天窓で丸くくり抜かれた空には澄んだ青い色が広がり、開け放たれたままの窓から吹き込む風は優しく頬を撫でる。そして、耳に届くのは明るさに満ちた祝福の声。
今日という一日はルーティエ・フロレラーラにとって、間違いなく人生で一番の幸福と輝きに満ちた日となる。否、幸福と輝きに満ちた人生の、その始まりとなる日だ。
真っ白な壁で覆われた教会の中、両開きの扉から白地に灰色の波模様が刻まれた大理石の床が祭壇へと続いている。祭壇の上部には色とりどりの花をかたどったステンドグラスが飾られていた。柔らかな陽光が着色ガラスを通して降り注ぎ、すべてを祝福するかのごとくきらきらと光の粒を舞い散らしている。
ヴェール越しにステンドグラスを見上げていたルーティエは、鼻に届いた瑞々しく甘い香りに視線を手元へと落とした。自然、口紅が塗られた唇には笑みが刻まれる。
白と青、ルーティエが好きな色で作られた繊細で、とても美しいブーケ。兄と弟が半年以上も前から構想を練って作り上げてくれた世界でたった一つ、ルーティエのためだけのブーケだ。
もっとも綺麗に咲く頃を綿密に考えて作られたブーケは、頭や首元を飾っている宝石よりも更に美しい輝きを発している。束ねられた花々は温かな優しさをその身にまとい、緊張で強張っていたルーティエに穏やかさをもたらしてくれた。
ブーケ越しに視界へと入ってくるのは、この晴れ舞台のために両親が用意してくれたウェディングドレスだ。胴から足元まで幾重にも重なったフリルは、八重咲きの艶やかな白い花を髣髴とさせる。胸元には蔦を思わせる繊細な刺繍が施され、華美になり過ぎない絶妙な配分でビーズが埋め込まれており、腰には大きな白いリボンが付けられていた。長く伸びた背中側のスカートの裾には、白いバラがいくつも飾られている。
繊細で落ち着いた雰囲気を持つウェディングドレスを一目見た瞬間、ルーティエは思わず泣いてしまった。言葉などなくても、両親が自分のことをどれほど深く愛してくれているのか、容易に理解できたからだった。
我がことのように喜んでくれている貴族や高官といった参列者の人々、そしてここにはいないが、連日お祭り騒ぎで祝ってくれている国民。大勢の人々に祝福されたこの結婚は、間違いなく幸せに満ちたものになる。
「ルー」
すぐ隣から聞こえてきた声に、幸せを噛みしめていたルーティエは視線を横へ向ける。明るく、優しさに満ちた声の主。ルーティエのことを愛称の「ルー」という名で呼ぶ人物は、家族を除けば彼一人だけだった。
「レイ」
にっこりと笑って名を呼べば、隣に立つ白いタキシードに身を包んだ長身の相手、レイノールは、嬉しそうに目を細めて笑い返してくれる。金色の髪はステンドグラスから舞い落ちる光で輝いていた。強い意志を感じさせる瞳が印象的な顔には、いつもの少し子どもっぽい陽気な表情ではなく、優しさと喜びに満ちた笑みが浮かんでいる。
心から自分を愛してくれていることを感じさせる彼の笑顔に、ルーティエの胸には一層幸せな気持ちが湧き上がってくる。視界の端にはにこにこと微笑んでいる両親と兄弟の姿が映る。ルーティエよりもはしゃぐイネースの姿を捉え、無意識に笑みがこぼれ落ちた。彼らの顔からは、一様にルーティエの幸せな未来を信じてやまないことが感じ取れた。
半年ほど前、彼に好きだと、結婚して欲しいと言われたとき、ルーティエはすぐには返事をすることができなかった。レイノールのことが嫌いなわけではない。むしろ、長年一緒に暮らしてきたレイノールに、実の兄に対するものと同じような親愛の気持ちを抱いていたからこそ、結婚することなど正直考えたこともなかった。
戸惑うルーティエの背中を押したのは、両親たちだった。ルーティエのためにも、そしてフロレラーラ王国のためにも、レイノールと結婚するのが最善なのだと語った。兄も弟も諸手を挙げて大賛成をした。
特に弟のイネースは、レイノールと結婚することを当人であるルーティエよりも喜んでくれた。レイノールだったら大切な姉を絶対に幸せにしてくれる、安心して任せることができると、悩むルーティエの背中をぐいぐいと、有無を言わせない態度で押し続けた。
そうしてルーティエはレイノールとの結婚を決めた。最初は困惑していたものの、徐々に受け入れられるようになってきている。今はまだ恋を知らなくても、愛がわからなくても、共に過ごしていくうちにいずれ夫となった人を恋い慕い、愛することができるだろうと考えるようになった。
今日から、レイノールはルーティエの新しい家族になる。不安や戸惑いも確かにあったが、それ以上の喜びに満たされていた。家族や民に祝福され、一途に自分を愛してくれる人と結婚することが、ルーティエにとっての一番の幸福なのだろう。
「では、この国、フロレラーラ王国を守護する花の女神、フローティアに誓いを捧げてください。夫となる者、アレシュ王国第一王子、レイノール・アレシュ。汝は妻となる者を愛し、慈しみ、共に人生という名の美しい花を咲かせていくことを女神に誓いますか?」
フロレラーラ王国での結婚式の際に使われる口上を、祭壇の前に立つ神父が威厳を伴った口調で告げる。レイノールはルーティエを一瞥して柔らかな笑みをこぼした後、真剣な表情で神父へと視線を移す。
凜とした瞳には、王子という立場に相応しい強い光が宿っていた。彼が小さく頷くと、顎の辺りで切り揃えられた金髪が揺れ動く。
「はい、誓います」
涼やかな音色が、静寂に満ちた教会に響き渡る。迷いなど一切感じられなかった。
神父の視線がレイノールからルーティエへと移動する。ブーケを握り直したルーティエの顔からは、いつの間にか笑みは消えていた。
「妻となる者、フロレラーラ王国第一王女、ルーティエ・フロレラーラ。汝は夫となる者を愛し、慈しみ、共に人生という名の美しい花を咲かせていくことを女神に誓いますか?」
はい、誓いますと頷こうとして、けれど、意思とは反対に体は動かず、声も喉の奥から出てこなかった。今頃になって一気に緊張があふれ出てきたのだろうか。
どうしてと、声にならない疑問が頭の中を駆けめぐる。不安なんて感じる必要性はない。新しい道、困難はもちろんたくさんあるだろうが、それでもレイノールがいれば大丈夫だと信じていた。彼が一緒ならば、絶対に幸せになれる。不安なんてない。
だが、本当にそうだろうか。不安など欠片もなく、ルーティエはこの先幸せになれるのだろうか。
何かを、誰かを簡単に傷つけてしまえるような能力を持つルーティエが、幸せになれるのだろうか。いや、大切なものを壊し、大切な人を傷つけたことのあるルーティエが、当たり前のようにこのまま幸せにしてもらっていいのだろうか。
ぐるぐると頭の中を嫌な感情が回っていく。開いた口からは望んだ言葉が出ず、ただ浅い呼吸が繰り返されていた。静寂が耳を打つ。
大丈夫、緊張しているだけだ。変なことを考える必要などない。頭の中で自分にそう言い聞かせたルーティエは、胸の奥底に突如湧き出た黒い感情を吐き出すように深呼吸を一度してから、努めて平静に声を紡ぐ。
「はい、誓い──」
誓います。そう告げようとしたルーティエの声は、本心と裏腹に最後まできちんと紡がれることはなかった。二度と、そして永遠に。
大きな音を立てて、閉められていた教会の扉が外から開け放たれる。祭壇に向けられていた視線が、一気に音の発生源へと移る。ルーティエもまた、半開きだった口を閉じて扉へと顔を向けた。
扉を開けて入ってきたのは、フロレラーラ王国の騎士団の人間だった。ルーティエには名前はわからなかったものの、四十半ばほどの騎士の顔は王宮の中で幾度も見かけたことがある。
遠目だが、険しい顔をした騎士は全身に怪我を負っているように見えた。ふらふらとした足取りで教会の中に入ってくると、すぐに床へと倒れ込む。小さな悲鳴があちこちから上がった。
「一体何の騒ぎだ? その怪我はどうしたんだ?」
床に倒れ込んだ騎士に誰よりも早く近付いた国王は、神聖な教会の結婚式を遮ったことを咎めるよりも彼の怪我をまず心配する。全身傷だらけ、顔や体を血で染めた騎士は、よろよろと上半身を起こして最後の力を振り絞るように言葉を紡ぐ。
「突然、国境に帝国の兵士が……押し止める間もなく……王都まで……」
がくりと、騎士の体が床に頽れ、そのまま動かなくなる。教会内から再度悲鳴が上がるよりも、扉から一気に兵士がなだれ込んでくる方が早かった。
黒い鎧で体を覆った兵士たち。それがフロレラーラ王国と山脈を隔てた位置にある隣国、オルガ帝国の兵士であることは、誰の目から見ても一目瞭然だった。
大勢の兵士があっという間に教会の中に侵入し、参列者を次々に拘束していく。
「フロレラーラ王国は、今この瞬間をもってオルガ帝国の属領となった。今後はオルガ帝国皇帝、サーディス・エリシャ・ケト・オルガ様がこの国を支配する」
武装した兵士の一人が高らかに告げた言葉に、教会の中に大きなざわめきが発生する。そんな馬鹿な、ありえない、信じられない、悪夢だ。口々に発せられる声に、「抵抗するな!」と叫ぶ兵士たちの怒声が被せられる。
父や兄、弟の声が遠くから聞こえる。参列者の悲鳴と騒音とで、教会内は一気に騒然となる。先ほどまでの幸せな空気など、すでに跡形もなく消え去っていた。
「ルー、早くこっちに!」
不意に横から焦った声が投げられる。慌てて視線を向けると、そこには動揺した様子のレイノールの姿があった。彼の手がルーティエの腕を掴もうとして、しかしそれよりも早く素早く近付いてきたアレシュ王国騎士団の数人がレイノールを取り囲んだ。彼の護衛として結婚式に参加していた者たちだ。
「レイノール王子、すぐにこの国から脱出を!」
「急いでください。オルガ帝国にあなた様が捕まるようなことは絶対に避けなければ!」
「わかっている。だが、ここにいる人たちを放っては行けない。全員が無理でも、せめてルーだけでも俺と一緒に連れて行かないと!」
「残念ですが、ルーティエ様のことは諦めてください。我々はあなた様が第一です。失礼ながら、足手まといになる者を連れては行けません」
きっぱりと告げた騎士に言い返そうとしたレイノールを、騎士たちは「失礼します」と半ば抱えるような形で引きずり出す。レイノールは抵抗するものの、大柄な騎士数人に力では敵わず、あっという間にルーティエから引き離されていった。
悔しそうな、悲痛に歪んだレイノールの口が小さく動く。
──絶対に、何があっても絶対に、俺が君のことを助ける。この国のことを、絶対に救ってみせるから。
声にならなかった言葉。返事をすることも、頷き返すこともできず、レイノールは騎士たちに引きずられ、逃げ惑う人々の中へと消えてしまう。
「姉様! ルー姉様!」
耳に飛び込んできたイネースの叫び声に、レイノールが消えた方向を見つめていたルーティエははっと意識を取り戻す。兄とイネースが自分の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。視線を向ければ、こちらに駆け寄ろうとしていた二人が、帝国の兵士に拘束されている姿が見えた。
両親の姿は見えなかったものの、どうやら教会の中で暴力が振るわれている気配はない。兵士たちはみな武装しているが、この場にいる人間をできるだけ穏便に拘束するよう指示されているのだろう。
あのとき神父の問いかけにすぐさま「誓います」と頷いていれば、この先の人生は違ったものになっていたのだろうか。怒声と悲鳴とが耳を突き刺す中、ルーティエはぼんやりとそんなことを考える。
逃げるという選択肢はない。王族が敵に背中を見せて逃げることなど許されない。何より家族を、国民を捨て置いて逃げることなどあってはならない。だが、そんな第一王女としての自負だけが理由ではなかった。
ルーティエのすぐ傍、先ほどまでレイノールがいた場所には、真っ黒なローブを頭から足元まですっぽりと隠すように身に着けた人物が立っている。こちらには向けられてはいないものの、手には剥き出しの剣が握られており、ルーティエが逃げ出そうとすればその切っ先が突き付けられることは容易に想像できる。
「……どうか抵抗しないでください、ルーティエ第一王女。素直に従っていただければ、あなたも、そしてあなたのご家族も傷つけることはいたしませんから」
レイノールよりは幾分高い、澄んだ静かな声色が黒衣の人物から発せられる。表情はローブに隠されていて見て取ることはできない。声から察するにルーティエと同じくらいの年齢の青年、否、まだ少年と呼んでも差し支えのない声音だった。
「この国の民のためにも、今もこの先も軽率な行動は取らないことをお勧めします」
ステンドグラスから照らされた光で、黒いローブを被った人物の手にある銀色の刃がぎらりと冷たい輝きを発する。丁寧な口調に反して声音はどこまでも無機的で、淡々としていた。感情の色がにじまない声は、ルーティエの心から温度を奪っていく。
何か言おうとルーティエが口を開いた直後、強い風が教会内を吹き抜ける。黒いローブがふわりと浮かび、隠れていた相手の顔が見えた。
目に飛び込んできたのは、白い仮面だ。
顔の上半分、目元を完全に隠した異様な姿にぎょっとして、けれどルーティエの半開きの口から悲鳴が出ることはなかった。
細い顎の上にある薄い唇は、横に引き結ばれている。仮面に隠された表情はわからない。だが、どうしてだろうか、ルーティエには相手が悲しんでいるように見えた。
いや、きっと気のせいだ。攻め入ってきた相手、幸せな結婚式を壊した人物の一人。泣きたいけれど泣けない、そんな自分自身の感情が勘違いをさせているのだろう。
いつの間にかルーティエの手の中から落ちていたブーケは、逃げまどう人々に踏みつけられ、無惨な姿を大理石の上に晒している。それはルーティエの一度目の結婚式を、最後まで行われることなく壊された結婚式を象徴しているかのようだ。
こうしてルーティエ・フロレラーラの一度目の結婚式は、最悪な形で幕を閉じる。
そして、この一週間後、人生で二度目となる結婚式を行うことになるなど、このときのルーティエには想像すらできなかった。できるはずもなかった。