静かな食堂に、微かにカトラリーの音が響く。
テーブルウェアで飾られた長卓では継母と義妹、そして父が食事をしている。
派手なドレスを着た巻き髪の少女が、継母の連れ子で義妹のジャネットだ。相変わらず継母によく似た、嫌な目つきをしている。
暖炉を背にしているのは、アーヴァイン侯爵家の当主、クライヴ・ジョン・アーヴァイン。この場で唯一血の繋がりのある、私の実の父親だ。
逆行前、牢獄塔へ連行される私に「何と愚かな娘だ」と呟いた冷めた目が忘れられない。私への愛情はどこにも見当たらなかった。
二度目の人生でも同じなようで、食堂に現れた私を見た父の目はやはり冷めていた。
悲しくないわけではないが、愛してくれない父親の心よりもいま問題なのは──。
煌びやかな長卓の上に並べられた食事に、思わずうっと口に手をやりたくなった。
(見渡す限り、肉肉肉ね。見てるだけで胸やけしそう)
鶏、豚、仔牛、鴨に兎に羊に鹿。とにかくこの世界の貴族は肉ばかり食べる。サラダなどの野菜メインの料理はまず出ない。貴族が好まないのだ。
料理を前に怯んでいた私を、父がじっと見つめてくる。
「……お父様、何か?」
「いや……。体調を崩していたそうだな。食欲がまだ戻らないなら、例の件は難しいか」
父は食事の手を止め、私たちを見るとゆっくりと口を開いた。
「神託が下った」
父のその言葉に、継母たちが驚いたようにカトラリーの音を立てた。
私はまじまじと、父の平然とした顔を見つめる。そうか、この年だったか。神殿に、創造神デミウルの神託が降りたのは。
「あなた。神託とはどのような内容だったのです?」
「聖女が現れるという神託だ」
「聖女……伝説の、光の女神と契約を結ぶ乙女ですね!」
ジャネットの言葉に父が頷く。私は知っている。このあと、父が何を言うのか。
「三年後、王立学園に聖女が現れるそうだ。そこで三年後に入学する年齢に該当する貴族の子女は、王宮にて国王陛下に謁見することになった」
「三年後ということは……」
「私、該当するわ! 王宮に行けるのね!」
ジャネットは、まるで自分が聖女であるかのように顔を輝かせている。
悪役オリヴィアをいじめるさらに上の悪役のくせに、とその図太さに感心してしまった。
「ああ。……オリヴィア。お前もだ」
父の言葉に、シンと部屋が静まり返る。歪な家族たちの目がそろって私に向けられた。
「私は──」
「お義姉様には無理です!」
私の言葉を遮り、ジャネットが悪意のある笑顔で言った。
「そんなにやつれていては、侯爵家の令嬢は病人だと王宮で噂になってしまうもの。国王陛下にもその状態でお会いするなんて失礼よ」
そうだ。逆行前も、ジャネットにまったく同じことを言われた。反論せず黙っていた私に、父は確か「無理をする必要はない」とジャネットの意見に賛同したはず。
当然私は聖女ではないので、王宮に行く必要はないのだ。国王陛下にお会いしたいとも思わない。むしろ逆行前に関わった王族たちには、近づきたくもない。
(……待って。そういえば、謁見の日に何かが起こったんじゃなかった?)
私は行かなかったが、王宮で歴史的大事件が起きたのではなかったか。確か王族のひとりが謁見の日に亡くなった。それは私と同じ年の子どもで──。
(思い出した! 第一王子殿下が毒殺されるんだ!)
謁見の日、王太子宮で前王妃の息子である第一王子が何者かにより毒殺されたのだ。そして現王妃の長子である第二王子が王太子となった。
ちなみに私はその第二王子の婚約者だった。もしかしたら、現王太子の第一王子が死ななければゲームのシナリオが変わり、私の運命にも影響があるかもしれない。
迷いはなかった。愛のない父の視線に臆することなく、真っすぐに見据える。
「お父様! 私も王宮に参ります」
「まあ! 何を言うかと思えば」
「お義姉様、鏡を見てから言ったら? とても王宮に行ける姿じゃ──」
「王宮からの呼び出しを拒否するなど、それこそ不敬です」
不敬という言葉に、継母も義妹も面白くなさそうな顔をしたが口を閉じた。
「失礼のないよう身なりを整えれば、連れていっていただけますか?」
父を見つめながら問えば、氷のように冷たい目が細められ「いいだろう」と返事が。
「ありがとうございます、お父様」
継母や義妹は、無理に決まっていると言いたげだったが、私には自信があった。
売上全国一位を記録し、社長に表彰されたこともある前世の美容部員の私が叫んでいる。
(腕が鳴るわ!)
〇 〇 〇
翌日の午後。三日後の謁見のために、料理長から分けてもらったはちみつで念入りに肌と髪の手入れをしていると、部屋にノックの音が響いた。このタイミングの悪さはもしや。
思った通り、返事も待たず入ってきたのは、眉間に深いシワを刻んだメイド長だった。
「何を機嫌良さそうにしているのかと思えば、いまさら肌の手入れですか」
鏡の前に立つ私を見て、メイド長が鼻で笑う。骨と皮だけの鶏ガラ女が何をしたところでムダだと思っているのだろう。
「国王陛下の御前に参るのだから、これくらいは侯爵家嫡女として当然でしょう?」
とぼけて微笑んでやると、メイド長はいかにも気に入らないといった顔でワゴンを押してきた。ワゴンの上には銀のフードカバーと、グラスにカトラリーが並んでいる。
(そろそろかなとは思ってたけど、やっぱり来たか~)
カバーの下を見なくてもわかる。毒である。毒盛り料理である。
あの継母が、私が国王陛下に謁見するのに黙っているはずがない。毒を盛られ阻止されるだろうことは予想していた。驚きはないが、代わりに妙な期待が湧いてしまう。
今度は一体どんな毒だろう、と。
「食事の内容から見ると、随分と回復したようですね。そんなに元気になったのなら、もっと食事の量を増やしたほうがいいですね」
「……そうね。少しずつ増やしていくわ」
「あなたの食事だけ別にしていては手間でしょう。私のほうから料理長に伝えておきます。よろしいですね?」
料理のリクエストなど、勝手なことはするなと言いたいらしい。
仕方ないが、料理長にはこっそり作ってもらうよう頼むか。だがバレたときには彼や厨房の使用人たちに迷惑がかかるかもしれない。それは避けたいところだが──。
「随分と不遜な物言いですね」
どう対応するか考えていると、入り口から落ち着いた声がした。
ハッとそちらに目を向けると、厳しい顔の執事長が立っていた。後ろにはアンもいる。
執事長は家令の役割も担っている使用人のトップ。つまり、メイド長よりも上の立場にいる人だ。ちらりとメイド長を窺うと、明らかにまずいという顔をしていた。
「し、執事長がなぜ離れに?」
「メイド長が不審な動きをしていると、報告がありまして。様子を見に来たのです」
「一体誰がそんなことを……アン、お前かい!」
メイド長に睨まれ、アンがビクリと肩を竦める。見かねた執事長がアンを守るように一歩前に出た。逆にメイド長はじりじりと後退し、執事長と距離をとる。
「誤解があるようですが、私はお嬢様にお食事の提案をしていただけで──」
「聞いていましたよ」
執事長はワゴンを見下ろすと「失礼いたします」と言ってフードカバーをとった。
私にしか聞こえない電子音が連続で鳴る。やはり真っ赤な警告ウィンドウが表示された。
昼食にと用意されたのは、キャベツとトマトのオートミールスープ、ビーンズのハーブソテー、それからチーズとフルーツのサラダだ。デトックスと美肌に特化した、彩り鮮やかなメニューである。まあ、全部毒入りなのだが。
(表示されてるのは【ジャコニスの鱗粉(毒Lv.1)】か。この前の毒とは違うけど、レベル1なら食べても大丈夫なやつだよね……?)
一週間前に食べた毒入り料理の極上の味を思い出し、あふれかけたよだれを飲みこんだ。
「なるほど……。お嬢様。晩餐であまり料理を口にされなかったのは、まだ体調が万全ではおられなかったからですか」
「ええ。だから料理長に消化に良い食事をお願いしたの」
「では、これまでお嬢様の体調に考慮した食事をお出しできていなかったわけですね」
執事長に睨まれ、メイド長はサッと顔色を変えた。
「お仕えする方のお体についてまるで考えられないなど、使用人、ましてやメイド長としてあるまじき怠慢です。おまけに主人に対し無礼な言動の数々は目に余ります」
「私がお仕えしているのは奥様です!」
「いいえ。我々がお仕えしているのはアーヴァイン侯爵家です。オリヴィア様はそのご嫡女。あなたがそのような態度で接して良いお方ではありません」
執事長は私に向かって「これまで大変申し訳ございませんでした」と恭しく頭を下げた。
どう答えればいいのか戸惑っていると、アンが駆け寄ってきてベッドへと促される。
「このような愚かな者に侯爵家のメイド長を任せていたかと思うと、自分が情けない。使用人たちがお嬢様の話をしてくれたから気づけたものの……取り返しのつかないことになるところでした」
「な、何をおっしゃっているのかわかりません」
「ではわかりやすく簡潔にお話ししましょう。メイド長。あなたを只今をもって解雇します」
執事長の言葉に驚いたのは、メイド長だけではない。
私もアンも突然の展開についていくことができず、ふたりを交互に見るだけだ。
「奥様がそのようなことをお許しになるはずがありません! 私は奥様がこちらに嫁がれる前からお仕えして──」
「何か勘違いをしているようですが、使用人の雇用権限は私に一任されています」
「お、奥様は侯爵家の女主人ですよ!?」
「その通り。ですが、アーヴァイン侯爵家の当主は旦那様です。私はその旦那様の御意向に沿って動いております。この意味がおわかりになりますかな?」
怒りにか恐れからかぶるぶる震えたあと、メイド長が膝から崩れ落ちる。
いくら継母の後ろ盾があっても、当主である侯爵には逆らえない。継母も恐らく、侯爵を敵に回すくらいなら、メイド長を切り捨てるだろう。
メイド長が連行されていくと、執事長は好々爺のように優しげな微笑みを私に向けた。
「奥様に遠慮をしたばかりに、お嬢様には苦しい思いをさせてしまいました。誠に申し訳ございません」
「いいのよ。私は無事で、いまこうして生きているもの」
「お嬢様……。このようなことが二度と起こらないよう、離れに出入りする使用人を指揮する執事をひとりおつけいたします」
「ありがとう。それとひとつお願いがあるのだけれど。アンを、私専属のメイドとして位を上げてほしいの」
お給金も弾んであげて、と頼むと、執事長は目を丸くし、アンは「女神様!」と感極まったように叫んだ。お金様、と言わなかったことは褒めてやろう。
ちなみに毒入り料理は「作り直させます」と執事長がにこやかに下げてしまった。
ちょっと食べてみたかった、と思ってしまう自分がいるのが悔しかった。
二日後の午後。
メイド長がいなくなり、さすがに継母も派手な動きはできなかったようで、私は万全の態勢で謁見の日を迎えることができた。
「オリヴィアお嬢様。そろそろお時間ですが、準備はよろしいでしょうか?」
私専属の執事、フレッドが声をかけてくる。
彼は執事長が約束通りつけてくれた、離れの仕事を取り仕切ってくれる執事で、なんと執事長の孫らしい。確かに理知的な目がそっくりだ。
「ええ。行きましょう、アン」
アンを伴い、フレッドの先導で離れを出る。髪を結い、自ら化粧をほどこし、謁見用に急遽あつらえたドレスを身に纏った姿で本館のエントランスに向かう。
ヒールを鳴らしゆっくりと現れた私を見て、継母や義妹だけでなく、父も驚き固まった。
「嘘よ、こんなの……ありえないっ!」
わなわなと震える義妹に、私は王宮に行く資格を得たのを確信し、悪役令嬢らしく笑ってみせた。
「お待たせいたしました、お父様」
ドレスの裾を軽く持ち上げ、礼をする。
顔を上げると父と目が合い、今度は私が驚いた。父の表情が、いままで見たことのないものに変わっていたのだ。何かを懐かしむようなその表情には、愛に似たものが滲んでいる気がした。
「似ているな……」
ぽつりと、父が何かを呟いたけれど、すぐにジャネットが「ありえない! どんな魔法を使ったのよ!」と騒ぎ出したので、最後まで聞き取ることができなかった。
ジャネットの反応を見るに、私の姿は合格だということだろう。準備を手伝ってくれたアンも、私を見て何度も「本当にお美しいです……!」とため息をついていた。
この三日間、デトックスに集中し、はちみつやオイルで肌と髪を磨き、血色の良く見えるメイクを研究した甲斐があった。
『えっ!? クリームに顔料を混ぜるんですか!?』
『そうよ。白粉をつける前に、ノリや持ちを良くするために薄く塗るんだけど、それに色をつけて血色良く見せるの』
『ええっ!? 白粉にも顔料を混ぜちゃうんですか!?』
『もちろん。真っ白な白粉なんて浮いちゃうし、顔色も良く見せられないもの。ピンクをベースに、目の周りは少し黄色やオレンジも混ぜると、青黒いクマも隠せるわ。頬の下に真珠入りの粉をつければ、ハイライトになってこけた部分を誤魔化せる。……使うのもったいないけど』
メイクについて語るたび、アンはひたすら感心していた。目がまた金貨になっていたので、私が教えた知識を使って一儲けするつもりだろう。
アドバイス料でもとってやろうかと考えていると、目の前に大きな手が差し出された。
「行くぞ、オリヴィア」
父の緑色の瞳が私を映している。何を考えているのかは読めないが、冷たさは感じない。
私は少し緊張しながらその手を取り、馬車に乗りこんだ。はじめて触れたように感じた父の手は、グローブ越しなのになぜかとても温かかった。
〇 〇 〇
「ここが王宮……なんて立派なのかしら! 王族になるとこんな所に住めるのね!」
王妃にでもなるつもりなのか、ジャネットが野心に満ちた顔で言った。
王宮に到着し馬車を降りてすぐ、義妹はそんな風にはしゃぎだしたが、私は逆にいまにも帰りたい気分になる。
まさか二度目の人生でもここに来るハメになるとは。できれば避けて通りたかった。今日で訪れるのが最後になればいいのだが。
「おい、団長じゃないか?」
「本当だ、団長がいらっしゃるぞ!」
「団長! 今日は休みを取られていたのでは?」
黒い騎士服を着た男たちが、父を見て大勢集まってきた。
皆、騎士服の上に短めのマントを羽織っている。彼らは恐らく、第二騎士団の団長を務める父の部下たちだろう。
「休みだ。これから陛下に謁見する。私に構わず持ち場に戻れ」
散れ、とばかりに手を払う父だったが、騎士たちに立ち去る様子はない。
父が怖くはないのだろうか。無表情で、何を考えているのかわからない、冷たい態度の人なのに。まさか案外慕われていたりするのだろうか。
「今日が謁見の日でしたか」
「ではそちらがアーヴァイン侯爵家のご令嬢で──」
騎士たちの目が一斉に、父の後ろにいた私に向けられた。
「な、なんと美しい」
「まるで女神のようじゃないか」
「団長の亡くなった奥方様に瓜二つでは?」
「確かに、イグバーンの宝石と謳われたあのお方にそっくりだ」
何やら騎士たちが囁き合っているが、よく聞き取れない。それに何だか目が怖い。
あまりにも凝視されるので、そっと父の陰に隠れる。するとどこからか「女神……いや天使」と聞こえてきたが、幻聴だろうか。ここには悪役令嬢しかいないのだが。
「はじめまして、騎士の皆様! 私、アーヴァイン侯爵家の娘、ジャネットと申します!」
突然、ジャネットが私を押しのけるように前に出て、騎士たちにお辞儀をした。
父がいつもお世話になっています、とご機嫌で話し出す義妹に、騎士たちは戸惑ったように顔を見合わせる。
「団長のところ、娘さんはひとりじゃなかったか?」
「ほら、数年前に総団長の親戚筋の未亡人と……」
「ああ。例の後妻の連れ子のほうか」
騎士たちの反応が不満だったのか、ジャネットは前のめりで自分のアピールを始めた。
「私、ずっと騎士団の方々に憧れていたんです! 騎士服に身を包み、剣ひとつで国を守る皆様、本当に素敵ですよね! 他家の令嬢たちとのお茶会でも、いつも騎士の皆様の話題で持ち切りで──」
ぺらぺらと喋るジャネットに、騎士たちが圧倒されている。
彼らの視線が義妹に集中していることに気づき、私はハッと辺りを見回した。チャンスだ。父たちと離れ単独行動をとるならいましかない。私は王宮に出入りする貴族たちに紛れるようにその場を離れ、右手に広がる庭園へと身を隠した。
「意地悪な義妹さまさまだわ。よし、私がいないことに気づかれないうちに行かないと」
目指すのは、第一王子がいるだろう王太子宮だ。目的は第一王子の暗殺の阻止。
第一王子は乙女ゲーム【救国の聖女】では名前すら登場しない過去の人だったけれど、この世界では彼はまだ生きている。名前のある立派なひとりの人なのだ。
毒殺事件を事前に知っていながら見殺しにするのは寝覚めが悪い。それにシナリオに逆らい生き続けてくれるなら、私の運命を変える一手になるかもしれない。だから助ける。自分のためにもなると信じて。
王太子宮は逆行前に何度も訪れている。薔薇の咲き誇る庭園を抜け、小川にかかった橋を渡ると、高い生け垣が現れた。この向こうが王太子宮である。
花のアーチの前に創造神の石像が立っていたので、思わずぺしりと頭の部分を叩いてしまった。叩きたくなる丁度いい高さだったのだ。別に恨みを晴らそうとしたわけではない。
「だいたい、本物のデミウルは全然違うし」
彫刻や絵画で目にする創造神デミウルは、性別不明の大人の姿をしている。前世の聖母マリアに少し似ていた。実際に会った彼は、まるで威厳のないちびっこ神だったが。
などと考えながら花のアーチをくぐると、ふわりと甘い花の香りがし──。
「誰だ?」
白いカサブランカが咲き乱れる庭。その中に建つ、蔦の絡まったガゼボの下から声がした。高くも低くもない、凜とした声。
少年だ。テーブルに着き、本を片手にこちらを見ている。柔らかそうな黒髪の下からこちらを覗く瞳は、星空を閉じこめたような深い青。それは直系の王族の特徴的な瞳である。
「君は……」
私を映した青い瞳が、大きく見開かれる。
ゲームでも、一度目の人生でも目にしたことのない、悲運の王太子がそこにいた。
なんと美しい少年だろうか。星空のような瞳はもちろん、青みがかった艶やかな黒髪、幼さを残しながらもすっきりとした頬のライン、眉からの理想的な鼻筋。まるで芸術品のような完成された美が、目の前で光り輝いている。
確か彼の名前はノア。ノア・アーサー・イグバーン。
イグバーン王国の第一王子で、現王太子。この国で王の次に尊く高貴な存在だ。
「……見たところ貴族の令嬢のようだが、ここは立ち入り禁止の王太子宮だよ」
変声期前の透きとおった声は落ち着いていた。
私はハッとして、胸に手を当て王族への最敬礼をとった。
「大変失礼いたしました。父と来たのですがはぐれ、こちらに迷いこんでしまいました」
「父……。君の名は?」
「オリヴィア・ベル・アーヴァインと申します」
「ああ、アーヴァイン侯爵の。では君が噂のオリヴィア嬢か」
「噂、ですか……?」
はて、と首を傾げる。噂とは一体何のことだろう。私のことが、王宮で噂になっているのだろうか。そういえば、騎士たちもなぜか皆私のことを知っているようだった。
まさか、既に第二王子との婚約の話が上がってでもいるのか。二度目の人生では、絶対あの王子とは婚約しないと決めているのに。
「本人は知らないのか。アーヴァイン侯爵家には小さな宝石がひっそりと眠っている、という噂だよ」
「はあ。小さな宝石……?」
「気にしなくていい。顔を上げて楽に」
「ありがとうございます、王太子殿下」
王太子に「こちらにおいで」と呼ばれ、おずおずと歩み出る。
西洋風のあずまやの前まで行くと突然、頭に電子音が響き、ビクリと肩が跳ねた。
現れたのは、三度目となり見慣れつつある真っ赤なテキストウィンドウ。それがあずまやの下のテーブルに置かれた、王太子の紅茶に表示されていた。
【紅茶(毒入り):ランカデスの角(毒Lv.2)】
(レベル2──!?)
まずい。毒のレベルが私の毒耐性レベルより上だ。
つまりいまの私のスキルでは恐らく、紅茶に盛られた毒を無効化することができない。下手をしたら命を落とすこともあるかもしれない。
少なくとも常人が飲めば死ぬ。一度目の人生で、実際に口にした王太子は亡くなっているのだから。レベルが1とはいえ、毒耐性がある私が飲めばわからないが……。
「なるほど。確かに母君に似ているな」
私の焦りになど気づかず、王太子はぽつりと呟いた。
何かを懐かしむような響きを不思議に思い、つい彼をじっと見つめてしまう。
「母を、ご存じなのですか?」
「少しね。美しい人だった……」
王太子の青い瞳に見つめられると、夜空に吸いこまれていくような錯覚に陥った。
一歩、彼に足を踏み出しかけたとき、ビュウと強く風が吹く。
「すまない。引き留めてしまったね。左を行けば、やがて宮殿が見えてくる。回廊から中に入れば誰かしらいるだろう。謁見の間まで案内してもらうといい」
「あ、ありがとうございます……」
私は少し感動した。王太子、美しいだけでなく親切な人だ。次期国王なのにまったく偉そうにせず、けれど威厳のようなものが既に備わっている。
(って、感動してる場合じゃないわ。あの毒入り紅茶、なんとかしないと)
ちょうど王太子がティーカップに手を伸ばしたので、慌てて身を乗り出した。
「あの! その紅茶ですが、もう冷めてしまっているのでは? 淹れ直させたほうが……」
「これかい? これは冷めても苦みの出ない茶葉で淹れている。書物を読むと、どうしても冷めてしまうからね」
問題ない、とカップのハンドルに指をかけようとする王太子に、私はさらに一歩前に出る。
「つかぬことをお伺いしますが、その紅茶を淹れたのはどなたでしょう?」
「……なぜそんなことを聞くのかな?」
「えっ。そ、それは、ええと……」
言い淀む私に、王太子が疑惑の眼差しを向けてくる。失敗した。完全に怪しまれた。
「もう行きなさい。君も陛下をお待たせするわけにはいかないだろう」
穏やかだった王太子の表情が冷ややかなものに変わる。
声音も有無を言わせない響きがあった。さすが次期国王、などと感心している場合ではない。王太子がとうとうカップを持ち傾けようとしたので「ダメ!」と声を張り上げた。
「それを飲んではいけません!」
王太子の手がぴたりと止まる。
「……何?」
「カップをお戻しください。その紅茶は、毒入りです」
青い瞳がカップに落ちた。だが王太子がいくら目をこらしても、カップの中は普通の紅茶。この赤いウィンドウは私にしか見えないのだ。
「なぜ君にそんなことがわかる? この紅茶を淹れたのは、王太子宮に勤めて五年になる侍女だ。その侍女が毒を盛ったと、今日はじめて会った君が言う。不審なのはどちらかな?」
王太子は嘲笑するように言った。私は完全にしくじったことを悟った。王太子の機嫌を損ね、信用を得る機会を失ってしまったのだ。
「ここで会ったことは忘れよう。早々に立ち去ってくれ」
もう星空の瞳は私を映すつもりはないようだった。
別に私のことは嫌ってくれてもいい。でも王太子は私を信じてくれないと死んでしまう。そして王太子が死ぬと、私も数年後には死んでしまうかもしれないのだ。
どうしたら信じてくれるだろう。信じてもらうために私ができることは──。
「失礼しますっ」
いままさに紅茶を飲もうとしていた王太子から、カップを奪う。
驚いた彼が止めるより前に、私はカップの中身を一気に飲み干した。
(ああ! やっぱり毒が泣きたくなるほど美味しい……!)
得も言われぬ甘い芳香が口の中いっぱいに広がり、一瞬幸福感に酔いしれたが。
「う……っ!」
冷めた紅茶が喉を通った直後、内臓に焼けるような熱さを感じ、口元を押さえる。
「お、おい。オリヴィア嬢──」
王太子が駆け寄ろうとしたとき、ごぽりと私は吐いた。指の隙間からあふれ出たのは、赤黒い液体。鉄臭さに包まれた瞬間、私は地面に崩れ落ちた。
「オリヴィア嬢!?」
手足がしびれ、全身がガクガクと痙攣し始め、視界が反転した。喉が、食道が、胃が、焼け爛れていくようだ。体の自由がきかない。
ピコン!
【毒を摂取しました】
【毒を無効化します】
【毒の無効化に失敗しました】
(失敗すんなー!!)
叫びたいのに、口から出るのは咳と血ばかり。
霞む視界の中、王太子殿下が何か叫んでいるように見えたけれど、彼の声は聞こえない。体の機能が死んでいくのを感じながら、私は思った。
(やっぱり、毒を甘くみちゃ、いかんかっ、た……)
ピコン!
【毒の無効化に失敗したため、仮死状態に入ります】