クラウィスは夜更けにイルミナの執務室へ向かうが、ノックをしても返事はない。珍しくどこかへ外出中のようだ。
扉の前の椅子に座って待っていると、しばらくしてイルミナがアルフリートと共に戻ってきた。
「待たせたかしら?」
「いいえ、来たばかりですよ。何かありましたか?」
「ちょっと国王陛下に呼ばれていただけですわ。さあ入って」
クラウィスがイルミナのあとに続いて執務室に入ると、彼女はソファに座りもせずにくるりと振り返る。
「まずは報告を」
「はい。例の花が確認されたのはイルミナさまの住まいに数か所とエリスさまの部屋のみでした」
「わかりましたわ。協力してくれたみなにもお礼を伝えてくださる?」
「もちろんです」
彼女は一日の大半を自分の執務室で過ごす。ここ最近は領地を治める貴族についての報告書を読んでいるのか、ときどき目を鋭くさせていた。
イルミナはゆっくりとした足取りでクラウィスの目の前まで距離を詰めると、桃色の薄い唇に弧を描く。
「クラウィス。もう一度問いますが、今回の件はあなたの調べによるもので間違いありませんわね?」
「ええ」
クラウィスもまた口角を上げて答えるが、イルミナは未だ納得できないのか紫色の瞳を鋭く細めた。
「わたくしに隠し事ができると本気で思っていますの?」
見た目は可憐な少女だというのに、まるで剣術の猛者と手合わせをしている気分になり、背筋をぞわぞわと緊張感がせりあがってくる。ふとクラウィスの脳裏にエリスの姿が思い浮かんだ。
(同じ紫色の瞳でも、彼女の生意気な感じは新鮮だったな)
イルミナの顔立ちと比べるとエリスは少し目じりがつり上がっていて、見方によっては人馴れしていない子猫のようにとらえることができた。それを口に出せばエリスは機嫌を損ねるだろうと思いつつ、クラウィスは肩をすくめる。
「手厳しいですね、イルミナさまは」
「状況を正しくすべて知っておかなければ気が済みませんの」
わかっているくせにといわんばかりの圧力にクラウィスが苦笑したとき、背後の壁側にたたずんでいた気配が動く。
「まあまあ、イルミナさま。これはしょうがないと思うよ。あんなに健気に『私があの子の身を案じていたことを言わないで!』とお願いされればね」
アルフリートがゆったりとした足取りでこちらにやってきた。
「おい、勝手なことを言うな」
そう睨みつけると、彼は大げさに口元を押さえる。
「おっと。独り言のつもりだったのに」
「そんな大きな声の独り言があってたまるか」
クラウィスが横目でイルミナを見つめると、彼女は考えるそぶりを見せていたが、心なしか口元からは困ったような嬉しいような複雑な様子がうかがえた。
(まさかエリスさまが、抱きとめたお礼として証拠を携えて俺の前に現れるとは)
その日の夕暮れ時に、エリスは再びクラウィスの前に姿を現した。そして誕生日のお祝いとして運び込まれた花の中に一時的に魔力を抑えることができる花が用意され、すべての花を煎じて調合すると毒になるかもしれないと言われた。
そこで早急に医師に調べてもらった結果、魔力が豊富な人ほど体に不調をきたす効果が出る可能性が高いことがつい先ほどわかった。
クラウィスは知識として観賞用の花にさえごく少量の毒が含まれていることを知っていたが、まさかエリスが『月夜の真珠』だとすぐに判断し、ほかの花についても調合によっては猛毒になることを見抜くとは思ってもいなかった。
(むしろエリスさまが第一発見者でよかった)
そうでなければ毒物を用意した犯人として真っ先に彼女が疑われていた。
イルミナはソファに座ると、クラウィスにも対面に腰をかけるよう促してくる。
「花を持ち込んだ使用人の身元の調べはついていますの?」
「ええ。ですが彼らも別の使用人にここに飾るよう告げられたようで追って調査中です」
「必ず突き止めなさい──それと、ベランダのテーブルに細工をした犯人のことも」
イルミナは怒りをこらえているのか握りしめる両手に力を込めた。
クラウィスがエリスを抱きとめたとき、彼女は花のことを疑問に思ったようだが、自分はテーブルの支柱がもろくなっていたことに注目していた。
彼女を見送ったあとに調べてみると、腐りやすくなるよう細工されていた形跡があった。
「……エリスに怪我はなかったのよね?」
ふとイルミナが呟いた。クラウィスは優しい声色で告げる。
「ええ。彼女の侍女にも確認を取っています」
おそらくエリスはテーブルの細工のことに気づいてはいない。クラウィスは今後も彼女に告げることはないだろう。
報告を終えたクラウィスがソファに座ると、アルフリートが肘掛けに寄りかかってきた。
「ねえクラウィス、テーブルに細工して毒の花を仕込んだのはイルミナさまの王位継承に反対する奴らかな?」
「ああ、おそらくな」
一部の者しか知らないが、イルミナは幼少期から命を狙われることがあった。王国初の女王になることを期待する人もいれば、それを認めたくない人たちもいる。
特にアレン派の動きが年々活発化してきたため、クラウィスとイルミナは彼らの動向を注視していた。クラウィスがエリスの教育係兼ダンスの相手を承諾したのは、彼女とアレン派に繋がりがないか調べるためでもあった。
もしも彼女の闇魔法が牙をむいたら、立ち向かえるのはイルミナだけだ。
(以前、念には念をと、エリスさまに呪文さえ唱えさせなければ対処できることを印象付けるために脅してしまったが……)
クラウィスはこのバラシオン家由来の脳筋的思考回路があまり好きではなかった。彼女の引きつった顔を思い出し、やりすぎたことを今更ながら反省する。
(近づけば近づくほど、彼女は違った表情を見せる。それはなぜだ?)
エリスが舞踏会の終盤でアレンとマリアンヌと出会ったときの反応を見るに、彼女もまた彼らを疑っている素振りがあった。
クラウィスは腕を組みながら口を開く。
「例の劇薬ですが、イルミナさまとエリスさまの部屋で見つかったということは、お二人に飲ませようとしたのか、それとも片方が片方に飲ませようとしたのか。そのどちらかですね」
正直なところ、イルミナがエリスに飲ませてもなんの利点もない。
イルミナは困ったように肩をすくめる。
「エリスとわたくしの不仲を利用し、エリスがわたくしを殺そうと企てたと周囲に思い込ませるための罠、という可能性が一番高いわね」
彼女の『治癒』の魔法は猛毒を摂取してもすぐに回復できるほどの力を持つ。おそらく今回は日々の食事に少しずつ混ぜる予定だったのだろう。
それに国王の病を考慮するに、退位に向けてきな臭い動きがいくつかある。ここでイルミナが寝たきりになってしまえば、初期対応が遅れて犯罪が横行し、周囲はその犯人としてエリスを疑っていたはず。
「そうなればアレン派に好き勝手やられてしまいますね」
「それが狙いかもしれませんわ。お父さまは……残念だけど長くはないもの。わたくしとエリスが共倒れをすれば、王位を手にするのはアレンですもの」
それを聞いたアルフリートは顔をこれでもかとしかめた。
「へえ。悲劇の双子姫に代わって立ち上がった名君とか吹聴されそう。これって誰がエリスさまを裁いたかで王国の方針が変わるよね」
彼はまれに鋭い指摘をする。クラウィスは内心で舌を巻いた。
アレンに手柄を奪われたら、今までのイルミナの努力はすべてなかったことになる。それだけは避けたい。
(身分のことしか考えていない奴らに主導権を渡すわけにはいかない)
そのためにクラウィスは今この場にいるのだから。
膝上に置かれていた両手に無意識のうちに力が入っていたようだ。白い手袋越しにも爪の痕がついていることがわかる。
「クラウィス」
イルミナに名前を呼ばれて顔を上げる。彼女は儚げな容姿とは裏腹にどんな状況でも毅然としている。クラウィスもアルフリートも彼女が本懐を遂げることができるよう忠誠を誓っていた。
「今回はエリスの突飛な行動が実を結びましたけれど。あなたの目にあの子はどう映りました?」
それはクラウィスにとってもっとも酷な問いかけだった。困ったように苦笑してから瞼を閉じる。
(……エリスさまの様子、か)
クラウィスは心のどこかでエリスは舞踏会を乗り切ることができないと思っていた。膨大な課題を用意したのは彼女の忍耐力を試すためだった。
それに彼女は人と接することが苦手だ。ダンスでは男性に免疫がないこともあって最初はできるだけ密着しないように踊ろうとしていた。だからわざと彼女を振り回すように課題からダンスの練習に切り替えたこともあった。
人の本性は余裕がないときに現れる。
甲高い声でもう限界と泣き叫ぶのか、それともクラウィスに怒りをぶつけてくるのか。
だが、どちらの予想も裏切る努力をエリスは見せた。
引きこもっているときに本を相当読んでいたようで、課題で間違えたところは二度間違えなかったし、復習と予習もしっかりとこなしていた。ダンスに至っては最終的にどこに出しても恥ずかしくない仕上がりになった。
「一か月ほど彼女と共に過ごしてみて、上の年代の方々が言っていることがあてにならないことがわかりました」
エリスは王族として劣っているわけではない。周りにいた大人たちが闇属性ということだけで彼女を恐れ、才能を伸ばそうとしなかっただけだった。もともと探求心の強い彼女にとって納得できない仕打ちであり、周囲から確かな反応を貰うために反抗的な態度を取るようになってしまったのだろう。
「俺は今のエリスさまならイルミナさまのお役に立てると判断します」
「……そう。それはよかったわ」
イルミナはほっとしたように目を細める。
王族であるエリスの闇属性は他国からも注目を浴びる存在だ。危険な魔法が多いことから敬遠されがちだが、彼女が王国にいるかぎり他国は下手に手出しすることはできない。同時に国内の敵対勢力への牽制にもなる、とイルミナは考えていた。
現在のレストレア王国の貴族たちは先祖から継承した身分に物を言わせる者が多い。
特に問題なのはマリアンヌだ。王妃のユーリスが故郷で療養中であることから、彼女は社交界で好き勝手に振る舞い、派手で贅沢な生活を楽しんでいる。
イルミナは自分だけでは手綱を握り切れないと判断し、彼らを抑止するために成人を迎える今こそ牽制の役割を果たしてもらおうとエリスに舞踏会への参加を命じた。
(まさかエリスさまのほうから舞踏会に参加したいと告げられたときは驚いたが)
彼女はイルミナの期待以上の動きをしてくれ、あの舞踏会で貴族たちのエリスに対する評価が確かに変わった。
(それは俺にも言える)
クラウィスはふと、十五歳で騎士見習いを卒業してから初めての夜会の警護中に、エリスに話しかけたことを思い出した。
彼女は一人ぼっちで壁際に立っていた。一方でイルミナは人々に囲まれて妹のことを補佐するように周囲を盛り上げていた。
(だから俺はエリスさまに声をかけた。イルミナさまに頼りっぱなしでいいのですか、と)
すると彼女は濁った眼で『頼りっぱなし? なんのことかしら。イルミナが勝手にやっているだけでしょう』と言った。
それから数日後。彼女は王族としての責務を放棄するように人目を避けて引きこもるようになり、王族という立場から逃げ出したことにクラウィスは心の底からがっかりした。
だからこそエリスに対し、昔からよくない印象を抱いていたが。
クラウィスは真っすぐに視線をイルミナに向ける。
「どうしてエリスさまは人目を避けるようになってしまったのか、今度こそ教えていただけますか」
約六年前、エリスが引きこもった直後にイルミナと会話を交わしたときも同じ質問をした。でも彼女は悲しそうに目を伏せて答えをはぐらかした。
(本当はエリスさまの口から直接聞きたかったが……)
クラウィスが懇願するように目に力を入れると、イルミナは何かをためらうように目を伏せたあと、おもむろに口を開く。
「ごめんなさい。実はわたくしも詳細までは知りませんの」
「そう、なのですか」
「ええ。ただきっかけとなった事件があったことは間違いありませんわ」
事件、と聞いて眉を寄せる。そんな話は聞いたことがない。クラウィスが顔色を変えると、アルフリートもまた姿勢を正した。
彼女はまつ毛を伏せて語り出す。
「その事件が起きたのはわたくしたちが十歳の頃。その日は近しい年代の令嬢たちと交流するために王宮の庭園でお茶会が開かれましたわ。でも、わたくしは用事が入って、遅れて参加することになりましたの」
ここで一度言葉が途切れた。イルミナは当時の光景を思い出しているのか苦々しい表情を浮かべる。
「わたくしが駆けつけたときには、涙する令嬢たちの姿と、体中から黒い靄のような魔力をにじませるエリスの姿がありましたわ。状況を聞いたところ、令嬢たちはエリスの装いを否定したようで……当時のあの子は派手なドレスばかり着ていましたから。それでエリスはからかわれたことに逆上して『破壊』の闇魔法を使って脅したようなの」
クラウィスは身を凍りつかせる。
(エリスさまが、人に向けて魔法を使った?)
レストレア王国では人を守ることに魔法を使うことが美徳とされている。王族がそれに反することをすれば大問題だ。
クラウィスの耳にも入っていない情報ということは箝口令がしかれている。
「令嬢の言い分は?」
「嫌みとして受け取られてしまった、の一点張りでしたわ。それ以上の追及は陛下が許さなかったから。わたくしはエリスからたった一言でもいいから真実の言葉を聞きたくて何度も問いかけました。でもあの子は何も答えてくれなくて……」
イルミナは膝上に置かれた両手をぎゅっと握り締める。
「あなたたちには信じがたいかもしれませんが、わたくしはあの子が感情任せに魔法を使うはずがないと思っていますの。一番近くで魔力の制御を必死に身につけようとする姿を見てきたから」
彼女は弱々しく微笑む。普段は誰にも隙を見せないよう振る舞っているが、まだ大人になり切れない部分が垣間見えた。
「それにこの事件には裏があるはずよ。だってお茶会の主催者はマリアンヌ・ウィリア・アインハウアーだもの」
クラウィスは息を吞み、ややあってから顎に手を添える。
「そういえばアレン派が本格的に盛り上がりを見せたのはこの頃でしたね」
「ええ、彼女はわたくしよりも先に騒ぎを聞きつけてあの場に現れましたの。エリスが魔法を使った瞬間は見ていなくても事件があったことは知っている。だから国王陛下に黙っているかわりにアレンのことを気にかけるよう取引したかもしれないわ」
彼女は息子を王にするために陰で暗躍しているという黒い噂が絶えなかった。一説によると、妃のユーリスを王宮から故郷に追いやったのも彼女だという。
(だがマリアンヌさまが国王陛下と取引したという証拠がない)
あくまでイルミナの推測に過ぎないのだ。きっと彼女は真実を確かめようと行動したのだろうが、当時の彼女はまだ十歳で、大人たちとやり合う力はなかった。
それにクラウィスはエリスのことを快く思っていなかった。だから打ち明ける機会をうかがっていたのだろう。
クラウィスは日差しを浴びた海のような瞳を据える。
「では俺が真実を突き止めます」
未来の王に仕える側近として、彼女の憂いは晴らしたい。それにエリスの突拍子もない行動の背景に何があるのか。気になって仕方ない。
おそらくエリスは変わり始めている。自ら舞踏会への参加を表明したのがその第一歩なのだろう。
イルミナはクラウィスの覚悟を受け取ったのか、徐々に不敵な笑みとなる。
「やるからにはマリアンヌ叔母さまを出し抜きなさい」
「仰せのままに」
クラウィスがその場でかしずくと、イルミナは気が少し抜けたのか、珍しく「ふふ」と笑い声をあげる。
「でも珍しいこともあるのね。あなたがわたくしの命令以外でエリスのことを気にかけるようになるなんて」
「……え?」
「それとも昔の立場を思い出してしまった?」
「イルミナさま。それ以上の詮索はよしてください」
クラウィスにとって大切なのは今の立場だ。片手で口元を押さえると、真横から視線を感じた。睨むように視線を向けると、アルフリートが「あら~」とにやにやしていたので肘で小突いた。
「二人とも、ほどほどにしなさい」
イルミナは呆れ声を出すが、その顔色は青白くなっていた。クラウィスは立ち上がって声をかける。
「もうお休みになったほうがいいのでは?」
「駄目よ。溜まっている資料に目を通さないと……」
「イルミナさまに元気でいてもらわないとこの状況を打破することはできないと思うな」
アルフリートは相変わらず軽快な口調だが、彼の主人への気遣いは伝わった。ややあって、イルミナは頷く。
「わかったわ。侍女に朝はいつも通りの時間に起こしていいとだけ伝えておいて」
そういってイルミナは自室に向かう。彼女もまた努力家だった。クラウィスはふと、意外と双子らしいところはあるんだなと思う。
「そうだわ。クラウィス、ひとつだけお願いしてもいいかしら」
イルミナは振り返ると、持っていた資料をクラウィスに託した。
「引き続きあの子の周囲の警戒をしつつ、この役人のことを調べてくださる? 彼の羽振りの良さが気になるの」
そこに書かれていた名前を見て、クラウィスは眉をひそめる。資料にはその人物がアレン派の知り合いを増やしているという情報が書かれていた。
クラウィスはイルミナに首を垂れ、猟奇的な鋭さをあらわにした。
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