薄暗い視界の中で、一人の少女が立ちすくんでいる。
背景に溶けてしまいそうな黒髪には、彼女の血色のいい唇と同じくらい真っ赤なリボンがつけられていた。着ているドレスはフリルがたっぷりとあしらわれていて、細い肢体を覆っている。
可憐な容姿が台無しになるほど着膨れしているが、彼女だけはそれに気づかない。少しでも大人に近づくことに必死になっていたからだ。
しかし周りの大人たちは少女に対して何も言わない。遠巻きにして困った表情を浮かべているだけだ。一方で同じ世代の令嬢からは素直な感想が出た。着飾ったところでイルミナさまに近づけない、逆に悪目立ちしている、と。
それを聞いて少女は唇を動かすと、無数の黒い塵が舞い上がる。それは闇属性のみが使える『破壊』の呪文。黒い塵に覆われたものを破壊する強力な魔法だ。
すると少女は周囲から責め立てられる。どうして人に向けて魔法を使ったのだと。
少女が答えることはなかった。
「!」
エリスは飛び起きると両手で胸元を押さえた。うなされていたのか、喉が張りつくほど渇いていた。腕をサイドテーブルまで伸ばし、水差しの取っ手を掴むとコップに注ぐ。
喉を潤してから一息つくと、空が白みカーテンの隙間から光が漏れる。
(……久々にこの夢を見たわ)
舞踏会で相当気を張っていたのだろう。エリスは力を抜いて背中からベッドに倒れる。こんな夢を頻繁に見ていたら心労で死んでしまう。そうならないためにも対策を練らなければならない。
(そうよ、せっかくの二度目の人生なんだもの。もっと楽しいことも考えないと)
美味しいお菓子のことだったり、冒険小説の登場人物の視点になって見たこともない景色を想像するのも楽しいかもしれない。
(風を感じながら大海原を船で進んだり……きっと空も海も青くて綺麗なのでしょうね)
まるで誰かの瞳みたいに、と連想したところでエリスはカッと目を見開く。
「待って、私ったら誰を思い浮かべたの?」
するとクラウィスの容姿がはっきりと浮かんできて、エリスは声にならない悲鳴を上げてブランケットを頭まで被る。
(え、昨日は本当におめでとうございますって言われたのよね……?)
形式的な挨拶以外で祝いの言葉をもらったのはあれが初めてであり、まさか長年焦がれていた言葉をくれるのがクラウィスとは思ってもいなかった。
(やだ! やだやだ! こんなの認めたくない!)
たった一言でこんなにも心がかき乱されるなんて、彼はとんでもない男だ。エリスは熱に浮かされたようにぼうっとしたが、すぐに振り払う。
「もう! あなたのことを考えている暇はないのに!」
今後の自分の展開に思いを馳せて、寝転んだまま頭を抱える。
前回の人生と展開が同じなら、舞踏会から約三か月後に何者かが王宮に集められた民の税金を横領したことが明らかになる。
目撃者の証言から、紫色の瞳と黒髪の女性が政務室の資料庫に出入りをしていたという情報が上がった。王宮でその特徴を持つ者はエリスしかいない。
そこでレナルド・アルムスという三白眼と口調の荒さが特徴的な三十代前半の内政調査官が、衛兵と神官を引き連れて毎日のように事情聴取を強いてきた。
エリスは絶賛引きこもり中だったため身に覚えはなく『嘘くさい目撃証言ね! 瞳の色まで知られるなんて、犯人はずいぶんとのろまな動きをしていたのね』と突っぱねた。
だが今度は城下町の闇市で大金をルビーに換えた人がいるという情報が上がった。エリスは幼い頃、両親の気を引くために宝石をねだったことがあった。だからこそ調査官はエリスが衛兵の目をかいくぐり城下町へ出たと疑い、部屋の中を見せるよう告げたが、エリスは自分の領域を荒らされたくなくて断り続けた。
クラウィスからの追撃も相まって、徐々にエリスの逃げ道がなくなってきたとき、イルミナが毒入り紅茶を飲んで意識不明の重体となったと言われた。
自分をさらに追い込むための演技だと思っていたら、ついに国王から強制的な命令が下り、エリスの自室に取り調べが入った。
するとタンスの中から大粒のルビーがひとつ見つかり、テーブルの引き出しからも白い粉が入った小瓶とメノウ製の乳鉢や乳棒が出てきた。
エリスは驚愕のあまり『何よこれ!! 誰が仕込んだの!?』と叫んだが、調査官は『ここまで証拠が揃ってまだ白を切るとはなァ』と嘲笑した。
調査官が出した結論はこうだ。エリスはイルミナに嫌がらせをするだけでは飽き足らず、横領した税金を持ち運びしやすいルビーに換え、その悪行に気づいてしまったイルミナを口封じのために毒殺しようとしたのだと。
エリスは否定するが、証拠が揃っているため誰も信じてはくれなかった。
そのあとは地下牢に拘束され、寒さに凍える日々を一週間ほど送ってから処刑された。
(てっきり舞踏会でアルムス調査官にも会えると思っていたのに)
爵位を持っていなくても王宮で働いている役人であれば参加資格はある。貴族と懇意にできるということで野心家たちはこぞって参加するが、彼は違うようだ。
(アルムス調査官は誰の指示で動いていたのかしら? それに私の部屋に横領と毒殺の証拠を仕込んだ人物のことも気になるわ)
この部屋に入れる人はかぎられている。三人いるエリスの侍女のうちの誰かが部屋に証拠物を仕込んだ可能性もある。
(私は彼女たちにとっていい主人じゃなかったから、裏切りたい気持ちもわかるわ)
沈んだ表情をしたとき、自室の扉が開かれた。
現れたのは侍女のまとめ役となっているセレジアだった。エリスが起きているとは思ってもいなかったのだろう。彼女の緑色の瞳が動揺のせいか揺らいだ。
「おはようございます、エリスさま」
「……おはようセレジア」
エリスがそう声を返すと、彼女は丁寧なお辞儀をしてからこちらに近づいてきた。
「朝食を用意いたしましょうか?」
「ええ、お願い」
彼女はエリスに対して落ち着き払っている。今までの侍女の中でもっとも任期が長いからかもしれない。
(確か、お母さまが療養されたときから?)
二十代半ばとなった彼女がエリスの侍女を務めているのは、闇属性の王女に仕えれば破格の給金がもらえるからだ。彼女の実家であるアリーン男爵家がお金に困っていると残りの二人の侍女たちが噂しているのを聞いたことがあった。
セレジアがテーブルに朝食を並べていく。丸いパンがひとつにクルミが練りこまれた輪切りのパンが数切れ。果物のジャムは柑橘系と木苺の二種類だった。そして紅茶は黄金色に透き通っている。
エリスはソファに座って、丸いパンを半分に割る。柑橘系のジャムをつけて口に含むと小麦の優しい甘みが広がった。
(このジャムはカルモだわ!)
本来ならカルモの旬は真夏だ。四月でも食べることができるのは水魔法や火魔法で栽培の時期をずらしているおかげだ。
エリスはさりげなく壁際に控えるセレジアを見つめる。いつも食事や間食を用意してくれるのは彼女だった。
エリスの生命線を握っているのは間違いなくセレジアである。彼女がいなければ生活することはままならない。地下牢に閉じ込められたことで、ありがたさがより身に染みた。
(それなのに私は彼女をクビにしてしまって……)
実は前回の人生で、エリスはアルムス調査官から横領の件で尋問を受けている際にセレジアを解雇していた。
彼女の切迫した様子を思い出して苦々しく眉をひそめる。
『エリスさま、失礼を承知の上で申し上げます。潔白を証明するためにも身の回りのすべてを明かすべきです』
『……あいつらをこの部屋に入れるってこと? 嫌よ。ここは私の領域なの。私を疑い、声を聞こうとしてくれない人をここに入れたくはない!』
『だからこそ早急に疑いを晴らしましょう』
あのときのエリスには彼女が本気で身を案じてくれていたのか、そうでなかったのかの判断がつかなかった。だからセレジアをクビにした。
二人の侍女もおとなしくなり、エリスに口出しする者はいなくなった。そういった面から恐喝と判断されたのだろう。
もしセレジアが最後までエリスのそばにいてくれたら、部屋から数々の証拠が見つかったときにも『そんな話があってたまるものですか!』と反論してくれたのか。
(わからない。でもあれが親切心だとしたら私は……セレジアの苦渋の決断を無下にしてしまったことになるわ)
静かに落ち込んでいると、追い打ちをかけるように、以前クラウィスから『どうしてそこまで人を遠ざけるのか』と言われたことを思い出す。
(あなたに言われなくてもわかっているわよ)
一か月も一緒にいた支障に、エリスは思い切り顔をしかめた。
クラウィスが離れた今、真犯人の魔の手に立ち向かうためにも味方は多いほうがいい。今度こそセレジアと向き合ってみたいと思うが、会話のきっかけが掴めない。
「えっと、今日はいい天気なのかしら」
棒読みの独り言を呟いてみると、セレジアは窓を見て頷いた。
「そうですね。少し雲が多いですが、おおむね晴れでしょうね」
(! 返事をしてくれた!)
エリスは不器用ながらも言葉を続ける。
「じゃあ、今日は王宮の庭園でも歩いてみようかしら……なんて」
するとセレジアはほんの少しだけ目を和ませる。
「それはいいことですね。息抜きは大切だと思いますよ」
彼女はエリスに対してここまで気さくに返事をしてくれる人だったのか。
「私が、怖くないの?」
思わず声に出すと、セレジアは困ったように微笑んだ。
「……怖くないですよ」
「なぜ」
エリスが食い気味に問いかけると、セレジアは新緑の葉の色に染まった瞳を細める。
「ここ最近のクラウィスさまとのやり取りを見て、私はあなたの努力する姿に胸を打たれました。それに舞踏会でのご活躍も風の噂でお聞きしましたから」
「! そう思っていてくれたのね」
真っ先にクラウィスの名前が出てきたことに反論したかったが、最後まで話を聞いていたらどこかに吹っ飛んでしまった。
こんな自分を彼女は褒めてくれた。それが嬉しくて、エリスは自然と言葉を紡ぎ出す。
「今日の午後、庭園を歩いてみようと思うの。えっと、セレジアも一緒に来てくれる?」
「ええもちろんです」
嬉しい返答に、頭の中に花がふわっと舞った。
「今はどんな季節の花が咲いているのかしら?」
「そうですね……早咲きの小薔薇が見頃を迎えています。ピンクや赤の小さな花がかわいらしくて。そうだ、ちょうどいいものがありますよ」
彼女は一度部屋から出ていくと、花束を抱えて戻ってきた。
「誕生日のお祝いの品です。水魔法の加護がかかっているため一か月ほど色鮮やかなまま楽しめるそうです」
そういってエリスに向けて花束を見せてくれる。青色の丸々としている花、白色と黄色の小ぶりな花、そしてオレンジ色の大輪の花があった。香りもそれぞれが引き立て合っていて、セレジアが花瓶に生けると部屋全体が明るくなった気がした。
エリスは恐る恐る彼女の隣に立って横顔をうかがう。
(ああどうしよう。誰かと話しているとこんなにも心が楽しくなるなんて)
時が巻き戻っていなかったら、この感動は抱けなかった。
セレジア以外の侍女にも日頃からお世話になっている。何かしらの形で礼を尽くし、少なくとも三か月後にエリスの味方でありたいと思われるような行動を心掛けたい。
エリスはセレジアに向き合うと、緊張した面持ちで告げる。
「ねえ、セレジア」
「はい? なんでしょうか?」
「いつもありがとう」
エリスはセレジアの反応を見るのが怖くなって、一度視線を彼女の足元に向けた。
(私なんかにそんなことを言われても困るのはわかっているけど……)
勇気をもって顔を上げると、セレジアは微笑んでくれていた。まるで幼子の成長を見るように優しい眼だった。
母親に対する安心感とはこういうものなのか。
(ふふ、くすぐったい)
エリスは少しだけ頬を赤くしながら、再びソファに腰掛けて紅茶を口に含む。ほっと一息つくと、自室の扉を眺めた。
この一か月、日が昇り切る頃にクラウィスは課題の紙の束を持って現れた。だが今日はいつまで経ってもやってこない。
それもそのはず。クラウィスの監視兼教育は舞踏会が終わるまで。
肩の荷がひとつ下りた気分になるが、エリスは妙にそわそわする。
(クラウィスさまの顔を見なくて済むのに。どうして?)
胸の内にぽっかりと穴が開いたようなこの喪失感はなんだろうか。