第一章②

 静かな食堂に、かすかにカトラリーの音が響く。

 テーブルウェアでかざられたちようたくでは継母とまい、そして父が食事をしている。

 派手なドレスを着た巻きがみの少女が、継母の連れ子で義妹のジャネットだ。相変わらず継母によく似た、いやな目つきをしている。

 暖炉を背にしているのは、アーヴァイン侯爵家の当主、クライヴ・ジョン・アーヴァイン。この場でゆいいつ血のつながりのある、私の実の父親だ。

 逆行前、ろうごくとうへ連行される私に「何とおろかなむすめだ」とつぶやいた冷めた目が忘れられない。私への愛情はどこにも見当たらなかった。

 二度目の人生でも同じなようで、食堂に現れた私を見た父の目はやはり冷めていた。

 悲しくないわけではないが、愛してくれない父親の心よりもいま問題なのは──。

 きらびやかな長卓の上に並べられた食事に、思わずうっと口に手をやりたくなった。

わたす限り、肉肉肉ね。見てるだけで胸やけしそう)

 にわとりぶたうしかもうさぎに羊に鹿しか。とにかくこの世界の貴族は肉ばかり食べる。サラダなどの野菜メインの料理はまず出ない。貴族が好まないのだ。

 料理を前にひるんでいた私を、父がじっと見つめてくる。

「……お父様、何か?」

「いや……。体調をくずしていたそうだな。食欲がまだ戻らないなら、例の件は難しいか」

 父は食事の手を止め、私たちを見るとゆっくりと口を開いた。

しんたくが下った」

 父のその言葉に、継母たちがおどろいたようにカトラリーの音を立てた。

 私はまじまじと、父の平然とした顔を見つめる。そうか、この年だったか。しん殿でんに、創造神デミウルの神託が降りたのは。

「あなた。神託とはどのような内容だったのです?」

「聖女が現れるという神託だ」

「聖女……伝説の、光のがみけいやくを結ぶおとですね!」

 ジャネットの言葉に父がうなずく。私は知っている。このあと、父が何を言うのか。

「三年後、王立学園に聖女が現れるそうだ。そこで三年後に入学するねんれいがいとうする貴族の子女は、王宮にて国王陛下にえつけんすることになった」

「三年後ということは……」

「私、該当するわ! 王宮に行けるのね!」

 ジャネットは、まるで自分が聖女であるかのように顔をかがやかせている。

 悪役オリヴィアをいじめるさらに上の悪役のくせに、とその図太さに感心してしまった。

「ああ。……オリヴィア。お前もだ」

 父の言葉に、シンと部屋が静まり返る。いびつな家族たちの目がそろって私に向けられた。

「私は──」

「お義姉ねえ様には無理です!」

 私の言葉をさえぎり、ジャネットが悪意のあるがおで言った。

「そんなにやつれていては、侯爵家のれいじようは病人だと王宮でうわさになってしまうもの。国王陛下にもその状態でお会いするなんて失礼よ」

 そうだ。逆行前も、ジャネットにまったく同じことを言われた。反論せずだまっていた私に、父は確か「無理をする必要はない」とジャネットの意見に賛同したはず。

 当然私は聖女ではないので、王宮に行く必要はないのだ。国王陛下にお会いしたいとも思わない。むしろ逆行前にかかわった王族たちには、近づきたくもない。

(……待って。そういえば、謁見の日に何かが起こったんじゃなかった?)

 私は行かなかったが、王宮で歴史的大事件が起きたのではなかったか。確か王族のひとりが謁見の日にくなった。それは私と同じ年の子どもで──。

(思い出した! 第一王子殿下が毒殺されるんだ!)

 謁見の日、王太子宮で前おう息子むすこである第一王子が何者かにより毒殺されたのだ。そして現王妃の長子である第二王子が王太子となった。

 ちなみに私はその第二王子の婚約者だった。もしかしたら、現王太子の第一王子が死ななければゲームのシナリオが変わり、私の運命にもえいきようがあるかもしれない。

 迷いはなかった。愛のない父の視線におくすることなく、真っすぐにえる。

「お父様! 私も王宮に参ります」

「まあ! 何を言うかと思えば」

「お義姉様、鏡を見てから言ったら? とても王宮に行ける姿じゃ──」

「王宮からの呼び出しをきよするなど、それこそ不敬です」

 不敬という言葉に、ままははも義妹もおもしろくなさそうな顔をしたが口を閉じた。

「失礼のないよう身なりを整えれば、連れていっていただけますか?」

 父を見つめながら問えば、氷のように冷たい目が細められ「いいだろう」と返事が。

「ありがとうございます、お父様」

 継母や義妹は、無理に決まっていると言いたげだったが、私には自信があった。

 売上全国一位を記録し、社長にひようしようされたこともある前世の美容部員の私がさけんでいる。

うでが鳴るわ!)


    〇 〇 〇


 翌日の午後。三日後の謁見のために、料理長から分けてもらったはちみつで念入りにはだと髪の手入れをしていると、部屋にノックの音がひびいた。このタイミングの悪さはもしや。

 思った通り、返事も待たず入ってきたのは、けんに深いシワを刻んだメイド長だった。

「何をげん良さそうにしているのかと思えば、いまさら肌の手入れですか」

 鏡の前に立つ私を見て、メイド長が鼻で笑う。骨と皮だけのとりガラ女が何をしたところでムダだと思っているのだろう。

「国王陛下のぜんに参るのだから、これくらいは侯爵家ちやくじよとして当然でしょう?」

 とぼけて微笑ほほえんでやると、メイド長はいかにも気に入らないといった顔でワゴンを押してきた。ワゴンの上には銀のフードカバーと、グラスにカトラリーが並んでいる。

(そろそろかなとは思ってたけど、やっぱり来たか~)

 カバーの下を見なくてもわかる。毒である。毒盛り料理である。

 あの継母が、私が国王陛下に謁見するのに黙っているはずがない。毒を盛られされるだろうことは予想していた。驚きはないが、代わりにみような期待がいてしまう。

 今度は一体どんな毒だろう、と。

「食事の内容から見ると、ずいぶんと回復したようですね。そんなに元気になったのなら、もっと食事の量を増やしたほうがいいですね」

「……そうね。少しずつ増やしていくわ」

「あなたの食事だけ別にしていては手間でしょう。私のほうから料理長に伝えておきます。よろしいですね?」

 料理のリクエストなど、勝手なことはするなと言いたいらしい。

 仕方ないが、料理長にはこっそり作ってもらうようたのむか。だがバレたときには彼やちゆうぼうの使用人たちにめいわくがかかるかもしれない。それはけたいところだが──。

「随分とそんな物言いですね」

 どう対応するか考えていると、入り口から落ち着いた声がした。

 ハッとそちらに目を向けると、厳しい顔の執事長が立っていた。後ろにはアンもいる。

 執事長は家令の役割もになっている使用人のトップ。つまり、メイド長よりも上の立場にいる人だ。ちらりとメイド長を窺うと、明らかにまずいという顔をしていた。

「し、執事長がなぜはなれに?」

「メイド長がしんな動きをしていると、報告がありまして。様子を見に来たのです」

「一体だれがそんなことを……アン、お前かい!」

 メイド長ににらまれ、アンがビクリとかたすくめる。見かねた執事長がアンを守るように一歩前に出た。逆にメイド長はじりじりと後退し、執事長ときよをとる。

「誤解があるようですが、私はお嬢様にお食事の提案をしていただけで──」

「聞いていましたよ」

 しつ長はワゴンを見下ろすと「失礼いたします」と言ってフードカバーをとった。

 私にしか聞こえない電子音が連続で鳴る。やはり真っ赤な警告ウィンドウが表示された。

 昼食にと用意されたのは、キャベツとトマトのオートミールスープ、ビーンズのハーブソテー、それからチーズとフルーツのサラダだ。デトックスと美肌に特化した、いろどあざやかなメニューである。まあ、全部毒入りなのだが。

(表示されてるのは【ジャコニスのりんぷん(毒Lv.1)】か。この前の毒とはちがうけど、レベル1なら食べてもだいじようなやつだよね……?)

 一週間前に食べた毒入り料理のごくじようの味を思い出し、あふれかけたよだれを飲みこんだ。

「なるほど……。お嬢様。ばんさんであまり料理を口にされなかったのは、まだ体調がばんぜんではおられなかったからですか」

「ええ。だから料理長に消化に良い食事をお願いしたの」

「では、これまでお嬢様の体調にこうりよした食事をお出しできていなかったわけですね」

 執事長に睨まれ、メイド長はサッと顔色を変えた。

「お仕えする方のお体についてまるで考えられないなど、使用人、ましてやメイド長としてあるまじきたいまんです。おまけに主人に対し無礼な言動の数々は目に余ります」

「私がお仕えしているのは奥様です!」

「いいえ。われわれがお仕えしているのはアーヴァインこうしやく家です。オリヴィア様はそのご嫡女。あなたがそのような態度で接して良いお方ではありません」

 執事長は私に向かって「これまで大変申し訳ございませんでした」とうやうやしく頭を下げた。

 どう答えればいいのかまどっていると、アンがけ寄ってきてベッドへとうながされる。

「このようなおろかな者に侯爵家のメイド長を任せていたかと思うと、自分が情けない。使用人たちがお嬢様の話をしてくれたから気づけたものの……取り返しのつかないことになるところでした」

「な、何をおっしゃっているのかわかりません」

「ではわかりやすく簡潔にお話ししましょう。メイド長。あなたをただいまをもってかいします」

 執事長の言葉におどろいたのは、メイド長だけではない。

 私もアンもとつぜんの展開についていくことができず、ふたりをこうに見るだけだ。

「奥様がそのようなことをお許しになるはずがありません! 私は奥様がこちらにとつがれる前からお仕えして──」

「何かかん違いをしているようですが、使用人の雇用権限は私に一任されています」

「お、奥様は侯爵家の女主人ですよ!?」

「その通り。ですが、アーヴァイン侯爵家の当主はだん様です。私はその旦那様のこうに沿って動いております。この意味がおわかりになりますかな?」

 いかりにかおそれからかぶるぶるふるえたあと、メイド長がひざからくずれ落ちる。

 いくら継母の後ろだてがあっても、当主である侯爵には逆らえない。継母も恐らく、侯爵を敵に回すくらいなら、メイド長を切り捨てるだろう。

 メイド長が連行されていくと、執事長はこうこうのようにやさしげな微笑みを私に向けた。

「奥様に遠慮をしたばかりに、おじようさまには苦しい思いをさせてしまいました。まことに申し訳ございません」

「いいのよ。私は無事で、いまこうして生きているもの」

「お嬢様……。このようなことが二度と起こらないよう、離れに出入りする使用人を指揮する執事をひとりおつけいたします」

「ありがとう。それとひとつお願いがあるのだけれど。アンを、私専属のメイドとして位を上げてほしいの」

 お給金もはずんであげて、と頼むと、執事長は目を丸くし、アンは「がみ様!」と感きわまったように叫んだ。お金様、と言わなかったことはめてやろう。

 ちなみに毒入り料理は「作り直させます」と執事長がにこやかに下げてしまった。

 ちょっと食べてみたかった、と思ってしまう自分がいるのがくやしかった。


 二日後の午後。

 メイド長がいなくなり、さすがにままははも派手な動きはできなかったようで、私は万全の態勢でえつけんの日をむかえることができた。

「オリヴィアお嬢様。そろそろお時間ですが、準備はよろしいでしょうか?」

 私専属の執事、フレッドが声をかけてくる。

 彼は執事長が約束通りつけてくれた、離れの仕事を取り仕切ってくれる執事で、なんと執事長の孫らしい。確かに理知的な目がそっくりだ。

「ええ。行きましょう、アン」

 アンをともない、フレッドの先導で離れを出る。髪をい、自らしようをほどこし、謁見用にきゆうきよあつらえたドレスを身にまとった姿で本館のエントランスに向かう。

 ヒールを鳴らしゆっくりと現れた私を見て、継母やまいだけでなく、父も驚き固まった。

うそよ、こんなの……ありえないっ!」

 わなわなと震える義妹に、私は王宮に行く資格を得たのを確信し、悪役令嬢らしく笑ってみせた。

「お待たせいたしました、お父様」

 ドレスのすそを軽く持ち上げ、礼をする。

 顔を上げると父と目が合い、今度は私が驚いた。父の表情が、いままで見たことのないものに変わっていたのだ。何かをなつかしむようなその表情には、愛に似たものがにじんでいる気がした。

「似ているな……」

 ぽつりと、父が何かをつぶやいたけれど、すぐにジャネットが「ありえない! どんなほうを使ったのよ!」とさわぎ出したので、最後まで聞き取ることができなかった。

 ジャネットの反応を見るに、私の姿は合格だということだろう。準備を手伝ってくれたアンも、私を見て何度も「本当にお美しいです……!」とため息をついていた。

 この三日間、デトックスに集中し、はちみつやオイルではだかみみがき、血色の良く見えるメイクを研究した甲斐かいがあった。

『えっ!? クリームに顔料を混ぜるんですか!?』

『そうよ。白粉おしろいをつける前に、ノリや持ちを良くするためにうするんだけど、それに色をつけて血色良く見せるの』

『ええっ!? 白粉にも顔料を混ぜちゃうんですか!?』

『もちろん。真っ白な白粉なんていちゃうし、顔色も良く見せられないもの。ピンクをベースに、目の周りは少し黄色やオレンジも混ぜると、青黒いクマもかくせるわ。ほおの下にしんじゆ入りの粉をつければ、ハイライトになってこけた部分をせる。……使うのもったいないけど』

 メイクについて語るたび、アンはひたすら感心していた。目がまた金貨になっていたので、私が教えた知識を使ってひともうけするつもりだろう。

 アドバイス料でもとってやろうかと考えていると、目の前に大きな手が差し出された。

「行くぞ、オリヴィア」

 父の緑色のひとみが私を映している。何を考えているのかは読めないが、冷たさは感じない。

 私は少しきんちようしながらその手を取り、馬車に乗りこんだ。はじめてれたように感じた父の手は、グローブしなのになぜかとても温かかった。


    〇 〇 〇


「ここが王宮……なんて立派なのかしら! 王族になるとこんな所に住めるのね!」

 おうにでもなるつもりなのか、ジャネットが野心に満ちた顔で言った。

 王宮にとうちやくし馬車を降りてすぐ、義妹はそんな風にはしゃぎだしたが、私は逆にいまにも帰りたい気分になる。

 まさか二度目の人生でもここに来るハメになるとは。できればけて通りたかった。今日でおとずれるのが最後になればいいのだが。

「おい、団長じゃないか?」

「本当だ、団長がいらっしゃるぞ!」

「団長! 今日は休みを取られていたのでは?」

 黒い服を着た男たちが、父を見て大勢集まってきた。

 みな、騎士服の上に短めのマントを羽織っている。彼らはおそらく、第二騎士団の団長を務める父の部下たちだろう。

「休みだ。これから陛下に謁見する。私に構わず持ち場にもどれ」

 散れ、とばかりに手をはらう父だったが、騎士たちに立ち去る様子はない。

 父がこわくはないのだろうか。無表情で、何を考えているのかわからない、冷たい態度の人なのに。まさか案外したわれていたりするのだろうか。

「今日が謁見の日でしたか」

「ではそちらがアーヴァイン侯爵家のご令嬢で──」

 騎士たちの目がいつせいに、父の後ろにいた私に向けられた。

「な、なんと美しい」

「まるで女神のようじゃないか」

「団長のくなった奥方様にうりふたつでは?」

「確かに、イグバーンの宝石とうたわれたあのお方にそっくりだ」

 何やら騎士たちがささやき合っているが、よく聞き取れない。それに何だか目が怖い。

 あまりにもぎようされるので、そっと父のかげに隠れる。するとどこからか「女神……いや天使」と聞こえてきたが、げんちようだろうか。ここには悪役令嬢しかいないのだが。

「はじめまして、騎士の皆様! 私、アーヴァインこうしやく家のむすめ、ジャネットと申します!」

 とつぜん、ジャネットが私を押しのけるように前に出て、騎士たちにおをした。

 父がいつもお世話になっています、とごげんで話し出す義妹に、騎士たちはまどったように顔を見合わせる。

「団長のところ、娘さんはひとりじゃなかったか?」

「ほら、数年前に総団長のしんせき筋の未亡人と……」

「ああ。例の後妻の連れ子のほうか」

 騎士たちの反応が不満だったのか、ジャネットは前のめりで自分のアピールを始めた。

「私、ずっと騎士団の方々にあこがれていたんです! 騎士服に身を包み、けんひとつで国を守る皆様、本当にてきですよね! 他家の令嬢たちとのお茶会でも、いつも騎士の皆様の話題で持ち切りで──」

 ぺらぺらとしやべるジャネットに、騎士たちがあつとうされている。

 彼らの視線が義妹に集中していることに気づき、私はハッと辺りを見回した。チャンスだ。父たちとはなれ単独行動をとるならいましかない。私は王宮に出入りする貴族たちにまぎれるようにその場を離れ、右手に広がる庭園へと身を隠した。

「意地悪な義妹さまさまだわ。よし、私がいないことに気づかれないうちに行かないと」

 目指すのは、第一王子がいるだろう王太子宮だ。目的は第一王子の暗殺の

 第一王子はおとゲーム【救国の聖女】では名前すら登場しない過去の人だったけれど、この世界では彼はまだ生きている。名前のある立派なひとりの人なのだ。

 毒殺事件を事前に知っていながら見殺しにするのはめが悪い。それにシナリオに逆らい生き続けてくれるなら、私の運命を変える一手になるかもしれない。だから助ける。自分のためにもなると信じて。

 王太子宮は逆行前に何度も訪れている。薔薇ばらほこる庭園をけ、小川にかかった橋をわたると、高い生けがきが現れた。この向こうが王太子宮である。

 花のアーチの前に創造神の石像が立っていたので、思わずぺしりと頭の部分をはたいてしまった。叩きたくなる丁度いい高さだったのだ。別にうらみを晴らそうとしたわけではない。

「だいたい、本物のデミウルは全然ちがうし」

 ちようこくや絵画で目にする創造神デミウルは、性別不明の大人の姿をしている。前世の聖母マリアに少し似ていた。実際に会った彼は、まるでげんのないちびっこ神だったが。

 などと考えながら花のアーチをくぐると、ふわりと甘い花のかおりがし──。

だれだ?」

 白いカサブランカが咲き乱れる庭。その中に建つ、つたからまったガゼボの下から声がした。高くも低くもない、りんとした声。

 少年だ。テーブルに着き、本を片手にこちらを見ている。やわらかそうな黒髪の下からこちらをのぞく瞳は、星空を閉じこめたような深い青。それは直系の王族のとくちよう的な瞳である。

「君は……」

 私を映した青い瞳が、大きく見開かれる。

 ゲームでも、一度目の人生でも目にしたことのない、悲運の王太子がそこにいた。

 なんと美しい少年だろうか。星空のような瞳はもちろん、青みがかったつややかな黒髪、幼さを残しながらもすっきりとした頬のライン、まゆからの理想的な鼻筋。まるで芸術品のような完成された美が、目の前で光りかがやいている。

 確か彼の名前はノア。ノア・アーサー・イグバーン。

 イグバーン王国の第一王子で、現王太子。この国で王の次に尊く高貴な存在だ。

「……見たところ貴族のれいじようのようだが、ここは立ち入り禁止の王太子宮だよ」

 変声期前のきとおった声は落ち着いていた。

 私はハッとして、胸に手を当て王族への最敬礼をとった。

「大変失礼いたしました。父と来たのですがはぐれ、こちらに迷いこんでしまいました」

「父……。君の名は?」

「オリヴィア・ベル・アーヴァインと申します」

「ああ、アーヴァイン侯爵の。では君がうわさのオリヴィア嬢か」

「噂、ですか……?」

 はて、と首をかしげる。噂とは一体何のことだろう。私のことが、王宮で噂になっているのだろうか。そういえば、騎士たちもなぜか皆私のことを知っているようだった。

 まさか、すでに第二王子とのこんやくの話が上がってでもいるのか。二度目の人生では、絶対あの王子とは婚約しないと決めているのに。

「本人は知らないのか。アーヴァイン侯爵家には小さな宝石がひっそりとねむっている、という噂だよ」

「はあ。小さな宝石……?」

「気にしなくていい。顔を上げて楽に」

「ありがとうございます、王太子殿でん

 王太子に「こちらにおいで」と呼ばれ、おずおずと歩み出る。

 西洋風のあずまやの前まで行くと突然、頭に電子音がひびき、ビクリとかたねた。

 現れたのは、三度目となり見慣れつつある真っ赤なテキストウィンドウ。それがあずまやの下のテーブルに置かれた、王太子の紅茶に表示されていた。


【紅茶(毒入り):ランカデスの角(毒Lv.2)】


(レベル2──!?)

 まずい。毒のレベルが私の毒たいせいレベルより上だ。

 つまりいまの私のスキルでは恐らく、紅茶に盛られた毒を無効化することができない。下手へたをしたら命を落とすこともあるかもしれない。

 少なくとも常人が飲めば死ぬ。一度目の人生で、実際に口にした王太子は亡くなっているのだから。レベルが1とはいえ、毒耐性がある私が飲めばわからないが……。

「なるほど。確かに母君に似ているな」

 私のあせりになど気づかず、王太子はぽつりとつぶやいた。

 何かをなつかしむような響きを不思議に思い、つい彼をじっと見つめてしまう。

「母を、ご存じなのですか?」

「少しね。美しい人だった……」

 王太子の青いひとみに見つめられると、夜空に吸いこまれていくようなさつかくおちいった。

 一歩、彼に足をみ出しかけたとき、ビュウと強く風がく。

「すまない。引き留めてしまったね。左を行けば、やがて宮殿が見えてくる。かいろうから中に入れば誰かしらいるだろう。えつけんの間まで案内してもらうといい」

「あ、ありがとうございます……」

 私は少し感動した。王太子、美しいだけでなく親切な人だ。次期国王なのにまったくえらそうにせず、けれど威厳のようなものが既に備わっている。

(って、感動してる場合じゃないわ。あの毒入り紅茶、なんとかしないと)

 ちょうど王太子がティーカップに手をばしたので、あわてて身を乗り出した。

「あの! その紅茶ですが、もう冷めてしまっているのでは? れ直させたほうが……」

「これかい? これは冷めても苦みの出ない茶葉で淹れている。書物を読むと、どうしても冷めてしまうからね」

 問題ない、とカップのハンドルに指をかけようとする王太子に、私はさらに一歩前に出る。

「つかぬことをおうかがいしますが、その紅茶を淹れたのはどなたでしょう?」

「……なぜそんなことを聞くのかな?」

「えっ。そ、それは、ええと……」

 言いよどむ私に、王太子がわくまなしを向けてくる。失敗した。完全にあやしまれた。

「もう行きなさい。君も陛下をお待たせするわけにはいかないだろう」

 おだやかだった王太子の表情が冷ややかなものに変わる。

 こわを言わせない響きがあった。さすが次期国王、などと感心している場合ではない。王太子がとうとうカップを持ちかたむけようとしたので「ダメ!」と声を張り上げた。

「それを飲んではいけません!」

 王太子の手がぴたりと止まる。

「……何?」

「カップをおもどしください。その紅茶は、毒入りです」

 青い瞳がカップに落ちた。だが王太子がいくら目をこらしても、カップの中はつうの紅茶。この赤いウィンドウは私にしか見えないのだ。

「なぜ君にそんなことがわかる? この紅茶を淹れたのは、王太子宮に勤めて五年になるじよだ。その侍女が毒を盛ったと、今日はじめて会った君が言う。しんなのはどちらかな?」

 王太子はちようしようするように言った。私は完全にしくじったことをさとった。王太子のげんそこね、信用を得る機会を失ってしまったのだ。

「ここで会ったことは忘れよう。早々に立ち去ってくれ」

 もう星空の瞳は私を映すつもりはないようだった。

 別に私のことはきらってくれてもいい。でも王太子は私を信じてくれないと死んでしまう。そして王太子が死ぬと、私も数年後には死んでしまうかもしれないのだ。

 どうしたら信じてくれるだろう。信じてもらうために私ができることは──。

「失礼しますっ」

 いままさに紅茶を飲もうとしていた王太子から、カップをうばう。

 おどろいた彼が止めるより前に、私はカップの中身を一気に飲み干した。

(ああ! やっぱり毒が泣きたくなるほど美味おいしい……!)

 得も言われぬ甘いほうこうが口の中いっぱいに広がり、いつしゆん幸福感にいしれたが。

「う……っ!」

 冷めた紅茶がのどを通った直後、内臓に焼けるような熱さを感じ、口元を押さえる。

「お、おい。オリヴィア嬢──」

 王太子がけ寄ろうとしたとき、ごぽりと私はいた。指のすきからあふれ出たのは、赤黒い液体。鉄くささに包まれた瞬間、私は地面にくずれ落ちた。

「オリヴィア嬢!?」

 手足がしびれ、全身がガクガクとけいれんし始め、視界が反転した。喉が、食道が、胃が、焼けただれていくようだ。体の自由がきかない。

 ピコン!


【毒をせつしゆしました】

【毒を無効化します】

【毒の無効化に失敗しました】


(失敗すんなー!!)

 さけびたいのに、口から出るのはせきと血ばかり。

 かすむ視界の中、王太子殿下が何か叫んでいるように見えたけれど、彼の声は聞こえない。体の機能が死んでいくのを感じながら、私は思った。

(やっぱり、毒を甘くみちゃ、いかんかっ、た……)

 ピコン!


【毒の無効化に失敗したため、仮死状態に入ります】

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