【prologue】いなくならないで(1)
人間というのは下世話な生き物であって、決して綺麗な存在ではない。社会に出てみて本当にそう思う。
酒を飲めば誰かの悪口が横行し、誰もがこれまた良い顔で話す。笑いながらえげつないことを言ったりするから、仕事のストレスって相当だと新卒の頃思った。
タバコの量も増えた。大学の時から吸っていたが、比べ物にならないぐらいに消費している。最近は分煙化が進んで肩身が狭い。現に会社では吸う場所も決まっている。まだ全面禁煙にならないだけマシだ。そうなった時には、いよいよストライキでも起こそうか。
彼女もしばらく居ない。社会人になってから付き合った子とは長続きしなかった。「忙しい」という理由は恋人には適用外らしい。単純に面倒だった。
だから、この歳になってアイドルを追いかけるようになったのだと勝手に納得する。
サクラロマンスという5人組に惹かれた。国民的とまではいかなくとも、そこそこの知名度があるグループだ。
その中でも、
それでも、俺は彼女が一番可愛いし、応援したいと思った。最年長なのに頑張るね、なんて同情が無いわけじゃない。だが、実際パフォーマンスでは他の4人を引っ張っている。
決してエリート街道を歩いてきたわけではない。本人がインタビューでも言っているが、誰よりも努力をしたと自負しているらしい。それが自信となり、グループの原動力になっていた。
そんな彼女に熱愛疑惑が出た。
嘘だろと思った。いやいや、桃ちゃんに限ってそれは無い、って。そう言い聞かせたけど、ネットニュースにもなっていたし、SNSでも結構な話題になっていた。だから普段買わない週刊誌まで買った。
読まなきゃ良かったと後悔した。スーツ姿の男と手を繋いでいるように見える写真。男にはモザイクが掛けられていたが、女の方は桃ちゃんに見えなくもない。実際、その写真はステージ上の彼女と違いすぎて認めたくないのが本音だった。
だから会社を休んだ。推しに熱愛疑惑が出たので、とは言えなかったが。入社して初の仮病を使った。実際、仕事出来るメンタルではない。今なら来客をブチギレさせるのも容易だ。
朝から何もする気が起きず、気がつけば夜になっていた。自分自身、ここまで落ち込むとは思わなかった。
いわゆるガチ恋しているオタクとは一線を画していたと思うが、ただなんというか、応援していた親戚の子がしっかり「女性」らしいことをしていたと知った時の違和感に近い。もっと良い例えがあると思うが、思考をやめたこの頭ではこれが精一杯だ。
矛盾するが、アイドルが恋愛するのは良いと思う。彼女たちだって年頃だ。普通ならたくさん恋をして、たくさん苦い思いをする。そうして伴侶を見つけていく。禁止と言われれば、やりたくなるのが人間の性である。禁煙と一緒だね。
それでもなぁ。桃ちゃんに限って熱愛なんて考えたことも無かったからなぁ。ずっと横になっていた体を起こして、思い切り背伸びをする。思い切り骨が鳴った。
「タバコ吸うか……」
冴えない独り言とともにベッドから立つと、テーブルの上に捨てられた週刊誌が目に入る。ご丁寧に桃ちゃんのページが広げられていたせいで、視線が引きつけられる。
『サクラロマンス 桃花愛未熱愛?
福岡でのライブ後 コンビニで笑顔』
わざわざ福岡まで行ったのになぁ。寂しいというか、やるせないというか。
桃ちゃんはスーツ姿の男が好きだって言うから、桃担の男はほとんどスーツを着ていく。単純だよ、ほんと。俺もそうだったけど。
ライブ後といえば、コンビニの前で財布落とした女の人が居たなぁ。呼び止めて渡したら、何か変な雰囲気になったのを覚えている。俺そんな不審者みたいだったかなぁ。
ふと、写真を見る。
スーツ姿の男と、桃ちゃんが手を繋いでいるように見える。だけども、何かを手渡しているようにも見える。
……何だろう。この違和感。自分の瞳が写真に吸い込まれていくのが分かる。
冷や汗が止まらない。もしかして、いや、無いと思うけど、本当にもしかして。
「これ、俺じゃね?」
いつもよりタバコの味がしない。緊張というか、浮き足立っているな、これ。
でもあの場面には心当たりがありすぎた。3ヶ月前、福岡でのライブに参戦したのもそうだし、スーツで行ったのもそう。そして、ライブ終わりに近くのコンビニへ寄ったことも。
やっぱりそうだ。この写真の光景には見覚えがある。俺はこの女性を真正面から見ていたのだから。つまり、この男は俺だということになる。
アイドルと熱愛? いやいやまさか。喋ったことはあるが、それは握手会でのほんの数秒。喋った、と言っていいのかすら分からない。
それに当然、剥がしのスタッフが居るから余計な事は聞けないし。連絡先だって知らない。むしろあの女が桃ちゃんだってことすら分からなかったぐらいだ。
少し冷静になるために、報道をもう一度よく見てみることにした。
熱愛疑惑とあるが、その証拠としては乏しい点。キスやハグでもしていないと説得力がない。これはネット上でも言われている。
次に相手の男について。記事を読むと、あまり触れられていない。中肉中背のごく普通の一般人と仲睦まじく、なんて書いている。悪かったな普通で。
まぁ冷静に考えれば飛ばし記事であろう。俺が第三者ならそう思う。当事者としても全力で否定するし。桃ちゃん、何かドラマとか映画に出る予定あったか。あまり好きじゃないが、炎上商法というのもあり得る。
「でも参ったな……」
いずれにしても、困るのは俺だ。一般人を巻き込んでこんなデマを流すなんて迷惑もいいところである。
俺としては桃ちゃんの恋人に間違われるのは、決して悪い気分ではない。迷惑ではあるが。憧れのあの子の彼氏か……考えたこともなかったな。
それはそうと、問題はこれからだ。このことがバレたらどうしよう。アイドルとの熱愛なんて余程のことがない限り叩かれる。桃ちゃんの場合、その矛先が俺に向けられても仕方がないだろう。
モザイクが掛けられているとは言え、個人情報を百パーセント守っているかと言われればそうではない。ファンなら桃ちゃんがスーツ好きなのは知っているし、ライブ終わりであると書かれれば、ファンと繋がっていたと受け取られかねない。
相談……するにしてもなぁ。
今のところ誰にもばれていない、と思う。だからこそ悩ましい。ここで自ら墓穴を掘るようなことをしたところで、出来ることは限られている。
「いっそ、黙っておくのも手だよなぁ」
独り言。自分にそう言い聞かせるように。
実際問題、それが一番利口な解決策な気がした。これで特定されて不利益を被ることになれば、出版社を相手取って出るとこに出る。だって無実なのだから。彼女と俺が付き合っているなんていうのはファンとして不誠実だ。
加えて、桃ちゃん側からの正式なアナウンスも無い。いやこんなデマに反応するのもアレだが、沈黙は肯定と言わんばかりのアンチが騒ぎ立てるのは目に見えていた。
これまで多くの熱愛報道を見てきたが、ハッキリ否定することの方が珍しかった。騒がせておけば、それだけ世間から注目される。そんな売り方が主流になっているのが、今のアイドル業界。このまま立ち消えになるのを待つしかないか……。
気休めにもならないが、SNSのアカウントを開く。桃ちゃんの応援用に作ったが、なんだかんだフォロワーが増えた。オフ会には何度も誘われたが、どちらかと言えば人見知りな性格と自負している。参加してもあんまり楽しくないのが本音だ。
そこに一件、メッセージが届いていた。
「珍しいな」
思わず言葉が漏れる。と言うのも、基本的に誰かとリプライのやり取りをすることもない。繋がってはいるが、ただそれだけ。相手の人となりも知らない。桃ちゃん関連のニュースを知れればそれで良い。これがSNSの賢い使い方だと自負している。
で、その相手だが絡んだ事のない「ブルーローズ」というアカウント。鍵付きだ。だが名前には見覚えがあった。俺がこのアカを作ってから、割とすぐ繋がったいわば古参である。だけどそれ以上でもそれ以下でもない。
「長っ」
そう言ってしまうほどの長文であった。こんなに長く何を書いているのか逆に不思議だ。
まぁ、面倒だったら無視すれば良いし。そもそも互いに顔も知らない間柄。SNSとはそういうモノだろう。だからと言って罵詈雑言を浴びせてもいいとは思わないが。言葉は花にも刃にも変わることを、多くの人は分かっていない。
2本目のタバコに火を付ける。合わせて、視線を文章に落としていく。先ほどよりは冷静になったおかげか、いつもの爽快感が鼻を抜けた。だが、それは呆気なく崩れることになる。
『――桃花愛未の熱愛疑惑について、お話ししたいことがあります』
思い切り咳き込んだ。不本意な形で煙を吐き出す。ただの世間話をダラダラと続けていて、読むのをやめようかと思った矢先のコレだ。胃がキリキリと痛む。それぐらいの衝撃が俺を襲った。
「な、なんで……?」
32年生きてきて、一番情けない声だ。自分でも恥ずかしい。めちゃめちゃ。とてもおっさんとは思えない。
脅しにしては妙に丁寧な文章。それが余計に気色悪い。
ただの脅しじゃない。誰にでも送っている可能性も否定出来ないが、あまりにもピンポイントすぎる。よく読むと、俺が過去にツイートした内容をほのめかすことも書いている。これは明らかに、俺に向けられた文章なのだ。
『――驚かれていると思います。ですので、ご説明させていただきたく、ご連絡差し上げた次第です』
うん、やはりそうだ。丁寧すぎる。イマドキSNSで誰かを脅すような奴はどうしてもバカなイメージがある。実際そうだろうが、このブルーローズというアカウントからはそれを感じない。あくまでも主観。根拠は無い。文章の最後は、こう締められていた。
『――明日のお昼12時、居酒屋「コヨイの酒新宿駅前店」でお待ちしております。受付には「ヤマモト」と伝えてください』
随分と一方的な奴だ。恐怖を通り越して笑えてくる。昼の12時に居酒屋? ランチでもするつもりかよ。しかもご丁寧に新宿駅前と指定してきやがった。俺の会社の場所を把握しているということか?
確かにそれに近いツイートをした記憶も……なくは無い。それで特定に近いことをしてくるのだから、恐ろしすぎる。
何より、コイツは俺の身なりを知っている。ここまで来れば個人情報はバレてると思っていいだろう。
「うーん……」
何度も言うが、脅し、というわけではない。丁寧に「説明をしたい」と言ってきた。いや、実際に行ってみたら脅しなのかもしれないが。
それ以前に、明日はバリバリの平日。昼休みとは言え、素直に解放されるかどうかも怪しい。とりあえず、返答してみる。
『仕事なので難しいですかね』
何か証拠になるかもしれないと思ったから、スクリーンショットでこのやり取りを保存することにした。冷静に考えて、やはり危険だ。信用しろと言う方が難しい。返事は意外とすぐに来た。
『脅迫するつもりはありません。お願いします。少しの時間でいいんです』
よく分からない。このままだと明日仕事が手につかないぞ。いや、明日に限った話じゃなく、ずっと憑き物と一緒に生きていかなきゃならないかもしれない。
3本目のタバコを吸おうと思った。でも、切れていた。考えるのが面倒になって、そのまま眠ることにした。面倒なことに巻き込まれたと、生きるのが怠くすらなって。
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