1章 箱庭③
早いもので、私が王子の婚約者に選ばれてから約一か月が過ぎた。私と彼の関係は全く進展していない。一週間に一度我が家へ来て二人でひたすら雑談するだけ。話す内容は世間話という名の社交辞令ばかりである。
一週間に一度ってかなりの回数じゃないのかと最初の方こそ思っていたけれど、王族ではそれが
とはいえ、王族の歴史を学んだ時点では、せいぜい月に一回程度という話ではなかったのか。
どうせヒロインと結ばれる運命だから、
一か月に約四回も王子を見て感じたことは、美しいなとかずっと笑顔だなとか、本当にどうしようもないことばかりである。
世間話もそろそろネタがなくなりそうな上に毎度来てもらうのも気が引けるから、もう来なくて良いですよって言いたい。……言いたい。
「殿下がいらっしゃるのは
本来ならば二日後に来る予定だった王子が、なぜか今日も我が家に来ている。しかも世間話をしに来た様子ですらなく、客間のソファーに座って本を読んでいた。
彼は本から視線を外すと、こちらを見てにっこりと笑った。
「少し事情があってね。気にしなくていいよ」
ヒラヒラと手を
王子が目の前にいるのに私まで本を読むわけにはいかないし、
もう一度ため息をついて、紅茶を飲んだり外を
「ごめんね、今日もお邪魔するよ」
多分私の顔は死んでいた。
王子の連日の来訪二日目を過ぎた頃から、私は
読書は楽しい。誰といようが
今日もソファーに座って無言で本を読む王子を
「殿下、読書は王宮でもできることです。このように
まさかこんなにきっぱり言われるとは思っていなかったのか、王子は本から顔を上げて少し
「……ベルは知らなくていいことだよ」
初めて見せた王子の強い口調に
しかし、こちらも負けじと見つめ返した。サファイアの瞳が私の
そして不意に、相手の目が
「ふふ。ベルには
降参だというように両手を上げてわざとらしくため息をつくが、どこか嬉しそうにも見えた。王子相手に生意気で申し訳ないけど、このままでは私の精神衛生上にも良くない。
「申し訳ありません。お
「ベルが謝る必要はないよ。事情も言わずに家に上がらせてもらった僕の方が
ごめんね、とまた作ったような笑みを浮かべた。
「事情……そうだね。僕は
「ご兄弟といいますと、王太子殿下と王女殿下のことですか?」
「どちらかと言えば兄の方かな」
「王宮にいたくないほど仲がよろしくないのですか?」
「あれ? かなり有名な話だと思ってたんだけど」
彼は感情のない、無機質な笑顔を浮かべる。
その時、私は彼の
「兄は側室の子どもである僕のことが
この話はやめた方がよいのでは……と迷っていたが、王子はそんな私の様子に気付くことなく続ける。
「兄は家庭教師とか
明確な悪意のある
実の兄から人格を歪めることをされたのだ。それも奪うという方法で。
「王太子殿下のされたことを、
「残念ながら。父上は兄上が一番だからね。僕には目もくれない」
王子は
かける言葉が見つからずに視線を下げた。王子の家族関係がこんなに複雑なものだと、婚約者教育を受けていたにもかかわらず、なぜ今まで気付けなかったのだろう。
陛下に
彼はずっと、独りだったのだ。
「そんな悲しそうな顔しないでよ」
王子が
「……君に一つ、
王子は何も言えずにいる私を見かねてか、
「君を婚約者に選んだ理由。本当はちゃんとあるんだ」
「それは……」
「誰でも良かったんだ。あそこから
申し訳なさそうに王子は続けるが、私は彼の目を見られなかった。
選ばれた理由なんて、どうでもいい。
ただ、私も王宮の人間と同じように、頻繁に訪れる王子を
パチンと軽く手を叩き、この話はもうおしまいね、と彼はひっそり笑った。
王子が帰った後、私は一人考えていた。
前世で彼を攻略したことがない私は、王子の過去も、王子がこれからどうなるかも知らない。ヒロインに出会って心の傷を
あぁ、もっと友人に聞いておくべきだった。
今さら
王子が騎士様のように幼馴染としてヒロインと今の時期に出会うならまだいい。言い方は悪いが、心のケアをすべてヒロインにやってもらえば良いのだから。
だけど一か月王子と話してみて、そういった予兆は感じないし、婚約者のいる王子がほかの女の子と出会うとは考えにくい。それに加えてヒロインは庶民。庶民が運よく王族に会うなど不可能だ。ここが乙女ゲームの世界であったとしてもさすがにあり得ない。
そう推測すると、王子は学園に入るまでずっとヒロインとは出会えず、傷を
それは、いくらなんでもあんまりではないか? このままずっと好きでもない婚約者と過ごして救いの手が
しかもその間、私は側で見ていることしかできない。傷ついている子どもを何年も放置するってことだ。そんなの私が
そっと目を閉じて、今では
私は前世で妹が二人、弟が二人という今時では
一番
当時まだ高校生だった私は、
悪友も何かと手伝ってくれたけど、短気な彼女はすぐに弟と取っ組み合いの喧嘩を始めてしまう。一度彼女が、『姉に
無事帰ってきたから良かったものの、当時は家出したのではないかとヒヤヒヤした。その後はしばらく口を
そんな日々が一変したのは、一番幼い妹の誕生日。親が仕事で家に帰れず、兄弟五人での
『お母さんたちはどうしていつもかえってこないの?』
誰も、何も言えなかった。兄弟の、馬鹿な弟たちですら触れなかったこと。妹は幼くて何も分からない。仕事だよって言ってもきっと
重たく冷たい
『俺たちのことなんかどうでもいいからに決まってるだろ。あいつらは俺たちなんか忘れてるんだよ!』
そう言って、
『いつも家にいねぇし、俺たちなんてどうでもいいんだ!』
ガンッと耳を
『やめなさい!』
『姉さんも姉さんだろ!』
鋭い視線を受けて少し
『なんで、笑っていられるんだ。なんで、俺みたいな奴の面倒見れるんだ。俺たちのせいで大好きだった
そう叫んだ弟の目から、ついに
『俺だってお前らなんか捨ててこんな家出ていきたい。帰ってこない親なんかいらない。……けど、誰も、俺を、見捨てないから』
そう言い、
でも、弟たちを見捨てるなんて
『馬鹿!』
そんなこと、できるわけがない。
『本当に……馬鹿だよ。あんたは』
反論することなくひたすら喚くように泣く弟を優しく
鼻水を
私たちを見てぼろぼろ泣いていた妹たちも手招きして、
『なんで姉さんも泣いてんの……』
『あんたは私に好きなことしろって、俺たちなんか捨てろっていうけどさ。そんなことできるわけないじゃない』
明るく振る舞おうとしても、どうしても
『だって、私たち兄弟なんだよ。世界に五人しかいない唯一の兄弟なんだよ』
そう言うと弟はまた泣きそうにくしゃりと顔を歪めた。私はありったけの力を
『姉さんが皆を捨ててどうすんの! 姉さんは皆のこと大好きなんだから!』
そういう私もぼろぼろ泣いてしまった。だって、金髪の弟が抱きしめ返してくれるから。
『お、俺も好きだよっ!』
声を裏返しながらそう言ったのは六歳離れた弟。それに続いて、三歳離れた妹も、一番幼い妹も言い出す。
『わ、私も大好き!』
『みゆも! みゆもみんなすき!』
そして必然的に皆の視線が金髪の弟に集まった。充血した目を見開いて、え、俺? なんて顔をして固まっている。皆の視線に耐えられなくなったのか
『っ、俺だって、俺だって好きに決まってんだろ! じゃなきゃこんなとこいねーよ、バカ
泣いて赤くなった顔をさらに赤くして叫んだ。バカ野郎は余計だけど、この弟から好きなんて単語を聞いたのは何年ぶりだろう。
嬉しくて、
私はこの日、初めて兄弟たちの
王子を見ていると、弟たちが重なる。実際、私も親がいなくて寂しかった。その思いを埋めるように剣道をしたし、友人がいたからこそ
私はヒロインのように王子を救えない。弟や妹にとって、私が
だけど、せめて気を
遊ぶなり話すなりして、これ以上彼が孤独を感じないように一緒にいる。それなら私にだってできる。要は話し相手、一番身近な友人になればいい。
ふと、いつも王子と共に訪れる少年の姿が
けれど、一度も二人が話しているところを見たことがない。彼は王子とどんな関係なのだろう。仲がいいのか、それとも王太子の息のかかった人間なのか……。信頼できるか自ら判断しなくては、逆に王子の傷口を
王子と友達かぁ……。難易度高すぎない?
ヒロインはどうやって王子の心を
結局は、正面
一時的な痛み止めでもいい。ヒロインが現れるまでなんとか私が王子を引っ張る。いずれ婚約
王子よ、待っていろ。私が君の友人第一号だ。
決行は明日。名付けて『お友達大作戦』!