第一話(4)
†
翌朝。
いつものように目が覚めた。
ベッドに上半身だけ起こしている僕。
窓の外から朝日、スズメの鳴き声がチュンチュン。
オカンが「いつまで寝てんの!」と怒鳴り込んできても「おー……」としか返事ができず、乾きかけた食パンを牛みたいにもしゃもしゃ咀嚼し、洗面台に立って歯ブラシを口にくわえながら、気の抜けた自分のツラが鏡に映っているのをぼんやり眺める。
毒気が抜かれた、とはこういうことを言うのだろう。
僕はまるで、陸で干からびてるクラゲみたいな気分になっていた。
(なんか……ボーッとしちまってるなあ)
赤信号を渡ろうとしてトラックからクラクションを鳴らされる。
満員電車で足を踏まれ、誰かの肘で脇腹をえぐられ、フルーツパーラーのジュースみたいに圧搾される。
学校に到着すれば校門の取っ手に学生服を引っかけて派手に転び、教室にたどり着いて自分の席に座れば委員長から冷たい目で見られ、ギャルからは眼中に入れられず、文芸部員は本にかじりついて僕を黙殺し、ヤンキーからは「なんだオメー、生きてんのか死んでんのかわかんねー目ェしやがって。学校来てんのに腑抜けてんじゃねーぞコラァ。罰として今日はカレーパンとフルーツオレな」と言われても無言で頷くことしかできない僕は、ある種の賢者タイムなのかもしれなかった。
(女かあ)
ただ一文字、たった三画。幼稚園児だって読み書きできる最高にシンプルなフォルムをしたその漢字を除けば、今の僕にとってあらゆることがノイズでしかない。
女。
女、女、女。
欲しいか欲しくないかでいったら、欲しいに決まってる。
クラスメイトは交尾のことしか頭にない低脳ぞろいだけど、僕だってそのカテゴリに振り分けられている一匹のサルなんだもの。
僕はそういう連中とは違う、とイキがってみたところで。いくらクラス内カースト最底辺の雑魚だとしたって。やっぱり健康な青少年なんだもの。欲しいよねえ。いや欲しいよ。ホント。喉から手が出るくらい欲しいともさ。
でもね。
だけどね。
(いやいやいや! ないわ僕!)
机に突っ伏して頭を掻きむしる。
そんなウマい話あるわけないだろが!
だって夢の中の話だぞ、あれ!
もうひとつの現実? 僕の夢が世界にも影響する?
馬鹿言っちゃいけない。そいつはもう一線を越えた夢物語、それこそ病院に強制収容されても文句の言えないパラノイア。なのにまあ、自分で勝手に見た夢に勝手に希望を持って、いざこうやって現実に戻ってきたら自分の馬鹿さ加減に力が抜ける。自作自演、自家中毒、マッチポンプ。どう呼んでもいいが、まったくイヤになるよ。まんまと言いくるめられちまってさ!
だからといって僕の力がなくなったわけじゃないから、今夜もまた好き勝手な夢を見ることができるんだろうけど。でもやっぱり、昨夜と昨夜より前の僕とでは、何かが決定的に違ってしまった気がするんだ。だってもう認めちゃったもんね。夢の中でどれだけ王様気取りやってても、僕は、僕が軽蔑していたサルどもと何の変わりもない、いやそれ以下のゴミだってことを、認めちゃったんだから。
たぶん僕は、昨日までの僕ではもう、いられない。
あいつに言わせれば、あのペスト医者のコスプレをして僕の夢の中に現れては好き勝手にやっていく、ボイスチェンジャー声のあのヤブ医者に言わせれば、『完治はできなくても緩和はできる』ってことなんだろうか。
ていうか結局なんなの? あいつって。
つーか恋人なんてどうすりゃいきなりできるんだよ。出会い系のアプリに登録してるわけでもないのに。いやていうか、それもこれもぜんぶコミコミで夢なんだから、こんなこと考えてる時点で何もかも虚しい。なんかもー何もかも面倒になってきたな……出家してどっかの寺にでも入るか……それともシンプルに死ぬか、そろそろ。
……と。
そんな風に頭を抱えている時だった。教室がざわつき始めたのは。
「誰あれ?」
「いや知らねーよ」
「ヤバくね?」
それこそ周囲に異常事態を知らせるサルさながらに、クラスメイトたちが口々に声をあげている。陸にあがったクラゲになっている僕の反応は鈍い。警戒音が耳に入っても意識まで届いてこない。
「転校生?」
「ウチのクラスに?」
「やっば。可愛すぎるんだけど」
つかつかつか、と。
誰かがこちらに向かってくる足音が聞こえる。
ノイズだらけの教室にあって、その音だけはやけによく響いて聞こえる。
「やあ」
誰かが机の前に立った。
僕は突っ伏すのをやめて顔を上げた。
思わず息を呑んだ。
美人だった。
つやつやの黒髪。きめ細かい肌。すらりと長い手足。細すぎず、付くべきところにお肉の付いたバランスのいいスタイル。
訂正。めちゃくちゃ美人。短いスカートからのぞく太ももがおっそろしくエロかった。そして制服の上からでもわかるくらいに胸が大きい。
この時の僕は、陸で干からびてるクラゲ状態だったから。そんな美人が目の前に立ってアルカイックスマイルを僕に向けていてもまだ、脳みそが豆腐になったままだ。
そしてそいつは、そのとびきりの美人は。
僕にキスをした。
何のためらいもなく、それがひどく自然なことであるように。
「……は? え?」
「ごあいさつな態度だね。ぼくは約束を守りに来たというのに」
エロいスタイルからは想像のつかない、鈴を転がすような、どちらかといえばロリ寄りと言えそうな声。そのギャップがまたぴたりとそいつにハマっていて、その声が鼓膜をくすぐるだけでも背中がぞくぞくする。
その瞬間の教室は、ちょっとした見物だった。
ぴたーっ、とキレイに時間が止まっていたからな。委員長も、ギャルも、文芸部員も、目をまん丸に開けて黒髪の美人と僕に釘付けになっていて。ヤンキーに至ってはアゴが落ちるくらい口をあんぐり開けて、ひどい間抜け面を晒していた。つくづくその時ばかりはスマホの電源を入れておけばよかったと後悔したよ。動画を撮っていれば最高のネタになっただろうに。
とはいえまあ、そのとき最高に馬鹿っぽい顔をしていたのは、他ならぬ僕だろうけど。
「病める時も、健やかなる時も」
美人はくちびるにそっと指をあてながら、
「ぼくは医者だ。目の前にある病に対して責任を放棄することはない。それに言っただろう? ぼくは君のことを好ましく思ってるんだ」
そう言って、ちょっと照れたように頬を染める。
その仕草がまた反則級に可愛くて、そしてそれ以上に僕は、そこに至ってようやく気づいたのだった。そのセリフ、その言い回し。声の質こそ夢の中で聞いたのとはぜんぜん違うけど、でも明らかにそいつは、目の前にいるこの、いきなりマウストゥマウスをぶちかましてくれたこのクソ美人さんは──
「よろしくね佐藤ジローくん。今日から君はぼくの恋人だよ」
†
天神ユミリ。
理不尽をなぎ倒し、不合理を蹴散らし、不可能をあざ笑う女。
世界の危機を未然のうちに防いでいた、孤高にして唯一の存在。
これは僕、佐藤ジローが。
そんな彼女を殺すまでの物語。