三章 四女・舞姫
●牧原大河
(勉強ノルマ、終了っと)
時刻は午前0時半。夕食後からずっと勉強しているが……そろそろ寝ないと『今日』にさしつかえる。本当は僕だってゲームとかネットとかしたいが、ノーブレスに居続けるために三位以内をキープする必要がある。
(テストはまだ先だけど、油断大敵だ)
普段から万全の備えをするのが、野球部時代からのポリシーである。
……集中が切れると、部屋の静かさに気付き、ふと孤独感に襲われる。お隣さんの同棲カップルの笑い声が、一層それをかき立てる。
僕が住んでいるのは、煌導学院から徒歩十分にある古いアパート。
六畳一間に、ちゃぶ台やTV、ノートPCなどの家具。
棚には、長年使い込んだ投手用グローブが置いてある。トロフィーなどは実家に置いてきたけど、宝物のこれだけは持ってきた。
『特待生崩れ』である僕は野球部の寮には当然入れず、四月からこのアパートで暮らしている。故郷は遠いし、勉強せねばならなかったので一度も帰省していない。そもそも、地元民とは肩を壊してから顔合わせづらいんだよな。
交通事故から助けた同級生からは連絡が来たが、お互い忙しい上に、あっちは東京に住んでるしで会えなかった。
一人暮らしには満足している。仲が険悪な姉もいないし。
……でもたまに、今日みたいに寂しくなることもある。
こういうときは、好きな人──近衛さんのことを思い出そう。
(『会長の五変化』か)
噂には聞いていたけど、予想以上のキャラの変貌ぶりだ。
僕は五変化のうち、四つを見ている。
冷静で真面目。
ギャルっぽくて面倒見がいい。
人を応援するのが大好きで、方言が可愛い。
スポーツが大得意で、義侠心にあふれてる。
(新たな一面に触れるたび、どんどん好きになってく)
本当に、底知れない女性だ。
煌導学院の裏サイトでも、近衞さんは大人気。『尊い』『ギャップ萌えがたまらない』『同じ空気を吸えるだけで幸せ』など賛辞の嵐。
ただ──あの手のサイトにしては妙に治安がよく、近衞さんへの悪意の書き込みは全くなかった。
誰が管理してるか知らないが、感謝する。ネットの悪意の恐ろしさは身をもって知ってるからな。
(それはともかく……五変化の残りの一つ『演劇が得意なキャラ』も見てみたいな)
近衞さんのことを考えていると幸せな気持ちになり、安らかに眠れた。
翌日。
学校へ行き、自分のクラスへ。林間学校の後は肥だめ事件をイジられ、ボッチになっていたが……
「おはよう牧原君」「牧原君、おっすー」
少しずつ、好意的な声もかけられるようになった。
学年三位になり、ノーブレスに入り……『特待生崩れ』として見下していた僕の、意外なポテンシャルに驚いたのだろう。体育館での、近衛さんの啖呵も効いている。
ただ僕は、クラスメイトを微塵も信用していない。
(堕ちたら、どうせまた叩いてくる連中だ。だが──)
笑顔で「おはよう!」と挨拶を返しておく。外面をよくした方が、ノーブレスの活動がスムーズになるだろう。結果、近衛さんからの好感度アップにつながる。
(仲良くしたいのは、辛いとき手を差し伸べてくれた近衛さんだけだ)
そして放課後。
会長室に入ると──近衛さんは椅子に、なんと体育座りしていた。スカートの中が見えそうだ。
滅茶苦茶だらしない姿……上着が肩からずり落ちてる。髪をツーテールに括っているが、左右の長さがバラバラだ。
ポテトチップスをコーラで流し込みながら、ぼんやりした目をこちらに向けて、
「あっ、タイガーなのだ」
幼い口調で言った。僕の周りをぐるぐる回り「ほー、へぇー」とか呟く。会うのが初めてでもあるまいに。
手には台本らしきものを持っている。これは……演劇が得意なキャラだろうか。
──近衞さんはシアトルからの来日後、ここ仙台市の名門劇団に所属し、あっという間にトップ女優となったらしい。
その繊細きわまりない芝居から『天才若手女優』の呼び声が高いとか。
東京の芸能事務所から何度もスカウトされたが『宮城を離れたくない』と断り続けているという……ホントに僕の好きな人は凄いや。
近衛さんは台本を見つめて、
「私な、今度の文化祭で、演劇部から助っ人を頼まれたのだ。しかもヒロイン役」
「大変ですね」
「んー、まあノーブレスとして断れんのだ」
コーラを、くぴくぴ飲む。
「でも問題が一つあるのだ。演じるのは『カルメン』。数々の男を手玉にとる悪女役なのだ」
『カルメン』か。タイトルは聞いたことあるけど、どんな話かよくわからない。
「なかなか悪女の気持ちが掴めないのだ。誰とも付き合ったことないし」
「そうですか」
ちょっとホッとしていると、
「処女だと、やっぱ悪女役なんて無理なんかな」
「へ?」
何を仰るんだ?
驚いていると、近衛さんが床に仰向けに横たわる。
ポテトチップスで汚れた指を舐める。そのしぐさが酷く色っぽくて……
「だからタイガー、ささっと私を抱いてみてくれんかね?」
●長女 知佳
「舞姫ー!!」
わたくし──近衛・R・知佳は、二女の楓子、三女の光莉、五女の愛と、屋根裏部屋でモニターを見て狼狽していました。あ、あの子はもう。
背後から愛がしがみついてきます。
「ち、知佳姉さん落ち着いて。下に聞こえるべ!」
「これが落ち着いていられますか。もしも舞姫がその……抱かれたら、私はタイガー君と、これからどんな顔で接すればいいのですか」
「……彼女面?」
「できるわけないでしょ!」
ソファに座る光莉が、足をパタパタさせて笑います。短いスカートの中が見えそうです。
「あはは、やっぱ舞姫はぶっ飛んでるね♪ 楓子ねーも、そう思うっしょ?」
「こ、これからどうなるんだ?」
楓子はハラハラした様子で、
「舞姫が妊娠してお腹が膨れたら、五人一役してるアタシたちも、腹に詰め物しなきゃダメなんかな?」
「そうかもねー」
なんという会話をしているのでしょうか。この妹たちは。
やはり失踪したママの代わりに、わたくしがしっかりしなくては。
●牧原大河
突然の申し出に、うろたえまくる僕に。
近衛さんは、それこそ悪女のように笑った。
「『抱いてみて』なんて冗談なのだ。その理屈だったら殺人犯を演じるときは、殺人をしなきゃいけないことになるのだ」
「そうですか……ホッとしましたよ」
嘘である。
ほんとうは口惜しさを、奥歯をかみしめてこらえている。
(告白した男に『抱いてみて』なんて、冗談でも言っちゃダメですよ、畜生!)
そんな苦悩も知らず、近衛さんは無邪気そのもの。僕の顔を覗きこんできて、
「なあなあタイガー。台本の読み合わせ手伝ってくれなのだ」
「僕でよければ」
「私カルメン役やるのだ。タイガーは主人公のホセ。純朴な兵隊さんなのだ」
近衛さんは、一冊しかない台本を僕に渡してくる。台詞は全て覚えたから必要ないらしい。
「じゃあ19ページ。牢屋にブチこまれたカルメンが、見張りのホセを誘惑して脱出を図るシーン。いくのだー」
すると、一瞬で。
ぼんやりしていた近衛さんの雰囲気が……激変した! 霊を降ろしたイタコみたいだ。
鋭い目つきで、高飛車な声で、
「『冗談じゃないよ! こんな汚くて暗い牢屋、一日だって耐えられるもんかい!』」
流し目を向けてくる。さっきまで子供っぽかったのに、むせかえるような色気だ。
「『ねえ兵隊さん。取引しないかぃ?』」
……
あ、見とれてしまった。次は僕の台詞か。慌てて台本を見る。
「『取引だと?』」
「『私を逃がしてくれたら』」
近衛さんは、媚びを売るのではなく。
『男が自分に屈するのは当然』というように、己の豊かな胸を、くびれた腰を撫でながら、
「『この体、自由にさせてあげるよ』」
僕は唾をごくりと飲み、
「『ぼぼ……ぼ、僕をなんだと思ってるんだぁ!』」
ドギマギしたため、自然に『純朴な兵隊』っぽい声が出た。
近衛さんが体をすりよせてくる。甘い吐息が首筋に当たり、ぞくぞくした。
「『本当に、欲しくないのかぃ?』」
欲しいに決まっている。ああ……カルメン。悪い奴だ。お前の全てが脳髄をとろけさせる。この女のためなら全てを捨ててもかまわない。
僕はカルメンの両肩を掴み、押し倒そうとする。
「『ほ、欲しいお前が! 何もかも、むさぼり尽くしたい!』」
「はい、そこまでなのだ」
近衛さんが手を叩く。淫夢から覚めたような感覚──完全に世界に引き込まれていた。
近衛さんは目を輝かせて、
「タイガー、演技が滅茶苦茶うまいのだ! 完全にホセの役柄を掴んでた。才能あるんじゃないか」
「ははは、それほどでも」
笑ってごまかす。近衛さんにドキドキするのとシンクロしただけだ。
「このあと、ホセどうなるんですか?」
「カルメンを牢屋から逃がしたあとは、その色香に惑って軍隊をクビ。それから盗賊になって、最後は破滅なのだ」
「あらら」
なぜか近衛さんは、悪戯っぽく僕を見つめてきて、
「タイガーは『私』が好きなんだよな? ホセのように……『私』という女を愛したがゆえに、身を滅ぼしてもいい覚悟はあるのか?」
「あります」
反射的に言った。すでに告白した以上、ノーブレーキで行くぞ。
「僕は、貴方の全てが好きなんですから」
「お、おおぅ」
ほんのり頬を染めたあと、近衞さんは妙なことを言う。
「『全て』ってことは、お、おまえ、私も好きなのか?」
「? 当たり前ですよ。演技にストイックなところに、惚れ直しました」
「……照れるのだ」
うつむき、チップスで汚れた指を舐める近衛さん。
『私も』って、なんのことだろ?
●長女 知佳
『僕は、貴方の全てが好きなんですから』
その言葉を聴いて、わたくし、楓子、光莉、愛は顔を見合わせました。
光莉は照れ笑いし、愛はモジモジして……いずれも、まんざらではないように見えます。
楓子が頬をかきながら、
「タイガーのやつ『貴方の全て』ってことは……知佳ねえだけじゃなく、アタシたち姉妹全員を好きになってねぇか?」
「無理ないよ。ウチらのこと同一人物だと思ってるんだから」と、光莉。
「変なことになってきたべよ」と頷く愛。
わたくしが押し黙っていると、楓子が、
「どうした知佳ねえ。もしかして嫉妬してる?」
「……ち、ちがいます」
自分に告白した男が、ほかの女性にも『好き』と言ってたら釈然としないのは当然で。
(……でもタイガー君は、わたくしたちを同一人物だと思っています。だから何も悪くない)
それに彼は思ったより、好感の持てる人物で。
わたくしはタイガー君に告白された日、光莉に『代わりに断って』とお願いしましたが……
今は、自分の気持ちがわかりません。