かつての私は日本在住の女性であった。享年二十歳前後。多分学生だったと思う。友人は多い方ではなかったが、一人だけ短い生涯を共に過ごした子がいた。
彼女の名前はなぜだかどうやっても思い出せないけれど、サバサバした性格の、可愛い雰囲気の女の子。家が隣で幼稚園から大学までたまたま同じだった悪友。
好きではないが、嫌いでもない。いい奴だとは思うけど何分私に当たりが強かった。正直と言えば聞こえはいいけれど、あれは他人に気を使えないだけだ。
でも、そうは言っても私たちは常に二人だった。
隣にいるのが当たり前。頑固でプライドが高いせいで周りから孤立してしまう彼女を何かと気にかけていたのは確かである。今思えば私も彼女に結構な思い入れがあったのかもしれない。本音を言うなら、もう少し私に優しくしてくれてもよかったとは思うけれど。
さて、そんな彼女に失恋の慰めとして薦められて始めた乙女ゲームが、これである。
『君と奏でる交声曲』
略して『キミ奏』。
舞台はヴェルメリオ王国。魔法を使える唯一の一族としてヴェルメリオ家が治めている大国であり、王都には大きな学園がある。その名も聖ポリヒュムニア学園。
聖ポリヒュムニア学園には通常貴族が教養のために通うが、庶民でも入学できる制度があった。
例外に適用されるのは特別な物事に秀でた者。料理が上手いとか、歌が上手だとか。ちなみにこの上手のレベルは王宮に仕えられる水準のものである。半端ない。
主人公であるヒロインは万人を魅了すると噂されるほど音楽の才能に優れていた。
その才に目をつけたプラータ子爵家の当主は庶民の彼女を養子に迎え、学園に入学させる―― そこから物語は始まる。
そんな物語の導入は正直どうでもいい。この状況にして最も問題視されることは、私がこのゲームの攻略対象者を二人しか知らないことだ。
ハマりにハマったゲームだったが、中でも私がどハマりしたのは、攻略対象であるヒロインの幼馴染の騎士様、アスワド・クリルヴェル様である。むしろアスワド様しか攻略していない。
アスワド様は、艶やかな青みがかった黒髪と青緑の瞳をもつ好青年。剣術に優れ、幼馴染のヒロインをいつも気にかけるお兄さん的な存在。容姿はもちろんのこと、アスワド様には欠点がない。推しに対する欲目かもしれないが、堅実で優しくて紳士なお方。ヒロインに一途な姿には心打たれた。
前世での恋愛があまりに酷かったことも関係しているだろうが、私はとにかく一途で誠実な性格のキャラクターに惹かれる。
浮気されて破局だの、重いと言われて別れるだの。尽くしすぎる性格のせいで過去の恋愛では自分ばかり損をしている気になった。友人と浮気された時にはさすがに殺意が湧いた。
傷つく恋愛をそこそこ経験してきた私の行きつく先は、当然ながらアスワド様であった。
ちなみに悪友の推しは第二王子。
だから第二王子は名前程度の浅い知識しかなく、私はほかに誰が攻略対象なのかすら知らない。悪友に第二王子の素晴らしさを語られたけれど、もはや記憶にございません。
知らないものはこの際仕方ないが、最重要事項はそこではない。
重要なのは、ヒロインのライバル……ライバルというか彼女の恋路を邪魔する人物がべルティーア・タイバス―― そう、現在の私であるということだ。
ヒロインをいじめにいじめ倒す自尊心の塊である、いわゆる悪役令嬢と呼ばれる奴。
――それが、私。
絶望だ。どうして私が恋の当て馬役をしなくちゃならないんだ。というか、そこはヒロインに転生させるところだろう。訳が分からない。
しかも、ベルティーアはハッピーエンドでもノーマルエンドでもバッドエンドでも、必ず消えて終わる。
詳細が描かれず『それからベルティーアの姿を見た者は誰もいなかった』というよく分からない最後を迎える。少なくともアスワドルートではそうだった。
冗談じゃない!
悪友曰く、ベルティーアの悪行が最も輝くのは、彼女の婚約者である第二王子をヒロインが攻略しようとする時らしい。アスワド様のルートではただのいじめっ子として立ちはだかるから、王子ルートで彼女が何をしているかなんて知る由もない。
だけど、正直私はベルティーアが嫌いではなかった。ベルティーアが出てくるイベントではアスワド様の好感度が五割増しで上がるので。
ちなみにベルティーアは王子を見た瞬間に一目惚れをし、必ず婚約者になろうと金と権力をフル活用して無理やり王子の婚約者になる……らしい。
悪友の話なんて半分以上聞いていなかったから、合っているかは分からないけど。
そのことを思い出した時はさすがにヒヤリとした。実際、お見合いの場面で私は彼に一目で心を奪われていた。危ない。
ともかく、ベルティーアは自分から婚約に漕ぎ着けたようなので、これから私が何もしなければ、王子の婚約者に選ばれることはないはずだ。
であれば、物語も変わってくる。
なんだ、なにも怖いことはない。どうせならこの美貌でアスワド様と恋愛しちゃおうか。
そんな風にニヤニヤしたのはつい昨日のことだったと思う。
何がいけなかったの? 翌日、そう思わずにはいられない状況に私は陥っていた。
目の前には金髪碧眼の美しい方。
「こんにちは、三日ぶりだね。ベルティーア」
「あの、殿下。なぜ我が家に?」
「なぜ? ベルティーアは僕の婚約者になったんじゃないか。婚約者の家を訪れるのは当たり前のことだろう?」
「こ……婚約者? 私がですか!?」
思わず大声で聞き返す。
私は何もしていないはずだ。お父様は帰ってきて早々に寝込んだ私を見て心配そうにしていたし、お母様も状況を察して静かに見守ってくれていた。
「そうだよ。今日から君が僕の婚約者だ。あれ? 嬉しくないの?」
「無礼を承知でお伺いしますが、なぜ私なのですか? 正直に申しますと、私が特別何かをしたような覚えは全くないのですが」
そう尋ねると、王子は少しだけ目を見開いた後、金色の髪をさらりと揺らしてそれは それは美しく微笑んだ。
「そうだねぇ……。強いて言うなら、面白そうだったから、かな。君といると退屈しなさそうだ」
「面白そう……退屈しない……」
「うん、なにか不満?」
面白いって。まるで少女漫画のイケメンだけに許される台詞のようだ。
まぁ、面白いだろうがなんだろうが、王子が私を好きではない時点でゲーム内容とはさほど変わらない。王族の婚約者という厄介な肩書を背負っただけだ。
「いいえ。光栄ですわ。殿下」
「うん、よろしくね。ベル」
いきなり私の名前を愛称で呼んだ王子に、さすが攻略対象者だと唸らずにはいられなかった。