一章 二人のアコガレ(4)
◇
――それから三時間。
バイト初日というと、一、二時間くらいの研修で終わり、他にシフトに入っている人より早く帰るのが普通だと思ったが、律花は俺と同じ夜九時までしっかりシフトに入っていた。
「じゃあ、有馬お疲れ。夏木瀬も初出勤お疲れ」
シャッターの閉まった店の外で、そう別れを告げると、澤野先輩は早々にバイクにまたがって帰って行ってしまった。
「あ、あ……」
澤野先輩を乗せたバイクが遠ざかっていく。久しぶりの再会でもっと話したいこともあっただろうに。まともに二人が話したところを俺はまだ見てない。
仕事が終わって事務室でレジ金を集計していた時も、一緒にいたのに一言も話さなかった。
(仕事忙しかったし、仕方ないよな)
まあ、これから働くのなら機会はいくらでもあるだろう。
明かりの消えた敷地内で突っ立っているわけにもいかず、俺も「じゃあ俺もこれで――おつかれさまです」とだけ告げて、駐輪場に駐めていた自転車にまたがってさっさと行こうとすると、
「ま、待って!」
律花に袖をぎゅっと握りしめられた。
「一緒に帰らない?」
「一緒にですか?」
暗い夜道に女子を一人で帰らせるのは危険かもしれないが……。
「自転車とかで来なかったんですか?」
意外と家が近いのか。そういえば律花の家を俺は知らない。
「歩いて五分くらいだから、そのまま来たの」
「いいですよ。でもどうして?」
「バイトのことでちょっと相談があって……」
「俺にですか?」
相談? バイト?
今日は全然レジの仕事がうまくできなかったから、どうすればいいの――っていう仕事の相談か? いや、どちらかというと――。
(澤野先輩のこと……か?)
今日、バイトで律花の様子がおかしかったのが脳裏にちらつく。
「うん……ダメ?」
うるうると潤んだ瞳で上目遣いをする律花の破壊力は、一般男子ならコロッといってしまいそうなほどだった。
どんな形であれ、律花に頼られるのは嬉しい。力になれるのなら、なってあげたい。
でも――。
「俺なんて頼りになりませんよ?」
俺は自分の力量というものをよく把握している。
律花に頼られるほど俺は自分のことを高く評価していない。
「そんなこと――」
律花の言葉を切ってでも俺は言葉を続けた。
「学校でも俺、会長の足ばっか引っ張って……会長の相談相手なんて俺――」
気持ちが俺を否定する。『俺なんて』なんて都合のいい言葉で俺が塗り潰されている。
「そんなことないよ!」律花の言葉が俺をハッとさせた。「頼りにならないなんてことないよ」
「どうしてそう思うんですか?」
俯きながら俺は訊ね返していた。
間髪入れず律花は応えた。
「あたし、何度も生徒会で有馬くんに助けられてるよ。この前だって美化委員会の議事録作ってくれたし、あたしが忙しい時は率先して仕事を受けてくれるし」
「それくらい当然ですよ」
「それくらい当然って言ってくれるのが有馬くんのいいところだよ」
そんな風に想ってくれていたなんて知らなかった。学校では言われた仕事や当たり前の仕事をやるのが常で、頼りにされていたなんて思いもしなかった。
「それに、今日だってレジ仕事初めてのあたしをフォローしてくれたじゃん」
「それは仕事ですし、俺は一年の経験がありますから」
どうしても否定的な意見が口から出てしまう。生来、俺は自分に自信がない。もしかすると頼られるという状況に慣れていないだけかもしれない。
「頼りにならないなんてこと絶対ないよ」
よかったら――と律花は続けた。
「話だけでもダメ、かな? 澤野先輩のことなんだけど」
律花の相談内容はだいたい想像がつく。
(恋愛相談……なんだよな)
改めて澤野先輩のことで相談――なんて言われると、さすがにそうとしか考えられない。加えてバイト中の律花の様子から察せられる。
「バイト内容の相談ならともかく、澤野先輩のことって……それこそ俺でいいんですか?」
恋愛経験ゼロの俺が何かアドバイスするなんて、それこそ自信はないのだが。
「むしろ有馬くんじゃないと相談できないよ。バイトの澤野先輩のこと知ってるの有馬くんしかいないし……」
「言われてみれば……」
バイトで澤野先輩とはいつも話しているから、情報を持っているという点では俺が適任ではある。
「まあ、じゃあ話を聞くくらいなら」
「うん、ありがと」
俯き加減に律花はそう呟いた。
俺は自転車から降りて手押しで一緒に帰ることにした。
それからしばらく横並びで歩き出す。
「…………」
「…………」
からから、と自転車のチェーンが空転する音だけが閑静な住宅街に響く。どこかから救急車のサイレンが聞こえる。
「…………」
「…………」
沈黙が続く。気まずい。
もしかすると律花も恥ずかしいのかもしれない。俺がきっかけを作ってあげるべきか。それもなぜか躊躇ってしまう。このまま話さないならそれでもいいとさえ思ってしまう。
「ねえ、公園に寄らない?」
ぐいっと律花が俺の半袖の裾を握ってくる。力強く引っ張ってくるので、自転車ごと体勢を崩しかけた。
「いいですけど……」
俺たちは公園に寄った。
昼間は小学生や園児で賑わう公園は、夜九時過ぎとなると人っ子一人いない。ここは住宅街にある小さな公園と違い、散歩コースとして緑が多く、広い公園だ。遊具もあるが、夏はどちらかというと避暑地としてよく使われている緑地公園だ。道沿いの茂みからは虫の声が響き渡ってくる。今は他に誰もおらず、静かだ。
街頭に照らされたブランコに律花がちょこんと腰かける。このまま俺も隣のブランコに座ろうと思ったが、まだ律花が話すような態度になりそうにない。律花は俯きながら地面の土を靴でいじいじといじっている。
「俺、そこの自販機で飲み物買ってきます」
近くに自転車を停めて、公園脇の自販機に向かって走った。
いつも飲んでいる冷たいカフェオレを購入。帰り道にたまにここで買うこともあるので、ここのカフェオレは飲み慣れている。
ちらっと、ブランコに座る律花を見た。せっかくだから、彼女の分も買ってあげよう。
いつも律花が生徒会室で飲んでいるほうじ茶を買って、ブランコに戻る。
「会長、これ」
「え……あ、ありがとう」
律花は両手でお茶を受け取ると、「冷たい……」とそれを頬に押し付けた。すごく気持ちよさそうだ。もう七月下旬で夏真っ盛り。律花は私服ではなく学校の暑苦しいワイシャツとスカートという制服姿だ。ずっと暑さを我慢していたのだろう。
俺も買ったカフェオレを首に押し当て、隣のブランコに座る。
「ここ、いい公園だよね。子供の頃から琴葉と一緒によく来てたんだ~」
「俺も小学校に上がる前はよく親に連れられてきてましたよ」
「へぇ? じゃあどっかでニアミスしてるかもね」
へへ、と律花がはにかむ。もうバイトの緊張は解けているようだ。
「そうですね」
と俺が答えると、公園にまた沈黙が戻った。
律花の言葉を待っていると、
「有馬くん、相談って言ったと思うんだけど……」
「その前に、一つ聞いていいですか?」
「え?」
きょとんとして律花は俺の瞳を覗き込んできた。
「もしかして会長は澤野先輩のこと……」
「それは……えっと……」
律花は視線を下に向けていた。どこか恥ずかしそうに見える。俺も同じだ。言葉にしようとするとどうしても羞恥心が邪魔をする。でも言いたいことは伝わったようだ。
ジジ……と街灯が点滅する。
真一文字に結んだ律花の口がゆっくりと開かれた。
「……わからないよ」
「わからないって、その……好き、とか……?」
俺は指先で、熱くなった頬を掻いた。告白しているような気持ちになってしまう。
「正直その……。――ねぇ、あたしと先輩のこと、どこまで聞いたの?」
「同じ時期に生徒会にいたってことしか……」
澤野先輩がそう言っていた。交際関係にあるとか、お互い気になっているとか、そんな匂わせぶりな発言もなかった。
「先輩って結構、学校のいろんな人からモテてたの。異性だけじゃなくて同性からも」
「同性からも!?」
え? そういう関係も?
「あ、違う違う! モテるっていうのは憧れっていう意味で……」
「あ、ああそうですよね」
びびった。もしかすると男子からアレな告白が毎日来ているのかと思っていた。
憧れの対象であるということは、つまり高校三年生の時の澤野先輩は今の律花会長のような存在だったということか。一年から三年までみんなから尊敬を集める存在――十分想像できる。
「それでね、あたしもずっと憧れてて、生徒会に入ってもずっと憧れだったの」
(憧れ……)
俺が生徒会に入った時のことをふと思い出す。
俺はみうに言われるまま、惰性のような感覚で入った。
そこで俺はみんなから頼られ、尊敬される律花に憧れを抱いた。
あんな人の役に立ちたい。頼られたい――そんな気持ちだった。
「あの人に認められたい。澤野先輩に振り向いてほしいって、思うようになって……でも同じように思っている同級生も結構いて、あたしもその中の一人だったんだ」
キィ……と律花はブランコを揺らした。「だから――」と続けて、
「今の気持ちが本当に好きなのか、はっきりわからない。けど先輩の前だと緊張しちゃうんだ。これってどうなのかな……?」
街灯に照らされた律花の表情はどこか火照っているように見えた。
(それが相談の理由か)
自分の気持ちがわからない。だから客観的な意見がほしいということだろう。
もし本当に律花が澤野先輩のことが好きなら、俺は応援したい。俺を頼ってくれるのであれば、協力は惜しまないつもりだ。
けど今の律花の心は揺れている。
俺が後押しをしようにも、迷ったままの律花にかける言葉が見つからない。
「会長はどうしたいんですか?」
「どう……?」
「付き合いたい――とか。そういうのです」
口にしていて小恥ずかしくなるのはなんでだろう。恋愛相談というものに慣れないからか。
「どう……か」
じゃり……と律花の靴が地面の砂を削る。
「……そっか、そうだよね」
(なんだ?)
何か納得したのか、律花は視線を落としながら、ふんわりと微笑んだ。
――律花と澤野先輩。
会長だった澤野先輩と話す機会も多かったはずだ。俺には知りえない二人の時間があって、笑い合うこともあっただろう。
律花がバイトに応募してきたのは、二年経ったにもかかわらず澤野先輩を追ってきたからだろう。それが答えなのではないか?
律花に告げればもしかしたら納得してくれるかもしれない。
俺が口を開く前に、律花が語り始めた。
「当時のあたしはダメダメでいつも澤野先輩に助けられてた。何をしても自信が持てなくて、でも澤野先輩はいつも自信満々で――結局卒業して学校からいなくなって」
話しながら律花は手の中でペットボトルをころころと転がしていた。ずっと俯く彼女の横顔は普段の律花と全く違う。
「あたしはいつか自信を持って澤野先輩の横に立つために、ずっと努力してきた。生徒会長になってようやく理想の自分になれたのかなって思ってたけど……今日のあたし、前みたいだった」
半ば口から勝手に出たような律花の独白に、俺は少し共感してしまった。
(じゃあ今日の会長は……)
あのテンパった律花は素――だったということだろうか。素と言うと少し語弊があるかもしれない。あれは昔の律花のままだったということだろう。
「あたし……やっぱり」
独り言のようにぽつりと律花は呟く。
こんなに弱々しい律花を初めて見た。
ダメ――なんかじゃない。学校での律花はみんなの憧れで、なんでもできて、頼りになる生徒会長だ。
俺は知っている。普段の律花をいつも見てきている。あのテンパった姿とは違う、いつもの律花はダメなんかじゃない。
「今日は――そう、今日はダメだったけど……」
そして律花はどこか吹っ切れたみたいに「うーん!」と背伸びをして、
「あたしは今のあたしを澤野先輩に見てもらいたい」