四、街灯の灯りの中で(2)
あれから何時間が過ぎただろうか。
暗い車内で俺と燈子先輩は、ただ息を潜めて鴨倉哲也のアパートを見つめていた。
車の前後から照らす街路灯が、車内をボンヤリと照らしている。
……燈子先輩は、いまどんな気持ちで、あのアパートの窓を眺めているんだろう……
燈子先輩と鴨倉は、もう付き合って半年になる。
当然、燈子先輩もあの部屋に入った事があるはずだ。
その時は二人で楽しく、お茶でも飲みながらデートの計画を立てたのかもしれない。
燈子先輩が手料理を作り、二人は将来について話し合ったのかもしれない。
だが今はその同じ部屋に、別の女が一緒にいる。
……リアルに情景が浮かぶだけ、燈子先輩は
俺は横目で燈子先輩を見た。二人が部屋に入ってから、彼女はほとんど動いていない。
もちろん俺にだって、辛い・悲しい・悔しい気持ちは、今もある。
カレンと出会った頃、仲良くなり始めた時のドキドキ感、そして付き合う事になった時の嬉しかった気持ち、デートの時に俺に向けられたカレンの笑顔。
そして……つい数時間前まで、俺たちは恋人同士として誕生日を祝ったこと。
……その全てが裏切られたんだな、俺は……
今でもあの『カレンと鴨倉のメッセージ』はトラウマだ。
だがそんな辛い思いを、今まで救ってくれたのが燈子先輩だ。
燈子先輩が一緒の状況にいる・一緒に戦ってくれると思うと、俺は冷静さと前向きな気持ちを取り戻す事が出来るのだ。
それに俺はこれまで落ち込んだり、逆に冷静さを欠いて暴走しそうになった事があったが、その度に燈子先輩は時には慰め、時には厳しい言葉で
もし燈子先輩がいなかったら、俺は全てが嫌になって大学にも行かなくなり、家にひき籠っていただろう。カレンを
その結果、さらにカレンの気持ちが離れていくとしても……
「
不意に燈子先輩がそう尋ねた。
「え? あ、はい、そうです」
虚を
「彼女の誕生日だったんでしょ。何をしてあげたの?」
「渋谷のイタリアン・レストランを予約していたんです。そこでランチ・コースを食べて、その後は周辺の店を見て、少しゲーセンに行きました」
「渋谷のイタリアン? なんてお店?」
俺が店の名前を告げると「ああ、カンノーロが
「そうらしいですね。カレンも知っていたみたいで、そのカンノーロってヤツを注文してました。女性雑誌にでも紹介されていたんですか?」
するとしばらくの沈黙があった。
「そのお店、哲也と一緒に行ったことがあるの。まだ付き合って初めの方かな。話題のお店だから行ってみようって予約してくれて……」
俺は息を
俺の頭に浮かんだ事を、先に口にしたのは燈子先輩だった。
「もしかして、カレンさんも哲也と一緒に行ったのかもしれないね。そのお店……」
優しい口調だったが、抑えきれない悲しさがこもっていた。
そして俺にも……胸の中で苦い感情が広がっていた。
きっとカレンは今日、俺とデートをしている間も、ずっと鴨倉の事を考えていたのだろう。
それがあの『誰かと比べているような発言』だったのかもしれない。
俺は改めて鴨倉のアパートの部屋を見上げた。
カレンも本当にチョロイ女だ。
今日なんて鴨倉に、本命の燈子先輩が来れないから、カレンが代理で呼び出されているだけなのに、ホイホイ付いて行くんだから。
もっとも鴨倉も「オマエは代理だから」と言っているかは解らんが。
「カレンさんとは七月くらいから付き合い始めたのよね?」
燈子先輩のその言葉で、俺は想像から引き戻された。
俺は嫌な考えを振り払うために、逆に彼女に問いかけてみた。
「燈子先輩、先輩は二年になってから鴨倉先輩と付き合ったんですよね」
「そうね」
「燈子先輩はどうして鴨倉先輩と付き合ったんですか?」
俺にはそれが以前から少し疑問だった。
確かに鴨倉哲也はカッコイイ。イケメンな上、陽キャで周囲に人が集まるタイプの人間だ。
高校時代、大学、サークルと場所を選ばず、どのグループでも発言力があって女子達に人気がある。高校の文化祭でも、鴨倉がバンドのボーカルとして出演した時、一年から三年まで多くの女子生徒がキャーキャー言っていたものだ。
当然、大学内でもモテまくっていた。サークルに居る女子大の子は、三分の一は鴨倉が呼び込んだと言われている。
だが燈子先輩ほどの理性的な女性が、それだけで鴨倉に
燈子先輩のシルエットが少し動いた。アパートの方から正面に顔を向ける。
その横顔を
「哲也は、私にとって初めてなんだ……」
燈子先輩はポツリと言った後、少し間を置いてから話し始めた。
「大学二年になった時、周りの友達はみんな彼氏がいてね。周囲から『早く彼氏を作りなよ。今まで一度も彼氏がいなかったなんて、ありえない』って言われて……。『それが当然』みたいに言われると、そうしなきゃいけないのかなって思えて。あの時の私、色々あってなんか焦ってたのかもしれないね」
街路灯の
その口元だけが小さく動く。
「哲也は、私が高校に入った時からずっと熱心にアプローチしてくれていたから。哲也は見てくれもいいし、頭も悪くないし、スポーツも出来て、輪の中心になれる人間だからね。接し方も優しいしね。それで彼氏としてイイかなって思っちゃった。浅はかだね、私も」
『燈子先輩ほどの女性でも、そんな風に思うんだな』って、その時の俺はそう思った。
もっともそれは当然と言えば当然なのだろう。
「普通の女性は彼氏を選ぶ時って、そんな感じじゃないですか? それだからこそ燈子先輩は、今回の事も割り切っていられるんじゃないんですか?」
「割り切っているように見える? 私?」
街路灯の光の陰影の中、燈子先輩の声が静かにそう響いた。
「ええ、とても。彼氏に浮気された彼女には思えないくらい」
俺がそう答えると、燈子先輩はまた窓の外を見た。
「さっき『哲也はいつも輪の中心になれる』って言ったでしょ。でもね、哲也って本当は寂しい人間なんだよ。いつも集団の中心にいて発言力もあるからそう見えないだろうけど。近くにいて初めてわかったの。哲也が本当に苦しい時に助けてくれる人はいないんだなって」
燈子先輩はそこまで感情を押し殺したように淡々と語った。
「だから私、そんな時に哲也を支えてあげられる人になりたかったの」
その声は感情が押し殺された分、余計に悲しみに
……鴨倉の大バカヤロウ! こんなに素敵で、こんなに思ってくれる彼女がいるのに、なんで浮気なんかしたんだ……!
俺は嫉妬とは別の、何か悲しいような悔しいような怒りが込み上げて来るのを感じた。
その後、彼女は「ふふっ」と小さく笑った。何か自嘲的な笑いだ。
「なにが
だが俺のその問いに彼女は答えず、別の事を口にした。
「カレンさんって
「燈子先輩だって美人じゃないですか。学内一の美人って有名ですよ」
カレンが『サークル内ベスト五に入る可愛い子』なら、燈子先輩は『学内一の美人』だ。
比較にならない。だが彼女はこう言った。
「美人……美人……美人かぁ。そうね、私は子供の頃からそう言われてきたわ。『燈子は美人だね』って」
「周囲の女性からは、随分と嫉妬されたんじゃないんですか?」
「そういうのも少しあったかもね。でもね、一色君。美人と可愛い子が男子の人気を競ったら、君はどっちが勝つと思う?」
そう問いかけられて俺は戸惑った。
美人と可愛い子? その明確な区別はつかないが、どちらが勝つのだろうか?
「わかりません」
「普通はね、『可愛い子』が勝つのよ。男子が求めるのは、単なる容姿の美しさより、自分に向けられる可愛さじゃないのかな?」
「自分に向けられる可愛さ?」
俺はその言葉の具体的なイメージが
「そう。美人かどうかなんて、結局はその人の主観によるじゃない。万人が好む顔なんていないわ。だから最も平均的で欠点がない顔が『美人』って事になるんじゃない? それに対して『可愛い』は相手の心に訴えかけているの。『私を大切にして』って。男子にとっては『この子は自分が守ってあげなくちゃ』って気持ちになるんだと思う。そうじゃない?」
言われてみると、確かにそんな気もしてくる。『美人』については『外見的な容貌が整っているかどうか』という、ある意味で物理的な判断だ。
それに対して『可愛い』は心情を伴った感想だとも言える。『可愛い』と思った対象には、自分の保護欲がかきたてられるだろうし、自分のモノにしたいとも思うだろう。
さらに燈子先輩の言葉は続く。
「私はさぁ、中学時代から『美人だけど』って言われて来た。この『けど』の部分が重要なのよね、きっと」
そう語りながら燈子先輩の顔は、いつの間にか窓の外に向けられていた。
「私、このまま『可愛い子』に負け続けるのかな。一生、誰かの『守ってあげたい対象』にはならないんだな、きっと」
「燈子先輩は負けてなんか……」
……負けてなんかない……!
俺はそう言いたかった。だがそれより早く、燈子先輩が振り向いた。
「私だって、可愛くなりたいよ! でもこういう性格なんだもん! 今さら自分なんて変えられない! こんな態度しか出来ないんだよ!」
燈子先輩の目から、一気に涙が流れ出る。燈子先輩は、普段の大人びた態度がウソのように泣きじゃくった。両手で顔を覆い、
抑えようとして抑えきれない
……燈子先輩は、鴨倉哲也を信じたかったのだ。それで今まで、こんな回りくどい事を。
……彼女の自尊心もプライドも、今はガタガタに揺らいでいる。
……燈子先輩は、ずっと我慢していたんだ。自分が泣きたいのを抑えて、俺を励まして。
気丈な態度で振舞っていたが、実は俺以上に傷ついていたのかもしれない。
「燈子先輩……」
俺は静かに、怖がる子供に声をかけるように静かに言った。
「俺、いつも燈子先輩に助けられています。俺は先輩に甘えていたんです。だから……」
俺は彼女の両腕にそっと手をかけた。
「今日くらいは俺に甘えてください……」
俺はゆっくりと、だが力強く、燈子先輩を引き寄せた。
彼女は最初、それに微妙に
そのまま、俺のシャツを握り締めて泣き続けていた。