第一章 祝福の鐘は丑三つ時に鳴る(7)
「……はい?」
使者は目を見開いた。
「こんな非常時に、何を言っているのですか」
「こんな非常時だからこそ、本気で言ってるんだよ。そっちは俺のことを『元凶』と呼んだけど、たとえば俺が葉桜をこっちの世界に引き戻したらどうだ?」
俺のせいで現れた脅威を、俺が倒す。
そして葉桜の計画を阻止して、
「そっちは自分の都市が他都市に戦争を仕掛けられるのを防ぎたいんだよな。だったら俺を殺すより、俺が葉桜を取り戻す方がいいだろ。そうすればそっちは元の世界で平穏に過ごせて、俺は葉桜と元通りに生活できる。お互いにウィンウィンだろ?」
「つまり、あなたが異世界の侵略者を倒すと?」
「そう言った」
「訳が分かりません!」
使者は叫ぶ。澄んだ色をした瞳が、焦ったように一瞬だけ泳いだ。その視線が走った先にあるのは、校舎のすぐ真横に隣接している──プールだった。
「そんな世迷言を聞いている時間はないのです! まだ校舎に人がいるんですよね? その人の身も危険です、かなり強い異能力者が現れる気配がします。一刻も早くあなたを排除して、葉桜様に『この世界を侵略する意味はなくなった』と判断させなければならないのに」
「俺を殺して、葉桜が俺の消失に気が付いて、異能者を引っ込める確信があるのか?」
我ながら、意地悪な問いだった。俺の方が葉桜を知っているぞと言わんばかりの態度で、
「怒りに任せて、この世界を丸ごと滅ぼさないという確信はあるのか?」
「……っ」
否定されないんだ。マジか、葉桜。異世界でどんだけ自分勝手に無双したら、魔法を使う異世界人にこんな扱いをされるんだ。
「時間がないんだろ。だからこそ、葉桜のことを知っている俺に託してみたらどうだ?」
「た、託すって……私たちがこんな悠長に話をしている間にも、残された生徒さんに危険が迫ってるんですよ?」
「だったらどうして、さっき
俺の一言に、使者が大きく目を見開いた。
「さっき会った女子生徒だよ、俺と恋人だって魔法で騙した子がいただろ。学校が危なくなるかもしれないって、分かってたんだよな? だったらどうして、認識をいじれる魔法を使って無理やり天束を校舎から逃がさなかったんだ」
「え、あ……それは……そもそもプロポーズを断られるなんて想定外で……」
「確かに断った俺のせいでもある、だからこそ天束を助けたいんだ。今やるべきなのはここで俺と棒立ちで揉めてることじゃないだろ、絶対に」
「……お知り合いを危険な目に遭わせて、すみません」
使者があっさりと謝る。
「あの方が危険な目に遭っているのは、私のせいです」
「いや、世界が侵攻されてるのは俺のせいなんだろ」
「なるほど」
使者は、覚悟を決めるように頷いた。
「だったら、私たち二人で助けなければ」
──【聖櫃】より《顕現》。
彼女がさっきよりも省略した呪文を唱えた瞬間、俺の右手にずしりと重さが加わった。
俺の右手に現れたのは、先ほど使者が握っていた細身の剣だった。
「さっきと呪文?が違うのは何で?」
「この期に及んで、そこ気になります? 別に何も企んでいないので安心してください。表出する言葉が重要なのではなく、内在する知覚を引き出すための手立てとして言葉が詠唱になっているだけです」
よく分からないことをのたまって、彼女はすらりと人差し指を立てた。
「いいですか、これは試験です」
使者は淡々と告げる。
「私の派閥の目的は、あくまでも
冷たく言い放たれる。
「あなたが少しでも失敗しそうになったら、私があなたごと侵攻者を排除します」
「失敗したら殺されるって?」
「お姉様の暴虐を止めるためです。そのくらいの条件は呑んでください、弟くん」
俺は剣を握り直す。持ち慣れない武器はどうやって握ってもしっくりと馴染まなくて、俺の立っている世界が変わったことを否応なしに自覚させる。
「分かった。じゃあ、それで」
***
「異世界人との戦闘のルールは、簡単です」
使者は滔々と語った。
「魔法や異能は対象に認識されないと攻撃が効きません。葉桜様との戦闘で分かったことです。私たちの世界では体術などの物理的な攻撃も、魔術具や体力強化の魔法を関与させているため、全ての攻撃が『認識』されないうちは無効となります。よって異世界人たちの顕現には、こちらの世界で流布している噂が利用されます。たとえば火蜥蜴の精石に依る炎系統の魔術も、火の玉を見たという話があればこちらの世界の人々にも通用します」
なるほど、誰もが知っている都市伝説や七不思議のようなものを利用してくると。
だとしたら、確かにそういった「噂」が多い場所として、学校はかなり異世界人にとって有利なのだろう。
「しかし異世界人たちも、〈ストレイド魔術学院〉の生徒であり葉桜様の統治する都市の市民です。葉桜様は統治者として、自分の市民を守る義務があります。だから、異世界人がこちらの世界で負傷すれば、葉桜様は異世界人たちを撤退させるしかありません。つまり異世界人たちが、この世界で戦闘不能になったら我々の勝ちです」
「じゃあ、向こうの勝利条件は?」
そう尋ねると、使者はすらすらと答えた。
「顕現の元になった噂と全く同じ展開を踏むことができたら葉桜様の勝利です。その異世界人が双方の世界を繋ぐための指針となり、〈門〉が二つの世界を繋ぎます」
「……え、あれ」
俺は思わず、目の前にいる少女をまじまじと見つめてしまう。
「一人でも顕現させればいいなら、異世界人が一人ここにいる時点で条件は叶っているのでは?」
「……私は例外なので。その条件には入らないのですよ」
「は?」
「細かいことは後です。弟くん、ルールは覚えられましたね? 復唱して御覧なさい」
「怪談を実現させたら、向こうの勝ち。その前に倒せば、俺の勝ち」
「よろしい。こちらの世界に流れる噂を実現させることができた異世界人は、人々に自分の能力が認知されたということになり、自由にこちらの世界で能力を使うことができるようになります。つまり、現世の人々を襲うことができるのです。その被害は、更に異世界人の噂を広めることになります。そうやって葉桜様は、この世界の人々に異世界の存在を認めさせて、強制召喚を叶えさせようとしています」
プールの入り口の南京錠は、壊されていた。
まだ春先で水が溜められていないはずのプールには、なみなみと水が張られていた。プールの縁にある給水栓が全開になっていて、そこから冷たい水がとめどなく溢れている。
キラキラと輝く水面の中心に、白い人影が浮いていた。
「天束!」
同い年の生徒会長。白いブレザー制服を着込んだ彼女は、セミロングの猫っ毛を花びらのように水面に広げている。
見えない力で水底に引きずり込まれるように、彼女の体はゆっくりと降下していく。プールの水が、まるで腕のように彼女の全身に絡みついている。俺は剣を手にしたままプールに足を踏み入れ、水をかき分けるようにして
水底に沈んだ彼女を抱き上げると、たっぷり水を吸ったブレザー制服の重みがずっしりと両腕にかかった。
「っは……」
天束が目を開いた。大きく息を吐き出して、咳き込む。ぺったりと額に張り付いた前髪の奥から、明るい茶色の瞳を光らせる。
自分を抱き上げている俺をはっきりと見上げ、説明を求めてきた。
「な、何?」
水面が急降下する。
体に纏わりついていた水が、俺の眼前に浮き上がって収縮し始めた。圧縮された水は人型に押し固められていき、やがて水の塊が一人の人間へとなり替わった。
それは水流のローブを身にまとった男だった。青みがかった髪に、血の気が失せた青白い肌。こちらを見据える双眸は、水面のような銀色だった。
「なるほど」
水底から聞こえるような、くぐもった声だった。
「この子が『元凶』か」
天束が身をよじって、俺の腕から脱出する。気丈に地上へと降りた彼女は、青白い肌をした男を見上げて再度呟いた。
「何、これ」
説明できない。俺だって、さっき異世界人とか何とかいう話を聞いたばかりなのだから。
「油断しないでください!」
そんな俺に向かって、プールサイドに追いついた使者の鋭い声が飛んだ。
「その水の魔人は、こちらの世界に顕現して即座に人を襲いました! つまり彼が顕現の元にしている噂は、人間を攻撃するものに違いありません!」
水の魔人。そう呼ばれた青白い肌の男は、不服そうに「変な呼称をつけて、噂の影響力を弱めようとしているなぁー?」とぼやいた。
「改竄魔法の系譜だなぁ。改竄魔法を使う一族は限られてるっていうのに、自分でマイノリティをカミングアウトするのは魔術師としてどーなんよ。身元バレるぞ」
「今回、私は試験監督です」
「訳が分からないなあ」
水の魔人は気だるげにぼやいて、足元の水を蹴り上げた。
「聖園指定都市──【第八】──より《奏》する」
飛沫となった水はそのまま刃のような形に固まり、まっすぐに俺たちのもとへと飛んでくる。
「【アキリア森の月湖】の【水龍】に《捧》げ──その《住処》を【具操】する」
水の刃が天束に当たる寸前、使者が短く叫んだ。
「【聖櫃】として《融合》──ッ!」
使者が小さく右手を振るうと、俺の腕が勝手に動いた。剣を振るって弾き飛ばす。
空中にびしゃっと霧散した水は、しかしそのまま宙を泳ぎながら集まって結合する。そして、再び刃の形に変わってしまった。
「大見得切ったわりに反応が遅いのですが!? 弟くん!」
そして、こちらへの文句。
そんな使者に、ふと意味深な言葉が投げかけられた。
「『道具』がぺらぺら喋るなよ」
そう言った水の魔人が、足元の水に踵を落とす。道具という一言に、使者の表情がわずかに凍った。
「
先刻と全く同じ軌道で飛んでくる水の刃を、今度は自分で受け止める。使者が一度手本を示してくれたおかげで、何とか刃の防ぎ方は分かった。それこそ付け焼刃だが。
冷たい水が、幾度となく飛び散る。
連続で水の刃を砕けさせた俺を見て、水の魔人は楽しげに嘯いた。
「異世界の力を見たのも初めてなのに、なかなか学習が早いというか……腹が据わるのが早いな。さすが、あの方の血縁者」
「『あの方』って何だよ! 何をしたらそんな名前を呼ぶことも恐れ多いみたいな呼ばれ方をされるんだ、葉桜は!」
斬っても斬っても再生する水を弾きながら、呼吸の合間に俺は叫ぶ。
「恐れ多いよ、実際。少しでも近づいた瞬間に、彼女が輝くためのエネルギー源として吸収されそうになる。そもそもあの方が学院にいることを許可されたのも、前統治者が彼女自身を気に入って一人の人間として丁重に扱っていたからだ。しかし葉桜様の方は、統治者が握っている特権しか目に入っていなかった」
俺が再び振るった剣を、魔人が軽やかに避ける。足元にあった水たまりが浮上し、短剣の形になってまっすぐに天束へと飛んだ。
「きゃ──」
「学院で覇権を握る前統治者を打ち倒せば、勢力図がめちゃくちゃになる。学院が戦火に包まれる。そんなことは一切考慮せず、支配者の特権を『だって欲しかったから』という理由だけで奪って都市内の秩序を崩壊させた」
水の刃を天束の眼前で弾き飛ばすが、飛沫になった水は即座にまた刃の形になって再生する。
「まぁ俺らのように、実力さえあればいいっていう薄情な連中にとっては関係ないんだけどさ。あの方が来てから都市の平穏が一掃されたのは事実だ。見様によっちゃあ、俺たちの世界にとって最悪の厄災だぜ」
その言葉を聞いた瞬間に、刃の動きがスローモーションのように見えた。
「お、弟くん?」
剣の柄を、皮膚に食い込むほど強く握りしめる。
気が付くと、俺は怒声を上げていた。
「
水の魔人が、大きく目を見開いた。
「仕方ないだろ、葉桜は俺以外に興味がないんだから! それだけはどうしようもないんだから、本人がどうしようもないことに文句を言うな! 悪いけどそっちが受け入れろ!」
一瞬だけ緩んだ水の攻撃を見て、使者が「弟くん!」と叫ぶ。
「このままではキリがありません。彼の能力の根源は、物体そのものに込められています。つまり水の魔人は、水のある場所でしかその能力を使うことができません」
「……ってことは、これは普通にプールの水なのか」
剣を振るって刃身に跳ねた水を払いながら、俺は呟く。魔人がプールに現れたのも、水を無尽蔵に使える場所だからということか。
「そうです! だからこそ、彼は自分の能力が使える場所を好みます。この場所で戦うのは自殺行為です」
使者の声を聞きながら、俺は天束の手を強く引いた。
「えっ、な」
「だってさ。逃げよう、天束」
プールから脱出して、俺たちは校舎へと駆けた。