「俺と結婚してくれないか?」
「結婚……誰と誰が?」
「ここにいるのは俺とルーだけなんだから、俺と君以外に誰がするんだ?」
一拍置いて、ルーティエは「え?」と間の抜けた声をもらす。疑問符だらけの会話に終止符を打ったのは、先ほどまでの真剣な面持ちを崩したレイノールの苦笑だった。
「うん、そっか。やっぱりルーは気付いていなかったんだ。テオフィルとイネースの二人は、ずっと前から気付いていたのに」
困惑して首を傾げるルーティエの前で、レイノールは苦い笑みを濃くする。
一際強い風が丘を吹き抜け、乱暴に散らされた花弁が舞い上がる。ルーティエとレイノールがいるのは王宮の裏手、小高い丘になった場所で、水平線に広がる海を遠くに眺めることができる。様々な花が咲き誇る丘を吹き抜ける風は暖かく、甘く瑞々しい香りをまとっていた。
国中のどこにいても甘い花の香りを感じ、一歩外を歩けば一年中鮮やかな花々を眺めることができる。フロレラーラ王国の大地は農産物、とりわけ花が育つのに向いていた。
「自分でも結構わかりやすかったと思うんだけどなあ。フロレラーラ王国に来たときはルーに他の誰よりも先に会いに行っていたし、本当は筆不精なのにルーにだけ頻繁に手紙を送っていたし」
そっか、気付かれてなかったのか、とレイノールはほろ苦い吐息をもらす。
「うーん、これは完全に失敗したな。恋愛ごとには疎いルーには、もっと直接的に伝え続けてくるべきだったか」
独り言のようにもれるレイノールの呟きは、ルーティエの耳を素通りしていた。
(……結婚? 私とレイが結婚するの?)
久々にレイノールと会えて浮かれていた気持ちが、戸惑いに侵食されていく。いつもならば心を穏やかにしてくれる花の存在も、今のルーティエにはゆっくりと感じている余裕はない。
「ごめん、正直ルーがそんなに驚くとは思ってなくて。俺のことを全然意識していなかったんだったら、突然求婚されて困惑するのは当然だ。でも、最近は国でやるべきことが増えてきて、こうやってルーに会いにフロレラーラ王国に来るのも難しくなってきているんだ。だから、今日の機会を逃したくなかった」
「ええと、ごめんなさい、待って、ちょっと混乱しちゃって。その、レイは私と結婚したいの? どうして?」
「どうしてって、そんなのルーのことが好きだからに決まっているだろう」
「好き……レイが私を? 妹として、とかじゃなくて?」
ルーティエの口からは疑問しか出てこない。それほどまでに混乱が大きかった。
「確かに俺も、最初の頃はルーのことを妹のように思っていた。病弱だった俺が、フロレラーラ王国に療養で来たのは八歳のときだったかな。それから五年近く滞在している間、ルーはいつも俺の傍にいてくれただろう。具合が悪いときは看病してくれて、調子が良いときは色んな場所に連れて行ってくれた」
レイノールは両手を伸ばし、ルーティエの手を優しく握りしめる。病弱だった頃は大して変わらなかったのに、いつの間にかルーティエの手を包み込んでしまえるほど大きくなっていた。
時間の流れを痛感する。ルーティエもレイノールも、幼い子どもの時代はすでに終わってしまったのだ、と。
「いつからかはわからない。気付いたらルーのことを好きになっていた。ルーは俺のことをテオフィルと同じように見ていたと思う。でも、俺は結構前から妹としてじゃなく、ちゃんと一人の女性としてルーのことを見ていたんだ」
金色の瞳が、真っ直ぐにルーティエを見下ろす。出会った当初は同じぐらいだった身長も、レイノールが療養を終えて国に帰る頃にはすでに大きく差が開いていた。
暖かな日差しが青空から降り注ぎ、風に乗った花弁がふわりと舞う。視界の端を飛んでいく白い花びらを見つつ、ルーティエは繋がった手に視線を落とす。
(今はまだ想像もできないけれど、いずれ私も誰かと結婚するとは思う。でも、レイノールと結婚することは、これまで一度も考えたことがなかったわ)
嫌なわけではない。正直なところ、どう受け止めていいのかわからないというのが本音だ。
ずっと兄のように慕っていた人を、急に恋愛相手として、結婚相手として見るのはルーティエには難しい。
「こういうことを言うと打算的だってルーは気を悪くするかもしれないが、俺とルーが結婚することはフロレラーラ王国にとっても利益があることだと思う。二国の結びつきをより一層強くすることができれば、有事の際アレシュ王国がフロレラーラ王国を守りやすくなる」
レイノールとの結婚は、ルーティエ個人だけの問題ではない。アレシュ王国とフロレラーラ王国、今後の二国の未来にも大きく関わってくることは、政治に疎いルーティエにも容易に理解できた。
「フロレラーラ王国はとても豊かな国だ。気候は一年を通して温暖、雨季はあっても雪は一切降らない。山と海、たくさんの自然に恵まれた大地は肥沃で、資源や作物に困ることはほとんどない。正直、この国ほど豊かな国はないと俺は思っている」
フロレラーラ王国の最大の収入源は農産物の輸出と観光業で、国の財政は常に安定しており、自然に愛された心優しい国民性も相まって穏やかな治世が数百年以上続けられている。
「この国が花の王国、花の女神フローティアに愛された国、と呼ばれるのも当然だ」
フロレラーラ王国が輸出している農産物の八割を占めるのが種々様々な花だった。切り花、鉢植え、種の輸出も行っている。他にも花を使った加工品の類、たとえば長時間枯れないように特殊な処置を施した花の装飾品や、花びらと砂糖を煮詰めて作ったジャムなどの食品、花の根や茎を使って染めた衣料品と、その種類はとても幅広い。
「フロレラーラ王国はすごく恵まれている。だから、長年戦争とは無縁の穏やかな治世が続いてきた。もちろんそれは悪いことじゃない。ただ、そのせいで軍事力の整備はほぼ行われず、国を守るための騎士団も最低限の状態に抑えられてしまっている面がある。この国の防衛力が低いことは、どの国から見ても一目瞭然だ」
「豊かで恵まれているからこそ、フロレラーラ王国を武力で支配しようとする国がいずれ出てくるかもしれない。そのことはお父様、いえ、歴代の王族ならば、誰もが多少なりとも危惧してきたことで、ずっと続くこの国の弱点だって私でもわかっているわ」
だからこそ、フロレラーラ王国は周辺の五つの国と同盟を結んでいる。その同盟にはフロレラーラ王国に対する不可侵条約と、有事の際には王国を守ってもらう安全保障条約の意味が込められている。
見返りとして、フロレラーラ王国は同盟国に対して、各種作物をできうる限りの安値で、かつ優先的に輸出することが決められていた。軍事力の弱い国を外敵から守り、侵略を防ぐための処置だった。
「これだけは断言しておくが、もちろん俺とルーが結婚しなくても、アレシュ王国はこれまでと変わらずフロレラーラ王国を守っていく。アレシュ王国にとってフロレラーラ王国は親交の深い大切な国だ。だから、ルーの気持ちを無視して、国のために無理に俺と結婚して欲しいわけじゃない」
真摯なレイノールの言葉に、ルーティエは「大丈夫、ちゃんとわかっているわ」と頷き返す。
フロレラーラ王国の港から船で半日ほどの位置にあるアレシュ王国は、同盟を結んだ国の中でも最も親交の深い国で、長年親密な関係が築かれてきた。両国の王が年に数回は必ず国を行き来し、大きな式典や披露宴があればどちらともまずは相手の王族を招待する。
「ルーも知っての通り、貿易を要として栄えているアレシュ王国は、北東に広がる海を除いて周囲を小さな国々に囲まれている。その土地柄もあって、小規模な争いが常に起きているが、逆に争い事が多いからこそ軍事力はとても優れている」
軍事力の面に秀でたアレシュ王国は広大な土地を有し、国民の数も多い。六つの国々で結ばれた同盟の頂点に君臨する大国である。
「実はここ最近、同盟国の中でも各国の意向が噛み合わないことが増えているらしい。色々揉め事も多くなっていて、不穏な気配もあると父上が話していた」
「そうなの? 私は幼い頃から、同盟関係は盤石なものだと聞かされてきたわ」
「まあ、同盟関係が不安定だなんて知られたら問題が出てくるから、表向きは安泰だと見せているってところが真実かな。今のところ互いの利害が一致しているから関係も続いているが、いつか利害関係が崩れたそのときは」
「同盟が解消されるかもしれない、ってこと?」
「もちろんすぐに同盟がなくなるなんてことはない。同盟国内でもより強固な関係を維持するため、何度も話し合いが行われている。ただ、グラテルマ共和国が……」
「グラテルマ共和国? 私は国から出たことがないから実際に目にしたことはないけれど、鉄工所や製錬所といった工場が多く立ち並ぶ国だと耳にしたわ。その国がどうかしたの?」
「ああ、いや、すまない。今の俺の言葉は忘れてくれ。確かなことはまだ何もわかっていないんだ。裏付けのない曖昧な情報で、君やフロレラーラ王国を混乱させたくない」
「レイがそう言うのならば、わかったわ」
内心では気になったものの素直に頷く。
「それに、まだ定かじゃない危機よりも、もっとわかりやすい存在がある。フロレラーラ王国の北側、あの高い山脈の向こう側にある、最大の脅威。フロレラーラ王国を守る手段が増えることは、悪いことじゃないと思うんだ」
海とは反対側、遠目にそびえ立つ高い山々を見つめるレイノールと同じように、ルーティエもまた山脈へと視線を移す。青空に向かって高らかに連なる山々は、フロレラーラ王国と隣国との国境になっている。
穏やかで平和な国、フロレラーラ王国。けれど──嵐の影は、女神に愛された国にも存在している。
「色々言ったが、俺は心の底からルーのことを愛している。だから、俺はルーのことを幸せにしたいんだ。君にいつも満開の花のように笑っていて欲しい」
繋がったレイノールの手に力が込められる。
「もちろんルーの『花姫』としての能力は、今後も絶対に使わせない。隠していけるように手を尽くす。ルーがずっと心穏やかに、明るく過ごせるように俺が君を守るから」
何事にも誠実なレイノールらしい言葉は、ルーティエの混乱した心にわずかだが喜びを生み出す。
(レイと結婚すれば、きっと私は幸せにしてもらえる。幸せな結婚をして、幸せな未来を送ることができる。そう……『花姫』であることも忘れて、幸せに生きていけるはず)
視線を山脈からレイノールに戻したルーティエは、迷いながら口を開く。繋がった手を握り返そうとして、けれど指先に力は入らなかった。
「……ごめんなさい、レイ。すぐには答えられないわ。レイの私に対する気持ちには、正直言ってすごく驚いた。でも、好きだと言ってもらえたことは本当に嬉しい。ただ、これは私一人の問題じゃないから、少し時間をもらえるかしら?」
両親と兄、弟に相談した結果、ルーティエとレイノールの結婚は周囲の反対も一切なく、むしろ高官や貴族を含めて満場一致で祝福された。そこにはやはり両国の関係をより一層強いものにしたいという思惑も絡んではいたのだが、結果として果たされることはなかった。
二人の結婚を阻んだのは、長年フロレラーラ王国にとって不安要素として存在していた暗雲、北側の高い山脈によって隔てられた位置に存在する隣国、オルガ帝国だった。
〇 〇 〇
手元に何度目かわからない視線を送ったルーティエは、これまた何度目かわからないため息を吐き出した。
じわじわと頭を締め付ける痛みに、羊皮紙を持っていない方の手を額に当てる。視界の端で薄紅色の髪が、冷たさを含んだ風によって揺れ動くのが見えた。
ルーティエが生活しているマリヤン大宮殿はオルガ帝国の首都、ザザバラードの中心に建てられている。政務や謁見、式典などが行われる場であり、皇族や高官の居住空間や兵士たちの訓練場なども備えられた広大な宮殿だった。
「今朝フロレラーラ王国から届いた手紙は、あまり喜ばしくない内容のものでしたか?」
「……っ!」
バルコニーに続くガラス窓を開け放ち、外を向く形で椅子に座っていたルーティエは慌てて振り返る。背を向ける形で座していたとはいえ、扉を開ける音にも、人が入ってくる気配にもまったく気が付かなかった。
声の主、常のごとく黒い衣服と白い仮面に身を包んだユリウスは、表情は見えないもののどこか申し訳なさそうな様子で頭を下げる。
「すみません、驚かせるつもりはなかったのですが。ノックをしてから入るべきでした」
ここはルーティエだけの部屋ではなく、彼の部屋でもある。むしろ部屋の主は彼の方だろう。当然ノックなどする必要はないのだが、ユリウスは「ご無礼を失礼いたしました」と再度謝罪の言葉を口にした。
「……お気になさらないでください。むしろこちらこそ手紙を読むことに気を取られ、声をかけられるまでまったく気付かず申し訳ございません」
「ご家族からの手紙を読んでおられたのでしょう。それならば、集中して当然だと思います。ご両親からの手紙ですか?」
「いいえ、兄のテオフィルからです」
短く答えたルーティエは手紙を急いで折りたたみ、隠すように両手で包み込む。
内容に触れて欲しくないというルーティエの気持ちを察してか、ユリウスはそれ以上は手紙について触れず、足早に壁際に置かれた机へと向かった。
「お邪魔をしてすみません。公務に必要な書類を取りに戻っただけでしたので、すぐにまた出かけます。ルーティエ王女はゆっくりと過ごしていてください」
ユリウスは机の引き出しから数枚書類を取り出し、軽く会釈をした後部屋を出ていく。ルーティエはほっと胸を撫で下ろした。ふうと安堵の息を吐く。
(すぐに出ていってくれてよかった。このまま一緒にいることになったら、どうしようかと思ったわ)
オルガ帝国に来て早や一週間。その間、ルーティエがユリウスと顔を合わせ、なおかつ会話したことは両手で数える程度しかなかった。それはルーティエが意図的に生活をずらしているからだけではなく、彼の方もまた極力ルーティエと顔を合わせないようにしているからなのだろう。
同じ部屋に住んでいる新婚夫婦なのに、顔を合わせることも話をすることもほとんどない。普通ならばまったく笑えない状況だが、ルーティエとユリウスの場合は当然と言えば当然の有り様だった。
再び一人になった居室で、ルーティエは折りたたんだままの手紙に視線を落とす。何度も読んだので、内容はすでに覚えてしまっている。
『お前がオルガ帝国に嫁いで行ってからというもの、父上も母上もすっかり落ち込んでしまっている。それも仕方がないのだろう。二人は娘であるお前のことをとても愛し、大切にしていたのだから、今回の突然の結婚に気を落とすのも当然のことだ。
二人だけでなく、私もイネースも気持ちは同じだ。いや、王宮中の人間が同じ想いだろう。お前という存在が消えてからというもの、国中から元気が失われてしまったかのような状態だ。咲く花々もどこか寂しげに見えるのは、私の勝手な思い込みかもしれないが。
こちらのことは何も心配せず、お前は新しい生活に馴染んで欲しい、と書きたいところなのだが、お前にはいついかなるときも嘘偽りは述べないと幼い頃に約束したな。だから、お前の心労を増やしてしまうかもしれないと悩んだものの、きちんと告げることを決めた。
母上の具合があまり良くない。ベッドで横になっている日が多く、診察した侍医によれば様々な心労が一気に重なったせいじゃないか、とのことだ。だが、時間が経てば徐々に良くなるらしいから、そこまで心配しなくても大丈夫だろう。
正直、心配なのは母上よりもイネースの方だな。
お前がオルガ帝国に行ってから、どうにも様子がおかしい。何も言わずにふらっと姿を消すことが増え、難しい顔で一人考え込んでいることが多くなった。まあ、知っての通り、お前を見送る最後の最後まであの調子で騒いでいたのだから、すぐに元通りにはならないだろう。
本来であれば私が四年間留学していたように、今年十二歳になるイネースもアレシュ王国へ留学する予定になっていたのはお前も知っているな。そこで心身共に成長して欲しかったのだが、今のこの状況だ、イネースが国外に出るのは難しい。留学先がアレシュ王国となればなおのこと。イネースは留学をとても楽しみにしていただけに、白紙になってかなり気落ちしているようだ。可哀想だが、仕方がないと諦めてもらうしかない。
お前のことや留学の件、他にも色々あったからイネースが荒れるのも当然といえば当然だな。まあ、しばらくは様子を見るつもりだ。心配するな、一月もすればいつもの明るいイネースに戻るさ。
本当は他にも書きたいことが色々あるのだが、父上の手伝いで忙しいため短い手紙になってすまない。いずれ時間を作り、お前の所に足を運びたいと思っているのでしばし待っていて欲しい。サーディス皇帝陛下にもその旨を手紙に書いて頼むつもりだ。それまではどうか無理をせず、元気に過ごしていてくれ。
最後に一つ、お前には余計な心配だとは思うが、決して安易な行動は取らないで欲しい。幼い頃に家族で約束したことを絶対に忘れるな。
お前は特に女神フローティアに愛され、彼女の大きな祝福を受けている。その祝福は誰かを、何かを憎み傷付けるためのものではなく、大地に咲く花々を育むものだということを、忘れず胸に刻んでいて欲しい』
テオフィルからの手紙には、フロレラーラ王国を一方的に支配したオルガ帝国を非難するような言葉は一つとして書かれていなかった。王国が今後どうするか、同盟を結んでいる国々がどう動くのか、そんなことも一切書かれていない。もちろんアレシュ王国の動向も、レイノールのことも。
多少なりとも今後の動向についての情報があるんじゃないかと思っていたのだが、実際は家族に関する当たり障りのないことしか書かれていなかった。ルーティエは内心ではかなり落ち込んではいたものの、当然と言えば当然の内容だった。
(国のために、そして私のために、お兄様は慎重過ぎるほど配慮をしてくれたのね。万が一にもこの手紙によって、危険が及ぶ事態にならないように、と)
テオフィルは次期国王となるとても聡明な人で、ルーティエに送った手紙が帝国の人間の目に晒されることなどもちろん理解している。だからこそ、決して帝国を非難するような言葉は書かず、また、国内の動向や今後の展望などについても一切記載しなかった。
(それにしても、お母様のことももちろんだけど、それ以上にイネースのことが気になるわ)
王国を旅立つ際、激怒していたイネースの様子から心配してはいたのだが、やはり簡単には今回のことを納得してくれなかったらしい。まだ幼い弟が理不尽な事態の数々に反発するのは仕方のないことだろう。ルーティエだって、内心ではまだ様々な感情がくすぶっている。
手紙から上げた視線を、バルコニーに続く窓の外へと移す。フロレラーラ王国の自室からは、一面に咲き誇った花々の絨毯を見下ろすことができたのだが、今視界に入ってくるのは必要最低限整えられただけの樹木が広がる裏庭だった。そこには色鮮やかに咲き誇る花の姿は皆無で、無機的で物悲しい雰囲気が漂っている。
王国にいた頃は落ち込んだときには庭を眺めていた。だが、この裏庭の姿では更に気分が落ち込むだけで、到底元気をもらえそうにはない。
自然ともれたため息に、扉を叩く音が重なる。もしかしてまたユリウスが戻ってきたのだろうか。すぐに返事をしなかったルーティエの内心など知らず、扉は当然のように開け放たれた。
「失礼いたします。ルーティエ様、本日もまた朝からずっと部屋に閉じこもっておられる予定でございましょうか。お世話をする私としては正直とても楽です、手間がかかりません。ですが、このままではルーティエ様の頭にじめじめと苔やキノコが生えてきやしないかと私は心配になります、ええ、とても」
入って来たのはアーリアナだった。室内に入ると同時に、彼女の口からは矢継ぎ早に言葉が出てくる。まったく噛む様子もなくすらすらと話す彼女に呆れ半分、感嘆半分、もう色々考えるのも面倒になった。
「ご心配どうもありがとう。でも、人間の頭に苔やキノコが成育したという事例は聞いたことがないわ」
ユリウスではなかったことにほっとした反面、返事をする前に当然のごとく扉を開けた彼女に何とも言えない心地になる。が、文句を言っても意味がないことは、この一週間ですでに嫌というほど理解していた。
「まあ、前例がないからといって安心はしない方がよろしいかと思います。世の中何が起こるかわからないんです。事実、私は今朝から驚くほどの不幸な事態に次々と遭遇しております。まず、朝一で庭師に大量の水をぶっかけられ、直後樹木を植える予定の穴に落ち、挙げ句朝ご飯が何故か私の分だけなくなっており、次に掃除のバケツに足を取られて高価な壺を割り、女官長からは烈火のごとく怒られるということが起きております」
あっさりとした様子で、まるで朝ご飯の内容を語るように言葉を紡ぐアーリアナに、ルーティエは開きかけた口を固く閉じた。
(う、うーん、アーリアナというこの侍女、色んな意味で本当に大丈夫なのかしら?)
前言撤回、優秀とは到底思えないし、むしろサーディス辺りに即刻解雇されそうだ。こんな人物を長年傍に置いているユリウスは、意外と懐が広い人物なのかもしれない。いや、結婚式の夜の様子から察するに、大分振り回されている気もしたが。
眉根を寄せたルーティエに気付いたように、アーリアナは先を続ける。
「あ、ちなみに説明いたしますと、すべて私の不手際ではございません。まず、水をぶっかけたのは新人の庭師です、うっかり手が滑ったと言っておりました。また、掘ったままになっていた穴も本来ならば危険防止のため柵が必要ですのに、これまた新人の庭師がうっかり忘れてしまっていたそうです。朝ご飯は料理人がうっかり数え間違えていたようで、掃除のバケツを廊下のど真ん中にうっかり置きっぱなしにしたのはまだ入って日の浅い侍女でした」
口を挟む間も無く、次々と言葉が出てくる。息継ぎもほとんどない。というか、どう考えてもうっかりが多すぎる。
「そういうわけでございまして、ここから得られる教訓は、自らが何か失敗をせずとも、不運というのは幾重にも重なって襲ってくるので常に注意して日々を過ごそう、ということでございますね。理不尽に女官長に怒られる身にもなって欲しいものです。以上、本日の私の不幸の数々でございました。最後に付け加えますと、朝食を抜かれた分、昼ご飯は山盛りにしていただきましたので、今の私の機嫌はすこぶる良好です、安心してくださいませ」
言うべき言葉が見付からず無言を返すが、アーリアナは気にした様子もなかった。常に自分の調子を崩さず、淡白で素っ気ないルーティエの態度にも平静に対応する部分だけは、間違いなく侍女として優秀だと言える。
ルーティエが視線を窓の外に戻すと、間髪を容れずにアーリアナが口を開く。
「よろしければ外に出てみますか。私がご一緒いたします」
「……外に出てもいいの? 私は人質なのに?」
知らず声に混じったルーティエの嘲笑に、アーリアナは瞬きを一回する。今日もまた彼女の表情に変化はない。
「はい。ただし、外と言ってもせいぜい庭程度にはなりますが、その辺はお許しくださいませ。面白みの欠片もない庭ではございますが、私が精一杯面白おかしくご案内をさせていただきます。あ、よろしければ私が本日落ちた穴もご紹介いたしましょうか?」
「いえ、結構よ。心の底から遠慮しておくわ」
これ以上突っ込むとやぶ蛇になりそうなので、ルーティエは強制的に彼女の話から意識を逸らすことに決める。
椅子から立ち上がり、手紙をテーブルの上に置いてからバルコニーへと足を向ける。太陽の光をふんだんに含んでいるはずの風は、ひんやりとした感触で頬を撫でていく。
ルーティエが宮殿から離れることは許されていないと、薄々わかってはいた。信頼できない人間を、あの皇帝が自由に出歩かせることなどしないだろう。
籠の中の鳥、いや、そんな綺麗なものではない。ルーティエは檻の中の人質だ。
「散歩をする気分じゃないの。悪いけど、夕方まで一人にして」
これ以上話しかけないで欲しいと言外に含めると、アーリアナは一拍の間を置いた後、「失礼します」と部屋から出て行った。一人になると幾分気が楽になる。
これから先、後二月もすれば毎日雪が降るようになり、身も凍るような厳しい寒さがオルガ帝国には訪れるらしい。フロレラーラ王国を一度も出たことがなく、雪を見たことのないルーティエには想像もできなかった。凍えてしまいそうなほどの寒さを、たった一人で乗り切れる自信も正直ない。
その寒い季節が来る前に、同盟国はフロレラーラ王国のために動いてくれるのだろうか。オルガ帝国の侵略から救い出してくれるのだろうか。無意識の内にそんなことを考えている自分に気が付き、ルーティエは白い柵を右手で握りしめる。
(ずっとくよくよしているなんて、いつもの私らしくない。お兄様やイネース、それにレイが今の私を見たらきっとすごく驚くわね)
オルガ帝国に来てからというもの、感傷に浸る時間がほとんどのような気がする。本来のルーティエらしくないことは、自分自身が一番よくわかっていた。感傷に浸って、無為な時間を費やすなんてルーティエらしくない。
(本当はもっと前向きに、本来の私らしく積極的に生活していきたいけど……)
考え込むよりもまずは行動、他人に頼る前にできるだけのことは自分でやる。王族だからと、仕えてもらう立場だからと、やれることをやろうとしないですべてを他人任せにするのは間違っている。
他人が咲かせた花よりも、自分自身の手で一生懸命世話をして咲かせた花の方がより一層美しく見える。それは、咲かせるまでの行動が報われたことを、強く感じることができるからだとルーティエは考えている。
「でも、私がここに来た意味も、このオルガ帝国で何ができるのか、何をすべきなのかも、まだ何もわからない。そもそも、本当にやるべきことがあるのかさえも……」
口から無意識のうちにもれた弱々しい呟きを、ルーティエは息を大きく吐いて吹き飛ばす。
大丈夫、きっと何かあるはずだ。否、何かあるからこそ、自分はここに来たのだと、そう思いたい。何の意味もなくただ政略結婚をさせられた可哀想な人質の王女としてやって来たのではなく、ルーティエだからこそここに来たのだと思えるような何かが欲しかった。
顔を上げる。前を見据える。寂しげな裏庭の姿は見えない。見えるのは青い空を背にして広がる高い山脈の姿。
「……あれ? もしかして、この方向って」
ここでようやく、ルーティエはあることに気が付いた。バルコニーから見るこの方角の先には、愛すべきフロレラーラ王国がある。高い山々に遮られて見ることは敵わなくとも、故郷の存在を感じることができた。
ひょっとすると、だからこの居室がルーティエたちの部屋になったのだろうか。人の出入りが激しい場所から離れ、隔離されたような位置にあるひっそりとした居室。てっきり望んでもいない、支配した国の人間であるルーティエを人目に付かないように押し込めるために選ばれた部屋だと思っていた。
だが、実際はルーティエが静かに、落ち着いて過ごすことができるように、口さがない貴族などの宮殿の人間にできるだけ会わないように、という配慮だったのかもしれない。
(いえ、いくらなんでもそれは前向きに考え過ぎね)
ルーティエはふっと苦笑をこぼす。
一週間が経ち、初日に比べれば少しずつルーティエも落ち着いてきている。しかし、あと一歩を踏み出すことがどうしてもできずにいた。前向きになりたいという想いに、心が追いついてきてくれない。
ルーティエはバルコニーの柵を強く握りしめながら、遠い故郷の姿をずっと眺め続けた。
「というわけでユリウス様、明日にでもルーティエ様を街までお連れしてください」
突然のアーリアナの主張に、言われたユリウスだけでなくルーティエも「え?」と疑問の声をもらしてしまう。
ルーティエが半分近く残してしまった夕食後、ユリウスが室内に置いていた書物を取りに戻って来たときのことだ。結婚後、ルーティエとユリウスが共に同じ食卓を囲むことは一度もなく、接触は日に数回顔を合わせる程度、まったく会話をしない日もある。
書物を手にすぐ外に出ようとしていたユリウスは、侍女の言葉に足を止める。仮面に隠されているものの、眉間にしわが寄せられていることは容易に想像できた。
「君はいつも脈絡もなく突飛なことを言い出すな、アーリアナ」
「それが私の仕様でございますから。それに、突飛ではありますが、おかしなことを口にしたつもりはありません。ユリウス様だって、ここ数日のルーティエ様をご覧になり、このままで良いとは思っておりませんよね?」
無言の主人に、アーリアナは更に言葉を重ねる。
「ルーティエ様には気分転換が必要です。多少強引にでも、環境を変化させる何かが不可欠です。もしこのままルーティエ様が塞ぎ込み、瘦せ細り、病気にでもなって命を落とすような事態になったら、ユリウス様は後悔いたしますよね?」
「……オルガ帝国にとっては困った事態になる」
「では、そういうことにしておきます。いずれにせよ、ルーティエ様には一度外に出て、新鮮な空気を吸っていただくことが最善かと。病は気からと申しますし、これから寒くなる季節だというのにこの状態のままでは、本当に体を壊してしまいます」
「アーリアナの想像は極端過ぎだろう。そもそもルーティエ王女を宮殿の外に連れ出すことはできない。陛下がお許しになっていないことは知っているはずだ」
「何を弱気なことを言っているんですか。そこをうまく説得するのがユリウス様の手腕の見せ所ですよ。それに、サーディス陛下はユリウス様の言うことならば、絶対に許してくださいます」
強く言い切ったアーリアナに、椅子に座っているルーティエは小首を傾げる。サーディスがユリウスの言うことならば必ず許してくれるというのは、どういう意味なのかわからなかった。サーディスにとってユリウスという四番目の息子は、取るに足りない相手ではないということだろうか。
数十秒ほど口を閉ざしていたユリウスの視線がルーティエに向く。いまだに慣れない白い仮面に自然と体が強張る。
「あなたは宮殿の外に、オルガ帝国の街並みや生活に興味がありますか?」
投げかけられた質問に、ぱちりと目を瞬く。見えない目がじっとルーティエに注がれていることを感じる。不思議と嫌な気持ちにはならなかった。向けられる視線が、ただ純粋にルーティエのことを知ろうとしているものに思えたからかもしれない。
(私がここに来た意味を、そして、私のやるべきことを見つけられるかも)
悩んだのはほんの一瞬だった。ルーティエは「はい」と頷き返す。きっとこれが、ここが一歩を踏み出すときだと思った。
「そうですか、わかりました」
それ以上言葉を続けることなく、ユリウスは部屋から足早に出て行く。あっさりと立ち去ってしまった相手に驚くルーティエの視界の端で、アーリアナが片手の握り拳を胸の前で小さく上げていた。
翌日、ユリウスは三日後に宮殿の外、ザザバラードの街に出る許可をもらったと言った。もちろん一人ではなく、護衛という名の監視役としてユリウスが一緒に行くことが条件ではあったが、それでもすぐに許可が出たことにルーティエは驚いてしまった。
「ほら、やはりユリウス様のお言葉でしたら、陛下は耳を貸してくださったでしょう」
無表情ながらも得意げな口調でアーリアナは言った。
ルーティエは初めて目にする宮殿の外の、街の姿を思い描き、暗い胸の内にわずかなりとも明るい陽光が降り注いでくるように感じた。
〇 〇 〇
ザザバラードの街に出かける当日、ルーティエは簡素な服装で大宮殿の中央広間にいた。
黒髪に黒い瞳の人間が多いオルガ帝国では、ルーティエの容姿はどうしても目立ってしまう。アーリアナの助言もあり、薄紅色の髪は帽子の中に押し込み、一般の人々が着る飾り気のない上着とスカートに身を包んだ。一見しただけでは、フロレラーラ王国から嫁いできた王女とは誰も思わないだろう。
質素な服装は嫌いではない。フロレラーラ王国で庭の手入れをする際には、動きやすく、汚れてもいい格好を常にしていた。庭師のような服装を両親はあまり良く思っていなかったのかもしれないが、兄や弟は笑って受け入れてくれていた。
庭を手入れしていたときの気分を思い出し、ルーティエはかすかに笑みをこぼす。やはり自分は黙って部屋に閉じこもっているよりも、外に出て動いていた方が明るい気持ちでいられるらしい。
ちらっと横を見て、隣に佇む人物を上から下まで眺める。
「ユリウス様はその格好で外に出られるんですか?」
ルーティエから話しかけられると思っていなかったのか、驚いたような間を置いた後、ユリウスは口を開く。
「見苦しい格好でしたら申し訳ございません。ザザバラードは治安の良い場所で、素性を隠す必要は本来ないのですが、俺が皇子だとわかると民が畏縮してしまいますので、仮面をローブで隠させてもらいます」
ユリウスはいつもの黒い服に、マントの代わりの黒いローブを羽織っただけで、特にこれといった変装をしていない。彼の場合は仮面を除けば特徴的な部分はないので、顔が隠せれば問題ないのだろう。
「黒いローブを被っている姿の方が、別の意味で目立ちそうな気もしますけれど」
「オルガ帝国は一年を通して寒い場所ですので、頭からローブやコートを被っていてもさして目立たないんです。もちろんフロレラーラ王国では確実に不審者でしょうが」
確かにと、ルーティエは同意していた。素直なルーティエの反応に、ユリウスがどこか戸惑う気配があったものの、すぐに平静な様子に戻る。
(主従揃って感情をほとんど表に出さない、という取り決めでもしているのかしら)
ルーティエは密かに嘆息する。
家族にしろレイノールにしろ、フロレラーラ王国でルーティエの傍にいた人たちは、みんな感情表現が豊かだった。顔を見れば大抵の気持ちを察することができた。それに対して、オルガ帝国の人間は感情を表に出さないことが多い。
特にユリウスは仮面を着けているせいで、表情を見て取ることができない。長年一緒にいれば、いつか笑った顔を見る日が来るのだろうか。今のところまったく想像できなかったが。
(この人は、いつもにこにこ笑っていたレイとは大違いだわ。レイと一緒のときは、こんな風に顔色をうかがうことなんて全然なかったのに……)
厳密に言えば、仮面を着けているので顔色をうかがうことはできないのだが。ルーティエは白い仮面を一瞥し、再び小さな吐息をもらした。
「とりあえず早く出発しましょう。日が暮れる前には大宮殿に戻らないと、貴族や高官が不信感を抱くかもしれません」
「わかりました。でも、護衛は本当に必要ないんでしょうか? 彼、ええと、クレストに付いて来てもらった方が安全じゃありませんか?」
「問題ありません。先ほど話した通り、治安の良い街ですから。もし何かあった場合は、責任を持って俺があなたを守ります」
だから安心して街を見て回ってくださいと、当たり前のように続けられた言葉に、ルーティエは一瞬反応が遅れてしまった。しかし、すぐに努めて平静を装って頷き返す。
広間から正面出入り口に向かって歩き出すユリウスの半歩後ろを付いて行く。足を前に進めながら、ルーティエは胸元に手を当てて、上着をぎゅっと握りしめた。たとえほんの一瞬でも、ユリウスに対して心強いと感じたことに、後ろめたい気持ちがあった。
(オルガ帝国の人間は全員、フロレラーラ王国にとって敵なんだから……)
夫になった相手でも、決して油断してはいけない人物だ。心を許すなんてありえないと、自分自身に言い聞かせる。前を歩くユリウスの姿から、視線を逸らした。
「大宮殿から街までは正門を出てすぐの距離です。徒歩でも平気ですか?」
「大丈夫です。歩くのは嫌いじゃありませんから」
「オルガ帝国は領土内に山が多く、山中にある街や村も少なくありません。マリヤン大宮殿も元は山があった場所を崩して造った宮殿で、ザザバラードには坂道も多くあります。疲れたらすぐに言ってください」
平坦な地域が多かったフロレラーラ王国とは反対に、オルガ帝国は勾配の激しい土地になっている。ユリウスが言った通り、マリヤン大宮殿の建つ場所も元々は山で、頂上部分に大宮殿が、そして宮殿から見下ろすような形でザザバラードの街が広がっていた。
フロレラーラ王国とは似ても似つかないオルガ帝国。そんな国で、どんな風に国民は暮らしているのか。いや、どんな国民が暮らしているのか。ルーティエは純粋に知りたいと思い始めていた。
出入り口まであと一歩というところで、第三者の声が広間に響き渡った。
「誰かと思えばユリウスか。お前は相変わらず辛気くさい格好をしているな」
ざらついた低い声音は、ルーティエの気分を最底辺までたたき落とす。けれど、内心とは裏腹に顔には無表情を貼り付けた。嫌な表情を浮かべているのを見られたら、辛辣な皮肉を言われることになると容易に想像できるからだ。
広間の奥にある階段から下りてくる相手を見たユリウスは、さりげなくルーティエの一歩前に移動する。そして、相手に対して丁寧に頭を下げた後、常の平坦な声を放つ。
「おはようございます、アルムート兄上。この時間帯に兄上が宮殿内を歩いておられるのは珍しいですね」
金や銀といった無駄な装飾品を身に着け、煌びやかな細工が施された服を着た人物、アルムート第一皇子は最後の一段を下りると、ふんと冷たく鼻を鳴らす。背後には護衛の兵士や使用人、取り巻きの貴族といった面々が控えており、存在感のあり過ぎる嫌な空気を放っている。
「昨夜キレイナ家で開かれた晩餐会があまりにつまらなかったのでな。興を殺がれてとっとと戻ってきた」
要するに、昨日は夜遅くまで馬鹿騒ぎをしないで宮殿に戻ってきたから、本来ならば寝ているこの時間帯に起きている、ということらしい。時刻はすでに昼近くになっている。
正直、できるだけ関わり合いになりたくない人物なのだが、相手が相手なだけに無視することもできない。腐っても第一皇子、一応皇位を継承する予定の人物だ。
アルムートに関しては、フロレラーラ王国で耳にした噂はほぼすべて正しかった。実際に接したのは数回だが、とにかく尊大で高圧的、自尊心が高く、自分以外の人間を完全に見下している。当然人質であるルーティエも軽蔑の対象になっていた。
「そうですか。この時間帯は兵舎の方で訓練が行われています。時間があるならば、そちらに顔を出してみてはいかがでしょうか? 兄上は昔から剣の腕が立ちますから、兵士たちにとっても良い鍛錬になるかと思います」
「黙れ、ユリウス。貴様に指図されるいわれはない。そもそもこの俺が兵舎などという汚い場所で、しかも戦うしか能のない連中に交じって訓練など、馬鹿馬鹿しい」
ユリウスと同じ黒い髪に、傲慢さがにじみ出ている吊り目の黒い瞳、鼻筋の通った端整な顔立ちをしている。だが、常に浮かべられているすべてを見下すような眼差しと表情が、整った容貌を台無しにしてしまっていた。
ユリウスは平静を崩さず、自らの兄へと声をかける。
「差し出がましい口をきいて、申し訳ありません。それでは、出かけるところでしたので、我々は失礼させていただきます」
ユリウスはアルムートの冷ややかな態度を気にした様子もなく、大人びた口調でそう告げると背後のルーティエを促して出入り口へと向かう。しかし、一歩を踏み出すよりも早く、アルムートのざらりとした声が放たれる。
「何だ、後ろにいるのはどこかのみすぼらしい使用人かと思えば、貴様の妻か。聞いた話によると、自室にほとんどずっと閉じこもっているらしいな。まったく、貴様に負けず劣らずみじめで辛気くさい娘だな。暗くて見苦しい者同士、お似合いじゃないか」
鼻を鳴らして嘲笑するアルムートに続いて、背後にいる貴族たちからもくすくすと笑い声がもれる。ルーティエはむっとしたものの、表情には出さないように気を付けた。
確かにこの国に来てからのルーティエは、自分でもわかるほど塞ぎ込み、じめじめとした雰囲気を出していたかもしれない。だが、ルーティエのことならまだしも、弟であるユリウスのことまで馬鹿にする必要はないだろう。
(ああ、もう、思い切り反論してやりたい! でも、ここでそれをしたら第一皇子に逆らったってことで私の、いえ、ユリウス様の立場もより悪くなるだけだわ。フロレラーラ王国のためにも我慢しないと)
ルーティエは嘲笑の声を無視する。さっさとこの場を去るのが一番だと考えていると、思いがけない冷ややかな声がすぐ傍から放たれた。
「失礼ながら、兄上。未熟で不出来な自分のことならば、何を言われても事実ですから構いません。ですが、我が妻を悪く言うことはやめていただけませんか?」
驚いて声の主へと視線を向ければ、歩き出そうとしていた足を戻し、再びアルムートと向き合っているユリウスの姿がある。
「彼女は慣れない土地に突然連れて来られ、知り合いが誰一人としていない環境に置かれています。気分が塞ぐのは当然です。ああ、常にたくさんの取り巻きを引き連れている兄上には、一人の孤独など理解できないかもしれませんが」
いつも凪いでいる空気が、冷淡な色を帯びていく。静かな怒りが漂っている。
「いえ、むしろ兄上は孤独の恐ろしさを誰よりもご存じだからこそ、そうやって周囲に大勢の人間をはべらせているのでしょうか」
ひやりと冷たい音色は、誰かに似ていると思った。一体誰に似ているんだろうかと考えていたルーティエの耳に、苛立ちと憤怒で歪んだ大声が突き刺さってくる。
「貴様、この俺を愚弄するつもりか!?」
「まさか、そんなつもりはありません。ですが、他人を悪し様に言うことは、兄上自身の立場を貶めることになるかと」
「俺に対して生意気な口をきくな、ユリウス! たかが側室の子どもの分際で、立場をわきまえろ! 本来ならば貴様など大宮殿にいるべき人間ではない!」
父上のお情けで育ててもらい、この宮殿に身を置いているくせにと、アルムートの怒鳴り声が響く。怒りを向けられたユリウスの横顔からは、その内心を察することはできない。だが、仮面の下にはぞっとするほど冷えた瞳がある気がした。
更にアルムートが文句を言おうと口を開いたところで、瞬時に周囲の空気が変わる。
「一体何の騒ぎだ、騒々しい。広間で大声を出すとは、どこの痴れ者だ」
夜の闇よりも暗く、静かだけれど威厳のある声。自然とルーティエの体は緊張で強張っていく。いや、ルーティエだけでなく、この場にいる全員の背筋がぴんと伸びたような気がした。
視線をそちらに向ければ、マリヤン大宮殿の正面出入り口から入ってくる一人の男の姿があった。肩までの黒髪に、見る者を凍らせる冷たい瞳、黒を基調とした動きやすそうな服装に身を包んでいる。
外から入って来たところを見ると、どこかに出かけていたのだろう。護衛の兵士を二人だけ連れた身軽な様子で、サーディスは広間へと足を進めてくる。
「おかえりなさいませ、陛下。そのご様子ですと、朝早くにどこかの視察に行ってこられたのでしょうか?」
「ああ、ヴェーラ領に行ってきた。早い時間の方が、無駄に騒がしくなくていい」
「ヴェーラ領……流行病が進行していると聞きましたが、いかがでしたか?」
「初期の段階ですぐに医師と薬を手配したから問題ない。すでに沈静化しつつある」
「それはよかったです。ですが、陛下が自ら視察する必要はなかったのでは? 命令してくだされば、自分が出向きましたが」
「私は流行病で死ぬほど弱くはない。それに、そなたの仕事は今あるもので手一杯だろう。となれば、私自ら行くしかあるまい」
口を挟む間もなくぽんぽんと交わされるユリウスとサーディスの会話を、ルーティエだけでなくアルムートも黙って聞いていた。さすがのアルムートも、父親である前に皇帝として振る舞うサーディスには、気軽に声をかけられないらしい。
「ご心配していただかなくても、お申し付けくだされば時間はいくらでも作ります。大抵の場所ならば、早馬で一日ほど駆ければ着く距離です。問題ありません」
「どうせ睡眠時間を削って、どうにかするつもりだろう。無理をして倒れられでもした方が、私にとってはいい迷惑だ」
威圧的なサーディスを前にしても、変わらぬ様子で接するユリウス。交わされる会話には、ルーティエが両親とするようなお互いへの親愛は欠片も感じられない。それでも険悪な雰囲気はなく、事務的ではあるが互いのことをよく理解していることがうかがえる。
二人の会話を聞いていて、ルーティエはようやく先ほどの疑問に答えを出すことができた。ひやりとしたあのユリウスの声は、サーディスの声に似ていた。やはり親子だということだろう。
「それで、そなたはどこかに出かけるところだったのか?」
「はい。陛下にお許しをいただきましたので、街まで出かけてこようと思っております」
「そうか。ならば、早く出かけるんだな。こんな場所でぐずぐずしていると、高官どもに仕事を押しつけられるぞ」
すっと、ユリウスに向けられていたサーディスの視線が、ルーティエへと移る。こうしてサーディスと向かい合うのは、ユリウスと婚姻を結んだあのとき以来だ。それ以降は、日々忙しく政務をこなし、なおかつあちこち出歩いているらしいサーディスと顔を合わせる機会もなかった。
サーディスに対する恐怖は消えない。それでも目を逸らすことだけは絶対にしたくないと、ルーティエは突き刺さる眼差しを真っ直ぐに受け止める。無言で睨み合うこと数秒、ふと黒い瞳がかすかに和らいだような気がした。
「その目と頭が飾りでないのならば、この国とそこに住まう民とを、自分自身で見極めてみろ」
もはや話すべきことは何もないとばかりに、サーディスはルーティエに背を向けて大宮殿の奥に向かって歩き出す。アルムートが慌ててその背中を追いかけ、
「父上、ユリウスとあの小娘のことですが」
と話しかけるものの、
「私は忙しい。そなたに構っている暇はない」
とサーディスは一番目の息子の言葉をばっさりと切り捨てた。
「自分自身で、この国を見極める……」
遠ざかっていく後ろ姿を見つめながら、ルーティエは小さく呟いた。
どんな意図があって、サーディスがそんなことを言ったのかは理解できない。それでも、不思議なことにルーティエの胸の中にすとんと落ちて、しっかりと根付く。
「さあ、行きましょう。早く行かないと、街を見て回れる時間が少なくなります」
冷酷無慈悲で、残虐非道。人を人とも思わない所行の数々に、自らの手で殺した人間も数知れず。最低最悪の独裁的な皇帝。フロレラーラ王国で聞いていた噂の数々は、本当に正しいものなのだろうか。
ユリウスとの会話が嘘ではないのだとしたら、流行病があった場所に自ら足を運び、その様子を自分自身の目で確かめているらしい。冷酷で、残虐で、独裁的な皇帝なのだとしたら、そんなことをするとは到底思えない。
(サーディスがフロレラーラ王国を侵略したのは紛れもない事実。あの男を憎む気持ちを消すことはできない。だけど、私は自分の目で確かめたい、この国のことを。そう思うことは、フロレラーラ王国に対する裏切りになるのかしら……?)
ルーティエはユリウスに続いて歩みを進めながら、答えの出ない、否、答えを出すことを拒んでいる疑問をぐるぐると考え続けたのだった。
ザザバラードの街を一目見たルーティエは、その様子に驚いてしまった。
「すべてを見て回る時間はありませんので、どこか行きたいところなどありましたら教えてもらえますか?」
ルーティエの想像よりもずっと明るく、賑わいのある街並みに、思わず足を止めて瞬きを繰り返す。仮面を隠すようにすっぽりとローブを被ったユリウスは、ルーティエが足を止めたのに気が付くと、「どうかしましたか?」と振り返る。
ルーティエは街並みを眺めながら、湧き上がった疑問を口にした。
「あの、今日は何か特別な行事が行われている、わけではないんですよね?」
「今日は市も立っていませんし、収穫祭も終わったばかりだから祭りの類もしばらくありません。俺が知る限り、特に行事は行われていないはずです」
「そう、ですか……。では、これがいつも通りの光景、ザザバラードの日常の街並み、ということなんですね」
ほうと大きく息を吐き出し、ルーティエは周囲をもう一度じっくりと見渡す。
オルガ帝国は、もっと暗くて、明るい雰囲気など皆無の場所だと思っていた。冷酷な皇帝に支配され、その国の民はきっとひどい扱いを受けているんだろうと考えていた。
しかし、そんなルーティエの考えは、実際に街に出て、そこに行き交う人々の姿を見た瞬間消し飛んでしまう。
大声を上げて商いをする者、悩みながら買い物をする者、元気に走り回る子ども、散歩を楽しむ老人。大勢の笑顔や笑い声が、街の中には確かにあった。
フロレラーラ王国に比べると幾分落ち着いた空気が流れてはいるものの、民の姿を見れば彼らが圧政に苦しんでいないことは一目瞭然だった。むしろその逆で、大勢の民が穏やかな生活に満足しているように感じられる。
「この辺りの店を覗いてみてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ。何か必要なものや欲しいものがありましたら、遠慮なく言ってください」
「ありがとうございます。でも、欲しいものは今のところありません。食料品や衣服などの生活必需品を扱う、一般の民が多く利用するお店を中心に案内してもらえないでしょうか」
まだそれほど寒いわけではないが、コートやローブを羽織った人々の姿も多い。そのため、黒いローブを羽織ったユリウスの姿を気に留める人もおらず、帽子を深く被ったルーティエを気にする人もいない。ここにいる二人組が、オルガ帝国の第四皇子と、フロレラーラ王国から嫁いできた第一王女だとは、誰一人として夢にも思わないだろう。
「見たところ、新鮮な野菜や生肉は少ないようですね」
「国柄ゆえ、基本的には干し肉や魚の燻製、乾燥させた野菜や果物が中心です。主食はサツマイモやライ麦、ジャガイモで、こちらはできるだけ安い値段で流通させています」
「そうですか。収入が低い人々でも、お腹を満たすことができるということですね」
「民の衣食住を充実させることを、サーディス陛下は最優先事項にしています」
「……サーディス陛下が」
衣服は寒さ対策のためか、厚手の布や毛皮で作られたものが数多く揃っており、他に木綿や麻などの手軽な値段で買える服も並べられている。鮮やかで華やかな服が多いフロレラーラ王国と比べると、黒や茶色といった落ち着いた色味の機能を重視した服が多いように見受けられた。
「貿易が盛んなフロレラーラ王国と比較すれば、流通している品物の種類は格段に劣るとは思います。けれど、国民が不自由なく暮らすために必要な品物は、食料を含めてきちんと取り揃えているつもりです」
食料品や衣服だけでなく、他の生活に必要な品物にも、それに見合った適正な価格が付けられている。それは一にも二にも、国が正しく管理している証拠だった。
これはどんな食べ物なのか。この布の値段は高くはないのか。これは何に使う道具なのか。あちこちの店を覗き、質問を繰り返すルーティエに対して、ユリウスは意外にも嫌な素振り一つ見せず、一つ一つ丁寧に答えてくれた。
「現在のオルガ帝国では鉄鉱石が豊富に産出しており、鉄鉱石そのものや加工した品々を輸出しています。十年ほど前に始まったことですが、国を挙げて尽力した結果、ここ数年で安定した取引が行えるようになりました」
迷うことなく答える様子からも、彼がいかに様々な知識を身に付けているかがよくわかる。見せかけの、形だけの皇子ではない。
「でも、この辺りの国はオルガ帝国とは貿易を行わないのでは?」
「貿易相手はここから離れた場所にある国や、あなたが名も知らないような小さな国々です。ただし、地形的な面もあって、大量の物資を頻繁にやりとりすることはできず、フロレラーラ王国やアレシュ王国と比較すればごくわずかとなります」
オルガ帝国は高い山脈に囲まれ、道が険しい場所も多く、何より雪が大量に降る時季になると、寸断されてしまう道も多数あるらしい。そのこともあって安定した貿易を行うことはできないものの、自国では手に入らない生活必需品の類は優先的に輸入して、国民に不自由のない暮らしを送ってもらえるようにしているんだと、ユリウスは教えてくれた。
ふと足を止めた店の軒先に、繊細な刺繍が施された衣料品が並べられていた。細やかで美しい刺繍が目を引く品々に、思わずルーティエの顔が綻んでいく。
「とても綺麗な刺繍。こちらは動物、こちらは植物の模様ですね。こんなに鮮やかで繊細な刺繍、フロレラーラ王国では見たことがありません」
色鮮やかな糸で形作られた刺繍は、見れば見るほど美しいものだった。すごいと感嘆をもらすルーティエに、店主と思しき四十ほどの女性が「ありがとうね」とにっこりと笑う。嬉しそうな様子は、フロレラーラ王国の民と何ら変わらない姿だった。
「寒い土地柄のせいでしょう、昔からオルガ帝国では防寒着や絨毯など、織物製品の技術が高いんです。この刺繍もその一つとなります」
「かなり精巧な品ですし、もしかしてこれも輸出しているんですか?」
「いえ、オルガ帝国は瘦せた土地が多く、作物は育ちにくい。最低限綿花なども栽培していますが、圧倒的に量が少ないこともあり、逆に布の類は輸入している方が多いです。布が貴重な分、破れても繕って繰り返し使う習慣があって、それも刺繍が発達している所以だと思います」
ルーティエはオルガ帝国のことを何も知らなかった。噂で耳にしたことを鵜吞みにし、勝手に想像を膨らませ、自分の望むオルガ帝国という国を作っていた。
隣国なのに、今回こうやって関わるまで知ろうとしなかった。確かにフロレラーラ王国にとってオルガ帝国は脅威であり、事実侵略をされた国ではある。だが、自分を含めてフロレラーラ王国は、あまりにも隣国に対して知識不足だった気がする。
(私はこれまで何も知らずに生活してきたのね。こうやって知ろうとすれば、たとえ王国にいても知ることができる事実がたくさんあったのに……)
自らの無知を心の中で恥じるルーティエの前に、柔らかな若草色の肩掛けが差し出される。色とりどりの花の刺繍が施されたとても綺麗な品だった。驚くルーティエに、ユリウスは肩掛けを手渡す。
「どうぞ、差し上げます」
「え? いえ、ですが、いただく理由がありません」
「オルガ帝国の技術を、民が作り上げたものを褒めてもらったお礼です。それに、これからオルガ帝国は寒くなるのでちょうどいいかと」
迷ったものの、ルーティエは肩掛けを受け取ることにした。丁寧に施された花の刺繍は本物の花ではないが、本物の花と同じようにルーティエの心を温かくしてくれる。
小さく笑みをこぼすルーティエは、不意に強い視線を感じて肩掛けから顔を上げた。ローブによって隠されているが、仮面越しにユリウスが真っ直ぐに自分を見ているのがわかった。何となく恥ずかしくなって、ルーティエは顔を隠すように視線を逸らして口を開く。
「ユリウス様はこの国のことを本当に大切に想っているんですね」
「はい。この国とこの国に住む民が、俺にとってのすべてですから」
いつもの抑揚の薄い声ではない。穏やかで優しい声音には、言葉通り国や民を愛する気持ちが含まれている。気付かれないようにそっと目を向けると、ローブの中でかすかに口元が緩んでいるのが見えた。
国を愛する姿は、年相応の人間らしさがある。笑顔とは到底言えないものの感情のにじんだ様子に、ユリウスに対する嫌悪感が幾分薄まった気がした。
その後も日が暮れる直前まで、ルーティエはザザバラードの街を歩き回った。初めて見るもの、初めて知ることがたくさんあり、いつの間にかただ純粋に街を巡ることを楽しんでいた。
もちろん、いくらオルガ帝国のことを知ったとしても、フロレラーラ王国を侵略したことは絶対に許せない。ルーティエが抱く敵愾心は簡単には消えないし、今後も完全に消えることはないだろう。
だが、知れば知るほど、疑問は大きくなっていた。百の噂よりも、他人の言葉よりも、自分の目で見て耳で聞いたこと、自分が感じたことが正しいとわかっている。だとしたら。
「……こんなに豊かで穏やかな国ならば、どうしてフロレラーラ王国を侵略したの?」
ぽつりともれたルーティエの声は、ユリウスの耳に届くことはなく、夕食の買い物で賑わい始めた街の喧騒に紛れ、溶けて消えてしまった。
「国王、という役目はとても重要で、意味のあるものよ。でも、とても孤独な立場でもあるわ。そんな国王を支えるのが妻である王妃の役目で、愚痴も弱音もすべて受け止めて、何があろうとも夫の傍で支え続けるの」
儚げな容姿に心優しい母親としての顔を持ち、けれどイザベラはフロレラーラ王国の王妃としての務めを、いつだって凜とした眼差しでこなしていた。
「大変だけど、でも、妻にしかできない幸せな役目でしょう?」
国王が国を治める者ならば、王妃は何をするの? 幼い頃ルーティエがそう尋ねたとき、イザベラは微笑みながらそう教えてくれた。
困難を二人で乗り越え、喜びも悲しみも分かち合って過ごす父と母の姿が、ルーティエにとっては理想だった。両親のような夫婦になりたい。それはルーティエには叶えることができない夢となったが、ルーティエはルーティエなりに新たな役目を果たしていくべきだろう。
ザザバラードの街に足を運んでから三日、バルコニーに出ていたルーティエは深呼吸を二度繰り返す。そして、心の中で「よし」と気合いを入れてから、部屋の中へと戻った。
テーブルの上に置かれた呼び鈴を手に取り、軽く振って音を鳴らすと、少しの間を置いてコンコンと扉をノックする音が聞こえてくる。どうぞと声をかければ、すでに見慣れてしまった侍女が入ってきた。
「失礼いたします、何かご用でしょうか? 昼食はつい先ほど完食されたばかりですが、もう空腹になったということでしょうか、なるほど。ルーティエ様は意外と大食でございますね。では、料理長に頼んでパイでも作らせてきましょうか?」
一方的に言葉をぶつけてくるアーリアナにもすっかり慣れてしまい、最初のときのように呆気に取られることもなくなった。オルガ帝国に来てから一番会話をしている相手が彼女なので、それも当然のことだろう。
「お腹はいっぱいだからパイは今度でいいわ。今はあなたに教えて欲しいことがあるの」
「私に答えられることでしたら。あ、ちなみに私の体重は天地がひっくり返ったとしても絶対に教えませんよ。ルーティエ様のご命令でも不可能でございます」
「あなたの体重をわざわざ聞くはずがないでしょう!」
思わず大きな声を出してしまう。いつの間にか、ルーティエもまたユリウス同様アーリアナに調子を崩されることが増えている。それを嫌だと感じないのは、大なり小なり彼女に対して親しみを感じ始めているからかもしれない。
ルーティエは短く息を吐く。入れすぎていた気合いがちょうどよく解れた気がした。
「聞きたいのは別のこと。あなたはユリウス様が幼い頃から仕えているって聞いたけれど、出身もこの国なのよね?」
「はい、そうです。ユリウス様が十になる頃からお仕えしております。生まれも育ちもオルガ帝国の生粋の帝国人でございます。ですが寒いのは大の苦手ですので、これからの季節を考えると絶望的です。ちなみに寒さをしのぐ最高の方法は火を点けた暖炉の前を陣取ることだと思います。ついでに温石は持ち運びには便利ですがあまり効果はありません、寒過ぎるとすぐに氷と同じになりますから」
聞いてもいないことをぺらぺらと喋るアーリアナの言葉を軽く聞き流し、ルーティエは黒髪に黒い瞳と自分とは似ても似つかない容姿をしている相手をじっと見据える。そして、くよくよと情けない自分に終止符を打つ言葉を紡ぐ。
「私が教えて欲しいのはこの国、オルガ帝国のことと──ユリウス・エリシャ・ノア・オルガ、私の夫となった人のことよ」
ルーティエが迷いなくそう言い放つと、アーリアナは常の無表情を崩し、きょとんとした表情を浮かべる。そのまま瞬きを数度繰り返すアーリアナの姿に、ルーティエは帝国に来てから初めて満面の笑みを浮かべたのだった。
それから数時間後、ルーティエは扉の前に仁王立ちをし、ようやく戻ってきた相手に対して声をかける。
「おかえりなさいませ」
にっこりと笑みを浮かべ、ドレスの裾を摘んで挨拶をする。多少ぎこちない笑みになってしまったかもしれないが、三十回ほど練習した中では一番の出来だと思う。これならば礼儀作法にうるさかった父も、ぎりぎり及第点をくれるだろう。
顔に浮かべた笑みは崩さないように気を付けながら、ドレスの裾を離して目の前にいる相手へと視線を注ぐ。そこには、扉を開けて部屋に入って来た、まさにその状態のままで綺麗に固まっている人物の姿がある。
「おかえりなさいませ、ユリウス様」
もう一度同じ言葉を、今度は名を呼んで繰り返せば、固まっていた人物、相も変わらず全身を黒い服で包んだユリウスがはっとしたように身じろぎをする。そして、少しの間を置いて、戸惑いをあらわにしながらも唯一はっきりと見える薄い唇を動かす。
「……ただいま、戻りました」
途切れ途切れの言葉と様子から、ユリウスが浮かべているだろう困惑の表情を、ルーティエは容易に想像することができた。主従揃って初めて無表情を崩すことができたと、ルーティエは唇が更に吊り上がるのを感じる。
「お食事はいかがいたしますか? アーリアナを呼んで用意してもらいますか?」
先手の一撃は上手くいった。ここからは一気に畳みかけて行かなければと、心の中で気合いを入れ直した。子どもの頃、初めて庭師に交じって害虫駆除をしたときのことを思い出し、更に気持ちを奮い立たせる。
笑みを浮かべつつも、喧嘩をするかのような勢いで言葉を投げつけるルーティエに、ユリウスは圧倒されたかのごとく唇を引き結ぶ。ずっと部屋に閉じこもってめそめそと過ごし、意図的に自分と会わないよう努めていた相手が、何の前触れもなく突然笑顔で、しかも勢いよく話しかけてきたら誰だって戸惑うだろう。
「食事よりも、あの、今日はまだ起きていらっしゃったんですか?」
「この時間は元々眠っておりません。健康のためにできるだけ早寝早起きをするようにしていますが、眠るにはまだ少し早い時間です」
時刻は夜の十時頃。いつもならば寝室に閉じこもり、ユリウスが帰って来たことを知りつつも気付かない振りをして過ごしている時間だ。当然出迎えなどしない。
真っ直ぐに視線を向けて返事を待つこと数秒、困惑と驚きが抜けきらない様子でユリウスは額に手を当てた。初めて教会で会ったときやサーディスと話していたとき、そしてアーリアナと会話をしているときにも発しなかった当惑の声音で言う。
「そう、ですか。いえ、そうではなくて、あの」
予期していなかった事態に困った様子を見せるユリウスに、自分よりも一つ年齢が下、まだ少年と言っても差し支えのない相手だということを実感する。見ず知らずの男性に抱いていた恐怖心が、心持ち和らいでいく。
「突然ですが、ユリウス様にいくつかお願い事があります。聞いていただけますか?」
四歩ほどの距離を置いてユリウスと向かい合っていたルーティエは、笑顔を消して一歩足を前へと踏み出す。ルーティエが一歩近付いた分、一歩後ろに下がりつつユリウスは答える。
「何でしょうか。俺に叶えられる範囲のことでしたら、尽力いたします」
「まず一つ、この部屋のバルコニーですが、私の好きなように使わせていただいても構いませんか?」
まさかそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。白い仮面の向こう側で目が丸くなるのを、見えなくても感じられる気がした。
「バルコニー、ですか? それはもちろんあなたの好きに使っていただいて構いませんが、何をするつもりですか?」
「花を育てたいと思っています、鉢植えの花を。この居室は何不自由なく調度品が調えられてはいます。でも、私には殺風景でどこか寒々しい気がいたします。ですから、綺麗な花の姿で飾ることができれば、と思いまして」
「花を育てる、ですか。止めるつもりはありませんが、オルガ帝国はこれから厳しい寒さに覆われていきます。なので、花は恐らく」
育たないでしょう。あるいは、育ったとしても花が咲く前に枯れてしまうかと思います。声に出されなくても、小さく首を横に振った姿でユリウスが言いたいことは理解できた。けれど、とルーティエは迷わずに答える。
「寒さに強い花もありますし、それにもし枯れてしまったとしてもそれはそれで仕方がないと諦めます。ですが、私は最初から不可能だと、無意味だと諦めて実行に移さない、といったことはしたくはありません」
枯れてしまう可能性があるのならば、枯れないようにできるだけ手を尽くせばいい。寒さに負けてしまいそうならば、負けないように手をかけて育ててあげればいい。
それでも枯れて、花が咲かなかったとしても、ルーティエは「最初からやらなければ良かった」とは絶対に思わない。
数秒の沈黙の後、ふっとユリウスの口の端が和らぐ。白い仮面は仮面のままで、当然変化などありはしないのだが、不思議とその仮面を最初に見たときのような驚きや気持ち悪さは感じなかった。
「そうですか、わかりました。ルーティエ王女のお好きなようにしてください。もし必要な物があれば、アーリアナに言っていただければ準備させますので」
「ありがとうございます。ですが、そのお気持ちだけで結構です。必要な物は自分でお願いして用意してもらいます。使うのは私なのですから、その本人が自らお願いするのが道理ですもの」
強がりや虚勢ではなく、思った通りのことを素直に言えば、ユリウスの口元にはかすかな微笑が刻み込まれる。その笑みにルーティエが驚いている間に、ユリウスは「わかりました」と小さく頷いた。顔を上げたときには、表情は跡形もなく消え失せていた。
もしこの仮面がなければ、目の前にいる人物が何を考え、想い、感じているのか理解することができるのだろうかと考え、しかし、仮面があろうがなかろうが理解などできるはずがないと考え直す。白い仮面があろうとなかろうと、最悪な形で出会い、しかも望んでもいない、納得だってしていない政略結婚によって結ばれてしまったルーティエたちが、互いのことを理解できる日は永遠に来ないだろう。
(そう、理解することはきっとできない。でも、知ることはできるはずだから)
このオルガ帝国という国のことも、そして──目の前に佇む仮面を被った相手のことも。
ルーティエは胸元に当てた右手を強く握りしめ、そっと息を吐いてから言葉を続ける。
「もう一つ、私のことをルーティエ『王女』と呼ぶのはおやめください。私はもう王女ではございません。正しく呼ぶならば、ルーティエ元王女、ですね。ですが、王女だろうと元王女だろうと、夫が妻を呼ぶのには相応しくありません。ルーティエと呼び捨てで結構です」
早口で続ける。口を挟まれると意気込みが挫かれてしまいそうだった。
「それと、私に丁寧な言葉遣いをするのもやめてくださいませんか? 親しき仲にも礼儀ありと言いますし、お互いに対する礼節は最低限必要ではあります。けれど、度を過ぎれば逆に居心地が悪いだけです」
いかがでしょうかと目の前にいる相手を見据えれば、ユリウスはやや戸惑いながらも小さく頷く。
「わかりまし、いえ、わかった。そのようにします、いや、する」
「はい、そうしてください。では、アーリアナを呼びますね。さすがに昼食から大分時間が経ちましたから、お腹がぺこぺこです。できれば夕食はもう少し早い時間にしていただけませんか?」
ぎこちない口調で話すユリウスから視線を外して、ルーティエはテーブルに近付くとその上に置かれている呼び鈴へと手を伸ばす。言いたいことをとりあえず全部言い終えてすっきりしたこともあり、自然と空腹感が増していく。
帝国に来て数日は、精神的な落ち込みからあまり食欲が湧かず、用意してもらった食事も半分以上残す日々だった。けれど、ザザバラードの街に出てからは、できるだけ食べるように努めている。味にはまだ慣れないが、残すのは作ってくれた方に申し訳ない。それに、何をするにも体が資本だ。空腹では満足に動けなくなってしまう。
「まだ夕食を摂っていなかったのですか、いや、摂っていなかった?」
これは普通に話してくれるようになるまで、大分時間がかかりそうだと思った。呼び鈴を鳴らそうとしていたルーティエは手を止め、ようやく部屋の中へと入って来たユリウスへと視線を戻す。
「朝、昼、夜、すべてご一緒するのは難しいと思いますが、できるだけ一緒に食事をしたいと考えています。ユリウス様が嫌ならば、もちろん無理強いはいたしませんが」
「嫌なわけではない。ただ、夜は接見などの予定が入って遅くなる場合も多々ある上、昼は公務によって不規則、朝は鍛錬のためかなり早い時間帯になる。なので、一緒に食事ができる機会を持つのは正直難しい」
「朝はあなたに時間を合わせます。昼と夜はあなたの予定を優先させますので、ご一緒できそうな場合はアーリアナに伝えてください」
ユリウスという人が、自分と会わないようにするためだけにわざと忙しく振る舞っているわけではないことはわかっている。アーリアナ曰く、
「昔から人一倍努力をなさる方で、朝から晩まで勉学に励んでおられました。ここ数年は陛下から公務を任されることも多くなり、接見や視察、それから毎日欠かさず行っている鍛錬や様々な勉強も合わさって、毎日毎日ネズミよりも忙しなく働いておられます。将来の死因は過労です、間違いありません」
とのことだ。確かに、ユリウスは同年代の男性に比べると線が細い気がする。
「あくまでも、時間が合えばご一緒します、ということですから、無理に合わせるようなことはしていただかなくて構いません。あなたはあなたの予定を優先して動いてください」
「いえ、だが、あなたを俺の予定に無理に合わさせるわけには」
「朝早くから庭の手入れをすることも多かったので、早起きは得意です。昼はこれから色々挑戦する予定ですので、私の方が時間の都合が付かない場合も出てくるかもしれません。先ほど言った通り早寝早起きを基本としていますので、あまりにお帰りが遅い場合は先に食事をして休ませてもらいます。いかがですか?」
相手の言葉を遮って一息に告げる。いかがですかと聞きつつも、問いかけではなく宣言と呼ぶべき代物だった。状況に負けないように気合いを入れようと振る舞うと、意図的にしているわけではないのだがどうも喧嘩腰になってしまう。
ユリウスは圧倒された様子で口を閉じ、無言でルーティエを見つめてくる。ルーティエも負けじと視線を返す。視線を交わしつつも、新婚夫婦の甘い空気など皆無だった。
数秒の沈黙の後、ユリウスの口からわずかな笑みを含んだ吐息がもれる。笑い声はない。口元を緩ませる気配もない。それでも「わかった」と頷く様子は、どこか笑っているような雰囲気が感じられた。
「では、こちらも一つ頼みがある。あなたの俺に対する口調も改めてもらえないか?」
少しだけ考え、ルーティエは首を縦に動かした。
「ええ、わかったわ。それじゃあ、アーリアナを呼んで夕食にしましょう」
黒いマントを外すユリウスを横目に、ルーティエは呼び鈴を小さく鳴らす。ちりんちりんと鳴る軽やかな音色が、常よりもぎこちなさの和らいだ室内を彩る。
こうしてルーティエは部屋に閉じこもって塞ぎ込む、実りのない日々をやめた。胸の奥に居座り続ける憎悪は消えない。だが、望んではいない形で訪れたオルガ帝国という場所で、新しい居場所を見つけるべく一歩を踏み出したのだった。