一章 二人のアコガレ(2)
◇
放課後。
予定通り、俺はバイトへと赴いた。
なんのことはない普通のスーパーのレジ係のアルバイトだ。全国展開している大型チェーン店というわけでもないので、店舗規模もさほど大きくはない。それにショッピングモールや駅ビルに入っている店舗でもないので、平日の昼間はレジをフル稼働させなくても十分回るくらいの客入りだ。
俺は店舗二階の更衣室でバイトの制服に着替えてから、事務所前でタイムカードを切る。
慣れた作業だ。一年前はタイムカードを切るだけでドキドキしたものだというのに。
それから一階の販売フロアに下りて行く。
扉をくぐってサービスカウンター脇に出ると、客や店内放送の雑音が耳に飛び込んだ。
俺の眼前に立ち並ぶレジは現在三台稼働しており、うち一台が暇を持て余しているような状態だ。やはり平日の昼間だからか、あまり人は多くない。
「おはようございます、店長」
サービスカウンターに恰幅のいい男性がいたので、俺は声をかけた。店長だ。どうやらカウンター下から何か物を取り出していたらしく、重い体を起こした店長はすぐに俺のことに気づいた。
「おお、おはよう有馬くん。さっそくだけど、四番レジと交代して。今日新人入ってて、ざっと説明したら君のとこにサッカー業務入ってもらうから」
「はいわかりました」
新人か。誰だろう。この一年で何度か入ったことがあったが――そういえばそろそろ夏休みに入る。暇な大学生か高校生が入ることが多いのもこの時期だろう。
俺は言われた通り、四番レジにいるパートのおばちゃんと交代でレジに入り、名札のバーコードをスキャンしてレジの準備をする。これも慣れた作業だ。今なら寝起きでもできる。
「おはよう、有馬」
声をかけられハッと振り返る。
「ああ、
後ろにいたのは俺がこのスーパーに勤めるより前からいる大学生の澤野
「先輩。新人入ったって聞きましたけど、見ました?」
「ああ、さっきまで店長から接客用語のこと聞いてた。懐かしいよな、俺なんて『ありがとうございました、またお越しくださいませ』が言えなくて、最初舌噛んだんだぜ?」
「はは、俺も似たようなもんですよ。声小さいって何度か怒られました」
緊張していたせいもあるが、店内が広い上に空調などの音もうるさいので、家や学校にいる時よりも声を張らないと目の前の相手にさえちゃんと伝わらないことが多い。
それと同じことを今も新人が味わっている。一年も経てば懐かしく感じるものだ。
「――それで、新人ってどんな人なんですか? 大学生?」
「あれ? 有馬聞いてない? 俺よりお前の方が詳しいと思ったけどな」
どういう意味? 詳しいと言われても、今初めて店長から聞かされたわけで、知っているわけがない。
「まあ見たらわかるんじゃないか? 有馬と同じ北高に通ってるしな」
同じ現役北高生の新人は初めてだ。
「今その人はどこにいるんですか?」
「さっき有馬が下りてくるちょっと前にトイレ行ったから、そろそろ戻ってくるんじゃないか――ほらきた」
今回はどんな新人だろうか。
トイレから戻ってきたという新人がたどたどしい様子で八番レジに歩いていくのが視界に入った。ん? あれは……。
「え……律花会長?」
八番レジに入ったのは、間違いない――夏木瀬律花本人だった。どうやらお客さんが来ないようにレジを閉めて、トレーニングモードで店長からレジの説明を受けているようだ。律花の前に置かれたカゴの中には、練習用に持ってきたカップ麺やお菓子がいくつか入っている。
どうやら俺のことには気づいていないようだ。フロアは広いし、八番レジから俺のいる四番レジが遠いからだろうか。それか初日で緊張して視野が狭くなっているのかもしれない。
「やっぱり知ってたな。今生徒会長やってるんだな」
「先輩は会長のこと知ってるんですか?」
「俺が三年の時、夏木瀬は一年だったんだよ。その時、俺が生徒会長で夏木瀬は庶務」
初耳だ。澤野先輩が北高生だったのは知っていたが、律花と同じ時期に生徒会で働いていたとは。
「俺はそろそろ戻るよ。夏木瀬はお前のとこのレジに入るんだろ? まあがんばれよ」
と言い残して、澤野先輩は離れた一番レジへと戻っていった。
――いや、まさか律花がわざわざここにバイトに来るなんて思いもよらなかった。
そういえば、今日の朝会った時に『今日は用事がある』なんて言ってた気がする。つまり俺と同じバイトがあったから生徒会に行けなかったわけだ。
しかし律花がレジバイトか……うちはスーパーだから夕方はそこそこ忙しく、手が足りないこともしばしばある。
律花ほど手際がよい人ならすごい戦力になるかもしれない。最初の一週間は覚えるのに必死かもしれないが、一か月もすれば俺が逆に教えられることも――。
「よし、じゃあちょっと恥ずかしかもしれないけど、声出しの練習もしてみようか」
「は、はい! い、いらっしゃいませ! 袋はおもぢっ――いてて、舌噛んだ~」
「あはは、焦らない焦らない」
店長が隣に立って、律花にお辞儀と接客用語をレクチャーしていた。
……まあ、会長でも舌を噛むことくらいあるだろう。しかし模擬練習でお客さんもいないのに、緊張しているように見えるが。
「ふ、袋はおも、おもち……えーと……」
(めちゃくちゃ緊張してる!)
しかも頭を下げすぎてカゴに頭をぶつけてる。
元々、律花は人前とかで緊張するタイプではない。生徒会長として始業式や終業式、会長立候補選挙などで全校生徒の前で凛々しく話す姿を何度も見かけている。
(会長もあんなに緊張するんだな)
なんだか新鮮な気持ちになる。学校では決して見られない律花だ。
俺も最初はあんな感じだったのだろうか。いや、客のいない模擬練習でそんな緊張したことはないぞ。声を出すのがちょっと恥ずかしかったりしたが……そこまで酷くなかったはずだ――あ、また頭ぶつけてる。
新鮮な気持ちで律花を眺めていると、俺のレジにもお客さんがやってきた。
後で俺のレジにサッカー業務として入ってくるらしいが、いろいろ手ほどきしなければいけないだろう。まだ一日目だし、俺も傍から見るとあれくらい酷い緊張をしていたかもしれない。
(でも会長のことだから次の出勤日には完璧にこなしてそうだな)
――そうこうしている内に、三十分程度が過ぎた。レジに並んでいた客を全員さばいた後、一呼吸置くと、店長がやってきた。
「有馬くん、今から新人の子入るけど、お願いできる?」
どうやら一通り訓練は終わったらしい。律花本人はいないようだが、練習でスキャンしていた商品を棚に戻しているのだろうか。
「はい大丈夫です。サッカー業務だけやらせればいいんですよね?」
「まだ入って一日目だから、フォローお願いね。まあ有馬くんなら任せても大丈夫でしょう」
と話していると、件の律花がレジにやってきた。緊張しているせいか俯き加減だ。
近くに来て、ようやく俺に気づいたのか、目を丸くして、
「有馬くん!? あれ? キミもここのバイト?」
どうやら俺がここで働いていたことを本当に知らなかったようだ。
「そうですよ。もう一年くらいですね」
「ここ? なんで? うそ!」
そんなに動揺することか?
「モデルも生徒会長もやってるのに、よくスーパーのバイトもやろうと思いましたね。結構大変ですよ、レジ打ち」
「へへ……そうみたい」
「お金に困ってるんですか?」
何か高価なものでも欲しいのだろうか。
「そうじゃ、ないんだけどね……」
なんとも歯切れが悪い。まあ律花なりの事情があるのだろう。
「とにかく、すぐ客が来ます。準備してください」
「う、うん……」
おどおどした様子でレジに入ってくる。
「きゃっ」
足がもつれたのか、転びそうになって俺にもたれかかってくる。
「大丈夫ですか?」
ふんわりと律花の匂いがする。細い体なのに、意外と重みを感じる。制服越しに触れる感触は俺にとっては未知の感覚だ。
「ご、ごめん……」
上目遣いになって弱々しく謝る律花。なんだか弱った小動物みたいだ。こんな律花初めて見る。
店長が俺の肩をポンと叩く。
「じゃあ有馬くん、あとはよろしくね」
「あ、はい。わかりました」
そう言って店長は二階の事務室へと戻っていく。