(……いた。ちょうど取り巻きも少ない)
喫煙室や休憩室に向かう人が増えてくる時間帯であり、大広間の音楽も落ち着いた曲調となっていた。エリスはなるべく笑顔を心掛けて足を進める。
その先にいるのは、処刑の場にはいなかったが、要注意人物たちだ。
クラウィスもエリスが彼らに近づいていくことに気づき、すっと目を細めて表情を引き締めた。
エリスはその反応を横目で流してから、自分よりも背丈の低い少年に声をかける。
「ごきげんよう、アレン」
「これはこれは……お久しぶりですね、エリスさま」
皮肉たっぷりに笑ったのはアインハウアー公爵家の嫡男であり、エリスの三歳年下の従弟だった。
そして彼の隣には体の輪郭に沿った深紅のドレスを着て、飾り羽根がついた扇子を煽ぐ妙齢の女性がいる。
「あら、エリス。てっきり今日も不参加だと思っていましたのに。今のところ粗相をしていないようで安心しましたわ」
そういって赤い口紅を塗った唇を歪ませる彼女はアレンの母親であり、国王であるウィルトスの妹のマリアンヌだった。
彼女はエリスたちの母親に代わり、貴婦人たちのまとめ役になっている。エリスにとっては母親に意地悪をしてその地位を奪い取ったようにしか見えなかった。
(相変わらず派手ね。さすがイルミナと張り合おうとしているだけあるわ)
現在、このレストレア王国には三人の王位継承者がいる。
王位継承権一位のイルミナ・ルーシェン・レストレア。
王位継承権二位のエリス・アウリア・レストレア。
そして王位継承権三位のアレン・アインハウアーだ。
マリアンヌは気位が高く野心家であるため、公爵家へ降嫁すると決まったときはかなりもめたらしい。だからこそアレンを国王にすることに尽力し、貴族たちはイルミナ派とアレン派という派閥に分かれていた。
イルミナは幼い頃から自分なりに国民のことを考え、さまざまな分野へ支援を打ち出し、災害があったときは誰よりも早くかけつけて自分の光魔法を存分に振るった。その功績は大きく、三年遅れて生まれたアレンにとって越えられない壁となっていた。
(そう考えると私とイルミナを陥れることでもっとも得をするのはアレン派だわ)
エリスを恐れずに見下したような態度を取る親子に、少し前までのエリスだったら彼らに対して敵意をにじませていたが、今日は違う。
「叔母さまに褒められるなんて。素敵な誕生日になりそうだわ。どうもありがとう」
マリアンヌは口端をピクリと動かし「そう、ならよかった」と言った。彼女としてはエリスを煽り、少しでも逆上しボロが出たところを叩きたいと思っているようだが、その手に乗るつもりはなかった。
アレンはつまらないといわんばかりに顎を上げる。
「ずいぶんと取り繕っているようですが。それも彼の影響ですか?」
「彼?」
エリスが聞き返すと、アレンは視線でクラウィスを促した。
「しらばくれなくてもいいのに。そこの宰相補佐官とコソコソとしていたのでしょう?」
コソコソという表現がお年頃の子どもっぽいが、要は婚約者でも何でもないのに色恋沙汰があったと疑っているのだろう。
エリスはそんなことは一切ありませんという意を込めて微笑む。
「クラウィスさまにはダンスの練習のお相手をしてもらっていただけよ。こうして舞踏会を楽しめるのも彼のおかげだわ」
当たり障りのない返事をすると、クラウィスは胸元に右手を添えた。
「こちらこそ教え甲斐のある生徒を持つことができて光栄でした」
なんだか含みのある言い方だが今は聞き流すことにする。だがアレンは納得できないのか眉根を寄せる。
「婚約者でもないのに部屋に入り浸っておいて、まだ生徒だって言い張るのですね」
その反応にエリスは疑念を募らせる。アレンはここ数週間のエリスの様子を知っているようだ。彼の住まいは王都の一等地にあるため王宮にはあまりいない。密偵かアレン派の取り巻きを使って情報収集をしていたに違いない。
(もしかして……クラウィスさまが警備を増やそうと言ったのはこのため?)
エリスが約六年分の知識の遅れを取り戻すために、立ち居振る舞いや王国の歴史まで最初から学びなおしていたことまでは知らないようだ。そんなことがこの親子に知られていたらもっと厄介な絡まれ方をしていただろう。
つまり自室から不用意に出ないことで自分の身を守れていたことになる。
クラウィスはアレンに向けて優しく笑みを浮かべる。
「アレンさま。失礼を承知で申し上げますが、そばにいるからといって密接な関係になるとはかぎりませんよ」
「なんだと──」
「そうよ、アレン。男女の関係は複雑なの」
マリアンヌは声を荒げた息子をたしなめた。
アレンは表情を引きつらせて押し黙る。彼女はしばらく息子を見つめていたが、やがて朝露に濡れた薔薇の棘のような深い緑色の瞳をすっと細める。
「なんだか悔しいわ。あなたがエリスと一緒にいる姿をわたくしに見せるなんて」
マリアンヌはクラウィスの腕に片手を添えた。エリスは思わずぎょっとする。
「そうだ、クラウィス。今度わたくし主催のパーティーにいらっしゃって。また昔みたいにお話ししましょう?」
エリスは見てはいけないものに直面した気持ちになりつつも、クラウィスの反応をうかがう。だが彼は「もちろんです」と頷いた。
(どうしてイルミナと対立するマリアンヌの誘いに乗ったの?)
ふとマリアンヌと目が合った。彼女は厚い唇に弧を描く。お子さまは黙っていなさいといわれているような気がした。
「わたくしたちはそろそろ行きますわ。またね、クラウィス」
マリアンヌは彼に向けて手を振ると、エリスとすれ違い様にささやく。
「闇属性のあなたにこの華やかな世界はふさわしくない。いずれ身に染みるときが来るわ」
「!」
エリスはハッと息を吞む。
(もしかして叔母さまが……でも)
証拠がなければ公爵夫人である彼女を検挙することはできない。それに先入観で決めつけてしまえば足をすくわれる。真犯人はイルミナを出し抜いたのだから。
だがマリアンヌは最後にぞっとするほど冷たい顔でエリスを威圧した。
その瞬間、エリスの脳裏にある光景が思い起こされる。
王宮の庭、少女たちの姿、駆けつける大人たち、黒い塵が舞う空間で立ち尽くす自分。
──あなた、自分がしたことがわかっているの!? 魔法で人を傷つけるなんて。
誰もが怯えた表情でこちらを見ている。幼いエリスは自分でも状況が吞み込めなくて言葉を紡ぐことができない。
(……! しっかりしなさい私!)
今は舞踏会の最中で、あのときの自分とは違う。
エリスは苦々しい表情でマリアンヌとアレンの後ろ姿を見送った。
● ● ●
(これで最後かしら)
マリアンヌたちと別れたあと、アレン派の貴族や大臣にも声をかけたが、彼らはエリスに話しかけられた不快感を強くあらわにしただけで、イルミナに危害を加えるかどうかの判断は難しかった。
まだ目当ての人物はほかにもいたが、どこにも姿が見当たらなかった。別の機会を考えるしかない。エリスは力なく口を開く。
「クラウィスさま」
「どうかされましたか?」
「部屋に戻るわ。あなたはどうするの?」
あえて言わなくてもわかることを口にした。彼はなんてことないように答える。
「部屋まで送りましょう」
エリスたちは水晶宮から出て王宮の本殿に向かう。
通路には支柱の隙間から月明かりが差し込み、ハイヒールの音と革靴の音が重なったり、重ならなかったり。まるで音楽を奏でているように穏やかだ。
エリスは動悸が静かになっていくのを感じる。同時に頭も冴えてきた。
(もしもアレン派の誰かがイルミナを排除したいと思ったとき、それが世間に明るみに出れば印象は悪くなるわ。そのために私は濡れ衣を着せられたのかしら)
なんとなくイルミナは老衰以外で死ぬことはないと思っていたため、今さらながら自分の視野の狭さに呆れる。
(私が知らなかっただけで、イルミナもクラウィスさまも前回の人生の嫌がらせの犯人が私かアレン派だと目星をつけていたはず)
それに国王の病も気がかりだ。五か月後の処刑のときまで生きていたが、この舞踏会で大神官と行動を共にしていたということは有事を想定していたのだろう。
おそらく世代交代が近い。父親に対してあまりいい印象を抱いていなかったが、それでも肉親の死が近いとわかると込みあげてくるものがある。
(真犯人はアレン派のうちの誰か、それともアレン派を利用した第三者で、お父さまの退位が近いと感じ取って行動を起こしたというの?)
今後はそこを重点的に調べなければならない。それにエリスに擦りつけられた横領や毒殺の出所も気になる。
(あとは……)
エリスは横目でクラウィスを盗み見る。
怜悧そうな横顔からは何を考えているか読み取れない。
(本当にあなただけだったの。ここまで真摯に私と向き合い続けてくれたのは)
引きこもる前にも教育係はいたが、みな長続きはしなかった。エリスの顔色ばかり窺い、満足いく出来にならなくても無理に褒めたたえていく。
クラウィスだけがエリスに足りない部分を本気で補おうとしてくれた。
(あなたは胸の内に思惑を秘めながらも、信念を貫ける人)
彼の行動には一貫してイルミナの思惑や願いがかかわっている。忠誠を誓っていなければ前回の人生も今回もここまで徹底できない。
彼はどんなことが起きようと裏切ることはない。それだけは理解した。
エリスは足を止めた。
「クラウィスさま、最後にお願いがあるの」
彼は表情を変えず立ち止まった。二人のあいだにふわりと風が吹く。
「イルミナの『治癒』の魔法を使う機会を減らしてあげて。私たちの魔力は誰よりも豊富だけど、頼りすぎれば肝心なときに魔法が使えなくなるわ」
彼は時が止まったかのように息を吞む。
「……イルミナさまが魔法を使われていることに気づいていたのですか?」
「失礼ね。それくらいわかるわよ」
エリスは真剣な眼差しでクラウィスを射貫く。
「体調を崩すことが多くなれば、取り返しがつかないほど悪化する危険性もあるわ。特に食事には気を遣って」
イルミナは紅茶に入れられた毒を摂取したことで倒れたと聞いていた。魔法で解毒できなかったということは慢性的に摂取していたのかもしれない。
「……」
クラウィスは何度か瞬きをする。驚いて声が出ないようだ。
「あら、私が気を遣うのがおかしいの? だってしょうがないでしょう。あの子に元気でいてもらわないと私が楽をできないの。あと、このことはイルミナに絶対に言わないで。それくらい約束してくれるわよね」
「承知、いたしました」
それっきり会話はなくなった。
互いにそのまま歩みを進める。やがて自室に繋がる廊下が見え、扉の前に到着すると騎士が出迎えてくれた。
エリスは瞳を伏せながらクラウィスに会釈をして部屋に入る。
(これでクラウィスさまとの密着生活とはおさらばね)
同時にあることに気づく。今年も欲しかった言葉をもらえなかった。
(……別に期待していなかったもの)
いつものことだ。期待するほうが虚しい。
そんなことを思い始めた矢先のことだった。あともう少しで扉が閉まるというところで「エリスさま」と呼び止められる。振り返ると青い瞳とかち合った。
「お誕生日、おめでとうございます」
エリスは目を見開いた。耳に残る柔らかい声が頭の中をぐるぐると廻って、納得する。
クラウィスはイルミナの側近であるため、彼女のついでとして口にしたのだろう。彼にとっては他意のない、誕生日に該当する人がいれば普通に出てくる言葉なのだ。
だけどエリスにとっては特別で──生まれたことを許されるようなささやかな奇跡。
「あ、ありがとう。それじゃあおやすみなさい!」
エリスは逃げるように自室に入る。そして扉が閉まったのを確認してから、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
(……っ、熱い)
頬や耳だけではなく肩まで真っ赤に染まった。