<三>婚約者に慣れるには②
廏舎の吹き抜けになった中庭には、たっぷりの日差しが差し込んできている。
黒狼のいる奥の
オレンジ色の暖かみのある明かりの下でうずくまる黒狼は、ただまどろんでいるだけに見える。
「次はどうすればいい?」
クライドが聞いてきた。その口調は以前よりずっと気安い。
アシュリーもまた、考えてから思ったことを前よりも
「クライド様が子どもの
「そうだね」
「では、その時と同じことをしてみたら、再び目を覚ますのではありませんか?」
「そうすると、
(死ぬの!?)
そんな危機的な
「でも死にそうだっただけで、誰も死ななかったから
「それはよかったです……!」
「うん。本当に」
気楽に笑うクライドに、ジャンヌとハンクが驚いた顔をした。
アシュリーは気を取り直して、次の方法を考えた。
「好きな食べ物を目の前に置いてみるとか。
黒狼は食べることも好きだったから。
そこでハンクが、うーんと
「さすがに何か食べないと体が
「無理に口を開けて、
顔を
「
「あの時のことは、一生かかっても絶対に許さないわ。絶対にね!」
「……俺、そこまで怒られることしたか?」
アシュリーも大きく
けれど違うのだ。黒狼が好きなのは肉ではない。そこで提案した。
「黒狼様がお好きなのは野菜です。野菜をあげましょう」
「……狼なのに?」
「……
黒狼は野菜が好きなベジタリアンだった。芽キャベツ、ラディッシュ、アーティチョーク。塩をかけて美味しそうにバリバリかじっていたことを思い出す。
「肉じゃないのか」
クライドが驚きつつ、
動物ではなく
「よし。野菜をやろう」
「では畑にいって
「
アシュリーもついていこうとしたら、ジャンヌに笑顔で止められた。
「アシュリー様はここで待っていてください。私たちが穫ってきますから」
「でも──」
「大丈夫ですよ。そんな重労働ではありませんから。ここで、クライド様とゆっくりお待ちになっていてください」
完全なる善意に、
二人きりになり、アシュリーは
金の
ユーリに言った言葉が
あの言葉を聞いて、六百年ぶりに初めて救われたような気がしたのだ。
(助けられてばかりだわ)
出会ってからずっと。だから──。
体の
「クライド様、あの、今まで色々と申し訳ありませんでした……」
クライドが
「それでその、以前夕食の席でも申し上げたことですが、私、クライド様に慣れようと思います」
「……俺に慣れる?」
「はい」
慣れたい、と思ったのだ。黒狼を大事に思う味方で、
クライドは目を見開いてアシュリーを見つめていたが、
「そうか」
とゆっくり目を
「ありがとう。よくわからない部分もあるけど、アシュリーがそう思ってくれたことはすごく嬉しいよ」
「じゃあ、これからよろしく」
いきなり右手を出された。友好の
だが決意とは裏腹に、固まってしまった。慣れると宣言しておいてなんだけれど、こんなすぐに求められるとは思っていなかった。
(大丈夫、大丈夫よ)
自分に言い聞かせ、アシュリーも右手を出そうとした。
だが、どうしても右手が動かない。やる気はあるのに本能が
右手を小刻みに
「ここまでは無理か──じゃあまずは、そうだね。
驚いたものの、いや、と考え直す。
けれど、
(……無理、じゃない?)
足元から震えが走る。
限界が来て、思いきり顔をそらした。
「アシュリー、こっちを向いて」
「むっ、無理です」
やっぱり無理かもしれない。早くも自信を失いかけたその時、
「じゃあいっそショック
「……ショック療法?」
「そう。なかなか馬に乗れない者がいるとするだろう。そうしたら無理やりにでも乗せて、とにかく一周走らせてみるんだ。そうするといつの間にか馬に乗れるようになっていた、というやつだね」
聞いたことがある。だがアシュリーの場合に当てはめると、どうなるのか。
「いっそ強く
考えただけでゾッとした。申し訳ないとは思うけれど、勢いよく首を横に振る。
「無理です!」
「そう? いい方法かもしれないよ?」
「絶対に無理です」
そんなことをされたら失神する自信がある。
「そうか。じゃあやっぱり、少しずつ慣れていくしかないね。はい、もう一度こっちを向いて、俺を見て」
クライドの態度がいつもと
思いきり目を見開き、クライドを
クライドもまっすぐ見つめ返してきた。が、しばらくして口元を右手で
(
感情が激しく上下する。ふるふると震え、
笑っていたクライドが、ふと真顔になった。えらく真剣な目でアシュリーを見つめる。
ちょうどそこへ、
「野菜を持ってきましたよー」
畑の
(天の助けだわ!)
どっしりとしたカボチャに、
(立派な野菜。これで黒狼様が反応してくれるといいけど)
「さっそくキッチンメイドに
「はい。やっぱり温かい料理がいいんですかね」
白のエプロンをつけたキッチンメイド長が驚いた顔をした。
「クライド様にアシュリー様。それに魔術師の方々も。どうされました?」
「悪いが、この野菜を調理してもらいたいんだ。メニューは任せるよ。なるべく
「承知いたしました。失礼ですが、先ほどお昼を
キッチンメイド長の顔色が変わった。
「いや、そうじゃないよ。俺たちが食べるんじゃないんだ」
「ではお客様がいらっしゃるのですか? でしたら、きちんとしたお食事の用意をいたします」
クライドが答えるより早く、ハンクが口を出した。
「お客じゃないんで大丈夫です。ちょっと黒い動物が食べるだけです」
「えっ?」
「ハンク!」と、ジャンヌが頭をはたく。
同時に、クライドがハンクを自分の後ろに追いやり、笑顔でごまかした。
「実は新しい
「──さようですか」
「頼むね」
数時間後、注文どおりの料理ができあがった。
(
思わず笑みが
「もっと匂いを届けるために、あおいでみましょうか」
ハンクが言い、
「私も」とジャンヌもカボチャスープの入った小鍋を持ち、黒狼の鼻先で
アシュリーもまた塩茹でブロッコリーをフォークに
(お願いです。目覚めてください)
魔術師二人と
「──
ぴくりともしない黒狼に、ジャンヌが息を
「やっぱり、こんなふざけた方法では無理なんじゃないっすか」
ハンクがへらへらと笑いながら失礼なことを言った。
駄目だったのか。落ち込むアシュリーに、クライドは無言で皿を手にした。左手で黒狼の口を開け、炒めたアーティチョークを
「はい。もぐもぐ」
と
(
魔王の側近だった気高き黒狼にこんなことができるとは、さすが勇者の子孫である。