ルーティエ・フロレラーラにとって間違いなく人生で最悪、かつ、今後の暗い人生を如実に表した結婚式が始まったのは、ほんの数分前のことになる。
オルガ帝国では黒い色が吉兆とされているらしく、二度目のウェディングドレスは胸元から足の先まで真っ黒な代物だ。もちろん黒い色が嫌いなわけではない。だが、宝石や金の刺繍でごちゃごちゃと飾られた無駄に豪華絢爛なドレスは、ルーティエには趣味の悪いものにしか感じられなかった。
無言で手元に視線を落とす。ルーティエの右手には、黒百合と黒みを帯びた濃い赤バラで作られたブーケがある。花自体はとても美しいのだが、作り物めいた寒々しい雰囲気があった。
「……まるで死んだ花みたい」
無意識のうちにもれた声は、ルーティエの口中で消えていく。
両親が用意してくれた真っ白なウェディングドレスや、兄と弟が丹誠込めて育ててくれた花で作られたブーケ。それとは似ても似つかない代物に、気分は下降の一途をたどる。
これはただの形式的な結婚式。義務として行われるだけの、幸せなどとは無縁の結婚式だ。そもそも結婚式とは名ばかりのものでしかない。
ルーティエがいる場所は皇帝が住まう宮殿の最奥、謁見の間だった。祝福する参列者など一人もおらず、いるのは警護にあたる兵士と高官が数える程度で、結婚を祝う空気などまったくない。むしろぴりぴりとした冷ややかな雰囲気が漂っている。
「今この瞬間、二人が夫婦になったことをオルガ帝国皇帝、サーディス・エリシャ・ケト・オルガが認める」
感慨の欠片もない、冷たく素っ気ない声が熱の消え失せた空気を揺らす。声の主は謁見の間の奥、他よりも数段高い場所にある豪勢な椅子に腰かけている。気怠そうに頬杖をつき、長い足を無作法に投げ出しているのに、人の目を惹く華と気品があった。
年の頃は三十後半。ルーティエの父よりも大分若い、一見すると青年にも見える男は、黒を基調とした高級そうな服をまとっている。派手ではないが豪華な宝飾品も身に着けていた。肩の辺りまで伸びた黒髪に、無機質な光を宿す切れ長の黒い瞳。そして、氷のごとき冷たい表情が刻まれた端整な顔立ち。
(オルガ帝国の皇帝、サーディス。フロレラーラ王国の平穏を壊した、私の最も憎むべき相手……!)
ぎりっと、奥歯を噛み締めた音が鳴る。
はいと答えることも、頷くこともなく、サーディスの一言でルーティエと相手との婚姻は簡単に、呆気なく結ばれる。この先一生寄り添って人生を歩む夫婦になるはずなのに、二人の意思など完全に無視されている。
いや、初めから今回の結婚自体が単なる形だけのものでしかない。オルガ帝国がフロレラーラ王国を支配するための口実であり、王国の反逆を防ぐための人質を作るためでもあり。それがこの政略結婚のすべてである。
そもそも、ルーティエは夫となる人物のことを何も知らない。ちらりと視線だけ動かして横を見れば、ルーティエよりもほんのわずかに高い身長に、華奢な体躯をした人物の姿がある。
黒いマントを背に流し、飾り気のない黒い上着とズボン、ブーツを身に着けている。長く伸びた艶やかな黒髪は右耳の下で無造作に結ばれていた。真っ黒な、カラスを思わせる風貌だが、何よりも目立っているのは顔に着けられた仮面だった。
模様も飾りもない白い仮面が、顔の上半分を覆い隠してしまっている。両目の部分には穴が開いているが、瞳を見ることはできなかった。唯一顔の中で判別できるのは、細くとがった顎と薄く整った唇だけ、それ以外はまったくわからない。
(自分の夫の顔も見たことがないなんて、ね)
ルーティエは心の中で嘲笑をこぼした。とはいえ、相手の顔を見たいわけではない。たとえ見たところで、ルーティエが何かを感じることはないだろう。
むしろ顔が見えなくてよかったのかもしれない。この男もまた憎むべき相手、敵でしかない帝国の人間の一人なのだから、顔が見えない方が過ごしやすい。万が一にも、相手に情など湧くはずもないが。
(こんな無意味で趣味の悪い結婚式、早く終わってしまえばいい)
にこりとも微笑まず、硬い無表情を刻んでいたルーティエに、全身を凍らせるような絶対零度の声が突き刺さってくる。
「ルーティエ・フロレラーラ、いや、ルーティエ・エリシャ・ノア・オルガ。今日からそなたはオルガ帝国の皇族の一員だ。その立場をわきまえた行動をしろ」
威厳のある低い声に、ルーティエは視線だけを返す。値踏みするような冷たい目が注がれている。
「立場をわきまえた行動というのは、人質であることを常に忘れるな、という忠告でしょうか?」
「花を愛する国の王族だからと心配していたが、どうやらその頭の中までお綺麗な花で埋め尽くされてはいないようだな。そなたの考えている通り、フロレラーラ王国の人間がオルガ帝国に歯向かう行動をすれば、人質であるそなたの命はない」
「そして、私がオルガ帝国や皇帝であるあなたに害をなす行動をすれば、王国に残してきた家族や民を処刑する、ということですね」
サーディスの口の端が、ほんのわずかに歪む。それが答えだった。
ルーティエの手は無意識のうちにブーケを握りしめていた。ぐしゃっと潰れる音に、花の声なき悲鳴が混じっている気がしたが、手の力が抜けることはない。
(たとえ刺し違えることになったとしても、この男を殺すことができれば……!)
だが、もし失敗した場合、属領として支配されている王国の民の立場はより一層悪いものになる。殺すのならば、確実に遂行しなければならない。
放たれる威圧感に負けないよう、また奥歯を強く噛み締めて睨み返す。
たとえ政略結婚で帝国の一員となろうとも、自分の心は愛するフロレラーラ王国の一員のままだ。絶対に心だけは屈しはしないと、ルーティエは弱気になりそうな己を何度も𠮟咤する。
無言で睨み合うこと数秒、ふっとサーディスが小馬鹿にしたような吐息をもらす。たかが小娘が。傲慢な皇帝がそう考えていることは容易に理解できた。
いくらルーティエが歯向かおうとも、サーディスは脅威すら感じはしないだろう。目障りになれば殺すだけ。たとえこの婚姻でサーディスの義理の娘になろうとも、そんなことはまったく気にせずに手を下すことは明らかだ。
事実、サーディスは自らに長く仕えた側近でさえも、表情一つ変えずに処刑したことが何度もあるらしい。彼の機嫌をそこねれば、どれほど有能な人物でも簡単に殺されてしまうのだろう。
「さて、せっかくの機会だ。フロレラーラ王国の王族のみが使えるという能力で、このバラの花を咲かせてみるがいい」
白バラが一本、ルーティエの足元に向かって投げつけられる。固い蕾の状態のバラを一瞥し、すぐに拒否しようと口を開いたところである考えが頭を過った。
今ここで、ルーティエが全身全霊で、持てる力のすべてを使って歌ったらどうなるのだろう。フロレラーラ王国の歴史の中でもごくわずか、数える程度の王族にだけ現れる『女神返り』と呼ばれるほど強い能力ならば、サーディスを、いや、この場にいる全員を確実に消すことができるのではないだろうか。
「どうした? 『花を咲かせる』という王族の歌は、王国では式典の折々に披露されるほど素晴らしいものなのだろう? まさか、花の一本も咲かせられないのか?」
嘲笑するようなサーディスの言葉に、周囲の人間からも失笑がこぼれる。ルーティエだけでなく家族を、これまでの王族すべてを嘲笑うかのごとき言動に、わずかに開いたルーティエの唇が震える。
「ああ、それとも、この私の命令に従うことはできない、ということか?」
強い能力は周囲の人間だけでなく、自分自身をも容易に傷つける。必ず悪いことに利用される。だから、普段は決して表には出さず、秘密にしていなければならない。幾度となく繰り返された両親の声が頭に蘇り、すぐさま溶けて消えていった。
どうなろうと構わない。もう自分には幸福な未来なんて絶対に来ないのだから、ここで何もかも破壊しても問題ないはずだ。むしろ、きっとこのときのために、ルーティエには他の王族よりも強い能力が与えられたのだろう。
喉の奥底から熱く、どす黒い感情が湧き上がってくる。衝動のままルーティエが歌を紡ごうとしたそのとき、涼やかな音色が謁見の間に広がる。
「失礼ながら、皇帝陛下。我が妻は連日の忙しさで、心身共に非常に疲れております」
声はルーティエの隣に立つ人物のものだった。声音にはまだ幾分幼さが残ってはいるものの、口調には子どもっぽさなどみじんもない。
「どうか陛下の寛大なお心にて、本日は早めに休ませていただけないでしょうか?」
淡白で静かな口調だが、そこには確かに威厳と高貴さがにじんでいる。
淡々とした声は、頭に血が上っていたルーティエの気勢を殺ぐものだった。歌声の代わりに吐息がこぼれ、全身から力が抜けていく。
わずかなりとも冷静さを取り戻すと、軽はずみな行動を取ろうとしていた自分自身に対する怒りが生まれてきた。家族や国民のためにも、この場限りの衝動に駆られた行動を取るのではなく、もっと先のことまで考えなければならない。
──自分の軽率な考えで、大事な人を傷つけるようなことはもうしたくない。絶対に。
サーディスはどこかつまらなそうにふんと鼻を鳴らす。そこには怒りも何もなく、すでにルーティエから興味が失われていることを感じた。
残酷で無慈悲、空虚で冷酷、熱しやすく冷めやすい。それがフロレラーラ王国内でささやかれていたサーディスという名の皇帝の噂だった。
「私の四番目、最後の息子であるユリウス・エリシャ・ノア・オルガよ、自分の妻の手綱をしっかりと握っておけ。その娘が私に反抗したときは、そなたの立場も危うくなると思え」
「はい、わかっております。彼女がこの国や陛下に害があると判断すれば、自分が適切に対処します」
仮面を着けた横顔からも、澄んだ声からも、自らの夫となった人物が何を考えているのかを察することはできなかった。皇帝を敬った言葉を紡ぎながらも、そこには媚びるような色は見て取れない。
「ですが、相手はこの帝国では後ろ盾もない娘一人。陛下が危惧されるような事態にはならないかと思います」
皇帝に反抗的ではないが、従順でもない。自らの意思を感じさせる言葉だった。
「何事にも慎重なそなたにしては、随分と楽観的な考えだな」
「彼女の状況や立場から慎重に判断したつもりです。では、御前を失礼いたします」
深く腰を折って丁寧に、洗練された優雅な一礼をサーディスへと向けた後、真っ黒な服装の相手はルーティエの腕を軽く掴むと、謁見の間を出るべく足早に扉へと向かう。
掴まれた腕を振り払いたい衝動に駆られたものの、それよりも一刻も早くサーディスから離れたいという気持ちの方が強かった。ルーティエは腕を引かれるがまま、足早に彼の後に続く。
全身が重苦しくて一歩を踏み出すのも重労働だったのは、無駄に重いドレスのせいだけではなかったのだろう。背後で重厚な扉が閉まる音を聞いた瞬間、一気に緊張の糸がほどけてその場に座り込みそうになったが、腕を引く強い力に支えられて歩き続ける。
宮殿の廊下を無言で進むこと数分。人気のない場所で足を止めた相手は、ルーティエの腕を離すと白い仮面越しに視線を注いでくる。警戒心が湧き上がる。
「現在のあなたがどれほどの能力を持っているのか、正確なところは俺にはわかりません。ですが、あなたは『女神返り』と呼ばれるほど王族の中でも強い能力の持ち主。いえ、女性の場合は『花姫』と呼ばれると聞きました」
ルーティエは目を見開いた。どうしてと、驚愕で息を吞む。
家族以外では、レイノールしか知らないことだった。慎重に秘密にし続けてきたことを、何故オルガ帝国の人間が知っているのだろうか。
「フロレラーラ王国を守護する女神フローティアは、特に女性に強い加護を与えることが多いという話も耳にしています。だとすれば、『花姫』であるあなたの能力は非常に強いものだと予想できます」
驚くルーティエのことなど気にかけた様子もなく、相手は平坦な声を紡ぐ。そこにはルーティエに対する情など一切ない。
「これは助言であり、忠告です。この国で平穏に暮らしていきたいのならば、人前ではあなたの能力は決して使わない方がいい」
言うべきことだけを告げて去ろうとした相手を、とっさに引き留めようとした。しかし、意思に反して言葉が出てこない。そんなルーティエを一見し、相手は真っ直ぐに手を伸ばしてくる。
反射的に身を竦めたルーティエの手から、意外なほど優しい手付きでブーケが抜き取られる。
「あなたにとってはすべてが気に入らないことでしょう。ただ、花に罪はない」
言われて、ようやくルーティエは気付いた。ずっと強く握りしめ続けていたせいで、百合とバラはすっかりしおれ、力なく体を傾けている。その姿はとても悲しそうに見えた。
「ここで少し待っていてください。侍女に部屋まで案内させます」
マントを翻し、相手は足早に立ち去ってしまう。一人残されたルーティエは、空っぽになった手に視線を落とす。
「花に罪はない……そんな当たり前のことに、私は全然気が付かなかった」
抑揚のない、疲れ切った声がもれる。ルーティエの全身を覆う重苦しさが、より一層強くなった気がした。
「私は花の王国と呼ばれる場所で、ずっと花と共に育ってきたのに」
言われるまで、握りしめていたブーケのことなど頭から完全に抜け落ちてしまっていた。気にする余裕などないと思う反面、気にしなかった自分が嫌になる。
たとえ敵国でも、花を愛する心を忘れるようなことはしたくない。
わずかに廊下に残った甘い花の香りに、目の奥が熱くなった。瞳からは涙が、喉からは嗚咽がもれそうになったが、必死に我慢する。
弱みは見せたくなかった。ここにいるのはルーティエにとって敵だけなのだから、弱い部分は絶対に見せたくない。
この先ルーティエが進む道は、バラのトゲよりも更に鋭いトゲで覆われた道のりになる。幸せなど欠片もない。憎しみと苦しみ、悲しみであふれた茨の道になるのだろう。
御年十六歳、ルーティエよりも一歳若いオルガ帝国の第四皇子、ユリウス・エリシャ・ノア・オルガという青年と少年の狭間にいる相手が、夫になった人だ。
父である国王から何度も何度も謝罪されながら「政略結婚をして欲しい」と告げられ、ほとんど着の身着のままの状態でフロレラーラ王国の王宮からオルガ帝国の宮殿へと連れて来られた。そして、口を挟む間もなく結婚式の準備が進められ、今日の午前中に名も知らない高官から「この方が結婚のお相手です」と紹介された経緯がある。
オルガ帝国の皇帝には四人の息子がいる。ユリウスは末の皇子で、聞いた話によると彼だけが皇后の子どもではなく、側室の子どもらしい。それならば今回ルーティエの結婚相手として選ばれたのも納得できる。
支配下に置いた国との政略結婚なのだから、息子の中で最も皇位が低く、なおかつ価値がないとサーディスが考えているユリウスという人物が選ばれたのだと想像できる。
綺麗に結い上げられていた薄紅色の髪をほどき、湯浴みをして濃い化粧を落とす。飾り気のない白い夜着に身を包んだルーティエがいる場所は、宮殿の三階、南側の一番端に用意された部屋で、そこが本日をもって夫婦となったルーティエたちの居室になる。
広い室内には何不自由なく調度品が調えられていた。淡い色で統一された家具や小物の数々は、どれも派手ではないが品がある。室内に設置されたランプが、柔らかな橙色を放っている。寝室の中央には、半透明の布が天井から垂れ下がった天蓋付きの大きなベッドがあった。
ルーティエはベッドの脇、光沢を放つ青色のカーテンで覆われた窓の傍にある椅子に腰かけ、深く重い息を吐き出す。
これから行われること、初夜の儀式に当たる行為のことを考えると、頭痛と同時に寒気がした。鳥肌が立った両腕を、自分自身を抱きしめるように体に回す。
(逃げたい、でも、逃げられない。逃げることは許されない。家族のために……フロレラーラ王国の民のために)
これはルーティエの王族としての義務だ。自分勝手な行動はできない。もしルーティエが衝動のまま逃げ出せば、きっと家族たちは更にひどい扱いを受けることになる。
ぎゅっと両目を閉じた瞬間、耳に届いたのは寝室の扉が開けられる音だった。それはルーティエにとって、死刑宣告のように聞こえてくる。
「で、私は新婚初夜のご夫婦の寝室で、何をすればよろしいのでしょうか?」
意を決して目を開けたルーティエの耳に飛び込んできたのは、想像とは違う声、幾分低めの若い女性の声だった。
「ああ、わかりました。お二人の気分が盛り上がるように歌を歌えばよろしいんですか、そうですか」
淡々として流暢な、しかし温かみの感じられる声が早口に言葉を紡ぐ。
「フロレラーラ王国の王族の方々は、花を咲かせるというとても美しい歌を紡がれると聞いております。そのようなお方の前で披露するのは少々気後れする部分もございますが、ここは自信を持って私の最高の一曲を歌わせていただきましょう」
息をする間もなく、次々に放たれる言葉の数々に、ルーティエは目を瞬く。思いがけない声にきょとんとするルーティエの視界には、扉を潜り寝室の中へと入ってきた二人の人物の姿があった。
「いや、君にそんなことは求めていない、アーリアナ。俺が一人で寝室に入ると彼女が怯えてしまうと思ったから、君に付いてきてもらっただけだ」
次に聞こえてきたのは覚えのある声だった。それはルーティエが予想していた人物、ユリウスの声だったが、穏やかさに満ちた声音を聞くのは初めてだった。ルーティエが耳にしてきたのは、どれも無機的な声で、感情の色などほとんど感じられなかった。
別の意味で驚くルーティエの視線の先で、使用人の服装、紺色のワンピースに白いエプロンを身に着けた侍女と思しき女性が、平淡な口調で答える。
「まあ、優秀な侍女としてはこのまま何もせずに下がるわけには参りません。大丈夫です、長いお付き合いのございますユリウス様のためですから、特別に代金はいただきません。ええ、特別に」
「アーリアナの歌はまったくもって、これっぽっちも必要ないが、特別じゃなかった場合は君の歌に代金を支払わないといけないのか? 君の歌に?」
冗談じゃないと、うんざりした口調が続く。仮面で表情がわからなくても、その声音だけでユリウスが辟易していることは容易に察することができる。
「もちろん冗談ではなく本気であり、当然のことでございます。歌は侍女としての仕事に含まれません。であれば、代金を請求するのが正当でございます。ただ、今回だけは無料で素晴らしい歌を披露いたしましょう」
口調は丁寧で、主人に対する敬意も存在している。だが、温かく親しみのある空気、まるで仲の良い友人同士のような気軽さも感じられた。
「ユリウス様の大切な初夜でございますから、乳母であった母の分も私が心を込めて歓喜の歌を歌わせていただきます」
侍女は女性にしては高い身長に、黒髪を頭の上でまとめて結い上げ、やや吊り上がった目元が印象的な綺麗な顔立ちをしている。年齢は二十代前半だろうか。にっこりともしない無表情は人形のように見えるが、朗々と放たれる言葉がそんな人形的な雰囲気を良い意味で壊している。
茶器が載せられた銀のトレーを持つ侍女の隣に並び、ユリウスは小さく首を横に振る。仮面で見えないが眉間にはしわが寄せられているように思えた。事実、彼の右手は自らのこめかみに添えられている。
「もういい、ありがとう。君は下がってくれて構わない」
「そういうわけには参りません。私はまだ何もしておりません」
あくまでも無表情を貫く侍女に対して、主人の方は疲れ切った弱々しい声になってきている。
「いや、何もしなくていい。むしろ何もしないでくれ、頼むから。その茶器を置いて下がってくれないか。今すぐに」
君がいると落ち着いて話ができないと、ユリウスはどこかげんなりとした様子で言った。サーディス同様冷酷で感情のない人物だと思っていたのだが、侍女と接する姿には人間らしい温かみがある。
(いえ、温かみというよりも、にじみ出る苦労人の気配というか……。それにしても、随分と個性的な侍女がいるのね)
侍女を観察してしまっていたルーティエの傍に、茶器をテーブルに置いた彼女が足早に近付いてくる。思わず身構えたルーティエの顔をまじまじと見つめた後、侍女はユリウスを振り返る。
「見たところルーティエ様は具合が悪そうです。ここはやはり私の素晴らしい歌を披露して、元気付けるべきだと思います」
「むしろ君がこのままいる方が、間違いなく彼女の具合がより一層悪くなりそうだ」
「大丈夫でございます、心配はいりません。私の歌声を聴けば、誰でもころっと深い眠りに落ちることができます」
「いやいや、それは眠るんじゃなくて気絶するってことだろう。ああ、仕方がない」
何を言っても出て行きそうにない侍女の姿に、ユリウスはテーブルの上に置かれていた小さな呼び鈴を手にした。軽く揺らすと、ちりんちりんと可愛らしい音が響く。
「お呼びですか、ユリウス皇子」
ほどなくして開いたままの寝室の扉の外から声が放たれる。淡々とした低い声は、男性のものだった。
「遅くに呼び出してすまない、クレスト。手間をかけさせて非常に悪いんだが、早急に君の姉であるアーリアナをこの居室の外に連れて行ってもらえないか?」
ユリウスが扉の外に声をかけると、「失礼します」という一言の後、一人の男が寝室へと足を踏み入れる。
ユリウスよりも頭一つ分ほど背が高く、服の上からでも鍛えられていることがわかるがっしりとした体躯の人物だ。年の頃は二十前後。精悍な顔立ちには無表情が刻まれている。平時の簡素な兵士の服装に、腰には一振りの剣が備えられていた。ユリウスの護衛役だろうか。
クレストと呼ばれた兵士は大股で侍女に近付くと、問答無用で彼女の襟首を後ろから掴む。そして、ルーティエが驚く間もなく、「不出来な姉が失礼いたしました」という言葉を残し、まるで荷物を引きずるかのごとくずるずると侍女の体を引っ張り、寝室の外へと出て行った。
優秀な姉に対して敬意を払いなさい、不出来な身内に払う敬意はない、といった口論を残し、二つの声は遠ざかっていく。ばたんと遠くから聞こえてきた音からすると、ルーティエたちの居室から出ていったようだ。
寝室を含めて、部屋の中は一気に静寂によって包まれていく。嵐のごとき騒がしさに呆然としていたルーティエへと、テーブルを挟んだ位置に立ったユリウスが声をかけてくる。
「騒がしくして申し訳ありません、ルーティエ王女。彼女、アーリアナは俺が幼い頃から仕えてくれている侍女なのですが、人の話を聞かずにぺらぺらと際限なく喋るのが欠点でして。ですが、ああ見えて侍女としてはとても優秀な人物ですし、信頼もできる人間です。もし何かあれば気軽に彼女に申しつけてください」
ようやく静かになった寝室に、苦笑混じりの声が響く。一連の出来事に呆気に取られてしまっていたルーティエは、かけられた声に「はあ」と曖昧に頷いた。
予想もしない不意打ちを食らったせいか、つい先ほどまで全身を包んでいた気持ち悪さは完全に吹き飛んでしまっていた。ぼんやりと二人が出て行った方向を眺める。
「それから、アーリアナの弟であるクレストは、俺の護衛を担ってもらっていたのですが、本日をもってルーティエ王女の護衛役に就かせました。姉と違って口数が少なく、取っつきにくい雰囲気のある男ですが、剣術の腕は帝国一と言っても過言ではありません。ですから、どうか安心してこの宮殿で過ごしてください」
再びルーティエの口からは「はあ」という曖昧な声がもれる。毒気を抜かれる、というのは今の状態のことを指すのかもしれない。目の前の人物に抱いていたはずの敵意さえも、ルーティエの中から消えていた。
「もしよければ、ハーブティーを飲みませんか? 温かい物を飲んで落ち着けば、少しは気分もよくなるんじゃないかと思いますが」
ここ数日は色々なことが忙しなく立て込んで大変だったでしょうと、ユリウスの整った口からはルーティエを気遣う言葉が続けられる。ただし彼の声からは侍女と接していたときのような温かみは消え失せ、常の事務的なものに戻っていた。
わずかに迷った後、ルーティエは小さく首を縦に動かした。そんなものは必要ないときっぱり断ろうと思ったのだが、強烈な侍女の登場で頭が混乱している上、疲労で覆われた体は温かな飲み物が欲しいと訴えている。
ユリウスは無言で頷き、テーブルの上に置かれた茶器を使ってお茶を淹れ始める。皇子という立場ゆえ、本来ならばお茶は常に侍女に淹れてもらう側で、自分で淹れることなどほとんどないはずだ。だが、目の前のユリウスの手付きは危なげのない、優雅で手慣れたものだった。
茶葉を温めておいたティーポットに入れる手付き、沸騰したお湯を注ぐ手付き、蒸らす間にカップを温めておく手付き。ごつごつとした武骨な手なのだが、思わず見とれてしまうほど綺麗な動きをしている。
茶葉を蒸らし終えた後、カップにお茶を注ぎ、仕上げにはちみつを一滴落とす。鼻に届くのは甘いはちみつと爽やかなリンゴの香り。ほんのかすかにだがラベンダーの優しい香りも感じられる。
どうぞと目の前に差し出された白地に花の模様が施されたカップを手に取り、ルーティエは素直に一口飲んだ。
「──おいしい」
温かな液体をゆっくりと嚥下し、一息吐き出したルーティエの口からは自然とその一言がもれていた。適度な温もりのお茶が冷え切っていた全身を包み込み、緊張でがちがちに強張っていた体からゆっくりと重荷が取り除かれていく。
口中に広がる優しいカモミールの風味と、甘すぎないはちみつの味、後味は香ばしくすっきりとしている。普段はハーブティーよりも紅茶を口にすることが多いルーティエでも、癖のないこのハーブティーはとても飲みやすく、おいしく感じられた。
「お口に合ったようでよかったです。自分がブレンドしたものですが、ハーブティーが苦手な方も多いですから」
手元のカップの中、薄茶色の液体に視線を落としていたルーティエは顔を上げる。
「あなたがご自分で茶葉をブレンドしたんですか?」
「はい。アーリアナにはいつも嫌な顔をされますが、彼女に任せると非常に個性的かつ独特で、到底飲めない代物になってしまいますので」
「先ほどの侍女は茶葉の扱い方が下手で、紅茶をおいしく淹れることができない、ということですか?」
「いえ、先に述べた通り、アーリアナは一応優秀な侍女ではありますから、紅茶を淹れるのはもちろん、茶葉のブレンドも完璧にできます。が、あのような性格の人間ですから、まあ、型通りの平凡なやり方は気に入らないようでして、結果ひどいことに」
ごにょごにょと続く言葉の歯切れが悪くなる。呆れを含んだ口調ではあるが、それでも怒りや嫌悪の感情はない。
ユリウスは崩してしまった調子を取り戻すように、小さく咳払いをする。
「申し訳ございません、不要な話をしました。繰り返しになりますが、仕事はできる侍女ですので安心してください。あらかじめ用意してある茶葉を使わせれば、問題なくおいしい紅茶を淹れることもできます」
アーリアナという侍女と接したのはほんの数分だが、それでも彼女が好き勝手に作ればかなり個性的なハーブティーになるだろうことは容易に想像できる。ぜひとも飲むことは遠慮したい。
「弟もハーブティーが好きで、よく自分でブレンドしていました」
再び視線を戻した薄茶色の液面に、弟の姿が浮かぶ。ルー姉様、新しいブレンドができたから飲んでみてと、にこにこと笑う弟を思い出し、ルーティエの心は穏やかになっていく。家族の存在が、ルーティエにとって一番の支えだった。
「イネース・フロレラーラ王子ですか。王国内で接したのはほんの少しだけでしたが、あなたのことをとても慕っているのはよくわかりました」
イネースは最後の最後までルーティエとユリウスの政略結婚に反対し、ルーティエがオルガ帝国に行くことを阻止しようと奮闘していた。もちろんイネースの気持ちは嬉しかったが、最終的にはルーティエ自身も納得してオルガ帝国に来た。それが最善だと思った。
だが、イネースは決して納得しなかった。ルーティエがユリウスと共にオルガ帝国に旅立つ際、激しく暴れて父や兄に押さえ込まれつつ、呪詛のように吐き出した声が耳に蘇る。
──僕は絶対に認めない! こんな結婚も、オルガ帝国の支配も、絶対に僕は許さない! 姉様や民の幸せは、僕が必ず守ってみせる! どんな手を使っても、絶対に!
普段は素直で明るいイネースの、ぎらぎらとした鋭い瞳が忘れられない。何かおかしなことをしでかさないかと不安になるが、父たちがちゃんと見守ってくれているだろう。
「幼い頃から真っ直ぐで快活な子なんです。姉想いのとても優しい子で」
そうですかと、単調な相槌が戻ってくる。興味があるのかないのか、声だけではわからない。ちらりと視線を向ければ、慣れた手付きで使い終わった茶器を片付けている姿があった。白い仮面がランプに照らされて淡い橙色に染まっている。
ユリウスという皇子の人となりを、ルーティエはまだまったく掴めずにいる。皇帝を含め、他の三人の皇子は悪い噂がフロレラーラ王国でもよく流れていたのだが、ユリウスという四番目の皇子に関してだけは噂というほどの噂を聞いたことがない。
正直なところ、ルーティエはユリウスの存在を今回の結婚に至るまでまったく知らなかった。皇帝の息子はてっきり三人だけだと思っていた。噂に上らないほど無能な人物なのか、あるいは他の皇族や貴族に嫌われているのだろうか。
答えはわからない。聞くつもりもなかった。相手のことなど知らなくても、政略結婚で結ばれた形だけの夫婦生活は保っていけるだろう。
もう一口ハーブティーを飲んだルーティエは、口の中に広がる味にもしかしてと唇を開いた。
「この香ばしい風味……タンポポ、ですか?」
「お察しの通り、タンポポの葉と根を乾燥させて、刻んだものを加えています。タンポポには疲労回復や血行促進の効果があると言われていますから」
バラのような豪勢さや、百合のような高貴さはないかもしれない。けれど、温かな黄色い花は心を明るくしてくれる。タンポポは、フロレラーラ王国の各地に自生していた。道端に、庭の片隅に、そして──山や草原の中に。
ふと、ルーティエの脳裏にタンポポ畑の光景が浮かぶ。幼い頃によく遊んだタンポポ畑があった。見渡す限り鮮やかな黄色に染められた風景。しかし、あの美しい場所はもう存在していない。他でもないルーティエ自身が壊してしまったのだから。
思い出した景色に、不意に誰か、幼い子どもの小さな人影が浮かび上がってくる。
(そういえば、あの場所で誰かとよく一緒にいたような気がするわ)
共に遊びにいくことが多かったレイノールか、どこに行くにも大抵後ろを付いてきたイネースか。高熱を出して数日間寝込んだせいか、思い出そうとしても当時の記憶は曖昧になってしまっていた。
(……レイ。彼は今、何をしているのかしら)
オルガ帝国の兵士の目を盗み、無事にフロレラーラ王国内からアレシュ王国に帰国できたことだけは兄の口から聞いていた。しかし、その後どうなったのかはわからない。
ユリウスと結婚したことを彼は知っているのだろうか。知っているとしたら、どう思っているのだろう。もう結婚することは敵わないと考え、ルーティエのことなど気にしていないだろうか。いや、そんなことはありえない。レイノールという人は、そんな人じゃない。
ルーティエが実の兄のように慕っていた人だ。教会での別れ際に告げてくれたように、きっとフロレラーラ王国を助けるために動いてくれる。そう信じたい。
「もう一杯いかがですか?」
耳に入ってきた声に、自らの思考に深く沈んでいたルーティエははっと意識を取り戻す。視線を向ければ白い仮面が見えた。
形式的には彼は今日家族になった相手だが、ルーティエにとっての家族はフロレラーラ王国にいる両親と兄弟だけ。穏やかになっていた心がまた波立っていく。
形ばかりの夫婦になったとはいえ、目の前にいる人物は敵に違いない。相手がどんな人となりであろうとも、そんなことはルーティエには関係なかった。重要なのはオルガ帝国の一員だということ。フロレラーラ王国を暴力で支配した国の一員だということ。
(──そうだ、目の前にいる男は敵。自分の、フロレラーラ王国に暮らす全員の敵)
ここでようやく、ルーティエは正常な思考を取り戻す。そもそも目の前にいる人物は、親しい人間しか知らないはずのルーティエの秘密を知っている時点で、他の誰よりも用心しなければならない相手だろう。たとえほんの少しとはいえ警戒心を緩めるなんてあってはならない。
いつの間にか空になっていたカップはテーブルの上に戻す。口の中に残った優しい味は、意図的に無視した。
「いえ、もう結構です。それにしても、ユリウス様はこのような初夜の場でも、その仮面を外してはくださらないのですか?」
夫婦としての営みなど、もちろんしたいとは思っていない。知識としてはあるが、知らない相手、むしろ憎んでいる相手に抱きしめられるなど嫌でたまらない。
(でも、それがここにいる私のやるべきことだから)
再び震えそうになる体を押し止め、ルーティエは努めて平静を装う。
「お互いに望まぬ結婚とはいえ、一応私はあなたの妻になった身。素顔を見せてくださらないのは、あまりにも失礼ではありませんか?」
よくよく観察してみると、黒いマントを外してはいるが、ユリウスの服装は寝るようなものではなく通常のままだった。
「申し訳ありません。本来ならば仮面を外して素顔を見せるべきなのですが、幼い時分からずっと身に着けており、人と対峙するときは必要不可欠なものとなっています。失礼ながら今後も仮面を着けたまま接することをお許しください」
ゆっくりと、丁寧に頭を下げるユリウス。夫という立場で、しかも支配する側の皇子であるにもかかわらず、ユリウスの口調も仕草もルーティエを『王女』として敬うもので、見下すような素振りは欠片ほども見せない。だが、見下す気配がない代わりに、親身な様子もなかった。
彼のルーティエに対する態度は、一貫して冷淡で事務的、明らかに距離を置いたものだった。客人扱い、という言い方が最も適しているだろう。
「それから、しばらく、いえ、今後ずっと、俺は隣の部屋にあるソファーで寝起きをします。ですから、この寝室はルーティエ王女が好きに使ってください。明日以降は無断でここに足を踏み入れませんし、それでも不安ならば内側から鍵をかけて過ごしてください」
え? という疑問の声は音にはならなかった。目をぱちくりと瞬かせるルーティエの様子に気付いているのかいないのか、ユリウスはこちらに背を向けると扉に向かって歩き出す。
「今後絶対に、俺はあなたには触れません。フロレラーラ王国の花の女神、フローティアに誓って、絶対に」
背中を向けているので表情はわからない。いや、たとえ向き合っていたとしても、仮面ゆえにユリウスの表情を見て取ることはできなかっただろう。
扉が閉まる静かな音が響き渡る。扉を隔てた向こう側でユリウスが何をしているのか、かすかな音すら聞こえないのでわからなかった。この寝室はしっかりと防音設備が整えられているらしい。
新婚の初夜、やるべきことを放棄した上に、新妻を残して寝室を後にした夫。その真意はわからなかった。一人残されたルーティエは寝室の扉を呆然と眺めてしまったが、頭の片隅では当然のことなのかもしれないと思う。
ルーティエにとって彼が知らない相手なのと同じように、ユリウスにとってもルーティエは数度顔を合わせただけの間柄。そもそも父である皇帝の命令によって、支配した国の王女と結婚させられたユリウスにだって、本来好意を抱いていた相手が他にいた可能性がある。
自分が今回の政略結婚の被害者ならば、彼だってそうなのかもしれない。
(……いや、違う! そんなことはない!)
ルーティエは首を横に振った。
椅子から立ち上がり、扉の鍵をかけてからベッドに移動する。力なく座り込んだルーティエの体を、柔らかな寝台はしっかりと受け止めてくれた。綺麗に整えられた寝台からは、特段何の香りもしない。
フロレラーラ王国ではどこにいても感じていた、甘くて優しい花の香り。オルガ帝国ではまったく感じることはなかった。この国で感じるのは鉄臭い、鼻を突く嫌な臭いだけで、生まれたときから傍にあった優しい香りはどこにもない。
(私は……一人だ。ひとりぼっち、誰も傍にいない)
この国の中に味方はいない。愛した花の姿さえ、その香りさえも感じられない暗く冷たい国の中で、ルーティエはたった一人で歩いて行かなければならない。
抑え込んでいた不安や悲しみ、苦しみが一気に胸の奥底からあふれ出てきた。一度外れてしまったたがはすぐには元に戻せない。瞳の奥が熱くなる。白い絹のシーツに、ぽたぽたと水の粒が落ちていく。
冷えた涙が、とめどなくルーティエの目からこぼれていく。
(誰もいない、家族も、レイも、民も……大好きな花すらここにはない)
嗚咽を口元に手を当てて抑え込む。いくら防音だといっても、大きな声で泣けば隣の部屋にいるユリウスに聞かれてしまうだろう。ほんの少しだけ残った王女としてのプライドが、帝国の人間に弱みを見せることを阻む。
(私は王女だから、フロレラーラ王国の王族だから。だから、弱音なんて吐けない、吐いちゃいけないってわかっているわ。でも、だけど──)
泣くのは今日だけにするから。次に朝日が空に昇ったら、もう二度とこんな弱い涙は流さないから。だから、今だけ、今だけはどうか許して欲しい。
(あそこに、フロレラーラ王国に帰りたい! みんながいる場所に、家族のいる場所に戻りたい! あの幸せだった日々に……!)
夜の帳が完全に世界を包み込んでいく中、ルーティエはただ一人嗚咽をもらし続けた。次から次に涙があふれ出て、白い夜着を濡らしていく。手の甲でいくら拭っても、涙は留まることなく流れ続ける。
支えてくれる相手も、慰めてくれる相手もいないルーティエにとって、ゆっくりと歩み寄る眠りの気配だけが、悲しみを和らげてくれるものだった。
がんがんと頭に響く鈍痛に、ルーティエは重い瞼を押し上げる。青いカーテンの隙間から差し込む強い光に目を細め、のろのろと寝台から体を起こした。
鈍痛は、思い切り泣き過ぎたことだけが原因ではない。扉を外から容赦なく叩く音も要因の一つだろう。
「おはようございます、起きていらっしゃいますか、ルーティエ様。失礼ながら時刻は間もなくお昼を迎えます。お疲れかもしれませんが、いい加減起きていただけませんか。じゃないと私の仕事が終わりません、非常に困ります」
扉を叩く音と大きな声とが合わさって、ルーティエの頭をずきずきと突き刺す。
「ルーティエ様、このままですと私は昼食を食べる時間がなくなってしまいます。非常事態です、一大事です。私は一食でもご飯を抜きますと力が出なくなり、いつもの半分以下の仕事しかできなくなってしまいます。ユリウス様や女官長にねちねちと怒られます」
頭は痛いし、瞳はごろごろするし、瞼は腫れぼったい。変な体勢で眠ったせいか、全身も痛かった。要するに最悪の目覚めであり、最悪の状態だと言える。
少しの間無視していれば、諦めて去ってくれるだろう。鍵はかけてあるので、無理矢理開けることはできないはずだ。
ベッドの端に腰かけ、こめかみに手を当てていたルーティエの耳に、驚くべき言葉が飛び込んでくる。
「あ、ちなみに扉を開けていただけなかった場合は、あと三十秒ほど経過したらぶち破らせていただきますのでご了承くださいませ。では、数えさせていただきます。三十、二十九、二十八」
淡々とした調子の声が、数字を数え始める。どんどん少なくなっていく数字。ルーティエは瞠目した。
(い、いやいや、まさか、そんな、ねえ)
扉をぶち破るなんて乱暴な真似を実行には移さないだろう。そもそもここは一応皇子と妃の寝室で、そこに何の許可もなく侍女が入り込むことなど普通に考えれば許されないことだった。
しかし、とルーティエは数字を数える声が聞こえてくる扉へと視線を向ける。
(……昨日のあの調子ならば、当たり前のように扉を壊してしまいそうな気もするわ)
いや、でも、いくらなんでもそこまで非常識な侍女ではないだろう。一応皇子付きの侍女だったのだから。
「さあ、残すところあと十秒です。これはもうぶち破ること決定でしょうか、楽しみです。では、九、八、七、六」
残り三秒を切ったところで、ルーティエは慌てて立ち上がり、急いで鍵を外して寝室の扉を開く。開けた瞬間、「あら、残念でございます」という声が聞こえたような気がしたものの、空耳ということにしておいた。
「おはようございます、ルーティエ様。とはいえもう時刻はお昼前でございますから、おはようございますという朝の挨拶は相応しくないかもしれませんが」
視線が合うと、にこりとも笑わない無表情が言葉を紡ぐ。ちくりとした嫌味が混ざっている気がしたものの、気付かない振りをする。
「ええと、おはよう、アーリアナ……さん」
立場的に侍女にさん付けなどもちろん必要ない。けれど、どうにも調子を崩される目の前の人物に対しては、呼び捨てにすることにも抵抗がある。
「アーリアナで結構でございます。お召し替えをお手伝いいたします。ですが、まずはそのひどい顔をどうにかする方が先ですか、当然ですね。ご安心ください、どんなに涙で瞼が腫れ上がり、シーツの跡が頬に付いているような状態でも、私の腕ならば綺麗に化粧して誤魔化せますから。むしろ通常よりも何割か増しで美しく見せられます」
ルーティエの頬が知らず引きつる。
鏡を見ていないので自分ではわからないが、もちろんルーティエだって大泣きした翌朝の顔が綺麗とはほど遠い状態であることはわかる。しかし、優秀な侍女ならば気付かない振りをしつつ、さりげなく手を貸してくれるべきじゃないのだろうか。
「化粧も着替えも自分でするから結構よ。顔を洗うためのお湯を持ってきてくれる?」
「はい、ただいまお持ちいたします。朝食、いえ、昼食と言うべき時間ではございますが、とりあえず朝食と言います。朝食はいかがいたしますか?」
「……軽いものを少しだけもらえるかしら」
「かしこまりました。では、パンとスープをご用意いたします」
あっさりとした返答を残し、アーリアナはすたすたと寝室を出ていく。ルーティエの口からは知らずため息がこぼれ落ちていた。
非常に個性的な侍女だと思った。フロレラーラ王国の王宮で働いてくれている侍女たちはルーティエに親愛の情を抱いていてくれていたが、それでも主と臣下という一線を越えることなく仕事をしていた。
本来ならば侍女を数名、加えて護衛の騎士も数名伴った状態で嫁ぐのだが、
「無駄な王国の人間を宮殿に入れるつもりはない」
というサーディスの一言によって、ルーティエは本当の意味でたった一人でこの国に来ることになってしまった。
いつもだったら朝は侍女が来る前に自分で起きて庭の花の手入れをし、大好きな甘いパンケーキの朝食を食べた後に兄と弟に会って。苦手な勉強の時間はたびたび抜け出して、代わりに庭師と花について語り合い、新しい花の交配を考えて。そんな代わり映えのしない穏やかな日々が、ルーティエのすべてだった。
たとえレイノールと結婚しても、その日々が大きく変わるようなことはなかっただろう。こんな風に変わることは、絶対に。
ルーティエは頭を大きく振る。泣くのは昨晩だけにすると誓った。もう弱気にはならない、涙も見せない。フロレラーラ王国の王女として、威厳を失うことなく一人でもこの国の中で生きていってみせる。それがルーティエに残された唯一の反抗だった。
フロレラーラ王国から持ってきた水色の簡素なドレスに着替え、アーリアナが用意したお湯で念入りに顔を洗う。腫れぼったい瞼を隠すためにいつもはしない化粧を入念に施したルーティエは、寝室の隣の部屋でかなり遅い朝食、いや、先ほどアーリアナが言ったようにすでに昼食と呼ぶべき代物を口にしていた。
パンと刻んだ野菜のスープは豪勢とはほど遠い食事ではあるが、帝国に来てからのさして食欲も湧かない状態にはちょうどよかった。ただ、スープの香辛料が少し強く感じられ、慣れない味に軽く眉をひそめてしまう。食べられないほどではないが、おいしいとも感じられなかった。
予想した通り室内にはすでにユリウスの姿はない。食事をするルーティエと、給仕をするアーリアナだけの部屋は、広いせいかとても寂しいものに感じられた。否、広さは関係ないのだろう。フロレラーラ王国の王宮にある自室もこんな感じだったが、それでも寂しいと感じることはなかった。
あそこにはいつだって誰かの笑顔があった。侍女の、使用人の、そして家族の。優しい笑顔と明るい笑い声に満ちていた。
黙々とパンを口に運んでいたルーティエは、テーブルの真ん中に飾られた花瓶へと何気なく視線を向けた。藍色の美しいガラス細工の花瓶には、高価な風貌にはあまり似つかわしくない花が飾られている。
弱々しく頭を垂れた黒い百合と濃い赤バラ。どこかで見たことのある花だと思い、パンを喉の奥に押し込みつつルーティエは花瓶を見つめる。考えること数十秒、ようやく思い出した。
「ねえ、アーリアナ、この花なんだけど……」
花瓶に生けられているのは、昨日の結婚式でルーティエが持っていたブーケの花だった。強く握ってしまったせいで大分しおれてしまっていたものの、花瓶に入れられて若干元気を取り戻したようにも見える。
結婚式後、ブーケはユリウスが持って行った。その花がここにあるということは、彼が飾ったということだろうか。
「もしかしてお気に召しませんか? それでしたらすぐに片付けますが」
淡々とそう言い、言葉通りすぐにでも花瓶を片付けてしまいそうなアーリアナに、ルーティエは慌てて口を開く。
「いえ、いいわ。そのまま飾っておいて」
かしこまりましたと答えるアーリアナの声が、不思議とほんの少しだけ明るい調子だった気がして、ルーティエは花瓶から彼女の顔へと視線を移す。しかし、そこには最初に見たとき同様感情のない面持ちがあるだけで、表情の変化は一切見て取れなかった。
気のせいだったのだろうと、再び花瓶の花に視線を戻す。結婚式のときは作り物めいた冷ややかな花に思えたのだが、不思議と花瓶の中で咲く姿は生き生きしているように感じられる。
花に罪はない。オルガ帝国の人間の言葉に素直に頷くのは気が進まないが、その通りだと思った。
バラと百合の花弁へと静かに手を伸ばし、乱暴にしてごめんねと心の中で呟く。かすかに漂う甘い香りが、声がなくてもルーティエのことを許してくれているように思えた。
頭の痛みも徐々に和らぎ、瞼の腫れぼったさも起きたときに比べると格段に良くなっていた。食欲があるにしろないにしろ、お腹に食べ物が入ると心身共に元気になれるらしい。
遅い朝食と花の姿で多少なりとも動く気力が湧き出てきたルーティエは、疑問に思っていたことをアーリアナへとぶつける。
「あの人……ユリウス様は何をしているの?」
「ユリウス様でしたら公務をされている時間かと思います。毎朝五時に起き、鍛錬をし、公務をこなし、その他諸々の雑務を片付け、夜の鍛錬を行い、勉学に励み、就寝。以上が基本的なユリウス様の一日です、面白味がまったくございません。もっと怠惰と笑いが必要だと思いませんか?」
いや、皇子の生活に怠惰と笑いは必要ないでしょう、という言葉は心の中だけに留め、ルーティエは「そう」と返事をする。
ユリウスが不在でほっとしたのも事実だが、同時にひどく虚しい気持ちにもなる。妻として何も求められていないのならば、一体この国で自分は何をすればいいのか。ただ人質としての役目を全うしていればいいのだろうか。
このまま周囲に流され続けていたら、状況は悪化の一途を辿るだけだとわかっている。だが、後ろ盾もなく味方も誰一人としていないルーティエが、フロレラーラ王国のためにできることなどあるとは思えない。むしろ、軽率な行動は逆に家族や民を苦しめることに繋がる可能性が高いだろう。
現状のまま何もせずに待ち続けていれば、いずれレイノールが助けに来てくれるかもしれない。フロレラーラ王国やアレシュ王国と同盟を結んでいる国々が、救いの手を差し伸べてくれるかもしれない。
(かもしれない、かもしれない、か)
ルーティエは手にしていたスプーンをテーブルの上に置き、ため息を一つ吐いた。すべて仮定の話だ。確実な話は何一つとしてない。
「パンとスープのおかわりはいかがですか? ご希望があればクッキーやケーキといった食後のデザートも用意することができます。ちなみに私のお薦めは料理長お手製の木の実のパイです。あれならばぺろりと一皿いけます、いかがですか?」
ルーティエに薦めているというよりも、自分で食べたいからルーティエの命令という形で料理長に作らせようとしている。ような気がする。ものすごく短い付き合いのはずなのに、何故だか察することができてしまう。
呆れが半分、けれどもう半分は良い意味で肩の力が抜けた気がする。ルーティエは無表情のままだがどこか瞳がきらきらとしているアーリアナを一瞥し、失笑混じりの返事をした。
「ありがとう。でも、食事もデザートももういいわ。お腹がいっぱいだから」
目に見えての大きな変化はなかったものの、「そうでございますか」と答える声には残念そうな響きが含まれているように感じられた。ちょっと可哀想なことをしてしまっただろうかと思いつつも、いやいや侍女だろうが使用人だろうが帝国の人間のことなど気にする必要はないと自分に言い聞かせる。
このアーリアナという侍女だって、ルーティエにとっては敵でしかないのだから。
(……そうだ。忘れちゃいけない。ここにいるのは、みんな私の敵なんだから)
敵、敵、敵。周囲にいるのは全員敵、信頼できる人物は誰一人としていない。そう考えると、せっかく浮上しかけた気分は再び下降していく。こんなことではダメだと、ルーティエは椅子から立ち上がった。
「それでは食器を片付けます。ルーティエ様の今日のご予定はお決まりでしたでしょうか? ご要望がございましたら、できるだけ叶えるようユリウス様からは申し付けられておりますので、できる限りのことは手配いたします。あまり面倒なことは避けていただけるとありがたい、なんて考えてはおりませんので、何でも仰ってくださいませ、どうぞ」
「……フロレラーラ王国にいる家族に手紙を書きたいの。便箋とペン、インクを用意してもらえるかしら」
もはや個性的を一気に通り越して、何と称すればいいのかわからない。意外にも食事の準備や片付けをする手際は素早く無駄がないので、ユリウスの言った通り侍女として優秀ではあるのかもしれないし、堅苦しいよりは彼女ぐらい変わっている方がいいのかもしれない。ものすごく好意的に捉えるとすれば。
ただ、ユリウスは人の話を聞かずに喋るところが彼女の欠点だと言っていたが、他にもたくさん欠点があるような気もする。彼女と話していると、幼い頃弟がくれたびっくり箱を開けている気分になる。
ルーティエはこめかみを押さえつつ、アーリアナに背を向けた。
「はい、かしこまりました。ですが、一つだけご忠告を。手紙の内容はすべて検閲されます。ですから、滅多なことは決して書かないようにお気を付けくださいませ」
ひやりとした響きを伴った声に、ルーティエは慌てて振り返る。視線の先には、食器を手にしたアーリアナがじっとこちらを見ている姿があった。
「あなた様がなさったことの責任は、すべて夫となったユリウス様が負うこととなります。それを常に念頭に置き、くれぐれもユリウス様の足を引っ張るような愚かな真似はなさらないでください。ユリウス様に害をなすと判断いたしましたら、私もそれなりの対処をさせていただくこととなりますので」
黒い瞳に冷たい光を宿し、射貫くような眼差しを向けてくる。無言で視線を交わすこと数秒、アーリアナは何もなかった様子で食器の片付けを再開させ、一礼をした後部屋から出て行ってしまった。
「……そんなこと、わかっているわ」
かすれた声が喉の奥から吐き出される。自然と、両手をきつく握りしめていた。
ユリウスは彼女が信頼できる人物だと言った。けれど、そんなことは不可能だった。信頼なんてできない、できるはずがない──この国の誰一人として。
あれほど泣いたはずなのに、瞳の奥には熱い塊が湧き出てくる。こんな弱い自分は大嫌いだった。もっと強くなりたい、ならなければいけない。フロレラーラ王国の人間なのだから、たった一人でも誇りを失わずに前を向いて生きていかなければならない。
しかし、意志とは反対に、心は暗いところをさ迷い続けている。自分がこんなに弱い人間だとは思わなかった。強くいられたのは、支えてくれる家族がいて、信頼できる人が傍にいて、ルーティエを決して傷つけない温かな場所だったからなのだと、今更ながらに痛感させられた。
ぎゅっと固く閉じた両目に映るのは、温かな花に囲まれた国の姿、優しく微笑む家族の姿だった。声にならない声で、大好きな家族の名を呼ぶ。もちろん答える声などありはしないとわかっている。
窓の外には薄い雲がかかった青空が広がっているのに、ルーティエの心の中には濁った灰色の暗雲がどすんと居座り続けている。その暗雲が消え去り、青空が広がる日はこの先永遠に来ないように思えた。