第一話(1)
どこか身の入らない受験勉強の果てに、希望校にはなんとか入学できた。
東京都八王子市の私立
我が家から最も近いマンモス私立校で、我が家から最も近いからこそ選んだ学び舎だ。
もう恋なんてしないぞ! と決めていたのだ。それもこれも中学時代の告白失敗が原因。
よくある勘違いパターンなのだろう。中学の入学式からやけに慣れ慣れしく、クラスでは隣の席になりがちで、ボディタッチも多い。一緒に陸上部入らない? とか提案までしてくれた。だからずっとずっと勘違いしていたのだ。気が付いたのは告白が失敗した、その瞬間だった。
卒業までの一年間、俺は周囲からヒソヒソと『告白失敗系男子』と笑われていた――気がしただけで、それは思い込みかもしれなかったが、それでも気が休まらなかった。少なくとも女子グループからはネタにされ続けた。
同じ高校に進学した幼馴染(男)から言わせると「三年まで待ったなら普通は卒業式当日か、直前だろ。失敗したときのことを考えろ」と失敗した後に言われたので、言ってやったね。
「助言が遅いわ!」って。
頼んでもないのに好感度を教えてくれる、ゲームの友人キャラを見習ってほしい。
閑話休題。
とにかく俺はそういうわけで、恋愛はもうこりごりだった。
勘違いもしたくなかった――そう信じていた。
中学時代。好きな子がいるというだけで在籍し続けた陸上部。
長距離で都大会まで出場したけれど、高校では悩むことなく帰宅部デビューした。元々、本好きで部屋に籠りがちだった人間だ。理由がなければ陸上部に入りなおす必要もない。
今、俺が時間をかけているのは、小説を書くことだ。
執筆活動に年齢は関係ないし、WEBに上げれば読者もつくし、カクヨムにアップすればPV数に応じてお金まで入ってくるのだから、やらない手はない――のだが、なんというか、何を書いても『まだ面白くできるんじゃないだろうか……』と公開をためらってしまっていた。
もちろん恥ずかしさもあるし、批判される怖さもあった。
誰に見せるでもなく、何に応募するでもなく、未公開原稿だけが溜まる日々。
恋を馬鹿にされたみたいに、皆の意見にさらされるのが怖い――そんな気がしている。
高校に入って、より一層、人間関係も希薄になっている自分に『俺、大丈夫か……?』なんて、ちょっとだけ危機感を覚えてもいた。
それでも。
人生を変えるきっかけなど見つからないまま、イケメンの幼馴染がすでに二人からも告白されているのを横目に、粛々と登校しては孤独に下校する日々。
――入学してから二週間が経過していた。
*
放課後の図書室は格別だ。
解放感があるし、すべてが無料。
葵高校は、生徒数の多い私立高校だけあって、各種施設の充実度が高い。
図書室もその例にもれず、純文学からラノベまでと幅広いジャンルを兼ねそろえていた。
一角にはパソコンが並び、学びに関することであれば自由に使える。許可が下りればプリンターなども貸し出されるのだから至れり尽くせりだ。
平日の放課後。
俺は、誰に見せるでもない超大作の執筆に取り掛かる前に、図書室で調べ物をしていた。転生した後の世界で生き延びる方法を考え始めたら、疑問ばかりが芽生えたのだ。ググってもよかったが、なるべくなら出典先と根拠がしっかりした情報を使いたい。
目当ての本を手に入れて、着席。いつも使っている席が空いていたので安心した。やっぱり定位置というのは死守したくなるものだ。
公共の場では、必ずといっていいほどイヤホンをつける。集中する為と言えば聞こえはいいが、人の会話が気になって集中できないタイプといったほうが正しいだろう。直るものなら直したいが、性質なので受け入れるしかない。
なんとなしに周囲に視線を走らせてしまうのも、悪癖の一つ。
ふと、視線が止まる。
隣接するブースにパソコンが並んでおり、その一番手前――つまり俺の席から覗こうと意識しなくても画面が見える位置に、一人の生徒が座っていた。
おそらく、女子。
たしかにスカートをはいてはいるが、フード付きの上着を羽織り、なおかつそれを被っているという鉄壁ぶりなので、後ろ姿だけでは確定ができなかった。男子がスカートはいているだけかもしれない。葵高校はそういったルールには寛容だった。
それにしても、フードか。
勝手ながら親近感を覚えてしまう。
おそらく、フードさん(仮称)も周囲の視線や物音が、気になってしまうタイプなのではないか。だから心の防御として、物理的に顔を隠しているのだ――もちろん勝手な推測でしかないし、間違っていたら失礼だけども。
フードさんは表計算ソフトのExcelを使用しているようだったが、どうも電卓を使っているような気配もある。慣れていないのだろうか。関数を使用すれば、すぐ終わるのに。
……まあ、いいか。
気にするのも失礼だ。チラチラと様子を窺うなんて、配慮が足りなすぎる。
心の中で謝罪しつつ、俺は本来の目的に戻った。とにかく調べ物を終えてしまおう。
時計を見る。十七時十分を過ぎていた。部活動をしていない一般生徒は十七時半には下校しなければならないので、ぎりぎりの時間だった。
本を返そうと席を立った。読書に集中しすぎていたせいか、視界がふわふわとしていた。圧迫感から逃れるようにイヤホンを外す。
で、目に入った。
フードさんが頭を抱えて、悶えている。
ど、どうした……?
ディスプレイを見ると――表計算に、変な文字列。強調されているセルに『p;ひょんp;』と出ていた。これはあれか。誤入力によるセルデータの上書きといったところか。
一番下のセルである。手計算してきた結果を打ち込んだ箇所だったっぽい。可哀そうすぎる。執筆中にWordがエラーを起こしたときと同じで、気持ちはよくわかる。
本来なら間違いなく見ない振りをする――のに、今日に限って、背後から話しかけてしまったのは、読書に集中して頭が疲れていたせいだろうか。努力が泡となって消えた相手を、ただただ不憫に思ってしまった。
「大きなお世話かもしれないけど……『元に戻す』ってボタンを押せば、戻らないか?」
背後から声を掛けると、フードさんの肩がビクン! と上がる。こちらを振り返ることなく、か細い声が返ってきた。どうやら生物学上は女であるっぽい。
「ほ、保存してしまいました……」
涙声。
よくわからなくて、とりあえず保存しちゃった感じか。気持ちはわからないでもない。
「ああ、でも、元の数値は残ってるな。計算しなおせばいいだけか」
「ですが、すでに下校時間です……」
俺はぐいっと、身を乗り出して、マウスを取る。
相手が変な反応をしたら面倒だな、と思いつつ――幸か不幸か相手は、俺が操作しやすいように軽く椅子を引いてくれた。
「そういうときこその関数だよ。このボタン押して、ここを範囲選択して……ほら、自動計算してくれる。他にも色々とできるし、ハウツー本も図書室にあるから読むといいよ」
「え? あ――す、すごい! すごい才能ですね?」
褒められた。おおげさすぎて、少し照れる。
いや、もしかするとExcel先輩の才能を褒めているだけかもしれないぞ。調子に乗らずに適当に会話を切り上げて、さっさと立ち去ろう。
「このぐらいなら誰でも……それにしても、よくこんな行数を手打ちした――っ?」
思わず、息が止まる。
咄嗟に、身を引く。
天使が引いた恋の弓矢から逃れるように――待て待て、なんで俺は詩人になってんだ。
落ち着け。落ち着こう。
まず目の前に何がいる?
――天使がいた。
いや、ちょっと大げさだ。落ち着くんだ。
つまり図書室のパソコンの前でフードを被っていたのは、天使みたいな美少女だった――あ、ダメだ。美しさの前に表現力が天に召されてしまった。天使しか言葉が出てこない。
恥ずかしさと共に、恐るべき事実に気が付く。俺は先ほどまで、こんな美しい存在と、自分とを同価値に捉えていたのか――でも、心のどこかでは親近感を捨てきれない。
パソコンの前に座っていた女子生徒は、俺の反応をどう思ったのか、慌ただしく立ち上がると、頭を下げた。
「ご親切にありがとうございました。パソコンが苦手で……――あの、失礼ですが、先輩でしょうか?」
「い、いや、一年です」
本来ならネクタイの色でわかるのだが、放課後なのでネクタイを外していた。
「あ、わたしも一年です。A組の
名前を聞いたことがある。
校内には何人かのアイドル生徒というか、レベルが違う生徒がいる。そのうちの一人の名前が確か――西地野詩乃。
何かと伝達の遅い幼馴染が、この前くれた情報だが、やはり遅かった。もはや手遅れである。
「俺はF組の、安藤……海斗」
「安藤さん、ですね――あ、すみません、フード被ったままで、失礼しました」
天使――いや、西地野さんはフードを取った。瞬間、風が吹いた気がした。
まず、驚くほど透き通って見える銀色の髪に目がいった。呼吸も体感時間も停止した世界の中で、唯一、砂時計ようにさらさらと零れ落ちている。
背はそんなに高くないが、腰の位置がめちゃくちゃ高い。手足は強く握ったら折れてしまいそうなほどに細い。唇は信じられないほどの薄桃色で、肌は雪と見まがうほどに白い。
そして極めつきは瞳だった。色は、見慣れぬ緑色。翡翠の宝石を丸く削って、はめ込んだみたいだった。
総じて、冗談みたいに作り物めいている。何かの間違いで人間に生まれてしまった天使みたいだった。想像の天使以上に天使だといえる天使だった。語彙力が天に召されていく。
天使がささやいた。
「安藤さんは、パソコン、お詳しいんですか?」
「か、簡単なソフトなら、使い方がわかる程度で……たいしたことないかな、ですね」
日本語がわからなくなってきた。心臓が口から出そうだ。
「それでもスゴいです。お声を掛けてくださって、助かりました」
下げられる頭。つむじまで可愛い。
「……っ?」
容姿の整った人に褒められると、こんなにも嬉しくなるのか。初めて知った感覚だ。
異常事態だった。心臓の位置が、耳に移動したみたいに、ドクンドクンと音がした。
そんな中、西地野さんが、
「あ、そうだ、実は、あ、でも、そうか――」
と、何かの迷いを口にしたのと、帰宅を促すチャイムが鳴ったのは同時だった。
今日ほどチャイムを爆破したいと思ったことはない。
西地野さんの言葉は途切れ――しかし、すぐに上書きされた。
「あの、今日は本当にありがとうございました。ご縁があれば、また、どこかでよろしくお願いします」
「いや、こちらこそ、どうぞよろしくです……」
そこからの記憶が、あまりない。
頭を金づちで何回も叩かれた後に、額にバットを当ててぐるぐると回った後みたいだった。世界が回転している。それはベッドに入るまで続いた。
――あ、ダメなやつだ、これ。
ようやく気が付いたのは、翌日の朝。
夢に西地野詩乃さんが出てきたことで、自覚した。
ぼんやりとした夢の世界。彼女の緑の瞳が、銀色の髪とフードの陰から、こちらをまっすぐに見つめていた。
勝手に親近感を覚えた相手――西地野詩乃さんは、遠くに在って、近くに見える。高嶺の花とは別ベクトルの特別な存在。
オーケー。
わかった。
認めます。
俺はどうやら西地野さんに、一目惚れをしてしまったようだった。
もう恋なんてしない! なんて決意はロケットに積載されて、宇宙の彼方へ飛び去っていた。