一章 アオいハルの憂鬱 その3
* * *
待ち合わせ場所は団地の外れにある、古ぼけた教会だった。
団地と言っても住人は一人もおらず、教会にしても、
時計を見ると、待ち合わせの時間を僅かに過ぎていた。
寄り道などするべきではなかったと後悔する。
しかし、教会の前で突っ立っていても事態はなにも好転しない。こうしている今も貴重な時間は失われて逝くのだ。春樹は覚悟を決め、玄関を
「遅かったわね、
教会の中は薄暗く、窓から差し込む光だけが頼りだった。身廊を挟んで左右に長椅子が並んでいる。その内の一つに、女が腰かけていた。
「……アポトーシス」
それが
アポトーシスは椅子から腰を上げ、こちらを振り返った。
「あまりに待たせるものだから、事故にでも遭ったのかと心配したわ」
「もしも事故に遭ったとして、労災が下りたりするのかよ?」
「花の一つくらいは供えてあげるわ」
アポトーシスはクスリと
ゴシックドレス風の喪服に身を包み、トークハットから垂れた網目のベールが目元を隠している。華と陰とを兼ね備えたその風貌は、魔女と呼ぶに
「あら、
アポトーシスが視線を向けると、小夏はビクリと身を
「あんたが最初に言ったんだ。支払いの時には小夏も一緒にって」
「そうだったかしら。いつも
「手間を省いてるだけだ」
「いい心がけね。だったら、私達の話も手短に済ませるとしましょうか」
そう言ってアポトーシスは、空いた方の手をこちらに差し出した。
舞台に誘うような優雅な仕草に息を
「さて、徴収の時間よ」
十四年前、この街には『日傘の魔女』と呼ばれる都市伝説があった。
その語り出しはこうだ。──日傘の魔女は、ヒトを
さて一体どうやって喰らうのかと言えば、その
底なし沼のように広がった影に
とかくその魔女は犯行現場に死体を
過去に、ここ
所詮は眉唾物の都市伝説。信じるも信じないも、というやつだ。
しかしどうして、
「どうしたの? やるべきことは理解しているはずよ」
「分かってる。分かってるさ」
春樹は足元に広がった影を見下ろした。薄暗い堂内にあって、その影はより一層
春樹は観念して、正面に右手をかざして手を開いた。すると、ジャラジャラ、とチップが次々
重力に従って落ちていったチップは、床に跳ねることなく、ポチャン、ポチャンとささやかな
この手が本当に打ち出の小槌であればどれだけよかったか。手のひらから湧いて出たチップもやがて
影の表面を伝っていた波紋が収まり、教会には再び静寂が訪れた。気まずい沈黙だ。
春樹は手をひらひらと振って、やっとの思いで口を開いた。
「これで全部だ」
「そう」と抑揚の無い声で
「さっきまでは確かにこの中にあったんだ」
「
「そうだ」と春樹は腹をさする。
「それは一体どこに消えてしまったのかしら」
「ここに来る途中で奪われたんだよ、通り魔にな」
なにが面白いのか、アポトーシスの
「通り魔が、貴方から大切なモノを奪ったと。それではまるで
「呼び方はなんだっていい。通り魔でも追い剥ぎでも、俺が稼いだ命を横取りした
俺が稼いだ命。何とはなしに使った言葉に、
「かまいたちとか呼ばれてる《フォールド》だよ。あんたなら知ってんだろ?」
「それを聞いてどうするの?」
「決まってる。
「自分のことは棚に上げるのね」
「先に手を出してきたのは向こうだ。文句は言わせねえよ」
「そうね。でも、それは
言葉に詰まった。アポトーシスは時折、全てを見透かしているように物を言う。
「同業者の狩り場に足を踏み入れたばかりでなく、獲物を
「……見てたのか?」
監視されていた。だから
「だったら──」
「私には関係のないことよ」
プツン、と糸が切れる音がした。切れたのは救いの糸だ。
「私は貴方達に、命を稼ぐよう言ったわ。百年分の命を。その時貴方はどう答えたかしら」
「冗談じゃない」
「貴方は言ったわ。
アポトーシスは一歩も動いてはいない。日傘を肩で回し、ただ立っているだけだ。それだと言うのに、奴との距離が少しずつ縮まっているように感じた。
「貴方が背負った命は二百年。おかしいわね。あと十六年ほど足りないわ」
影だ。堂内を
小夏もその違和感に気付いたようで、震えた手でシャツを
「頼む、時間をくれ。そしたら、かまいたちから奪い返せる。その方があんたにとっても得になるはずだ。そうでなくても、十六年くらいなら今日中にだって」
アポトーシスはわざとらしく
「その必要はないわ」
「──ッ!」落ちた、とそう思った。そして実際、自分を支えていた足場が唐突に消え去ったかのように、ガクンと真下に足を引かれた。
「……ハル、っ……!」
一体自分は何に落ちたのか。パニック寸前の頭で考える。顎の先には身廊の床が続いている。喪服の裾が正面に見える。小夏は後ろで慌てふためいている。
「猶予はひと月与えたはずよ。それで役目を果たせないというのなら、背負った負債は
顔を上げると、すぐそこでアポトーシスが見下ろしていた。ベールの内で深紅の瞳が妖しく光を放っている。到底ヒトの物とは思えない、異形の
「俺の命なんて、あと一年もない。腹の足しにもならない、そうだろ?」
「腹を満たすために徴収しているわけではないわ。これは、そうね。罰よ」
下半身の感覚がすでに無かった。もしも命に形があるのだとすれば、それは今つま先から徐々に削れ落ちている。まるでシュレッダーにでも掛けられたかのように、ガリガリと音を立てて、ゴミ
春樹にはその有様が、数字という形で理解出来た。俗に寿命と呼ばれる、命の概念だ。
春樹は、自らの寿命を一分一秒単位まで正確に知ることの出来る体内時計を持っていた。
だからその喪失は、腹で分かる。痛みや苦しみは無かった。それが余計に恐ろしい。
三百六十五、二百十六、百三十七、八十八……。
死に急いだカウントダウンは、自分の意志に関係なく、自らの死を指折り数えていた。
「……ッ、頼む、助けてくれ」
「誰も助けてはくれないわ。私が貴方を助けることはないし、神がヒトを救い
理解出来るからこそ、助けを求めているのだ。こうして影に浸かっているだけで、死が確実に、それも一足飛びで迫って来るのがはっきりと実感出来る。十、九、八……。
俺の命はあと、七日。
「……待、って……!」
それはあまりに小さな抵抗だった。虫の羽音にも負けそうなほどに小さな声だったが、その声が無ければ春樹は恐怖のあまり叫び声を上げていたかもしれない。
春樹は自分が沈みつつあるのも忘れて、目の前に立った
「
「……ある……」
「なにが在るというのかしら?」
「いのち」
そう言って小夏は、アポトーシスに両手を差し出した。
両手をぎゅっと結んで、開く。開かれた
彼女の言葉通り、自分の〝いのち〟を。
「へそくりとは案外
アポトーシスは小夏の手からチップを受け取ると、そのまま自分の手の内に
「契約通り二百年。ええ、確かに頂戴したわ」
張り詰めていた空気が
どうやら助かったようだ、と
小夏もまた春樹の背に戻ってきた。先程見せた勇気に反して、彼女はまだ震えていた。
「馬鹿か小夏、あのチップは使っちゃ駄目だろうが」
「……でも……」
小夏の目尻には涙が浮かんでいた。アポトーシスと
アポトーシスはそんな二人を眺め、やはり不気味な笑みを浮かべていた。
「さて」と奴が口を開いた。嫌な予感があった。そしてその予感は大体当たる。
「契約の更新といきましょうか」