プロローグ
君がこの手紙を読むとき、私はすでに死んでいることでしょう。
ずいぶんと月並みな始め方をしたものだなぁと、我ながら感心してしまいました。いざ、自分が遺書を書く立場となると気の利いた言葉のひとつも出てこないのでびっくりしますね。当人の私でさえもこうなのだから読んだ君の方はもっと驚いたことでしょう。あるいは、肩をすくめて呆れたでしょうか。それとも、全身を震わせて泣きだしたのでしょうか。
君は優しい人だから、きっと最後の可能性が一番高い。
もしも、そうならば心が痛みます。
私は君を泣かせたいと考えたことは一度もない。悲しい思いや辛い思いもして欲しくなどありませんでした。それでも私は私であるために死ななければならなかったのでしょう。
だから、君が私のために泣く必要などどこにもないのです。でも、そう言ったところで、君は納得などしないでしょう。ただひとつだけ、保証をさせてください。
大丈夫。私が死んでも君の世界は何も変わらない。明日も正しく回っていきます。
でも、そのことをこそ、君は嘆くのでしょう。
今となっては、私の望みはひとつだけです。
どうか、君が私のことを忘れてくれますように。
今の君の世界に、私はいません。
そこで、君は明日も変わらずに生きていく。
それだけが、私の喜びで、願いで、望みで、希望です。
だから、明日も私の欠けた世界で、
私だけの消えた、いつもの場所で。
なにひとつ変わりなく、君が生きていてくれますように。
私などいなかったかのように。
永く、幸福でありますように。
20**年、**月、**日。
**県**市、**高等学校にて。
卒業生の三十八歳、男性が校内に侵入。包丁で生徒と教師を次々と切りつけた。八名が重軽傷。そのまま、男は立てこもり、事件は長期化するかに思われた。だが、瀕死の同級生をかばい、ある生徒が男ともみ合いになる。包丁を奪い、生徒は男の腹部を深く刺した。
また、当の生徒も首筋を切られており、警察の到着を待たず、失血死した。
これが報道の際、一部は伏せられた、『**高等学校立てこもり事件』の全容だ。
加害者であり、被害者でもある生徒は、すでに死亡している。そうでなくとも、彼女の殺害行為は、極限状態におかれた被害者による、正当防衛と認められる可能性が高かった。
司法は彼女を裁かない。
だが、人間のルールの外では、極めて冷酷かつ厳格な判決が下った。
人を殺した者は地獄に堕ちる。
それこそが
だから、彼女も───
そう、
───────そんなことを、認めてたまるか。
***
西島俊。
あるいは、ルクレッツィア・フォン・クライシスト・ブルーム。
その仰々しくも、馬鹿馬鹿しい文字の連なりこそが彼の名前だ。
西島俊は日本の高校生である。同時に、彼は地獄の王位継承者の一人でもあった。その序列は一〇八番目───彼は地獄の王の一〇八番目の子にあたる。
つまりは、雑魚だ。
王の子供は第一子に近づくほど位が高く、わけ与えられる魔力も多い。そのため、地獄では血統は絶対のものとされている。また弱肉強食が信条であり、弱き者には価値がない。
故に、一〇八子はいついかなるときでも理不尽に殺される危険性を抱いていた。それこそ、ルクレッツィアが人界に降り、極東の島国で西島俊を名乗ることとなった理由である。
だが、今はそんなことはどうでもいい。
生臭さと鉄錆の匂いの混ざった風が、俊の頬を撫でた。空気はどろりとした粘性を帯びている。遠くで、獣の声が聞こえた。濃い夜闇の中、彼は呟く。
「ここは、どこもこうだな」
俊は懐かしくも忌まわしき故郷──
だが、彼が戻ったのは、一〇八子の棲む辺境の地ではない。俊は地獄の深層へ──本来は絶対に足を踏み入れるべきではない禁域のひとつへ──潜っていた。
俊の前には、灰色の草原が広がっている。奇妙なほどに、草の海は高さがそろっていた。
平坦にすら見える光景の中央には異様な塔がそびえている。白くねじれた姿は、まるで灰の海へ突き立てられた骨だ。不気味であると同時に、神殿のような荘厳さも見てとれる。
それも当然だった。
この場は、地獄の王の第七子が棲まう場所。
『骨の塔』だ。
本来、一〇八子は近づいた段階で死罪を免れない。
また、草原の中には濃灰色の獣や魚が潜んでいた。足を踏み入れた低位の魔族は、彼らに食い荒らされる仕組みとなっている。獣や魚は第七子の血液から作られており、強大な力を持っていた。一〇八子ごときでは、一度狙われれば抵抗のしようもない。
それでも、
草原を掻きわけながら、着慣れているが故の学生服姿で、彼は塔へと近づいていく。
獣や魚は、草の狭間で眠り、またはたゆたっていた。彼らは俊を襲おうとはしない。
それには理由がある。
見逃されているわけではなかった。単に、獣や魚には目や耳がないのだ。地獄において、警備の魔物の多くは、聴覚や視覚を捨てている。無音や透過の魔術を前に、耳や目は役に立たないためだ。故に、彼らはその器官を切り捨て、他の感覚を最大限にまで高めていた。
魔力探知。
地獄に産まれた者は皆、多かれ少なかれ魔力を持つ。探知から逃れる術はない。
だが、俊は別だった。
牙やヒレに裂かれることなく、彼は『骨の塔』に辿り着く。
噂通り、その門は開かれていた。
まるで、辿り着ける実力者であるのならば、歓迎すると謳うかのごとく。
「─────行くか」
一言、俊は呟いた。
『骨の塔』の中へ、彼は身を滑りこませた。
***
他にも、幾体もの使い魔がいた。
それこそ基本的に地獄に棲み、使役される生き物はそろっていたのではないだろうか。だが、俊はその全てに気づかれることなく、地下へと潜った。塔を上らず、降りたのだ。
ここの持ち主は変わっている。
『彼女』はただ一人、深層の地下室に棲む。
そう、俊は王族の噂で聞いていた。
張り巡らされた魔力探知のギミックも、彼はなんなく突破する。そして、俊は最奥の扉に手をかけた。冷たい鋼鉄の感触を味わいながら、彼は息を整える。
ここから先は賭けだった。
地下室の扉を開けば、俊は塔の持ち主に気づかれることだろう。そこから、どうなるのかはわからない。殺される可能性も高かった。それでも、俊は会わなくてはならないのだ。
正規の手段では面会すら許されない、第七子に。
その時だ。
「貴様、何者であろうなぁ?」
蕩けるような声が響いた。
同時に、俊の首筋には剣が突きつけられた。柄を華やかに飾られた宝剣の刃が、彼の喉元の皮を薄く切る。細く、血が垂れた。即座に、俊は悟る。
(動けば、命はなさそうだ)
前を見たまま、俊は無言で両手を挙げた。相手が何者かを確認することはできない。それでも、彼は敵意はないことを示す。素直な姿勢に、相手は一時殺意を薄めたらしい。
あるいは、最初からただ楽しんでいたのか。
笑みを含んだ、女の声が続けた。
「ふむ、
「『妾の塔』……もしかして、おま……いえ、貴女が第七子の」
「無駄口を許した覚えはないのぉ。貴様、ただの人間よな? 何故、地獄におるのだ?」
第七子──ネロフェクタリ・フォン・クライシスト・ブルーム。
未だ顔すら見えない存在に向けて、俊は小さく首を横へ振った。刃に削られ、血の量が増える。それを感じながらも、俊は彼女の『人間』との指摘を否定するべく、瞼を閉じた。
己の中に細く奔る、ボロボロの魔力の鎖。それを繋げるイメージを抱く。千切れていた輪を溶接すると、自身の体が僅かながらに魔力を帯びるのが感じられた。
瞬間、第七子は興味深げに声を弾ませた。
「ほう、人間ではないな! 貴様、魔族か! まさか、先天的な魔力異常持ちとは、この妾でも初めて見るのぉ。貴様、何故そうなったのだ?」
「……俺は一〇八番目の王の子息だ」
「貴様も、王の血族か。だが、一〇八番目など雑魚も雑魚。存在せぬも同じものよ。兄弟には数えられぬな。まさか、顔を見る日が来るとも思わなんだわ」
「まあ、お前達にとってはそうだろうな……だが、それだけの低位でありながらも血は引いているせいで、俺は産まれる前に、王の愛人の一人から魔力暴走の呪いをかけられた。呪いは完全には解けず、薄まり、体に異常として残った。そのせいで俺は魔力を一切高められないが、意図的にゼロにすることが可能になったんだ」
それこそが、俊の抱える唯一の切り札だった。
魔法で相手の感覚をいくらでも歪ませられる以上、地獄の警備のほとんどは魔力探知に特化している。だが、俊はその全てを搔い潜ることができた。
つまり『いない存在』になれるのだ。
あとはうっかり怪物どもと正面からでくわさないよう、気をつけるのみだった。
「なるほどのう……いやはや、驚いたわ。妾の塔にそんな単純な方法で入ってみせるとは」
クックックと、第七子は低く笑った。
次の瞬間、彼女は宝剣を勢いよく振った。
俊は自分の首が切断され、宙を舞う幻影を見た。だが、それは錯覚にすぎない。第七子は剣を鎖の形に変えると、俊の首筋に巻きつけたのだ。勢いよく、第七子はそれを引く。
同時に、俊の目の前の扉が自動で開かれた。
ジャラジャラと鎖は鳴る。
恐ろしい勢いで、俊は中へ引きずり込まれた。首を縛められたまま、彼は床上に投げだされる。石畳に這いつくばりながら、俊は激しく咳きこんだ。
同時に、第七子は部屋に据えつけられた玉座に着いていた。
痛む喉を押さえて、俊はその姿を呆然と見上げる。
「くだらぬ。くだらぬなぁ。だが面白い。度胸も評価に値するぞ。余興の価値はあろうて」
そこには、あまりにも美しい女がいた。
歳の頃は人間で言えば十六、七くらいだろうか。長い黒髪は、夜闇の最も美しい部分を集めたかのように艶やかだ。肌は透けるように白く、その中で黄金の目が輝いている。ドレープの大量に設けられた紅いドレスに埋もれた肢体は、それ自体が豪奢な薔薇のようだ。
下着が見えるのも気に留めることなく、彼女は堂々と足を組み合わせた。
形のいい唇をいっそ下品なほどに歪め、女は嗤う。
俊は気圧された。
(これが第七子、ネロフェクタリ・フォン・クライシスト・ブルーム)
本来、会うだけでも死罪を免れない。
真の王の血族とされる八位以内のもの───通称、『王の子』だ。
***
『王の子』。
あるいは『美しい女』。
その姿に目を奪われ、俊は言葉を失った。
玉座の肘置きに、ネロは頬杖をつく。そして予想外にも、彼女は気安く囁いた。
「呆けるでないぞ。何の目的をもってして、貴様はこのネロに会いに来たのだ?」
「………ネロ?」
「妾の名は知っておろう? だが、長い。面倒だ。ネロでよい。貴様もそう呼べ。『様』をつけるか否かは、貴様の死にたがり度合いに託そうぞ」
「……ネロさ……いいや、ネロ」
「賢い、正解よ。妾は『様』づけは好まぬ。それに、不法侵入者に今更崇められたところで、不愉快なだけゆえな……で、貴様、何をしに来たのだ? うん?」
謡うように、ネロは問いかける。
俊は息を吸い込んだ。覚悟を決めて、彼は言葉を口にする。
「────地獄堕ちした人間は救えるか?」
石造りの部屋の中に、低い声が響いた。まるで別人のごとく重い口調で、俊はその一言を発した。金色の目を、ネロは数回瞬かせる。うん? と彼女は首を傾げた。
「待て、待て待て。何やら、予想外の一言が聞こえたように思うたが……」
「地獄堕ちとなった人間の運命は、権威ある者にしか変えられない。俺には無理なんだ。第七子であるお前に───どうか、ある人間の救済を希いたい」
ぱちぱちぱちとネロは更に瞬きをした。黙って、俊は彼女の次の反応を待つ。
やがて、ネロは体を後ろに反らせた。思いっきり勢いをつけて、彼女は言う。
「そんっっっっっっっっっっっっっっっな、くっっっっっっっっっっっっだらんことのために、妾に会いに来たと? この『骨の塔』に? わざわざ? 侵入したと申すのか?」
「くだらなくない! 俺にとっては、生涯を賭けるに値する望みだ!」
「くっだらんわぁ、クソ戯け!」
ぐっと、ネロは鎖を引いた。顔面から、俊は床に叩きつけられる。
みしりと、骨が鳴った。ぐらんと、視界が揺れる。鼻の奥に火薬の匂いが広がった。
やろうと思えば、ネロにはそのまま俊の首をへし折ることもできただろう。だが、はぁと溜息を吐いて、彼女は首を左右に振った。すとんと、ネロは玉座に座り直す。
「まぁ、よいが?」
「えっ、本当か?」
突然、思いがけない答えが降ってきた。俊は唾を呑みこむ。
気だるげに、ネロは頷いた。
「酔狂も酔狂。戯言も戯言。だが、妾はわけのわかる要求よりも、わけのわからん懇願の方が好みよ。ここまで侵入を果たしたのも見事と言えば見事ゆえなぁ。それくらい聞いてやってもよかろうよ。気紛れだ。泣いて感謝するがよい」
「ありがたい。どうかお願いする!」
「で、そ奴の名前は?」
「桜花櫻だ! 彼女は地獄に堕ちるような子じゃないんだ。早く助けてやってくれ!」
「急くな、急くな。ふむ……しばし、待つがよい」
ネロは空いている掌を振った。空中に光の窓が現れる。中には、俊には解読不可能な複雑な魔術文字が大量に奔っていた。そこに、ネロは手を入れる。彼女の細い指を取り巻き、魔術文字は渦を形作っていった。ネロは溶けあった光を探る。黄金の目を、彼女は細めた。
「───桜花櫻。桜花櫻な………うん? 待つがよい……これは……」
「どうしたんだ。早く、彼女を助けてやってくれ」
「無理だのう」
「はっ?」
「妾には無理なのだ」
スッと、ネロは片手を引き抜いた。パチンッと、彼女は指を鳴らす。
瞬間、全ての光が消え失せた。また、部屋は薄闇に包まれる。
俊は希望の糸が断たれたような錯覚を覚えた。その前で足を組み直し、ネロは続ける。
「桜花櫻。その者は何の罪を犯したのだ?」
「正当防衛だ……瀕死の同級生をかばって、揉みあいの末にナイフを奪い、相手を刺した」
「それならば堕ちるはずもなかろうになぁ……恐らく、手続きの際、魂の管理に何かミスがあったかのう。気の毒なことよ。妾とて憂うほどだ」
「何を言って……」
「桜花櫻は地獄の深層も深層。
ヒュッと、俊は喉を鳴らした。
それは最悪と呼ぶのも生易しい罰だ。
「……桜花が、……桜花がそんなところに」
「永久牢獄の下の深層───そこに送られた亡者の判決は、地獄の王以外には覆せぬ。当然、妾にも無理よのう。この『怠惰と狂騒のネロ』にもなぁ。さてはて、と。貴様にとっては悲しい事実が判明してしまったわけだが」
「……何が言いたい」
「貴様はどうするのだぁ?」
にんまりと、ネロはそれはそれは嬉しげに嗤った。
この世の邪悪を形にしたような表情を浮かべ、美しき女は問う。
「妾の塔に、低位の王族がわざわざ入りこんだのだ。鼠のごとく。蟲のごとく。そこにはさぞかし固い決意があったのであろう? だが、王にしか、お前の求める救いは与えられぬときた。さて、今度は王の城に忍びこみ、直談判でもしてみるか? さあさあ、この悲劇を前に、貴様はいかなる決断をくだす? 言うてみよ。この妾に。このネロに。つまらぬ答えか。楽しい答えか。さあさあ、囀ってみせるがよい!」
ギリィッと。
俊は歯を噛み締めた。奥歯が砕ける。血の味が滲んだ。石畳に、彼は爪を立てる。肉を削りながら、俊は床を引っ掻いた。検討は一瞬で済んだ。
元々、俊が会える可能性のある王の近親者は、変わり者と噂の第七子のみ。王自身への拝謁など絶対に叶わない。奇跡に奇跡が重なって会えたところで、王は俊の願いなど歯牙にもかけないだろう。殺されて終わりだ。
全ての理不尽を、俊は憎んだ。桜花櫻を襲う、悪辣な運命に殺意を抱いた。
彼女は、
桜花櫻は綺麗な人だった。
俊は、それを知っている。
たとえ、世界が終わったとしても。
そのことだけは、忘れないほどに。
「ならば、俺が王になる!」
俊は叫んだ。それは妄言でしかない。だが、このとき、俊は確かに決意していた。
一〇八子でしかない己が、たかが人間一人を救うために、地獄の頂点に立つと。
そして、ネロは───、
ネロは、嗤わなかった。
「言ったな?」
ネロはひどく真剣な表情を見せた。それから、彼女は柔らかく唇を緩めた。
綺麗に、ネロは微笑む。
まるで、己の運命に出会いでもしたかのように。
そうして、ネロは優しく尋ねた。
「貴様、名は?」
「……西島俊。あるいは、ルクレッツィア・フォン・クライシスト・ブルーム」
「どちらの名が好きだ?」
「西島俊」
「何故?」
「……桜花が呼んだ名だから」
「そうか……妾も呼んでも構わぬか?」
「ああ」
「ならば、西島俊───」
ネロは立ち上がる。指を鳴らし、彼女は鎖を消した。
ドレスの裾を揺らしながら、ネロは俊の前まで歩いてくる。ためらいなく、彼女は膝を突いた。黄金の目が、俊を映す。そうして、ネロは途方もないことを告げた。
「貴様が、王となれ」
俊は知らなかった。
数日前、地獄の王が崩御していたことを。
新たな王を立てなければ、地獄は
それを防ぐために、次代の王を決める、『継承戦』が行われることを。
まだ、俊は何も知らない。
だが、この瞬間、彼は王となることを決めた。
ただ、桜花櫻を救うために。
地獄の冠を己こそが抱くと。
たとえ、その決意が絶望を遥かに超えた道であったとしても。