Ø5 何がそんなに嬉しいのか教えておくれよ
想星はそれとなく
白森は想星のほうを見ていなかった。授業中だ。四六時中、想星のほうに顔を向けているわけにはいかない。
(……がっかりするな、僕)
想星は自分にそう言い聞かせて黒板に目をやろうとした。その矢先だった。
白森がチラッと想星を見た。
一度見てから約二秒置き、もう一度、想星を見たとき、白森は含み笑いをしていた。
そのあと、白森はあさっての方向に目をやった。明らかにわざとだ。いたずらを仕掛けている。明確にそれとわかる
次に目線を送ってきたときは、もうチラ見ではなかった。
白森はちょっとだけ口を
(かっ──霊長類カワイイ科の生き物か……?)
想星は机の上で両手を握り合わせた。歯を食いしばり、両目のあたりに力を入れる。こうして懸命に自制しないと、まずい。叫んでしまいそうだ。一暴れしかねない。
†
教室にいると、常に
授業と授業の合間など、白森は同級生たちに話しかけたり、話しかけられたりして、おしゃべりをしたり、スマホで写真やら動画やらを見せ合ったり、笑ったり、とにかく一瞬たりとも静止していない。
白森が楽しそうにしていると、何かあたたかいもので
しかし、そうしてあたためられた胸がすぐにざわつきはじめる。
そのうち、居ても立ってもいられなくなる。どうも教室に
(何なんだ、この気持ちは……)
想星は席を立って教室を出た。
(トイレに……いや、でも、用を足したいわけでもない……)
とくにあてがないので、水飲み場で水を飲むことにした。水を一口だけ飲んで蛇口を閉めると、何者かが近づいてくる気配を感じた。目で見て確認する前に、想星はそれが誰なのか、はっきりとわかった。
(──僕は……)
そのとき、想星は気づいたのだった。
(教室で、いつもどおりみんなと盛り上がってる白森さんに、一抹の寂しさみたいなものを感じて──ていうか、嫉妬、してた。それで僕は、教室を出て……白森さん、来てくれないかなって。僕がいないことに気づいて、捜しに来てくれたりしないかなって。ほんのちょっとだけど、僕は──期待……してた……?)
「そぉーせぃっ」
白森が想星の肩を
「はぅっ……!?」
想星は息をのんだ。白森の接近は察知していた。白森に肩を叩かれたことに、想星は驚いたのだった。
「──しっ、あっ、しらっ、あっ……」
危うく彼女を、白森さん、と呼んでしまうところだった。
「あ、
「うぅ」
「えぇっ!?」
「まだ慣れない」
「あぁ、でも、すごい
「……そ、そお……です、かに……」
「かに?」
白森は首を
(……カ、カニさんポーズ……)
ちょっとした言い間違いが白森にカニさんポーズをさせるに至ったのか。だとするなら、それもまた悪くないだろう。
「か、かに、じゃなくて、かね、かな。かな、でもよかったのかもしれないけど……」
「そうですかな?」
「……変、ですかね」
「変かも」
白森はくすくす笑いながら、右手の人差し指で想星の右胸をつついた。
「やばっ。想星、面白っ」
「……い、いやあ、そんなことは……」
「あと、ね。なんかね」
「な、何でしょう」
「かわいい」
「……やだったりする? かわいいとか言われるの」
「いえっ?」
想星は慌てて首を横に振った。
「……い、いやでは、ない……よ?」
「ほんとに? 無理してない?」
「し、してない。言われたこと、ないけど……」
「初めて言われた?」
「う、うん」
「そっか。あたしが初めてなんだね」
「……です、ね」
「いぇーい」
白森が右拳を突きだしてきた。想星は目を白黒させた。
(な、何? どどっ、どうすれば……?)
パニクりながらも想星は懸命に正解を追い求め、白森の右拳に自分の右拳をそっと接触させた。
「初めて記念」
白森はそう言ってにこっとした。
(……正解──だった……?)
想星はその場にへたりこんでしまいそうだった。
「あのね」
間髪を
「……は、はいっ?」
「お昼」
「ひるっ?」
「お話したいなって。お昼ごはんのあと」
「……あぁ。それは……はい、よ、喜んで」
「渡り廊下で」
白森が今度は右手の小指を差しだしてきた。
想星は全自動約束マシーンと化したかのように、白森の小指に自分の小指を絡めた。
(指、やわらかっ。あと、ちっさっ……)
白森は女子の中では高身長で、想星よりほんの少し低いだけだ。脚など明らかに想星より長い。とはいえ性別が違うわけで、体格が異なる。手足は想星のほうがだいぶ大きい。
それにしても、
†
午前中の授業が終わると、
「
想星は聞こえなかったことにして無視しかけた。廊下に出てから思いなおした。
(……無視はまずいだろ)
廊下で待っていると、ワックーが駆けてきた。
「ちょいちょいチョイー! 何、何、何? あれ、高良縊、教室で食わんの?」
「……あ、うん、ちょっと、そうだね、今日はなんとなく……」
「へえ、そうなんだ?」
想星が歩きだすと、ワックーはついてきた。
「
「……何?」
「高良縊さ」
ワックーは
「あすみんと付き合ってる?」
(これ──って……)
想星は前方だけを見すえて、ワックーに肩を組まれたまま歩きつづけた。
(……言っていいのか……な? どうなんだろ。べつに、秘密にしよう、みたいなのはないし。でも……胸を張って言うようなことなのか……な? だけど、
想星は考えたあげく、うなずいた。
「……うん」
「やっぱり? だよなぁ!」
ワックーは顔をくしゃくしゃにして笑った。
「なんか、憶測で騒ぎたてるみたいな? そういうのはしたくないしね。や、でも、あすみん、いいよね。いいって、違うよ? 俺もいいと思ってたとかじゃなくて。何だろ。とにかく、いいと思うんだよな。うん。そっか、そっか。わかった。なんか、ごめんな?」
「……いや。ぜんぜん」
「それだけ!」
ワックーは
「チョイーッ!」
思わず想星も、敬礼のような仕種を
「チョイー」
「おっ!」
ワックーは片目をつぶって親指を立ててみせた。教室に向かって走ってゆく。
想星はしばらく立ちつくしていた。
(……初めて、チョイーできた)
†
(昨夜、
昼休みの生徒たちが行き交う渡り廊下で、想星は同級生の
あくまで、会話らしきもの、でしかない。
想星はろくに言葉を発していなかった。矢継ぎ早に話す白森に対して、へえ、とか、ふうん、と言ったり、ああ、とか、うん、とうなずいたり、なるほど、と返したりするのがやっとだった。
白森は話しても話しても話題が尽きないらしい。誰がどうしたとか、何とかという人がこんなことを言って、それがどういう波紋を呼んだとか、ユーチューブの何という動画がどうしたとか、ティックトックの何がどうだとか。大半は想星にとって未知の事柄だった。人はこうも次々と色々な話ができるものなのか。想星はいたく感じ入っていた。
「あっ、ごめん、あたしばっかり話しすぎじゃない?」
「いや! そんな、ぜんぜん!」
「うわぁ、ちょっと汗かいちゃった」
白森は左手で襟ぐりを引っぱり、右手で自分の顔をぱたぱた
(……汗、かくんだ。あたりまえか)
「ね、想星はさ」
「はいっ!?」
「放課後とか、どういうとこ行ったりする?」
「え、ほ、放課後?」
「うん。遊びにとか? 買い物? とか?」
「あぁー……」
(……あそ──ばないしな。買い物……は、まあ、しないこともないけど……)
ひねりにひねった想星の頭には、最寄りのショッピングセンターの名前しか浮かんでこなかった。
「イオン、とか……?」
「あたしもけっこう行く。結局、何でもそろうよね」
「そう……だね。不足はないというか」
「ないない。ご飯も食べられるし」
「あぁ、フードコートとか……」
「行く! こないだモエナと行った!」
モエナというのは
「しっ──あ、
「あぁっ! 今、
「……ご、ごめん」
「むー」
白森が頬をふくらませた。想星は倒れそうになった。
(……むっとした顔がかわいいとか。もう、いっそのこと、ずっとむっとしててもらってもかまわない……)
「じゃ、明日美って十回言って」
「──へっ」
「罰ゲーム!」
「あ、えと、うん……」
想星は正確に十回、明日美、と
(恥ずかし……)
それじゃ、と白森が自分を指さした。
「これは?」
思わず想星は、白森の顔をまじまじと見つめてしまった。
「……明日美」
「ぴんぽーん!」
白森は指を折りながら、想星の名を口にした。
「
十回言い終えると、
「……これは?」
想星が自分を指さすと、白森はにやけた。何かとてつもなく喜ばしい、特別な出来事でも起こったかのようだった。
「想星」
白森はただ想星の名を呼んだ。それだけだった。
(……それだけなのに、何かとんでもなく
初めのうち、想星は通りかかる生徒たちの目が気になって仕方なかった。いつの間にかどうでもよくなっていた。
(なんでだろ……)
「そうだ、想星」
「──っ!? な、何……?」
「放課後、イオン行かない?」
「……ほうっ──」
想星はとっさに右拳を自分の顎に押しあてた。
(もちろん、行きたい──けども。放課後か。放課後にイオン。白森さんとイオンかぁ。何するんだか、さっぱりわからないけども。でも……とくに何もしなくたって、白森さんと一緒なら……──)
「どう……かな?」
白森の声が不安げに揺れた。想星は胸が
(昨夜、十回死んで、一人殺した僕が、放課後、白森さんと──)