Ø1 普通の僕にはありえない(1)
「でも、なんか想星ってさ──」
想星は手を洗っていた。同じクラスの
休み時間に同級生と連れだってトイレに行く。用を足したあと並んで手を洗う。ごく普通の高校生として、何の変哲もない、ありきたりな行動のはずだ。
「変だよね」
雪定は言いながらくすくす笑っている。想星は首をひねった。
「……そうかな」
雪定は手洗い器の蛇口を閉めた。不思議そうな顔をしている。
「え? 自覚ないの?」
「ううん……」
想星はとっさに答えを濁した。
(自覚──はある、けど。心外っていうか……)
少なくとも学校では、想星なりにずいぶん注意して生活してきた。そのつもりだった。
「変って、たとえばどこが?」
想星が
「手」
「──て?」
「想星、やたらと長いよね。手を洗う時間が」
指摘された想星は、
「……長い? かな? 長い? そんなに……?」
「長い、長い」
雪定は、ふふ、と含み笑いをした。
「そんなに丁寧に手を洗う人って、めずらしくない? お医者さんみたいだよ。手術する前の外科医とか」
「いや、外科医って……」
違うし、とか何とか
(そういえば、あれか。みんな、けっこう早いもんな。雑っていうか。僕の感覚だと、雑すぎる……でも、むしろあれくらいが普通なのか。そっか。気をつけなきゃ……)
雪定が喉を鳴らすような笑い声を立てた。
「拭くのも入念だよね」
「……そぉ? かなぁ……」
(うっわ。拭きが甘い。気になる……)
けれども、普通の高校生はそんなに手を拭きまくらないというのなら、やむをえない。
(我慢しよ……)
想星の口からため息がこぼれた。
「ところでさ、想星」
「うん」
「今、彼女、いる?」
「何て?」
想星が思わず
「彼女。いる?」
「……イル?」
想星には、その単語が耳慣れない外国語のように聞こえた。
「クァノジョゥ……?」
もちろん、彼女、というのは一般的な日本語だ。とくに文章の中にはよく出てくる。ある女性を指す。三人称の代名詞だ。
しかし、雪定が言った「彼女」は違う。彼氏と彼女の彼女、すなわち、恋人のような特別な関係にある女性、というか、恋人のことだ。
想星と雪定は高校一年二年と同じクラスなのだが、これまでそうした事柄が話題に上がったことはほぼない。いや、ほぼ、どころか、一度もなかった。
それなのに、なぜ雪定はいきなり想星に恋人の有無を確認するような
想星と雪定が所属する二年二組に、
白森は女子の中では背が高いほうで、百七十センチ近くある。すらっとしていて、頭がすごく小さい。七頭身から八頭身の、いわゆるモデル体型だ。聞いたところによると祖父だか祖母だかが外国人らしく、肌や毛髪、瞳などの色素が薄い。
ちなみに、想星の身長は百七十センチ前後だ。目や鼻や口が大きいとか小さいとか、えらがやけに張っているとか、その逆とか、そうした特徴らしい特徴はない。成績も平凡で、見るからに凡庸な、どこにでもいる普通の高校生・
かなり遠い。違う惑星に住んでいるのではないか。そんなふうにすら思えるほど遠すぎる存在なのだが、実を言うと
ただなんとなく、ではない。白森の見た目が特異だから、ようするに容姿が秀でているから、でもない。
理由は、視線だ。
二年で同じクラスになった白森が、どうも想星をちらちら見ている。
(──ような、気がするだけか? 勘違いかな。気のせい──だよね……?)
最初はそう思った。しかし、やはり白森に見られていると判断せざるをえない状況が続いた。明らかに白森は、不自然なまでに高い頻度で、想星に視線を向けてくる。
(ひょっとして──)
次第に想星はこう考えるようになった。
(人は見かけによらない……ことも、たまにあったりするわけだし。白森さんは、もしかして──あちら側の人なんじゃ……?)
学校にいる間、もっと言うと、せめて学校にいる間だけは、想星はどこにでもいる普通の高校生でありたかった。
大勢ではないにしろ、
白森のことが気になっていた、という表現は適当ではないだろう。想星は白森を怪しんでいた。警戒していたのだ。
その白森と、雪定はこの間、帰りの地下鉄で偶然、一緒になったのだという。
「おれも白森さんも一人で。おれ、イヤホンして音楽聴いてたんだけど。あ、どうでもいいか。それは」
たしかに。それはどうでもいい。
「白森さんが『林って、
(まあ友だち──)
想星はかすかに胸が締めつけられた。
(まあ……まあ、か。まあ友だち、くらいか。そうだよな……)
雪定とは学校でしか会わない。ラインは交換した。やりとりは一度か二度。これでも想星としては最大級の親しさだ。それ以上、たとえば普通の友だち同士のように、放課後、遊んだりするとなると、なかなかハードルが高い。
「それでさ」
雪定はさらりと言った。
「
「へえ……」
「……ぇえ?」
「そういえば、想星、彼女いるのかなって。考えてみたら、おれも知らないし」
「あぁ……」
想星は噴きだしそうになった。べつに面白くも
「いないよ? 彼女? 僕に? いやいやいや……ないって。ないでしょ。いるわけないし。そんな、僕に彼女とか」
「なんで?」
「え? なんで? いや、なんでも何も、僕だよ? 彼女とか、いるわけなくない?」
「いるわけないってことはないんじゃない? あ──」
「想星、自分のこと『僕』って言うよね。それもわりと少ないよね」
「そ……ぉ、かな? まあ、比較的……少数派なのかも? ね、うん……」
想星はどこにでもいる普通の高校生を目指していた。だから当然、中高生の年代ではより一般的な「俺」という一人称に挑戦してみたこともある。
(……なんか、違和感がね。拭えないんだよな。俺、はね。自分が自分じゃないような気がするっていうか。しっくりこなくて、恥ずいっていうか……)
「じゃあ、いないってことでいいんだよね」
雪定に念を押されて、想星はうなずいた。
「うん。いたことないし……」
彼女が欲しい。想星もそんな望みを抱いたことはある。
(──でも、無理だろ、みたいな。だいたい、誰かを好きになったこともないし。たぶん、これからも……一生、ないだろうし。僕に彼女とか、ありえない──)
そのあと雪定は、高良縊想星に彼女はいない、と白森に報告したようだ。
すると今度は、伝言を頼まれたらしい。雪定
(……決闘、とか? 果たし合い的な……?)
想星の脳裏に、剣客とガンマンが一騎討ちに臨もうとしている光景が浮かんだ。
(渡り廊下で? 校内の……?)
場所がおかしい。剣客とガンマンが戦うのも変だ。というか、どこから剣客とガンマンが出てきたのか。
(──