「あの子はいつも言葉が少なすぎるのよ。私はどうやって納得すればいいの?」
エリスにとってイルミナは子どもの頃から手の届かない存在だった。何をやってもイルミナのほうが上回り、大人たちと一緒に会話をしても遜色がない。いつもエリスだけがぽつんと取り残されている。
「それはエリスさまも同じでは?」
「え?」
思わず顔を上げると、クラウィスは真剣な眼差しでこちらを見つめていた。
「あなたも肝心なところを伏せて行動している。どうしてあなたがイルミナさまを気遣うようになったのか。ぜひ教えていただきたいところです」
「それは……」
クラウィスはイルミナだけは裏切らない。もし彼と協力関係を築くことができれば、横領の原因や毒の入手先の発見を早めることができるかもしれない。
(……でも)
もともとエリスは人を信用することが苦手だった。それにクラウィスの真っすぐな視線を見ていると胸が苦しくなる。
顔を逸らしたかったが、できなかった。どうしてか彼がそれを許してくれない気がした。やがてひとつのため息が聞こえる。
「どうかイルミナさまの邪魔だけはしないでください」
そう突き放され、エリスは両手で顔を覆いたくなった。
舞踏会でクラウィスの隣で環境大臣たちと会話を交わしたとき、話を合わせることができてほっとしたと同時に、肩を並べている気分になって少しだけ高揚していた。
そのときの感情が一気に消沈していき、浮かれていた自分が恥ずかしくなってくる。エリスは苦々しく声を振り絞る。
「クラウィスさまに何を言われようと、私は自分のやりたいように振る舞うわ」
「それが困るから忠告しているのがわからないのですか?」
低い声で諫められてエリスは肩を揺らす。周囲には剣吞な空気が漂い、激しい言い争いの予兆を抱く。
「……じゃあ私が何もかも素直に打ち明ければあなたは信じてくれるの?」
「!」
「できないでしょう? あなたは合理的な人だもの。証拠がなければ動かない」
エリスは力強い声で告げた。すると彼は真顔になる。
「ええ、俺たちの独断で国民を振り回すわけにはいきませんから」
「さすが未来の宰相さまのお考えね。でもその考えは時として大切なものを取りこぼすことになるわよ」
「ご忠告どうもありがとうございます。この際だからエリスさまもご自身のことを顧みてはどうでしょうか」
「あら、大切なものが少ないほうが身動きしやすいでしょう?」
「それを世間では独りよがりというのです」
「……不敬罪で訴えてあげましょうか?」
「はは、驚きましたね。この程度で訴えられるとは」
クラウィスは乾いた笑い声を出したが、腕を組みなおしてエリスを見下ろす。
「それで、あなたは何を知っているのです?」
「はい?」
「信じるかどうかは聞いてから判断しますので」
「ずるい! というか私の真意なんかあなたに見抜けるわけがないわ!」
「俺はできると思っていますよ」
こんな展開は初めてだった。てっきりエリスが押し黙るまで小言を並べてくると思っていた。エリスは視線を泳がせる。
「何よ、今さら。私の言うことを無視してきたのはあなたたちのほうじゃない」
「俺は昔からずっと無視した覚えはありませんが」
「え……そう、なの?」
思えばそうだったかもしれない。幼い頃から多くの人がエリスの言葉を聞こうとしてくれなかった。だからこそクラウィスのことも一方的にそうだと決めつけていたのか。
(私、いつからこんなふうになってしまったの?)
ああ駄目だ。考えがまとまらなくなってきた。呼吸を整えるためにテーブルに右手をつこうとすると、思った以上に体重をかけていたのか、支柱がミシッと音を立てて裂けた。
(えっ)
エリスの体がどんどん傾いていく。しかもテーブルの上にあった花瓶が宙に浮いたため、無意識のうちに手を伸ばす。
(あれ、届かない)
何もできないまま体が床に吸い込まれたとき。
エリスのお腹周りにクラウィスの腕が回った。そのままぐっと引き寄せられる。
「お怪我はありませんか!?」
返事をするために身じろぎすると、ちょうどエリスの頬が彼の胸元に当たっていることに気づいて身を硬直させる。
(ダ、ダンスのときより密着しているわ)
エリスの体中に鼓動が早鐘のように鳴り響き、それがクラウィスに伝わっていないか心配になる。黙ったままでいると、彼は「右手を見せてください」と言う。
素直に差し出すと、彼は眉間に深々としわを寄せて怪我がないか確認してくれた。
(待って、花瓶は!?)
ハッとして床を見回すと、花瓶の欠片すらなかった。不審に思ってクラウィスの胸元からひょっこり首を伸ばして様子をうかがうと、空の花瓶がエリスの目線の高さで宙に浮いていた。
よく見ると水の膜に包まれていて、花瓶の中にあった花もぷかぷかと浮いている。
この場で水を操れるのは水属性のクラウィスしかいない。
「すごいわ。いつ呪文を唱えたの?」
思わず感嘆を漏らすと、彼は一息ついてから指先を動かして水の形を自在に変えていき、ピチャンと心地よい音をたてながら花を一本ずつ花瓶に戻していく。
「これくらい呪文を唱えなくてもできますよ」
魔力が豊富な者は自分の感情によって魔力をにじませ、時として自分の魔法属性に近い物質を呪文なしで操れる。クラウィスもまた相当な魔力の持ち主だ。
(綺麗。私だったらこんなふうにできないわ)
エリスも呪文なしでにじみ出た魔力を黒い靄のように可視化させて立体的な星形だってつくることができるが、そんなことをしたら大人にまで泣かれてしまう。
少しだけほかの魔法属性が羨ましくなった。
エリスは出来心で人差し指で水をつついてみる。粘着性を帯びているように見えたが触感はただの水だった。
(青色の花に、黄色の花……それに大輪のオレンジ色の花まで。ここにあるのは私の部屋にある組み合わせと同じだわ。あれ?)
クラウィスは最後にコロンとした丸いつぼみが特徴の白い花を花瓶に戻した。一見して鈴蘭だと思ったが、鈴蘭にしては形が不自然だ。
「この花……どこかで見たような気が」
脳裏の記憶を深く探る。セレジアの反応ばかりに気を取られていたが、この白い花もエリスの部屋にあった気がする。
(いえ、それだけではないわ。私はこの花について一度調べたことがある……!)
息を吞むと、一連の様子を見ていたクラウィスがいぶかしげな視線で尋ねてくる。
「どうかされましたか?」
エリスはややあって言葉を紡ぐ。
「……用事を思い出したの。助けてくれてありがとう。このお礼は必ずするから、もう少し時間をちょうだい」
そして凍りついた表情のままクラウィスに背を向けた。
エリスはセレジアを引き連れて、そのまま王宮の蔵書室に向かう。
蔵書室は王宮に仕える者であれば誰でも利用でき、さまざまな分野の専門書や地域ごとの歴史や記録が壁面の本棚にびっしりと並べられていた。
久々にここを訪れたが、古びた紙の落ち着く香りは変わっていない。
右奥の部屋に向かうと中は窓がない小部屋となっていて、年季が入ったテーブルが置かれていた。壁側の燭台の蝋燭には常に火が灯されている。
エリスは考え込みながら口を開く。
「セレジア、私が以前あなたに頼んで持ってきてもらった本の場所は覚えているかしら?」
「ええ、もちろんです」
「では花の図鑑や薬草学の本を。レストレア王国だけではなくて隣国のものもあればお願い。それと魔力関係の本をすべて。場所さえ教えてくれれば私も手伝うわ」
彼女は慌てたように告げる。
「いえ、そんな。エリスさまはどうかお待ちください」
「早急に調べなければいけないの。手伝わせて」
「! ……わかりました。ではこちらへ」
エリスはセレジアの案内に従いながら目当ての本を探す。実は自室に引きこもっていたときに闇属性のことを知るためにたくさんの本を読んでいた。闇属性の情報はとにかく少なく、王国中の歴史書だけではなく他国について書かれたものまで目を通していた。
手分けして本を集め終えると小部屋のテーブルに積み上げる。片っ端から本をめくっていき、気になる頁があるとそれを開いたままテーブルに置き、次の本を手に取った。
それを何度か繰り返してから、エリスは呟く。
「やっぱり。さっきの白い花は『月夜の真珠』ね」
『月夜の真珠』はあまり市場に出回らない花で、鈴蘭に見間違われることが多い。だが白い花びらのような部分は葉であり、それを取ると真珠のように肉厚な花が現れる。
薬草学の本によれば、その肉厚な花弁をつぶして熱を通すと、魔力を抑制する効果を発揮し、なんと魔力が豊富な者ほどその影響を受けるという。
エリスは自分の魔力に思うところがあり、実際に抑えることができるのか知りたくて取り寄せようとしたが、生産地は肥沃な密林に接した隣国だけであり、高価であることから国王にねだることはできず断念していた。
(なぜこんなものが飾られていたの……?)
エリスはほかの花にもよからぬ効果があると疑い、自分の部屋とイルミナの住まいのベランダの花瓶に生けられていた花の特徴が書かれた頁を指でなぞる。薬草学の本と照らし合わせながら調べていくと、どれも陰干しして水分を抜いてから粉末にすると、頭痛や眩暈といった症状を引き起こす可能性があることが書かれていた。
もしもあの四種類の花を混ぜ合わせたら、どんな効果になるだろうか。
エリスの顔が青ざめる。
(イルミナに使用された毒は調合されたもの?)
思えば前回の人生でエリスの部屋から毒の粉が入った小瓶が押収されたとき、一緒に乳鉢なども出てきていた。
現在、王宮内に飾られた花のほとんどがエリスとイルミナの誕生日のお祝いとして運び込まれたものだ。花はしおれないよう水魔法の加護がかかっている。
「セレジア、確かこの花の鮮度が保たれる期間は一か月と言っていたわよね」
「はい、なのであと三週間ほどでしょうか?」
加護の効果は魔法を使った人がどれだけ魔力を込めたかによって変わり、術者以外の者がその効果を妨げることはできない。
(まあ『破壊』の魔法にかかればなんてことないけど)
闇魔法を使えば加護の効果どころか花まで消してしまうため、やはり加護が切れるのを待つのが現実的だ。
(あと数週間は生花のまま……それから熱を通したり花の水分を抜いたりするのにかなり手間と時間がかかるはず。そうなると粉末状の毒の完成までは三か月と少し?)
イルミナが毒を盛られた時期と一致する。
「誰よ! こんな悪夢のような花束を用意した人は!」
そう叫ばずにはいられない。無害だと思っていた花の贈り物がイルミナの命を狙った毒だったとは。エリスはそのまま片手で額を押さえてうなだれる。
「エリスさま、もしかしてこれは」
口を開いたのはセレジアだった。オレンジがかった茶色の前髪から覗く緑色の瞳は心配そうにエリスの様子をうかがっていた。
「そうよ、イルミナに危害を加えようとしている人がいるの。セレジアは私の部屋にこの花束を持ってきた人に心当たりはあるかしら?」
「ええ、いつも挨拶を交わす使用人の一人ですから。でもそんな危険なものだとわかっている上で私に渡すとは思えません」
「探りは入れられそう?」
「はい。やってみます」
「お願い」
エリスはぎゅっと目を閉じる。
(私一人の力ではこの危機は乗り越えられない)
そう思うだけで両手が震えるが、エリスは勇気を出して一歩踏み出すことにする。
紫色の目を据えて、セレジアに向き合う。
「私はイルミナを助けたいと思っているの。どうか力を貸してもらえないかしら」
すると彼女はその場に跪いた。
「アリーン家の名にかけて尽力いたします」
エリスはその言葉に応えるように力強く頷いた。