経験済みなキミと、経験ゼロなオレが、お付き合いする話。 その5

第一章(1)

せきさん、聞いてくださいよ……」

 その週、学校帰りに行った予備校で出会った関家さんに、俺は息も絶え絶えに切り出した。

「今度はなんだ? もうくろさんのことは片付いたんだろ」

 俺たちは、予備校の最上階ラウンジでいつものようにテーブルを囲んでいた。まだ室内に自然光が届く時間帯で、放課後の現役生が集まり始める頃だが、黒瀬さんの姿がないのは確認済みだ。

「彼女に『エッチしたい』って言ったら、『マジムリ』って逃げられたんですけど……」

「はぁ」

 いかりゲンドウのポーズで訴える俺を見て、関家さんは気のない返事をする。

「高二はいいよなぁ。まだそんなことで悩んでる余裕があって」

 この様子だと、合格はいまだもらえていなそうだ。

「彼女が『マジムリ』って言うなら、そりゃもう絶対無理なんだよ。諦めて別れろ」

 投げやりに言う関家さんに、俺は慌てて口を開く。

「い、いや、別にそういう拒絶のニュアンスじゃなくて……」

「じゃあ何」

「なんか恥ずかしすぎてムリって感じで」

「はぁ」

「逃げられちゃったんですよね」

「は〜ん?」

「……いつできるんですかね? 俺たち」

 ゲンドウポーズに戻って、俺はため息をつく。

「知らねぇよ〜〜〜」

 ひときわ投げやりな声に前を見ると、関家さんは背もたれに思いきり身を預けて天井を見ていた。俺が顔を上げたのに気づいて、関家さんは起き上がる。

「マジムリ、お前がムリ。ウザすぎ。消えて欲しい」

「そこまで!?」

「だって答え出てるんじゃん。彼女の『マジムリ』は『恥ずかしい』なんだろ? だったら、彼女が恥ずかしくなくなるまで待つか、恥ずかしくなくなるようにしてやるしかないだろ、お前が」

「ど、どうやって?」

「知るかよ〜〜〜こっちはそれどころじゃねーんだよ」

 そう言う声には、本気のイラつきが含まれている気がした。普段から口が悪い人だけど、これは受験戦線が深刻にヤバいのかもしれないと思った。俺に言わないだけで滑り止めのひとつやふたつ合格しているのだろうと思っていたけど、どうやら本当に受かっていなそうだ。ということは、彼女であるやまさんと連絡できる見通しもないわけで、そんな中でこんな話をしてしまって、今さらだけど申し訳ない気になる。

「大体さ、付き合ってもう半年以上? 一年近く? 知らねーけどさ、そんなにっててヤッてないってのが俺には信じられないんだけど」

 少し冷静になったのか、関家さんが落ち着いた口調で言ってくる。

「ヤリモクじゃなくても、彼女と一緒にいたら手ぇ出したくならね?」

「……そ、それは、そうですけど……」

「わかってるよ。『ヤリたい』より、もっと大事にしたかったもんがあるんだろ。それは俺には理解できないから、お前にアドバイスできることなんてなんもねーよ」

 そこで、何も言えなくなっている俺に、関家さんはフラットな視線を向ける。

「まぁ、ここまで我慢できたんだから、そんなにあせる必要ないんじゃないの」

「えっ?」

「彼女と結婚したいんだろ? 夫婦なんて、どうせ時間が経てばみんなセックスしなくなるんだから」

「…………」

 刺激の強いワードの登場に赤面している俺に対して、関家さんは涼しい顔で話を続ける。

「うちの両親なんてヤバいよ。めっちゃ仮面夫婦。俺の記憶にある限りずっと。オヤジは昔からうわしまくりで、母親はとっくにあい尽かしてるけど、『開業医の妻』のステータスを手放したくないから、別れるつもりはないんだって」

 突然始まった関家さんの家庭の暴露話に、思わず表情筋が固まった。そんな俺の方を見ずに、関家さんは続ける。

「つい何ヶ月か前にも、オヤジが受付の女の子に手ぇ出したのがバレて、その子クビになって。オヤジもバカだよな。妻が事務のおばちゃんとツーカーなんだから、院内で愛人作ったらバレるに決まってんのに。その前は看護師とデキてたし」

「そ、そうなんですか……」

 そこでようやく、あいづちらしきものが打てた。

 なんかすごい話を聞いてしまった。のところといい、不倫を経験している既婚者は案外多いのかもしれない。俺の両親は、特にラブラブというわけではないけど、そういう点でのトラブルはなく(俺の知る限り)ここまで来ているので、親しい人がそんなドラマの中の出来事みたいなことを普通に話しているのを聞くとドキドキしてしまう。

「小さい頃から思ってたんだ。医者としてのオヤジのことは尊敬してるけど……『俺はオヤジみたいな男にはならない』って」

 遠い目をしてつぶやく関家さんを見て、ふと思い当たることがあった。

 関家さんは、高校デビューして急にモテ始めたとき、「二股したくない」という謎の理由で山名さんをフッた。俺からすれば「しなければよかっただけでは……?」なのだけど、関家さんの独特な潔癖思考は、お父さんへの感情に起因しているのかもしれない。

「なんの話だっけ? まぁ、お前のは結局いつもノロケだろ。ぜろよマジで」

 そんな悪態をつきながらも、アドバイスらしきものをくれたことを思えば、やっぱり根はいい人なんだなと思った。

「はぁ、すいません」

 重くなりかけた空気を吹き飛ばすよう軽めに放った俺の言葉を、関家さんがしかめっつらで受け取る。

「反省してねーだろ」

「してますけど、またするかもしれません……」

「それが反省してないって言うんだよ」

「勉強になります」

「ふざけてんな、お前」

 関家さんが笑ってくれたので、少しほっとした。

 早く春になって、この笑顔が山名さんへ向けられる日がきますように。

 そう願わずにはいられない。


    ◇


 そんな俺も、他人の幸せばかり祈っているわけにはいかない。

 二月の終わり、帰りのHRで進路希望調査票が配られた。

「前から言ってあった通り、今回の調査票を元に三年のクラス分けをします。ふざけないで真剣に書くように」

 担任の先生の言葉に、クラスメイトたちが「マジかよー」とか「早すぎー」などと反応する。

 俺は手元の調査票に目を落とす。「進学」「就職」の項目の下に、それぞれの志望先を書く欄が第一から第三まである。

「…………」

 俺が「ほうおう大学」なんて書いたら、ふざけてると思われないだろうか?

 そう思ってドキドキしていたとき。

「ねー、ルナって進路どうするの?」

 月愛の前の席の陽キャ女子が、振り返って月愛に尋ねる。

「んー、まだ決まってないんだよね〜」

 月愛は首をひねって答える。

「…………」

 前を向いて、高みに向かって、それぞれの道を歩き出した俺たちだけど。

 理想の自分になるまでの道のりは、まだまだ険しそうだ。

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