あれはよく晴れた日のことだった。雲一つないからりとした快晴の下、私は静かに絶望したことを覚えている。
忘れもしない、九歳の時であった。私はとある事情で普段なら絶対に入れない王宮へと足を運んだ。王宮は王城とは異なり、謁見の間や玉座がある場所ではない。王妃や側室、その子どもたちが暮らす大きな屋敷のようなものだ。
王宮内では値段を聞くのも恐ろしいほど美しいシャンデリアが輝きを放ち、真っ赤な絨毯は踏んでしまうのが惜しいくらいに隅々まで手入れされている。
初めて訪れる王宮に私はキラキラと目を輝かせた。自分の家とは比べものにならないほど豪華で、眩しい。物語の世界に入り込んだような幻想的な光景に、幼い私の心はあっという間に虜になった。
お城を探検してみたいという子どもながらの好奇心を膨らませつつ案内人の後をついていくと、大きな部屋に案内された。
ここでお待ちください、と声をかけられてハッと我に返る。
浮かれている場合ではない。私は今日、たった一人で王子様に会いに来たのだ。
気合いを入れ直すためにぐっと拳を握った。滅多に近寄れない王宮を訪れるほどの事情――それはこの国の第二王子とのお見合いである。
この国では、王族の男児は十歳になるまでに自ら婚約者を選ばなくてはならない、という慣習がある。実際に第二王子の兄にあたる王太子も十歳の頃、婚約者を迎えた。候補者は星の数ほどいて、名誉が欲しい、金が欲しい、地位が欲しいと喚く貴族たちはこぞって娘を王族の婚約者にさせたがった。私が言うのもおかしい話ではあるが、貴族の娘たちは本当に不憫だと思う。聞いた話だと、見目麗しい子を無理やり養子にして自分の娘だと偽り、王族に嫁がせようとする家まであったらしい。なんとも胸糞の悪い話である。
そんなわけで、今日は私も家の名を背負ってここに来ている。私の家は王家に次ぐ歴史を持つ、由緒正しい公爵家。王族の婚約者などという立場に頼らなくとも地位も名誉も確立されている。が、当然期待はされていた。
王族とのお見合いは基本的に自分と相手の二人きりで行われる。もちろん、お付きの人や警護はいるんだけど、実際話すのは王子と自分だけ。だからヘマをすることは許されないし、自分をアピールできる唯一の場である。この時間に命を懸けると言っても過言ではない。王子が自分だけを見てくれる千載一遇のチャンス。この好機を徹底的に利用しろと言わんばかりの修業、否、レッスンを私もみっちりとさせられた。対面はたかが十分程度だというのに、この半年間、散々マナーを叩き込まれたのだ。
悪魔だ。きっと私を殺そうとしているんだわ、なんて思ったのも一度や二度ではない。
最後の方はもはやゾンビと化した。
しかし、まぁ、両親が期待してしまうのも分からなくもなかった。なにせ、私は可愛い。
菫色の大きな瞳に、緩くカーブを描くアイスグレーの髪。
世の男はメロメロだわ、と鏡の前でほくそ笑んだのは五歳の時だったと思う。
王子様だって男の子。そこらの貴族の美少女だって地位も容姿も私には敵わない。王子様もきっと私を好きになる。
そう、その時までの私は世間知らずのクソナルシストだったのだ。
王子のいる部屋に案内されて、扉の前に立った。ドキドキとうるさい胸を押さえている間に重そうな扉が開かれ、視界が一気に明るくなる。礼をする前に王子を見ないように頭を垂れ、膝を折ってドレスを少し持ち上げた。
半年のレッスンも馬鹿にはできないな、とこの時初めて思った。案外体が勝手に動いてくれる。
十分礼をした後、顔を上げて王子を見た瞬間、脳が痺れた。雷に打たれたような、記憶が掘り起こされる不思議な感覚。ゾワッと全身の毛が逆立った。
私は、彼を知っている――?
金髪の、人とは思えない美しい顔。さらさらの髪は照明を反射し、一際輝いて見えた。
白い肌に埋め込まれたようなサファイアの瞳が私を映す。
この人は。
思い出そうとしたところで自分がいまだ名乗っていなかったことに気付く。
なんて無礼なことをしてしまったの!
内心焦りまくっている中、王子は笑顔を絶やさずじっとソファーに座っていてくれた。
目が合うと、首を傾げて花が開くように優しく微笑む。
私は胸が射抜かれるような衝撃を受けた。
あぁ……なんて美しい方なのかしら!
固まっている私を見ても、王子は何も言わずに待っている。一瞬でピンク色に染まってしまった頭をフル回転させて、私は言葉を紡いだ。
――必ずこの美しい王子様の婚約者になってみせる。
私の頭の中はそのことでいっぱいだった。
「お初にお目にかかります、第二王子殿下。わたくしはタイバス公爵家長女のベルティーア・タイバスと申します」
ベルティーア?
自分の名前なのに妙な違和感を覚えた。
すると王子も立ち上がって、完璧な角度で頭を下げた。
「初めまして、ベルティーア嬢。私は、ヴェルメリオ王国第二王子、ディラン・ヴェルメリオと申します」
ヴェルメリオ王国、第二王子、ディラン。
この三つが頭の中で理解できた瞬間、ピンク色に染まった脳は冷え、危うく叫び出しそうになった。麗しい笑顔で挨拶をなさる王子に、常であればこの世のすべての女性がメロメロになるだろう。ここは令嬢として白い頰を紅潮させ恥じらいを見せるくらいするべきなのに、できない。
だってこの瞬間、私は〝前世の自分〞を思い出してしまったのだ。
痛む頭を誤魔化すように、にっこりと不器用な笑顔を浮かべた。
なんとかお見合いを終わらせ屋敷へ帰る。王子との会話など全く覚えていなかった。
自室へ辿り着いた途端、激しい眩暈に襲われ、記憶を整理するかのように私はそのまま丸一日寝込んでしまった。