プロローグ

●牧原大河


 世間というものは、残酷だ。

 うまくいっていた者が地に落ちると、あっさり掌を返す。揶揄、批判、嘲笑さえもする。

 でもって今、この僕……まきはらたいも、笑われている。

「最高にウケる!」「あいつ肥だめ落ちやがった!」

 落ちたのは地ではなく、肥だめだ。リアルの。

 高校入学直後の林間学校。夜の肝試しでコースから外れてしまい、足を踏み外した。農業もできる施設とはいえ、肥だめなんて今時作るなよ。

 すでに胸のあたりまで沈んでいる。上がるため藻掻いても、足元が柔らかくて逆に沈んでしまう。このままだと溺死するかも……

 臭さに嘔吐きながら、見下ろしてくる十数人のクラスメイトに懇願する。

「おい助けてくれ。ここから引き上げてくれ!」

 ……笑い声が返ってきた。

 どうやら、僕をダシにして盛り上がるのに夢中のようだ。

 ライトで照らしながら動画撮ったり、「おもしれーもん見れるから来いよ」とか電話してるヤツもいる。人でなしどもめ。

 肝試しで、僕とペアを組んでたほうらいミサキという女も「ツイッターにあげよ」と写真を撮ってる。男子と顔を寄せ合い、

「彼『悲運のエース』牧原大河だよ」「マジ? すげえ投手だったのに、いろんな意味で堕ちたな」

 屈辱に奥歯をかみしめる。

(畜生め。なにが『ノーブレス・オブリージュ』だ)

 それが、この春から通う名門校『こうどうがくいん』の校是。

 フランス語で『高貴な者は他者を救う義務がある』という意味だ。

 煌導学院はもともと、江戸時代の藩校をルーツとしている。明治時代には、華族しか入ることが許されなかったらしい。

 現代でもその流れを汲み、入学するのは政治家や金持ちの子息ばかり。

 ウチは両親とも平凡な会社員。だが僕は野球でU-15の日本代表にもなったので、スポーツ特待生として入れたのだ。

 ……もっとも、入学前に交通事故に遭って、二度と野球できない体になったけど。

(クラスメイトの奴ら、ノーブレス・オブリージュの校是にしたがい、僕を助けて欲しいもんだが……)

 全く、その気配はない。

(このザマじゃ『ノーブレス』ってのも、看板倒れに違いない)


 ノーブレスとは、煌導学院の全生徒の頂点に立つ組織だ。


 役割は、生徒会的な仕事に加え……

 校是を体現し、生徒を扶けること。悩み相談に乗ったり、応援したり。

(ノーブレスの会長──二年の、このルイーズさんだったか)

 この林間学校にも、僕たち新入生をもてなすために来ている。

 歓迎の挨拶をしてくれたが、その内容と語り口に感動する新入生が続出した。泣いてるやつさえいたぞ。

(すごい美人だったな……ぐえっ)

 現実逃避してる場合じゃない。

 もはや汚泥は口や鼻も塞ぎはじめ、呼吸が途切れ途切れにしかできない。

「た、頼むから助けてくれって! マジでやばいんだから!」

 なのに──見下ろしてくる同級生は皆、スマホを向けて笑ってるだけ! なんて奴らだ。

 でも……

(どうせ世間なんて、こんなもんだ)

 交通事故のあとは、散々マスコミのネタにされた。お涙頂戴の再現映像を放送されたのには吐き気がした。

 SNS、まとめサイトには『体が小さすぎて、どうせプロになれる器じゃなかった』とか書かれた。

 投げる姿にキャーキャー言ってた女子も離れていった。

『我が街の英雄』と讃えていた近所の人々は、哀れみの目を向けてきた。

(……もう、なにもかも嫌になった)

 僕なんか、肥だめで溺死がお似合い……と沈むのに身を任せたとき、

「この騒ぎは何です?」

 澄んだ声が聞こえた。

 野次馬が真っ二つになり、その間を女性が歩いてくる。

 夜風にそよぐ長い金髪が、月光できらきらと輝いている。

 きっちり制服を着こなし、冷たい蒼い瞳と相まって女将校のような雰囲気。だが隠しきれない色気を、豊かな胸や黒ストごしの長い脚から漂わせている。


 ノーブレス会長、二年生の近衛・R・知佳さんだ。


 生徒からの支持率は九割超え。

 成績は常に学年一位。運動神経も圧倒的で、数々の運動部の助っ人となって勝利をもたらす。

 それだけなら只の『優秀な学生』だが……

 SNSの登録者20万人超えのインフルエンサーであり、

 天才若手女優として、名門劇団で活躍し、

 ボランティア活動も盛んに行う。

 とんでもない完璧超人なのだ。金髪碧眼なのは、父親がアメリカ人だかららしい。

 その近衛さん、肥だめで死にかけの僕を見て、息を呑む。

 生徒達を睨みつけ、

「あなたたちは何をしているのですか! 苦しんでいる彼が見えないのですか!?」

 その剣幕と裏腹に、僕は冷めた気持ちのままだった。

(どうせ『いい人アピール』してるだけだろ)

 そのまま、沈むのに身を任せていると……驚いた。

 近衛さんが肥だめに飛び込んできたからだ。


「ええっ」「マジか」

 野次馬から悲鳴があがる中。

 近衛さんは胸まで浸かり、縁の草を掴み、懸命に手を差し出してくる。

(──こ、こんな人、いるのか)

 周りに一切同調せず、僕を助けようとしてる。移り気な世間に翻弄されてきた僕には、新鮮な驚きだった。

 しかも糞尿に飛び込んでまで……これが、ノーブレス・オブリージュ!

「さあ、掴んで下さい」

 右手を差し出しかけたが、肩の傷に微かな痛みが走った。

 なので左手を近衛さんと繋ぐ──近衛さんが「えいっ」と引っ張り、二人で肥だめから出ることができた。うずくまって咳込む。服に汚泥がしみて、ずっしり重い。

 半笑いの同級生たちがマスコミのように、僕にスマホを向けてくる。次々とシャッター音が鳴るが……近衛さんが僕をかばうように両手を広げ、撮影を遮ってくれた。

「やめなさい。そして撮った動画や写真は、今すぐ消しなさい」

 声は静かだが、凍てつくように冷たい。

「SNSなどにアップしたら、この近衛・R・知佳が許しません」

 気圧されたように、皆が慌ててスマホを操作する。

「さあ、水場へ行きましょう」

 皆が臭いに顔をしかめる中でも、近衛さんは『何も恥じることはない』という風に、悠然と歩きはじめる。

 慌ててその隣に並んだ。

「す、すみません。僕のために汚れて」

「お気になさらず。この一件が美談として広がれば、わたくしの支持率はさらに上がるでしょう。そのほうがノーブレスの仕事がやりやすくなります」

 一見、打算的な言葉だが……

 少し矛盾がある。

「ではなぜ、動画や写真を消すよう言ったんですか? 僕を助けるあなたの姿が拡散したほうが、支持率は上がりやすいはずです」

「そ、それはですね……」

 言葉に詰まり、やや頬が赤い。

 どうやら美談云々は照れ隠しだったらしい。それを裏付けるように、話をそらしてくる。

「本当に、あなたが気に病む必要はないのです。肥だめは、イメージほど汚くないのですから。糞尿を放置しておくと発酵熱で約80℃にもなり、寄生虫の卵は死滅するのです」

 気遣ってくれているのだろうか。

「なるほど、そうなんですか」

「ええ。だから気にすることはありませおぇええええええっ!!」

 四つん這いになり、嘔吐く近衛さん。

「えっと……汚くないのでは?」

「あくまでイメージよりは! です!」

 碧眼が涙で潤んでいる。地面を叩き「Ohmygod!!」と凄く良い発音で叫ぶ。

(当たり前だけど、嫌でたまらなかったんだ。なのに……)

 近衛さんは、命を救ってくれた。

 それだけではない。クラスメイトや世間に絶望していた、僕の心もだ。

 汚泥にまみれても、この人は誰よりも美しい。


 野球に替わる新たな目標が、見つかった。


「僕は牧原大河といいます。煌導学院には、野球のスポーツ推薦で入りました」

「えっ、あなたが」

 近衛さんも僕のことを知っているらしい。

 中学野球全国大会でチームを準優勝に導き、U-15にも選ばれた右腕。

 煌導学院へのスポーツ推薦が決まっていたが……交通事故にあい、右腕が壊れた。日常生活に支障はないが、投手は二度とできない。

 推薦が取り消されなかったのは、煌導学院が世論に配慮したためだろう。僕は『暴走自動車から、身を挺して同級生を助けた少年』『悲運のエース』として一時話題になったからな。取り消しにしたら、非情の誹りは免れない。

「僕はノーブレスへ入って、あなたのもとで働きたいです」

 近衛さんのように『ノーブレス・オブリージュ』を体現する人間になりたいから……

 などではなく。

 惚れたからだ。この人と一緒の時間を過ごしたい。

「そのお気持ちはありがたいです。でも入るには、学年三位以内の成績が必須ですよ? 牧原君の学力はどれほどですか?」

 うっ。

 中学時代、勉強はある程度できたが、とても高偏差値の煌導学院で通用するレベルではない。

「僕の学力は……学年最下位に近いでしょうね」

 ──だが、それがどうした。

 たかが『学年』の三位ではないか。練習を重ね『全国』で準優勝した僕がなれないわけがない。

(恋心をエネルギーに、正しい努力をすれば十分可能なはず)

 やる気を燃やす僕に、近衞さんは諭すようにいった。

「それならあまり難しい目標は立てず、まずは授業に慣れる努力を……」

「いえ、ノーブレスに入るという目標は変えません。水場で体を洗ったら、さっそく勉強開始します」

「今日からですか!?」

 どうせ肥だめの件でクラスメイトからハブられるだろうし、ちょうどいい。

 近衛さんと付き合う──その大目標以外は、全て些事だ。



●????


「あれが『悲運のエース』か。しかし姉貴、潔癖症気味なのに無茶しやがって」

「私も手伝ってあげたかったけど、出たら大さわぎになるから無理だったべ」

「知佳ねー気づいてないだろうケド、あの牧原君って、知佳ねーに惚れたね。オモシロくなってきた♪」

「でもスポーツ推薦崩れの人が、学年三位なんて至難の業なのだ」

「こっからどうなるか、少し見ものだな」

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