一章 アオいハルの憂鬱 その1
夜闇を殴り飛ばすような爆発だった。
荒廃した路地の一角に突如として咲いた爆炎は、人一人を包み込むほどに膨れ上がり、確かな熱を帯びた爆風が
女はボンネットの上に
そう言った男は今、アスファルトの上で白目を
一体なにが起こったのか。女は、記憶を
まず暴漢達の姿が目に入った。先程まで彼らは仲間内でゲームでも
それから、チャリンチャリン、と跳ね回る音にも気付いた。
地べたに転がった男の周囲には、幾枚の〝銀貨〟が散らばっていた。財布の中身でも飛び散ったのだろうか。すると、視界の隅で『ピュゥ』と口笛が鳴った。まるで銀貨が跳ね回るのを歓迎するかのような、上機嫌な口笛だった。皆の視線が一点に注がれる。
ヘッドライトの死角が生み出した陰の中に、その人影は立っていた。
女は、ほんの数秒前のことを思い出していた。それが現れた時のことだ。
『コンバンワ。こんな時間に集まって、今日は誰かの誕生日なのかな?』
犯罪行為の
予期せぬ
「見りゃ分かるだろ、取り込み中だ。分かったらさっさと消えろよ」
爆発が起きたのは、その直後だった。人影と男の間で突如火の玉が
タネも仕掛けも分からないが、その人影がなにかをしたと推測するには十分だった。
「っ、お前、一体なにしやがった!」
『いい余興だったろ。
人影の挑発的な態度を前に、暴漢の一人がナイフを取り出した。暴力を振るうことには慣れているのだろう。自分達に敵意を向ける人影に対して、男に
「ふざけやがって! 手品かなにか知らねえが、ぶっ殺──ぶ、ぎゅ」
言い終える前に、男の顔面が蹴り飛ばされた。男は三百六十度きりもみ回転しながら吹っ飛んでいき、スクラップの山に突っ込んだ。一切容赦のない鮮やかな飛び蹴りだった。
人影は、男と入れ替わるように女の目の前に降り立った。いや、元人影だ。
春もじき過ぎようかというこの季節に、その男は小豆色のコートを羽織っていた。
肌色を
男は、──〝仮面〟を被っていたのだ。
『おいおい、
「……す、すみません」
女がそう口にすると、仮面の男はクツクツと笑った。
彼は手を差し出してくれるが、その手を取っていいものか判断に困った。彼の顔には、というより彼の被った仮面には心当たりがあった。彼が善人である保証はどこにもない。
女が
直後、ガツン、と鈍い音が響いた。暴漢の一人が仮面の男の後頭部を殴ったのだ。
仮面の男がふらりとよろめき、鉄パイプを手にした男の姿が続いて見えた。
またしてもチャリン、と銀貨がアスファルトに跳ねる。それは仮面の男の頭部から
これは好機と、無防備な彼の頭上に再び鉄パイプが振り下ろされる、が。
『デリケートだって、言ってんだろ』
仮面の男は、あっさりとその凶器を片手に
彼が拾い上げた銀貨は、すでにそこには無い。
『俺は手品師じゃないが、そんなに見たいってんなら仕方ねえな』
そしてパチンと指を鳴らした直後、男のポケットが爆発した。
懐で途端に膨れ上がった爆炎に
「ひぃ、化け物……ッ!」
そこでようやく事態の深刻さに気付いたのだろう。残った最後の一人は、仲間を見捨てて一目散に逃げ出した。仮面に
『タダで降りようったってそうはいかねえ』
仮面の男は、キンッ、と一枚の銀貨を
クルクルと回転しながら宙を駆けた銀貨は、やがて男の背中に追い付くと、仮面の男が指を鳴らすのに合わせて、爆発した。前につんのめるようにして吹き飛んだ男の背中からは、やはり幾枚の銀貨が弾け飛んでいた。
まるでアクション映画の舞台に立っているかのようだった。テレビの中でしか見たことがなかった世界に、エキストラとして出演しているような感覚だ。
「なんだってんだよ畜生、一体……なにが」
そういえばまだ一人残っていたな、と仮面の男が振り返る。
声を漏らしたのは、顔面を蹴り飛ばされスクラップの山に激突した男だった。鼻が折れているのか、鼻から顎にかけて血が流れ落ちている。だが、銀貨は一枚も
きっと爆発していないからだ、と女には思い当たった。
『無事でなによりだ。伸びてる
「……はぁ? っ、ボムって……ちょっと待てよ!」
『こっちも仕事なんだ。まあ、カツアゲにでも遭ったと思って諦めてくれ』
「待ってくれ。金ならやる、財布ごとやる! だから」
尻餅をついた格好で懇願する男に、仮面の男は一歩二歩と歩み寄って行く。どこから取り出したのか、彼は数枚の銀貨を手の内で弄んでいた。
『本気にするなよ。そういうことじゃない』
仮面の男は男の胸倉を両手で
「……頼む、命だけは!」
『金はいらない。俺が欲しいのはてめえの〝命〟だけだ』
「やめ──」
『ボンッ』と仮面の男が口で鳴らすのと同時、ボンッと
男は宙に打ち上がり、弧を描いて地上に落下する。そしてその軌跡をなぞるように銀色の橋が夜空に架かり、ジャラジャラと銀貨の雨が降ってきた。
降り注ぐ銀貨を迎え入れるように立った彼の後ろ姿は、この世界から
──ねえ、知ってる? 最近この街に現れるっていう『カツアゲ仮面』の
──カツアゲって、そういうの今でもあるんだ。
──それが普通のカツアゲじゃないんだよ。カツアゲ仮面が奪うのはね、ヒトの命。
──それってただの人殺しじゃないの?
──襲われた人が言うんだから間違いないよ。カツアゲ仮面に命を
『さあて、今日の収穫のほどはっと』
倒れ伏した暴漢達には目もくれず、女にも背を向け、カツアゲ仮面はアスファルトに散らばった銀貨の前に
しかし、すぐに彼は大きく
彼が手に取った一枚の銀貨は、半分に欠けていた。他の銀貨もそう。焼け焦げていたり粉々になってしまっていたり。それらはやがて、灰となって風に溶けていく。
恐らくは、彼の爆弾が銀貨をも砕いてしまったのだ。
現金輸送車を襲うのにダイナマイトを投げつける強盗はいない。大切な積み荷まで
彼の
カツアゲ仮面は落胆に肩を落としながらも、浮浪者のように
「あのぅ」女は少し迷った末に、その背に声をかけた。
「……助けて頂いて、ありがとうございました。その、カツアゲ仮面、さんですよね?」
『「さん」はいらない。それに礼もいらない。あんたはただツイてただけだ』
彼は女に目を向けると、僅かに顔を
「それでも、あなたが来てくれなかったら、今頃どうなっていたか」
『そうだな。時すでに遅し、ってこともある。まあ、その辺の判断はあんたの自由だ』
彼はそう言って、灰と銀貨とを振り分ける作業に戻った。目的はあくまで銀貨なのだ。
このまま立ち去ってもよかったのだが、好奇心が恐怖心に打ち勝った。以前同僚から聞かされた都市伝説が目の前にいる。ただ別れてしまうのは惜しい、と思ったのだ。
「ところでそれ、一体なんなんですか?」
『それ? ああ、これな。チップだ』
「チップって、運転手とかホテルの人に渡す、あのチップですか?」
『ギャンブルとかで掛け金の代わりに支払う、あのチップだ』
冗談なのかそうでないのか。彼の表情は表に出ないから分からない。
そこで、パトカーのサイレンが聞こえた。距離は遠いが、こちらに近づいて来るようだった。彼は厄介そうに舌打ちすると、コートに付いた
『時間切れか』そう呟いた彼の手のひらには、両手いっぱいに銀貨が載っていた。
一体どうするのかと見ていると、彼はそれを、口の中へと放り込んだ。ただの装飾だと思っていた鉄仮面の口が開き、フレーク感覚で銀貨を平らげると、再びガキンと閉じた。
女が
『ヒトの命』
「えっ?」突然の言葉に女は目を
『さっきの答えだよ。ふざけた話だろ、まったく』
「災難でしたね」と女性警官が背中を
救急車の姿もある。ストレッチャーに乗せられた男達が運び込まれている。彼らは負傷こそしていたが、命に別状はないだろうとのことだった。暴漢である彼らが病院のベッドに運ばれる一方で、自分だけが事情聴取を受けるのは
「あなたが見たのはこの人物で間違いない?」
スーツ姿の女性がそう言った。彼女は自らを、
警部が開いて見せたのは、交番に貼られているような手配書のポスターだった。そこに描かれていたのは、先程見た仮面の男に相違ない。どうりで顔にも見覚えがあるはずだ。
「あの人は一体、なんなんですか?」
「
「それは、知ってますけど。仮面を
「それが全てよ。ヒトを襲う怪物。それだけ分かっていれば十分」
それから警部は礼を口にした後、「彼女を送ってあげて」と指示を出して離れた。
警部の周囲には人が集まっていた。防護スーツにヘルメットといった無骨な装備で身を固めた集団だ。両手に持っているのは自動小銃だと分かった。本物を見たのは初めてだが、遠目にもその重量感が伝わってくる。当たり前だが、拳銃よりも大きい。
「安心してください。後は特務課が引き続き対応しますから」
窓の外を眺めていると、運転席の女性警官がそう言った。女を乗せたパトカーは自宅へと向かっている。随分と遠回りしたものだ。まだ夢の中にいるような気がしている。
「あの人は……《フォールド》は、どうしてヒトを襲うんでしょうか?」
「それはまだ調査中です」と女性警官は答えた。十四年前からそうじゃないか、と言葉が出かかったが、彼女を非難したところで意味はないと思い直した。
後部座席の背もたれに寄り掛かる。すると、コトンと何かがシートに落ちた。それは一枚の銀貨だった。いや、チップだったか。どうやら衣服の中に潜り込んでいたらしい。
恐る恐る手に取ってみると、なんの変哲もないただの硬貨だと分かる。
五百円玉よりも大きいハーフダラーサイズ。表面にはその価値を示す値も絵柄もなければ、裏表もない。銀色の塊だ。ゲームセンターのメダルの方がよっぽど華がある。
『ヒトの命』彼は去り際にそう言った。命を奪うというようなことを言った割には、暴漢達は生きている。彼が求めた命とは結局なんだったのか。
運転席の彼女に尋ねてもいいが、きっと「調査中」の一言が返ってくるだけに違いない。
「……カツアゲ仮面、か。どっちかと言えば、爆弾魔だよなあ」
手のひらに載せたチップは、いつの間にかサラサラとした灰に変わっていた。灰の中から銀を