一日目:炎の中(2)

    (2)


 壁も天井も、染みひとつない白。

 床をおおうはワインレッド。

 消毒液と芳香剤の入り混じった、かすかに鼻の奥を刺す刺激臭。

 あまり長居したいと思える場所じゃないな……それが、中央環境研究棟を訪れた、そうの正直な感想だった。

 生命科学系列の研究施設という場所柄、清潔さは最低条件だというのはわかる。しかし、ただ溶剤を塗りたくって造り上げられたこの場所の白さは、実用というより演出のためにあるように見える。やはりあれか、現場とは関係のない誰か、はるか上のほうで決済用の判子を握っている偉い人の趣向だろうか。偏見だが、いかにもありそうな話だ。

 そんなことを考えるが、顔には出さない。そもそも宗史はそれほど感情豊かというわけでもない。鉄面皮の後ろに、雑念を隠す。

「お願いしたいことというのは、他でもありません」

 目前の依頼人も、感情を隠しているという意味では、大したものだった。張り付いた愛想笑いが、見事にその心中を覆い隠している。だからどうということもないが。

「こちらのラボでは画期的で革新的な研究を行っていまして、実用化の暁には本社の事業を独力でけんいんしていけるだけのポテンシャルがあります。ですが社内には、当部署がそのような力を持つことを快く思わない一派もあり──」

 話を適当に聞き流す。内容は概ねわかっている。

 要は、社内の敵対勢力によこやりを入れられそうだから、ここの研究棟のセキュリティに力を入れたい。そのために、表向きはそちらの方面の専門家である(と紹介された)この江間宗史を呼びつけた。

 依頼の具体的な内容は、現時点のここのセキュリティ事情の評価と、穴となりそうな場所の指摘、予算や準備時間に合わせた改善案の提示といったところだろうか。そのくらいならば、今の自分でも、それなりに力になれるだろう。

 などと考えていたら、

「──お願いしたいのは、専務派とエピゾン・ユニバーサル社との提携の妨害です」

「んん?」

 何やら、ずいぶんとかけ離れたことを言われた。

「少し確認を」

「はい」

「僕は、なんというか、セキュリティ系のあれやこれやを専門にしてる人間で」

「ええ、存じています」

「今日呼ばれたのは、ここのセキュリティ強化について相談したいという話で」

「ええまあ、はい。もちろん」

「ならなぜ、妨害しろという言葉が?」

「ええまあ、細かく言えば、あの提携がうまくいってしまうと、専務が本腰を入れてこちらの妨害に乗り出すからです。破談まではいかずとも、あとふた月ほど時間が稼げればだいぶ動きやすくなります」

「それのどこがセキュリティ?」

「先手必勝は、全世界共通の安全標語ですので」

 愛想笑いを浮かべたままで、何やらすごいことを言う。

 その理屈だけはわからないでもない。ただ自陣の守りを固めるよりも、敵陣の弱体化を狙ったほうがいい。正論だ。なんかこう、古今東西の軍記モノで、名軍師キャラが兵糧攻めだの離間の計だのをキメながら言いそうなやつだ。

 しかしだ。この江間宗史は、現代日本の一般市民だ。軍記モノの世界に生きているつもりはない。

「丁重にお断りさせてもらいます」

 頭を下げて、きっぱりとそう言い切った。

「ええ!?」

 愛想笑いの顔のまま、男は目を見開いて驚いた。器用だなと思った。

「何故です!?」

に何を期待されていたかはわかりませんが、破壊工作は僕の本業じゃない。城大工やるつもりで来たのに、忍者の真似事をしろと言われても困るんで」

「……は?」

「そういうことでしたら、適任は他にもいます。仲介者に話は通しておきますんで、もっとふさわしい人材を送らせますよ」

 言いながら、やたら柔らかいソファから腰を上げる。

「しかし」

「仮想敵がいる程度の話ならともかく、明確に戦争を仕掛ける気となるとお付き合いできません。ご心配なく、聞いた話はどこにも漏らしませんから」

 言って、反論を待たずに応接室を出る。


 産業スパイ、という言葉がある。

 それ自体は、職業ではなく、ある種の行動群を示すものだ。要は敵対組織に対してのダメージにつながりそうな、そして自分たちの利益に繋がりそうな裏の作業をすべて総括してそう呼ばれている。

 具体的な内訳は多岐に渡る。敵対会社に身を置いて動向を報告する、さらにそこで人間関係などに工作を行う、物理的に潜入して機密を盗み出したり破壊的細工をする、あるいはネットを介して電子的に似たようなことを行う……組織同士の争いの形が多様であるように、その陰で動く者たちの働きもまた多様になる。

 内戦の歴史の長かった日本においては、隣人同士の足の引っ張り合いは一種の伝統文化だ。長い不景気でどこも企業体力が落ちている中、それでも産業スパイ仕事の需要は減らない、どころか増えてすらいる。

 そしてもちろん、産業スパイという言葉は、そういったスパイ行為を行う者たちを指す言葉としても使われる。

 のぞく、だます、奪う、壊す、そういった行為を生業なりわいとして生きている者たち。


(それにしてもだ)

 応接室を辞して、エントランスからぐるりと見回して、

(やっぱ、ちょいと問題あるよなあ、この研究棟……)

 改めてそう思う。監視カメラの配置や職員の動線をちらちら見るだけで、いくつもの穴が見える。

 正面入り口のシャッターは下りてしまえば堅固だが、ほんの数メートル隣には簡単に破れそうな窓が開いている。そちらを視界に入れているような場所に監視カメラがひとつ設置されているが、これは素人目にすら簡単に見抜かれてしまいそうなほど、わかりやすくハリボテダミーだ。また、職員の身分証明はIDカード一枚だけ。指紋声紋こうさいその他もろもろの認証は一切なし、つまり証明写真をちょっと貼り替えてしまえば、他人のカードも使い放題。

 日本は法治国家だ、正面からの押し込み強盗の危険性はほぼない。だからまあ、いわゆるガンファイトを想定した間取りではないということは気にしなくてもいいだろう。しかし、それ以外の脅威は国を選ばない。やろうと思えば簡単に空き巣が出来てしまうというのは、日本でもどこでも、機密を扱う場所として大問題だろう。

 そして、もうひとつ気になることとしては……

(…………いや)

 どうあれ、自分には関係ないことだ。

 そう思って歩を進めていたら、

「もしかして、江間先生ですか?」

 聞き慣れない声で名を呼ばれ、江間宗史は足を止めた。

「は?」

 振り返る。

 ほんの数歩先で、女性が一人、こちらを見ていた。

 いちべつの間に、値踏みを済ませる。

 歳は二十前後、おそらくは十八か十九あたり。首からIDカードを下げてはいない。

 目立たない娘だ、という印象を受ける。

 だがそれは、意識的に作られた地味さだ。化粧、服装、眼鏡、それらによって自分の容姿の印象を弱めている。それ自体は、いかにも産業スパイなどがやりそうな小細工ではあるが──たぶん、そういうのとは違うだろう。

 姿勢は良いが体幹の不安定さや正中線の歪みを見るに、運動不足気味。安いオフィスチェアの上で長時間を過ごすタイプの生活を送っていると思われる。

 さて、そんな分析が済んだところで、問題はその先。

「ええと……」

 名前を呼ばれたということは、向こうはこちらを知っている。

 けれど、当の江間宗史の記憶に、この娘の顔がない。

 作られた地味な印象に隠されているが、よく見れば、かなり整った顔立ちをしている。なのに、なかなか思い出せない。

「やっぱり、江間先生だ。変わっていませんね、見てすぐわかりました」

 それに、この江間というのも、何なのだ?

 その娘はうれしそうに、そして控え目に笑う。

「お久しぶりです、覚えていますか?」

 意地の悪いことを直球で聞いてくる。

「あーっと……」

「もしかして、わかりません?」

 唇の端をゆがめて、意地の悪い笑みを浮かべる。

 その表情が、宗史の頭の片隅にあった、古い記憶と符合した。

 ずっと昔。

 江間宗史が、今のような人生を送るようになるより、さらに前。

 当時の宗史は二十で、平凡な大学生で、非合法の世界になど無縁な一般人だった。複数のバイトを掛け持ちして、忙しく走り回っていた。家庭教師として受け持った生徒は何人かいたが、その中でもっとも優秀で手のかからなかった一人が、大人をからかう時にはこういう笑い方をしていた。

 それはまるで、宗史がかつて送っていた人生の、残響のような。

「…………もしかして、、ちゃん?」

「はい」

 嬉しそうに、うなずく。

「全然気づかなかった、というか無理だよ。何年ぶり?」

「六年ぶりです。……わたしはすぐにわかりましたよ、あっ江間先生だ、って」

「そりゃ……こっちは六年前にもいちおう、成人男性だったからね」

 一瞬、息が詰まる。

 この子には、変わっていないように見えるのか。六年を経た江間宗史の姿を見ても。

「当時の君は中学生だろ」

「そして今は大学生二年目です。……わたし、そんなに変わりました?」

 変わっていないわけがないだろう、と言いたくなる。記憶の中の彼女はこまっしゃくれた小さな子供だった。そこから六年、手足は伸びたし体つきも言わずもがな。

「まあ、大きくなったし、れいになったよね」

「久しぶりに会ったしんせきのおじさんみたいなコメントですね」

「久しぶりに会った親戚のおじさんみたいな心境なんだよ」

 軽口を、リズムよくぽんぽんと交わす。

「面白くないですね。あ、でも『綺麗になったよね』のとこだけはちょっと嬉しかったので、おかわりお願いします。今度はちょっと照れてる感じで、ぜひぜひ」

「やらないよ?」

「けち」

 六年前に自分たちがどんな風に話していたのかを思い出しつつ、それに倣う──


〝この、人殺し!〟


「っ!?」

 ──脳裏に、かつて浴びた、古いとうの声がよみがえる。反射的に顔をしかめる。

「……先生? どうかしました?」

「あ、いや」首を振る「君は、その……知らないのか、僕の、こと……」

「はあ?」

 きょとんとされた。

「それは知ってますけど。だから声かけましたけど。江間先生ですよね。今さら他人の空似だとか言い出しても聞きませんよ」

「そういう意味じゃなくて」

 息を深く吸い、乱れていた呼吸が落ち着くのを待つ。

「ごめん、変なこと聞いた。忘れて」

「はあ……まあ、いいですけど」

 納得できていない顔。無理もない。

 こほん、と、すぐ近くでせきばらいする声が聞こえる。見れば、中年の警備員が『こんなところでイチャついてるんじゃねえぞ』という目でこちらをにらんでいる。

 エントランスの真ん中で話し込んでいる間に、多少周囲の視線を集めていたらしい。

「──こんなところで立ち話もなんだし、出ようか」

 少し表情を引き締めて、促す。

「そ、そうですね」

 沙希未は少し恥ずかしそうな顔で、歩き出した。

「あ、そうそう。もしかして先生、こちらにお勤めなんですか?」

 いきなり何の話かと一瞬思うが、もちろん、この中央環境研究棟の話だろう。

「いや、僕は外部。警備とかの打ち合わせにちょっと呼ばれただけだよ。君は?」

「父がここで働いていて。今日は忘れ物を届けに。大事なデータの入ったUSBメモリ」

「へ、へえ?」

 おいおいおい。今時マジなのかそれ。

 そんなものを施設外に持ち出せてしまって、本当にいいのか。

 やはりここのセキュリティには、色々と問題があると思う。少なくとも、社内抗争の真っ最中であるというなら、敵に狙われる可能性に対して少しは備えておくべきではないだろうか。

 と、そのきようがくが表情に出ていたのだろうか、

「危ないですよね、やっぱり、こういうのって」

 ばつの悪そうな顔をされた。

「うんまあ。そうでなくても色々気をつけなきゃいけないご時世だし、株主にバレたら大騒ぎ確定だ。それにここ、最先端の研究をしてるんだよね?」

 周りを見回す、

「なら、狙ってる組織とかいるかもしれない」

「ですよね」

 正面口の自動ドアをくぐりながら、宗史は一度だけ振り返る。


 エントランス周辺の監視カメラは三つ。

 ただしそのうち二つはダミー。死角は多い。

 映像に残らない形で奥へ向かうルートは、ざっと七つ。

 ぱっと見渡しただけの宗史ですら、そこまでは把握できた。事前に少しでも情報を集めていれば、もっと詳しくわかったことだろう。

(いる、な……)

 去り際に、何人か。

 あからさまにその死角を縫うように動いている男たちを見た。

 そしてその目線の動かし方、立ち姿の重心の置き方、体重移動、すべてが素人しろうとのそれではなかった。

 スパイ。破壊工作員。まあ、その手のやつだ。それも、宗史のような半端者とは違う、それで飯を食っている本職者だろう。

(……そりゃあ、ここまで守りの甘い場所なら、ろうぜき者も入り放題だろうさ)

 先手必勝は、全世界共通の安全標語。これはつい先ほど聞いたばかりの言葉だが、どうやらそう言っていた当人は後手に回ってしまっているらしい。

(とはいえ、僕の関わるべきことじゃない、んだよな……)

 この研究棟はこれから、備えを怠ったことの報いを受けるのだろう。しかし、それが社内で完結したいざこざであるなら、無関係な外部の人間が口出しをするべきではない。

 江間宗史には、ひとつのルールがある。

『自主的に助けを求めてきた相手だけを、対価を受け取りながら助ける』

 安全と危険の境界線で生きていくうえで自ら定めた、身を護るための大切な法規。ひとときの感情で犯していいものではない。

 だから、今はただ、ここを離れるべきだ。そう、自分に言い聞かせた。


    ◇


 陽はとうに沈んでいる。

 強い雨が降っている。

 雨粒が銃弾のように、傘をたたいている。

 夜の街路。道を照らす街灯の光が、今はあまりに頼りない。

 雨音のせいで、話そうとしたら大声を出さないといけない。寂れているとはいえ、いちおうはビジネス街であるこのかいわいで、あまり声を張り上げたくはない。というわけで、会話はあまり弾まなかった。

 それでも、隣を歩くさなくら沙希未は、どことなく楽しそうに見えた。

「昔は、法学部いくんだって言ってたよね。弁護士の資格をとって、自立したオンナになるんだって。あれはどんな感じ?」

「あれは、あははー、まあ、幼き夢ははかないものと申しましてー。ああでもちゃんと次の夢は見つけまして、いまその途上です」

「それはよかった」

 六年のブランクである。かつての知り合いとはいえ、六年間互いに連絡をとっていなかった程度の間柄である。にもかかわらず沙希未はずいぶんと親しげに自分と話す。もともとそれほど社交的な性格でもなかったはずなのに。

 ここで「もしかして慕われていたのかな」だとか「あこがれの先生との再会で浮かれてるとかなのかな」のように都合よく考えるほど、宗史は単純ではない。自惚うぬぼれてもいない。

「先生に教わったいろんなこと、今でもよく覚えてるんですよ。イグアナの話とか」

「え、何だそれ、僕そんな話した?」

「しましたよ、つくだにしたらおいしいって」

「絶対別の話と混ざってるよそれ」

「そういえば、あの、かわいい彼女さんは元気です?」

「あー……たぶん、そうなんじゃない、かな?」

 かつてのようにどうでもいい話をしながら、沙希未は時々、表情を曇らせる。幼いころのように過ごすこの時間と、別の何かを比較するように。

 ──今の生活が、あまり楽しくないのかな。

 宗史はそんなことを考えた。

 老人になると昔話が増える系のアレだ。現在に充足していない人ほど、思い出は美しく蘇る。そして、思い出を再演できているかのような時間を──懐かしい人とかつてのように過ごす時間を──素敵なものだとして受け止める。

 だからこの娘はいま、宗史の隣で、本来以上に機嫌よく振る舞っているのだろう。

 失礼な想像をしている、とは思うけども。


 道が分かれている。右に曲がれば商店街を抜けてふかみち駅へ。左に曲がればビジネス街を抜けて住宅街へ。

「あの、連絡先交換、いいですか」

 一瞬、硬直してしまう。

 当然予想しておくべき展開だった。けれど考えていなかった。断るべきだと思った。いまの自分に、何も知らないこの子を、これ以上近づけてはいけないと。

「……そりゃ、いいけど」

 なのに、結局はそううなずいていた。

「今度、個人的な相談とか、してもいいですか」

「そりゃ」短いしゆんじゆんを挟んで「……いいけど。ただ、力になれるとは保証しないよ」

「保証はいいです、こちらで勝手に期待します」

「甘え上手だなあオイ」

 男としては、若い女の子に距離を詰めてこられれば、喜ぶべきなのだろう。下心も抱くべきなのだろう。もっとお近づきになってやるぜとか企むべきなのだろう。しかし、もちろんそういう気持ちにはなれない。

 あるいは。本当にこの子のことを思うなら、突き放すべきなのかもだろう。六年前とは違う。現在の江間宗史には近づくべきではない、そう教えるべきなのかもだろう。なのに、そうする気持ちにもなれない。

 ふたつの『べき』のどちらにも踏み切れない。あまりに中途半端だ。

「じゃあ、近いうちに連絡しますね」

 言って、沙希未は駅のほうへと向かった。

 小さく手など振りながら、その背を見送った。

 一人きりになると、雨音がいっそう大きく聞こえる。自分を取り巻く世界の灰色が、また色濃くなったようにも感じられる。

「……中途半端だな、ほんとに」

 わざわざ口にして、自分をわらう。

 今の自分の状況に満足していないから、思い出を再演するように、再会に浸る。なんのことはない、あれは自分自身のことだ。六年前に仲のよかった子供と、六年前のように親しく話すというのは、とても気分のいい時間だった。

 近くのビルの軒下に入り、スマートフォンを取り出す。アドレス帳を開き──一番上に沙希未の名前が増えているのを確認しつつ──『おしゃべり屋』を呼び出す。

 数秒のコール音の後に、通話がつながる。

『ヤァヤァ、江間ッサーンおつかれすー! んで今どこにいる?』

 軽薄な、そしてなぜか早口の男の声が流れ出す。

「例の研究棟を出て少し歩いたところ。悪いが、聞いてた話とだいぶ違ったんで、依頼は断ったぞ」

『あ、そいつはこっちでも確認したよ。ごめんこちらの裏取り不足だった、今度なんかで埋め合わせするから』

「あー」

 期待せず待ってる、と言おうとした。

 が、電話口の声は『それより』と言葉をかぶせてくる。

『すぐに離れて。その研究棟、いま、社内政争の破壊活動サボタージユを受けてる』

「あー」

 エントランスで見かけたあの連中か、と思った。

「巻き込まれるような場所にはいないよ。怪しい連中がいるなってのは見えてたし」

『そうじゃなくて、早く身を隠せって。とうたちが動いてる』

 一瞬。

 雨音がどこか遠くに消え去ったような錯覚をおぼえた。

 脳の奥のほうが、冷水を浴びせられたように冷え込むのを感じた。

 いるのか。

 あいつが。

 いま。

 あそこに。

「……懐かしい名前を聞いたな」

 過呼吸になりかけていた息を抑えながら、うめくように言う。

 産業スパイの仕事は、ほとんどの場合、目立たないものになる。パスワードのひとつ、機密書類の一枚を盗み出すのに、派手なガンアクションや格闘シーンは必要ない。派手なことをして、周りに余計な影響を与えてしまうと、せっかくこなしたばかりの仕事が無駄になることだってありうる。だからどうしても、地味になる。

 何事にも例外はある。

 梧桐は、その例外の請負人として悪名の高い一人だ。

 そして、江間宗史という個人にとっても、忘れがたい名前だ。

つぶされるのか、あの研究棟」

『たぶんね。一緒に潰れたくはないでしょ』

 それは嫌だなあ、と思う。そして梧桐の名が出てきた以上、これは、誇張や冗談ではなく、下手に関われば普通に命に関わる案件だ。

「そりゃもちろん──」

 答えながら、顔を上げる。

 目を疑う。

 遠く、雨に煙る視界の彼方かなた──先ほどの分かれ道を、ひとつの人影が走り抜けていくのが見える。傘は差していない、雨にれるのも構わずに、髪を振り乱して。

 輪郭もしかとは見えていない。そもそも視界に入っていたのは一瞬だけだった。それでも、それが誰のものなのかを、察せた。

 真倉沙希未。

 ついさきほどそこの道で別れたばかりの、彼女。

 なぜ道を引き返しているのか。それもあんなに急いで。

 そんなもの、ひとつしか考えられない。どうにかして父の職場の異常に気づいたのだ。そして、助けになるべく駆けつけようとしているのだ……そこで何が待ち受けているのかを、まったく知らないまま。

 最先端の研究をしている場所なら、よその組織に狙われてもおかしくない。つい先ほど彼女にそう吹き込んだのは、他でもない、自分だ。

『もしもし? 江間サン? おーい?』

「悪い」

『ん? どうしたん、何かあった?』

「あとでかけ直す」

『え、あちょっと、もしも──』

 通話を切り、スマートフォンをしりポケットに突っ込むと、

「死にたくねえんだけどなあ!」

 傘を捨て、豪雨の中を走り出した。

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