第五章
牢獄からエリザベートを連れだして、四日目。
彼女とのコミニケーションはおおむね上手くいっていた。
エリザベートは冷酷で、傲慢で、横暴で高貴な女だ。
些細なことで、彼女は俊を叱責し、激昂し、怒りをぶちまけた。だが、俊は一○八子という低位であり、以前には監禁も体験している立場だ。上位の者の激情に彼は慣れている。
また、エリザベートの拷問対象が女性に限られていたことも大きかった。そうでなければ、今頃、俊は屑肉にされていてもおかしくはなかっただろう。
唯一困ったのは、彼女が『遊び相手』、あるいは『嗜好品』を欲しがったことだった。
「処女の生き血を浴びても、若返りの効果がないことは、今の私は知っているわ。それでも悲鳴という楽曲と、臓物の柔らかさが欲しい。坊やは王の子でありながら、女中の一人も差しだせないと言うの?」
「あー、悪いが、この塔に使用人はいないんだ」
「うむ、全て魔術でなんとかしておるからなぁ。妾は従者は好まぬゆえ」
「そちらのお嬢さんを嬲らせてくれてもよいのよ?」
「やめてくれ。二人が殺し合ったら洒落にならない」
そう、俊はなんとかエリザベートをなだめた。
第七子という高位の立場にありながら、ネロの方はエリザベートの物騒な発言にもころころと笑っている。彼女のその寛大さはせめてもの救いと言えた。
ワインを頭からかけられたりしながらも、待機の日はすぎた。
遂に、一回戦第一幕は間近に迫る。
本番を明日に控え、俊は『骨の塔』の屋上から外を眺めた。
灰色の草原は、かつて彼のいた場所とはあまりにも異なっている。青空と清い光の眩しいあの春の日に、俊は痛切に帰りたいと思った。だが、それが無理なことはわかっている。
桜花櫻は死んだのだ。
たとえ、彼女の魂を救いだせたところで、優しき日々は二度と帰ってこない。
屋上での光景を、俊は思い返す。
桜花櫻は、鮮やかに彼の前に現れた。それ以来、何度も顔を見せるようになった。
あの時、彼女を突き放せていれば。
そうすれば、何もかもが変わったのだろうか。
「腑抜けた、しかし真摯な顔……愛した娘のことを考えているのね、坊や」
「……わかるのか?」
音もなく現れたエリザベートに、俊はそう返した。当然のように、彼女は頷く。漆黒のドレスを摘まんで、エリザベートは彼の傍まで歩いてきた。灰色の海を眺め、彼女は囁く。
「私は貴婦人、『女たるもの』。坊や程度の考え、手玉に取るがごとくわかってよ」
「そうか。それは怖いな」
「ねぇ、坊や?」
「なんだろうか?」
「何故、私を選んだのかしら?」
そう、エリザベートは口にした。意外な問いかけに、俊は瞬きをする。エリザベートは彼を見つめた。どこまでも気位の高い女は、それでも己の存在に一筋の疑問を投げかける。
「私は『鬼』と戦うのに決して適切な存在とは言えないでしょう。けれども、私を招いたのは、貴方の知識不足だとは断じきれない何かを感じるの。坊やは何故、私を選んだの? 不遜にも、この伯爵夫人を」
「初戦は手探りだ。間違いなく業が深く、人の中でも強力な『駒』を選びたかった」
「それだけ?」
「それだけ、ではないな……俺と貴女の相性は悪くなかった。貴女ならば、誤ることなく糸を手繰り寄せられると思ったんだ。何せ、俺は拷問と、女の恐ろしさをよく知っている」
俊は答える。かつての地獄の日々を、彼は思い返した。爪を剥がされ、錆びた釘を打たれ、その全てを治され、ついには痛覚を直接刺激されたことを。泡を吹き、ゲロを詰まらせながら懇願し、自らの舌を噛み切ろうとも許されはしなかった。
それを眺め、彼を攫った女は笑っていた。
「拷問は恐ろしい。それを嫣然と見つめられる者もだ……酒呑童子は伝説によれば男だ。俺は男が、真なる残酷と化した女に勝てるとは思わない」
俊は断言した。その答えが気に入ったのか。エリザベートは紅い唇を歪める。
恭しく、俊は彼女に礼をした。深々と頭を下げたまま、彼は続ける。
「貴女は勝つだろう、エリザベート。俺はそう信じている」
「無論、そうでしょうとも。私は私への屈辱を、かつて、この身に受けたもの以上に何ひとつとして赦す気はないのだから」
誇り高く、エリザベートは応える。俊は頷いた。
やがて、血のような太陽が昇る。
その光に照らされた女は美しく、また恐ろしかった。
もうすぐ、最初の舞台の幕が開く。
殺し、殺されるための盤上遊戯の。
その事実にすらも、貴婦人は嫣然と微笑んだ。