまで変わるのも珍しい、と感心している場合ではない。
思い出される記憶。憧れのあの子が目の前に居ながら、何度も狼狽えて、たった一つの言葉を投げかけるのにも無数の時間を費やした。
その子が、目の前に居た。
「も、も、桃ちゃん……? いやまさか。そんなことないですよね。うん、そうだ。これは新手の脅しってヤツだ」
オタク特有の早口になったが、気にしない。この状況を信じろという方が無理だ。絡みのないアカウントから脅され、来てみたら本人が居る? 冷静に考えて意味が分からない。
「脅しではありません。ですから、ご説明したくて」
それにしても、ステージ上の桃花愛未とは別人な空気感だ。しっかり者のイメージはそのままであるが、何というか、地味である。薄化粧のせいだろうか。いやそれでも可愛いと思います、はい。
加えて、週刊誌に撮られた時と同じ格好をしている。ボヤけた記憶が確信に変わる。俺はあの時桃ちゃんに財布を手渡したのだ。つまり、桃ちゃんの財布を触ったということである。
「でゅふ」
「え?」
「あ、いや、失敬」
とんでもなく気持ち悪い笑みが出た。慌てて平静を装う。32にもなって、こんな変態的な笑い方が出来ることに驚いた。
一度咳払いをして、頭をリセットすることにした。とにかく考えていても仕方がない。彼女から危害を加えられることもないだろうし、少し話に耳を傾けてもいいだろう。
「気になることだらけですが、とりあえずお話を聞きます」
「冷静なご判断ありがとうございます。実をいうと、話にならないのではと不安でした」
「そりゃそうでしょうね……」
それを言えば俺もそうだ。大して絡みのないアカウントから計ったような文章が送られてきたあの恐怖。たぶん一生忘れないだろうな。だがそれは、彼女も同じと言えばそれもそうか。
とりあえずは安心と言っていいだろう。新手のスパムかとも思ったが、桃花愛未本人の登場で一気に覆された。
なんとなくの推測だが、こういうのはアイドル本人が対応するケースはまず無い。基本的に所属事務所を通して何らかのリアクションをする。そういうのを俺は何度も見てきた。
今回はそうじゃない。当の本人が、こうやって動いているとなると、間違いなく独断。事務所の人間が知っていたら、絶対に止められる。俺はこうして向かい合っているが、普通に考えて何をされるか分からない状況だ。
となれば、この疑惑。一筋縄では終わりそうもないのは目に見えて明らかだった。
「今回の報道に巻き込んでしまって、本当にごめんなさい」
「あ、いや。何というか、こうして桃ちゃんに会えたからそれはそれで良かったかな……」
嘘ではないが本音でもない。ファンというか、男としての見栄である。こんな可愛い子が頭を下げているのに、罵倒するほど腐ってはいない。そうしたい気持ちはゼロではないが。
まぁ端的に言うと、言いくるめられたというわけです。
「質問、いいかな?」
「………はい」
時間の関係もある。彼女の説明を待っているだけでは話が進まないと判断した。俺がそう言うと、少し考えて渋々頷く。よく分からんな。この子。
「どうして君は一人でここに? 事務所とかの許可は貰っているの?」
パパ活みたいな聞き方だな。自分が気持ち悪い。それにしては割と真剣な内容だったせいか、彼女は何も言わず考えている。
扉のノック音とともに、店員が催促に来た。慌てて適当にランチメニューを注文する。食欲はないが、何も頼まないのは気が引ける。彼女はウーロン茶だけを頼んだ。
「全て私の独断です。今日のことも、報道のことも」
予想通りだ。これで事務所を通していたら、会社としての存在意義を疑う。
それはそうと、所属タレントがこんなことをするメリットが無い。SNSの裏アカウントで人を呼び出して、報道の件について話したいという行動にどんな意味があるのだろう。それを聞くためにここまで来たのだ。
……まぁ、一つ言えるのは。ロクな理由じゃないということは確かだということである。
「――私、アイドルを辞めたいんです」
運命というのは、俺の遅い青春すらも奪おうとしてくる。あの好きな桃ちゃんに熱愛疑惑が出て、その写真に写っていたのが俺で、SNSでその件について説明したいなんてメッセージが来て、その通りに会ってみたら桃ちゃん本人だった。と一昨日の俺に言ったらどんな顔をするだろうか。想像するだけで笑えてくる。
で、その彼女が今とんでもないことを口にした。恐らく、ファンの前で一番言ってはいけないことを。
「アイドルを……辞めたい?」
「はい」
聞き間違いじゃなかった。最悪だ。生きる糧を目の前で取り上げられた感覚。真剣にオタってたから正直しんどいどころではない。熱愛疑惑があってもアイドル自体は続けていくだろうと思い込んでいただけに。
「その……本当にごめんなさい。応援隊長さんに言うことじゃないと分かっているんですけど……ですけど」
そう言われるが、本気で泣きそうになっている自分が居る。32歳、独身。推しに熱愛疑惑が出た上にアイドル辞めたい宣言。何を糧に生きていけばいいのだろう。
まぁ状況が状況だ。色々巻き込まれるのは覚悟していたが、まさか辞めたいとはなぁ……。
「……う、うん。ちょっと状況が理解出来なくて。説明してもらえると助かります」
主導権を握ったつもりだったが、呆気なく手綱を手放した。体に力が入らない。虚ろな目で彼女を眺める。昼休みが終わる30分前の話にしては、あまりにもつまらない。
「……まず報道の件から。ここ1年ぐらい、ずっと尾けられていたんです。サクラロマンスも人気が出てきた頃でしたので。あの日も例外ではありませんでした。財布を落としたのは完全に私の不注意です。それを拾ってくれた応援隊長さんには全く落ち度はありません。でも、事実としてそれが週刊誌に載ってしまった。違うのに」
長々と説明してくれているが、半分聞いていないようなモノだった。上の空とはこのこと。目の前に居るのはあの桃花愛未だというのに、なのに、今は彼女の顔を見たくないとすら思えてきて。あんなに可愛くて好きだったのに。
「それがどうしてあんな風に載ったのか、その原因は私にあるんです」
周りの客達が帰り始めたせいか、先ほどよりも彼女の声が響く気がした。ボリュームを抑えなきゃ身バレだってあり得る。それなのに、彼女はトーンを変えない。今から言おうとしている言葉に気を取られているように見えた。
「あの後、記者に直撃されたんです。あなたとの関係を。それで――」
「まさか付き合っていると⁉」
あまりの急展開にハッとして、急に声を張り上げてしまった。コレに驚いたのは彼女だけでなく、店内も少しざわめいた。平謝りして、言葉を促した。
「ち、違いますっ! あ、い、いや違わないけど……」
「どっちですか……」
似たような事を言ったのだろう。こうして見ると、桃ちゃんってめっちゃ分かりやすいんだな。言い換えると、嘘がつけないタイプ。
それはお前の希望的観測だろと言われれば、素直に頷くけどさ。嘘つきより断然良いに決まっている。
「――濁したんです。答えを」
「どんな風に?」
「どうでしょうね? って」
それはやってくれたな。沈黙は肯定と言うが、彼女のソレもほぼ同じようなコトだ。
言われてみると確かに、彼女のコメントも載っていた気がする。冷静に全て目を通せたと思っていたが、全然だったらしい。
だが、それだけで「熱愛」と出してしまう辺り、流石は写真週刊誌と言うべきか。人のプライベートを晒して生きているだけある。
「……どうしてそんなことを」
素朴な疑問である。ファンから見る桃ちゃんは少し抜けているところがあるが、基本的に真面目な子だと思っている。そんな彼女が進んでネガティブキャンペーンに足を突っ込むとは思えなかった。
「まさか、辞めたいから?」
今日の俺は妙に察しが良かった。いや、冷静に考えれば誰でも分かることだ。だけど、彼女にとってはそれがありがたかったらしい。やはり心苦しい部分はあったのだろう。自身を応援してくれている人間に対して「辞めたい」と言うのは。
小さく頷いて、唇をキュッと結んでいる。辞めるには勿体ないぐらいの綺麗な顔をしていた。
「年齢も高いですし、グループの中でも足手まといなんです。私」
「いや、そんなことないですって!」
咄嗟に出たセリフ。自分が彼女を庇っていることに気がついたのは、すっかり言霊が相手に伝わってからだった。
その時の彼女の表情は、ハッとしているように見えて、どこか泣き出しそうな顔をしていて印象的だった。