(うう……自分のことが自分でもわからない)
エリスはここ数日間悩みに悩んで、気づいたらイルミナの住まいがある二階の一区画に立っていた。背後には心配した表情を浮かべるセレジアがいる。
一人で行動すれば真犯人に足をすくわれる可能性があるため、前回の二の舞にならないよう彼女を連れて行動することが多くなった。
(イルミナが体調不良になっていないかを確認したらすぐ戻りましょう。クラウィスさまがしっかり対応をしているか心配なだけだもの)
豪奢な扉の前に二人の王宮騎士が立っていた。エリスは迷いに迷って声をかける。
「ご、ごきげんよう」
ぎこちない笑みで挨拶すると、王宮騎士の一人が重々しい声で「御用でしょうか」と尋ねてきた。
「ええっと、イルミナに会いにきたの。開けてくださる?」
彼らは顔を見合わせると、やがて扉を開けてくれる。
エリスは白亜の壁に上品な青の絨毯が敷かれた廊下を歩く。ところどころに置かれた花瓶の花は、エリスのもとに届いたものよりも種類が多い。
それを横目で眺めながらイルミナの自室に向かう。その途中で十字に分岐している廊下に差しかかる。エリスが真っすぐに突っ切ろうとしていると、横からがっしりした体躯の男が現れる。その片手には分厚い本を抱えていて、腰元には大剣を携えていた。
「おっと。めずらしいお客さまだ」
エリスは思わず目を見開く。そこに立っていたのは、イルミナの専属騎士であるアルフリートだった。
彼はザクロのような緋色の瞳をにこやかに細めてエリスを見つめる。
「イルミナさまに用? それともクラウィス?」
「え、ええ?」
いきなり気さくに話しかけられてエリスは戸惑いつつも「……ど、どちらかといえばイルミナかしら」と伝える。
「じゃあイルミナさまはこっちの執務室にいるから案内するよ」
彼はエリスたちを先導するように足を進める。その後ろ姿を見てエリスは困惑しながらもある疑問を抱く。
(専属騎士がどうして雑用みたいなことをしているの?)
「いま護衛のおれがイルミナさまのそばを離れて使い走りをしている理由を考えているでしょう?」
ドキリ、と心臓が跳ねた。エリスがきゅっと唇を引き結ぶと、アルフリートは眉を八の字に寄せながら足を止めた。
「ここは王宮のどこよりも警備がしっかりしているからね。イルミナさまにとってここほど安全な場所はないんだ。それにいまはクラウィスも一緒にいる」
「……そうなの」
クライシエ伯爵家の二男であるアルフリートはエリスに怯えを一切見せない。しかもバラシオン侯爵家のクラウィスより年下にもかかわらずこの気さくな態度を貫けるとは。只者ではない。
(やっぱり彼と仲がいいのかしら?)
今ならクラウィスのことを聞けるかもしれない。執務室の扉はもう見えているが、エリスはそのまま立ち話を続ける。
「クラウィスさまを信用しているのね」
するとアルフリートは片手を顎に添えてうなりだした。
「信用かあ……まあ仕事上はね」
「というと?」
「あいついろんなことに容赦ないんだよ。この雑用だっておれが用意しておくはずだった報告書を忘れていた罰だから」
彼は、うげーと嫌そうに顔をしかめた。それはあなたが悪いのではという言葉を飲み込み、エリスはここぞとばかりに問いかける。
「仲が悪いってことなの?」
「わるくはないよ。よくもないけど。でもおれ、あんな腹黒いやつと友達はごめんだね。あいつと肩を組んで朝まで飲み明かしたり、楽しく鼻歌をうたっている姿とか想像できないから」
それはエリスにも想像できなかった。クラウィスが屈託のない笑顔で鼻歌を歌っていたとしたら恐怖のレクイエムに聞こえる。
思わず身震いをすると、アルフリートがじっとこちらを見つめていた。
「ごめんね、堅苦しい言葉づかいが苦手で。気に障った?」
「え、ええ?」
「クビでもはねる?」
物騒な発言が飛び出し、エリスは慄きつつも口を開く。
「……あなたが気を遣ってくれていることはなんとなくわかるわ。だから私から咎めることは何もない。それにあなたの処遇を決めるのは私ではなくってイルミナよ」
そっか、とアルフリートは口端をつり上げて笑った。
前から彼のことは飄々として掴みどころがない人だとは思っていたが、イルミナが手を焼いていないか心配になる。
「ねえ、どういった経緯でイルミナの専属騎士となったの?」
専属騎士とは王族一人につき一人しか選ばれず、ゆえに主君のもうひとつの命と呼ばれ、絶対的な忠誠だけではなく、時に主君を導く役割を持った人だ。
だいたい十歳くらいになると互いの相性を踏まえて選出されるが、エリスの場合は極力人付き合いを避けたくて断っていた。
(イルミナがアルフリートさまのような方を選ぶなんて意外だけど、彼はよほど腕の立つ人なのね……それにしても返事がないわね)
なんとなく場の空気が張りつめた気がしてエリスが顔を見上げると、アルフリートの唇は未だに綺麗な弧を描いているが、緋色の瞳の奥が冷え冷えとしていた。
「──知りたい?」
ぞっとするような低い声に、エリスが咄嗟に身構えたとき、
「彼女にからむな」
清々しく品格のある声と共にアルフリートの頭上に紙の束が振り下ろされた。
ぽこっ、という軽快な音が鳴る。
エリスはアルフリートの背後にいる人物を見て悲鳴を上げそうになる。そこにいたのは呆れ顔のクラウィスだった。
「いつまで経っても戻って来ないと思ったら。執務室の中まで話し声が聞こえてきたぞ」
「あらー。イルミナさま怒っていた?」
「少なくとも俺は呆れていた」
「それ答えになってないじゃん」
「……矯正するまで叩かれたいのか」
「いやだね」
アルフリートは片手で頭上を守りながら、クラウィスと距離を取るように横歩きでエリスに近寄ってくる。
「ほら、エリスさまも見たでしょう? ひどいよね、王国一の騎士に向かって。ああ、こう見えてもおれ、騎士団長より強いから。強さについては安心してね」
「…………」
エリスがいぶかしげな視線を向けると、アルフリートは「本当だから」と弁明しようとしてくるが、クラウィスに首根っこを掴まれた。
「お前は警戒態勢中とそれ以外の差がひどいんだよ。これも頼んでいた資料と違う」
「あれ? あ、本当だ。ごめんごめん」
そういってアルフリートは苦笑した。クラウィスは深々とため息をつく。
「騎士の手も借りたいほど忙しいというのに。お前はもうイルミナさまの警護に戻れ」
「そうこなくっちゃ。それでは失礼します、エリスさま」
アルフリートは足早に廊下を進み、執務室の扉を開けて滑るように中に入った。
(あ、イルミナ)
一瞬だけ彼女の横顔が見えたが、扉がすぐに閉まってしまったせいで目が合うことはなかった。そのことを残念に思っていると、クラウィスが咳払いをする。
「それで、エリスさまはイルミナさまにどのようなご用件でしょうか」
数日ぶりに彼の表情を見て困惑する。なぜだろう、前よりも壁を感じた。
「……あ、あなたがちゃんとイルミナに気を遣っているか確認しにきたの」
しどろもどろになりながら告げると、クラウィスは熟考するように押し黙る。その間が気まずくていたたまれない。
「エリスさま、少し歩きませんか。二人きりで」
「え?」
エリスはクラウィスのあとに続いていくと、ベランダに案内された。ここはイルミナの住まいの区域に含まれていて、脇には一階から三階を繋ぐ螺旋階段もあった。
(王宮にこんなところがあったなんて。イルミナが休息に使っているのかしら?)
椅子やテーブルが置かれ、テーブルの上には水魔法の加護がかかっている花が生けられた花瓶が置かれている。
エリスが手すりに寄りかかりながら外を見回すと、生い茂るような森とその奥に城下町が見えた。ふわりと風が吹いて黒い髪が宙を舞う。視界を妨げないために横髪を耳にかけると、クラウィスと目が合った。
「身だしなみはしっかりされているのですね」
「あったり前でしょう!?」
エリスはぷいっと横を向く。
今日のドレスは五月に近いということで、水色の生地に肩のフリルが特徴のものを衣装部屋から引っ張り出してきた。決して『クラウィス監修』のドレスで淡い色を気に入ったからではない。
クラウィスは青い瞳を細めて真顔で告げる。
「よくお似合いですよ」
「……あ、ありがとう」
まさかお世辞をいわれるとは思っていなかったため、エリスは何度も瞬きをした。
(こんなところに呼び出して、何を考えているの? まだ悪いことをした覚えはないもの。そもそも前回の人生だってイルミナに嫌がらせはしていないわ)
心当たりがなくて必死に答えを探そうと頭をひねっていると、クラウィスはためらうように口を開く。
「エリスさま、先ほどのアルフリートの言葉を真に受けないでください」
「?」
「普段のあいつはもっと真面目に取り組んでいますから。イルミナさまの守りは万全です。そこはご安心ください」
歯切れの悪い言い方だった。よく見ると、クラウィスの耳が若干赤く染まっている。先ほどのアルフリートとの軽快なやり取りを人に見られたのが気まずかったようだ。
(それを伝えるために緊張していたの?)
彼にも年相応の青年らしいところがあると知って、エリスは思わず口角を上げてしまう。同時にからかいたい衝動に襲われたが、あとで返り討ちにあうことが容易に想像できたためこらえる。だが聞くべきところはしっかり問いただしておきたい。
「具体的にはどういった対策を?」
するとクラウィスは気持ちを切り替えるように表情を引き締める。
「日々の食事のメニューや素材、イルミナさまの体調を整えるための健診の回数、騎士や衛兵の配置などを見直しました」
「…………なるほど」
頷いたものの、エリスの心に一滴の疑念が波紋をつくる。日常のことを見直したところでイルミナを守りきることができるのだろうか。
彼女に使用された毒は『治癒』の魔法を使っても解毒できないものだった。そんな毒が存在すれば王国だけではなく大陸中を揺るがす劇薬となる。
(イルミナが毒入り紅茶を飲んだと想定されるのは八月から九月に差しかかるころ。一体、誰がそんな凶悪な劇薬を持ちこんだのかしら?)
前回の人生では知らされていないだけで、イルミナの食事の毒見をしていた侍女も苦しい思いをしていたのかもしれない。それを見過ごすわけにはいかない。
(クラウィスさまの仕事ぶりは評価に値するわ。でも私の言葉ひとつでここまで丁寧に動いてくれるなんて、やっぱり変よ)
もしかしたらアレン派が怪しい動きを見せているのか。イルミナを脅かす存在に気づいているからこそ、エリスの言葉もあってさらに強化してくれたように思える。
「私はイルミナが仕事をしやすい環境や食事に気を遣ってあげてと言ったの。警備の配置まで口を出した覚えはないわ。イルミナの周りで何が起きているの?」
しばらく沈黙が続いた。こんなに彼の口数が少なくなるのは初めてだった。それでも根気強く待っていると、彼はゆっくりと口を開く。
「イルミナさまにとって今はとても大切な時期です。各地の貴族たちを交えた春の定例会議、城下町への視察に、地方への支援金の準備。たくさんの人と接する機会が増えるため、先立ってエリスさまの不安を取り除こうと警備の話をお伝えしました」
「それで納得できるわけがないでしょう? 悪いけどイルミナから直接聞くわ」
エリスが方向転換しようとすると、クラウィスの片手に阻まれた。
「……どういうおつもりかしら?」
紫色の瞳を鋭くすると、彼もまた青色の瞳を力ませた。
「失礼を承知で申し上げますが、イルミナさまにはあなたの突拍子もない行動に付き合っておられる時間はないのです」
あからさまな拒絶にエリスはわざとらしく小首を傾げる。
「あなたに私を止める権限などないはずよ」
「ではイルミナさまのお言葉といえば納得していただけますか?」
エリスは眉根を寄せて胸の痛みに耐える。
(どうしてイルミナは私を避けるの? やっぱり嫌いだから? でも)
イルミナは感情に任せて行動する人ではないと思う。幼い頃から口を開けば厳しい小言ばかりだったが、今になって考えるとクラウィスの指導によく似ていた。彼女もまたエリスに足りないものを補おうとしてくれていたのではないか。
イルミナはいつも胸のうちに深謀遠慮を秘めているのだろう。エリスはそれが知りたくてたまらなかった。