冷たい床に倒れてから、どれくらいの時間が経っただろう。
最初は喉のしびれから始まった。しばらくすると目眩がして、強烈な吐き気に襲われた。手足が痙攣し倒れ、いまはもう指一本動かせない。
床にこぼれたスープを食べた鼠が、泡を吹いてひっくり返るのを見て悟った。私は毒を盛られたのだ。それはつまり、もう用済みになったということ。
私の名はオリヴィア・ベル・アーヴァイン。
国王の信頼厚いアーヴァイン侯爵の娘で、王太子の婚約者という、表向きは高貴な立場だった。つい十日ほど前までは。
だがいまは国の宝である聖女を毒殺しようとした罪で牢獄塔に入れられた罪人。当然婚約も破棄され、私には何も残っていない。
何度も嘔吐し、喉がさけ、口から血があふれ出た。長時間苦しむ毒を盛られたらしい。私をいいように扱ったうえにこの仕打ち。人々は私を悪魔だと言ったが、あの人たちこそ本物の悪魔だと思う。
(どうして私がこんな目に遭わなければならないの?)
何の意味もない人生だった。利用されるがまま苦しみ続け、幸せなことなど何ひとつない塵のような人生だった。命果てるときに、会いたい人ひとりの顔すら浮かばない。
父は私の存在を最後まで無視していた。婚約者は私を捨てたうえ、罪人だと糾弾した。
友もいない、騎士もいない、侍女すらいない、孤独で憐れな女。こんな私が死んだとしても、誰も気に留める人はいないだろう。なんて虚しい。
(神よ──あなたを深く恨んでやるわ)
孤独の中、最後まで苦痛ばかりを味わいながら、私は十六年の生涯を終えた。
〇 〇 〇
ふと気づいたときには、温かな場所にいた。
朽ちた教会の祭壇のようなそこには、天井から優しい光が降り注いでいる。周囲は岩の壁で覆われており、苔や蔦などの緑で静かに侵食されていた。
そして私の前には、見覚えのない少年が立っていた。
きれいな子だ。髪も肌も雪のように白い。身に着けている神官のような服も白く、全身が発光するように輝いている。その神々しい姿はまるで──。
「そう、僕はデミウル。君たち人間が言うところの、神だ」
少年の声は、言葉は、聖歌のように清らかで荘厳な響きがあった。無意識に跪き、祈りを捧げたくなるほどに。
デミウル。それは、この世界の創造神の御名だ。
天地を創り精霊を生んだ、この世の生命すべての父。死に際に私が呪った唯一神。
そこまで考え、ハッとした。どうして私は生きているのだろう。あの牢獄塔で、毒を盛られ死んだはずなのに。形容しがたいほどの苦しみを、私は鮮明に覚えている。
「そうだよ。君は死んだ」
思わず顔を上げると、少年──デミウルは慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
「……やはり、私は死んだのですね。では、ここは天の国でしょうか」
「いや。君は天には昇らないよ?」
デミウルの返答に、私は失望を隠せず肩を落とした。
「そう、ですよね……。当然です。私のような罪人が、天になど行けるわけがありません」
「待って待って。君は天には行かないけど、地獄にも行かないよ。君はとても苦しんだんだろう? 僕を恨む声が届いたくらいだから、相当だったんだろうねぇ」
可哀想に、とデミウルはちっともそうは思っていないような笑顔で言う。
神にとっては、ただの人間ひとりの生き死になど些細なことなのだろう。
「だいたい、君が何をしたっていうんだろうね。確かに君は聖女のお茶に毒を入れたさ。でもそれは継母に命令されたからで、君の意思ではなかっただろ?」
「どうしてそれを……」
「それなのに苦しんで死んだうえ、誰にも悲しんでもらえないなんてあんまりじゃないか。いくら悪役令嬢だからって、こんなにも不幸を背負わせる必要ある?」
悪役令嬢とは、もしかしなくても私のことだろうか。
確かに聖女や彼女を守る人たちから見れば、間違いなく私は悪役だったとは思うけれど。
「誤解しないでほしいんだけど、別に僕が君を苦しめたわけじゃないんだよ。君の魂はね、別の世界から呼び寄せたんだ。そのせいか魂がこの世界に馴染まず、必要以上に苦しむことになったみたいなんだよね」
それは……結局のところ、呼び寄せた神のせいなのではないだろうか。
私はそう思ったが、デミウルはその考えにはまるで至らない様子で続ける。
「僕のせいじゃないのに恨まれるのも気分が悪いし、やっぱり可哀想だし、君の魂を救うことにしたんだ」
「魂を、救う……?」
「僕は慈悲深い神だからね。君に幸せになる機会を与えようと思う。で、君の望みは何?」
デミウルがあまりに無邪気に問いかけてくるので、不敬とは思いながらも私は少しあきれてしまった。もう少しこう、申し訳なさそうにしてくれてもいいのではないだろうか。
罪悪感の欠片もない笑顔に、彼が確かに神なのだと感じた。人とは別の次元に生きる存在だからこそ、自分を恨み死んだ者を前にしてもこのような態度でいられるのだろう。
恨みと怒りの塊をぐっと飲みこみ、長く息を吐き出した。
神に文句など言ったところでムダだ。それならば割り切るしかない。望みを叶えてくれるというのなら、それで帳消しにしよう。
「では……私は二度と、毒で苦しんで死にたくはありません」
「うんうん。毒殺は苦しいよねぇ。いいよ。それから?」
「それから……」
自分を罵倒する継母と義妹の顔や、聖女の肩を抱きながら軽蔑の眼差しを寄越す婚約者の顔が浮かんだ。その他大勢の「偽者」と私を嘲笑する声も響いてくる。
なぜ、あんな仕打ちを受けなければならなかったのだろう。私はただ──。
「ただ……生きたいです。平穏でいいのです。慎ましくてもいいのです。私は死にたくなかった。可能なら、いいように使われるのではなく、ひとりだけでもいいから誰かに愛されて生きてみたかった……!」
「うん。いいよー」
あっさりと、それはもう実にあっさりとデミウルは頷いた。
両手をパッと広げ、にこにこと微笑む創造神に、私は自分でお願いしたにもかかわらず「え。い、いいんですか?」と戸惑ってしまう。
「もちろんいいよ、それくらい。君はとても謙虚だね。素晴らしい心根の持ち主だ!」
「はあ……いえ、そんな。私など──」
「そんな君には、唯一無二の知識と力を与えよう。じゃあそういうことで!」
そういうことで? とは、どういうことで?
尋ねる前に、突然舞台の幕が下りるように私の意識は途切れた。
最後に見たデミウルは、とても憎たらしい……もとい、清々しい顔で手を振っていた。