第一話(3)
「これは中々の脅威だよ。想定される最終的な被害の規模もけた外れに大きい。誇張ではなくこれは世界の危機だ。そしてぼくにとっての危機でもある。なにせぼくがこれだけ手こずる症状は、君が初めてだから──というか、ただ好き勝手に夢見るだけでまったくの無害な存在なら、わざわざぼくが出張ってきたりはしない。そこまでぼくはヒマじゃないよ。君の優先度はとても高いのさ。くり返すが君は世界の危機だ。何をおいても対処しなければならない、最優先の事案なんだ」
ペスト医者は語調を強める。
どちらかといえば飄々とした、人を食ったしゃべり方をするヤツだけれど。この時ばかりは声に真剣な色が混じる。
「君は自分を取り巻く環境に行き詰まりを感じているね?」
ペスト医者はさらに言う。
「そしてこんな世界はクソだ、とも思っている。違うかい?」
ちがわない。
100パーセント間違いなくそう思っている。
「だったらやはり君は危険だ。ガンジーなみの平和主義者だったとしても好き勝手に夢を見るのは危なっかしいのに、世界を敵視している人間が持っていていい力じゃない。どうにかして処置を施さなければならないね。完治はできなくても緩和はさせてみせる、医者の腕の見せ所さ」
「ふうん。そっか。なるほどな……」
ペスト医者の言葉を僕はゆっくりと咀嚼する。
ここへきてようやく状況が見えてきた。なるほどそういうことだったのか。ペスト医者が夜ごと現れてはしつこく僕の邪魔をしてきた理由。はいはいなるほどね、コイツの言うことが本当であれば辻褄は合う。そうかそうか、そういうことでしたか。
こいつはまあなんとも。
いい話を聞かせてもらったもんだ。
「大体わかった」
僕は言った。
これまで感じてきた焦りは、もう影も形もない。
「もう一回訊く。他人の夢の中に入り込んでまでペスト医者のコスプレをしているお前は、いったい何なんだ?」
「コスプレとは失礼な。この姿はぼくの心意気だよ。中世ヨーロッパで黒死病が流行した際に活躍したペスト医者の多くは、名も無き市井の人々だった。彼ら彼女らは、必ずしも適正な治療を施せたわけじゃないし、そもそも職にあぶれて食いっぱぐれたならず者たちが渋々ながら役職を務めていたのも事実だろうけど、それでも彼らは自らのリスクを顧みずに病疫のはびこる各地を巡って──」
「いやそういう説明はいいから。とにかくお前は世界を治す医者で、僕の夢の中に平気で入り込んでは僕を一方的に痛めつける力を持っていて、それでもなお僕を治すことはできないと。そういう認識で合ってるか?」
「いささか乱暴な解釈だけどね。大筋で合っているとも」
「お前の言ってることが正しいなら、僕は世界の危機と言えるくらいの力を持ちうる存在なんだよな?」
「うん。その通り」
「でもってお前は現時点で、僕を根本的にどうにかすることはできないんだな?」
「業腹だけどね。その通りだとも」
「そして僕の夢は、いずれ現実を浸食する」
「その通りさ」
「そうか。わざわざ教えてくれてありがとよ」
皮肉ではなく本気で感謝だ。
我ながら邪悪な笑いが腹の底からこみ上げてくる。
だってこれは典型的なタナボタで、しかも敵が塩を送ってくれてる状況じゃないか。それこそガンジーだって笑いが止まらないだろうよ。
「決まりだ。僕は世界の敵になる」
僕は言った。
「そしてこの世界をひっくり返してやるよ。僕の夢は現実を浸食するんだろう? つまり『現世は夢、夜の夢こそまこと』がマジになるってことだ。いいねいいね、クソつまんねー人生がやっと面白くなってきやがった」
「そいつは困ったね」
「勝手に困ってろヤブ医者。でも感謝はするぜ。ご褒美に、新しい世界を作った暁にはお前を大臣か大統領にでもしてやろうか。僕の忠実な部下としてせいぜい励むといい」
「ご丁寧にどうも」
くっくっく、とヤツは笑う。
王を前にして笑うとは何事だ。今すぐ死刑にしてやってもいいんだが?
「いや何、なんだか愉快な気持ちになってしまっただけさ。これは褒め言葉で言うんだが佐藤ジローくん、君は善人だな」
「善人? 僕が?」
「ああ君がだよ。君の夢の世界、すなわち心象風景を見れば一目瞭然だ。好きなだけ自分の欲望を発散できる場で、なおかつ力を持っている自覚があるにもかかわらず、やっていることが実にせこい。王様気取りで飲めもしない酒宴を開いてみたり、現実の気に入らない女の子たちをせっかくドレイにしているのに、やることはスカートを短くさせるだとか下着を見せてもらうだとか──ここは君が好きにできる世界、欲望がダダ漏れになっても誰も文句を言わない自由な場所なんだぜ? 目についた女性を手当たり次第にレイプしてはらわたを引きずり出し、刎ねた首をテーブルに並べて生き血をすする、ぐらいのことはやるだろうと踏んでいたのに、君ときたら、ねえ? 実に可愛いんだもの」
「……馬鹿にしてんのか?」
「逆だよ。好ましく思ってるんだ」
その言葉を僕は信じなかった。
なめやがって。
いいぜわかった。だったら見せてやろうじゃねえか。
「──むっ?」
ヤブ医者が驚きの声をあげる。
当然だろう。ヤツの目の前で、僕は急速に自分の姿を作り替えつつあるのだから。
わかりやすい巨大化と肥大化。骨格が急成長し、筋肉が爆発的に膨らみ上がり、肌の色は闇のように黒々と染まり、鎧のようなウロコがびっしりと外皮を覆っていく。
「
ヤブ医者が僕を見上げて言う。
その通り。今の僕は俊敏さと力強さを兼ね備え、空を舞い炎を吐き散らす、獰猛極まりない、正真正銘の怪物だ。
耐性をつけた、とヤブ医者は言ったがそれだけじゃない。夢が駆逐され、そして復活するたびに、僕は僕の力がどんどん増しているのを感じていた。その気になればこのくらいのことはいつだってできたんだ。それをさんざん小馬鹿にしてくれやがって。
まさに逆鱗に触れた、というやつだ。
これで立場は逆転。
「さあどうしてくれようか」
僕は言う。
竜の声帯が発する重低音が、周囲を圧して響き渡る。
「炎で丸焼きにするか、爪でバラバラに切り裂いてやるか。それとも一息に腹の中に飲み込んでやるか。好きな死に方を選ばせてやる」
「おお怖い。何度も説明したとおり、ここはもうひとつの現実世界でもある。夢の主である君ならいざ知らず、招かれざる客であるぼくがここで殺されればタダでは済まないだろうね。きっと現実のぼくも連動してダメージを受ける──いや十中八九、心臓マヒか何かで現世とおさらばだ」
「だったら命乞いのひとつもしてみたらどうだ? それとも今の僕と戦ってみるか? お前が何者なのかよくわからんけど、それでも今の僕ならわかる。お前はたぶんべらぼうに強い。でも今の僕は、そのお前よりもっと強いぜ?」
「ふむ。命乞いか、あくまでも抵抗して戦うか──悩ましい二択だけど、ぼくは君に第三の道を示したい」
「なんだ? 尻尾を巻いて逃げ出すとか?」
「いいや」
ヤブ医者は首を振る。
「君、恋人が欲しくはないか?」
……。
…………。
………………。
「え? 何? 何の話?」
「言葉どおりそのままの意味だよ」
ヤブ医者は言う。ボイスチェンジャーっぽい不快な声で。
仮面の下の顔はたぶん、しめしめとほくそ笑んでいるだろう。
「恋人が欲しくはないか、と訊いている。夢の中の話じゃない、現実世界の話だよ。君がクソだとこき下ろしている、退屈で救いようのない世界で、好きなだけイチャつくことのできる生身の女が欲しくはないか、と訊いているんだ」
不覚にもポカンとしてしまった。
一体こいつは何を言っている?
「欲しくない、とは言わせないよ。そうでなければ見るはずもない夢を、君は毎晩見ていたのだから。繰り返すが欲しくはないかい? またとないほど美人で可愛くて、おっぱいも大きくてスタイル抜群な、それでいて君のことが大好きな女──病める時も健やかなる時も君に寄り添う、理想的なパートナーが、欲しくはないかい? ぼくは君にそれを提供することができる」
アホだなあ、と我ながら思う。
僕は前のめりになってしまった。我ながら馬鹿っぽかった。
「え、それってマジの話してる?」
「マジだとも。100パーセントの大マジさ」
「恋人って、一緒にお話してくれるの?」
「してくれるね」
「手を繋いでくれる?」
「もちろんさ」
「キスなんかもできちゃう?」
「逆に訊くが、キスもできない相手を恋人と呼べるのかい?」
「じゃあさ、じゃあさ。もしかしてエロいこともできちゃう、ってこと?」
「エロいことができない恋人なんてダッチワイフ以下、それこそ夢みたいなものじゃないか。ちゃんとできるよエロいことも。たぶん、君が考えているよりずっとエグいことがね。R18どころかR40ぐらいに指定されそうなヤツを」
「マジかよ! それガチじゃん!」
「だからそう言ってるじゃないか」
……わかってたことではあるけど。
僕ってとてもじゃないけど、世界の敵になれるようなタマではないんだよな。
全力の小市民で一般人。そしてわりと馬鹿。認めたくない事実であっても認めざるをえない瞬間が来る。今この時がまさにそれだった。僕はヤブ医者の甘言に、あっさりと釣られつつある。悲しい陰キャ野郎の憐れな性。
「佐藤ジロー」
ヤブ医者が繰り返して言う。
「もし君が、夜ごとに見るちょっとばかりよこしまな夢から手を引いて、世界をひっくり返すなんていう物騒な願望から距離を置くなら。重ねて約束しよう。君に恋人を提供する。嘘でも冗談でもない。君の夢に勝手に入り込めるほど自在なこのぼくが、正真正銘に保証する、本物の提案だ」
ふと気づけば。
僕は、ただの僕に戻ってしまっていた。
凶悪で強大な竜の姿──はそのままだ。でも中身がちがう。
どこにでもいる自意識過剰な高校生、身長160センチで見映えのしない佐藤ジローがそこに突っ立っている。僕に夜ごと気ままな夢を見させた、心の中の真っ黒などろどろしてぐちょぐちょしている何かが、この瞬間だけはきれいさっぱり浄化されてしまったような。
だって女だよ?
委員長、ギャル、文芸部員──夢の中で僕のいいなりにしていた連中とは訳が違う。
一緒にお話してくれる、手も繋いでくれる、キスなんかもできちゃう、リアルで本物な恋人ができるっていうんなら。思わず心が揺れちゃうのも当然だろ? 悪いことなんて考えても仕方ないじゃん。『争いはよくない。世の中のみんなが幸せになればいいのに』って気持ちになっちゃうでしょ?
……今にしてみればわかることだけど、夢の世界における力の強弱は、意思の力とほとんどイコールだ。この時の僕に、世界の何もかもを巻き込んで破滅させてやろう、という野放図な攻撃性は、もう残っちゃいなかった。
同時にそれは、僕がヤブ医者を信じた、ということでもある。突拍子もない提案でありながら、ヤツの言葉には確かに事実だと思わせる何かがあった。『カウンセリングだって医者の立派な仕事だからね』とは、だいぶ後になって当人から聞かされた言葉だ。
ま、アホなんだろう。要するに僕は。
あいつの言葉を借りるなら善人、ってことになるらしいが。
「心に問題を抱えている青少年の多くは、強烈なルサンチマンに振り回され、そいつとどう向き合っていいかわからず途方に暮れている」
ヤブ医者が言う。
ゆっくり僕に近づいてくる。
「そして多くの場合、ルサンチマンは異性の問題に起因している。平凡でつまらない理由だが、かといって軽々しく捉えていいものではない。苦悩は常に、客観ではなく主観で語られるべき問題だからね」
ふう、とため息をついて僕は言う。
「積極的な女の子がいいなあ。僕、自分からグイグイいけるタイプじゃないから」
「承った。そこは善処する」
「自分で言うのもなんだけど、僕ってシャイだからさ。キスなんて自分からやってのける自信ないわ」
「軟弱者め、とは思うけれど、それもまた可愛げだと思って納得しよう。その点も善処する。……さて、今夜はもうお開きだ。竜の図体のままじゃ、キスのひとつもできやしないからね」
ヤブ医者がさらに近づいてくる。
手に持った杖が、今夜もまた日替わり凶器に変化する。
「さようなら。病める時も健やかなる時も、どうか良き現実を」
凶器が振り下ろされた。
僕は、僕の世界ごと、文字どおり粉砕された。