クライドは視線を感じて振り返った。馬房の隅にいるアシュリーと目が合う。
途端に、怯えたように顔を背けられた。
(わからないな)
なぜ避けられるのか、が。何しろデビュタントが行われた宮殿で初めて会ったのだ。
それまでクライドはアシュリーの存在を知らなかった。クライドが自分の存在を隠していたため、アシュリーも同じだろう。だから嫌がられる理由がわからない。
今まで女性から嬉しそうな顔をされたことはあっても、怖がられたことはない。
怖いと言えば、まず魔獣を世話していることだろう。けれどアシュリーは逆に、魔獣には会えて幸せそうな、まるで憧れの人を見るような顔をする。
(なんなんだ)
なぜ黒狼を知っているのか大きな疑問だし、わからないことだらけだ。それでも──。
(面白い)
黒狼にせっせとブラシをかけている姿を見ていたら、いつの間にか微笑んでいる自分に気がつく。重苦しい心が、少しだけ軽くなっているから不思議だ。
昨夜の夕食の席と同じだな。そう思い、向かいにいるジャンヌに言った。
「ハウスメイドが、差し入れにと焼き菓子をくれたんだ。そこの道具箱の上にある小さな袋だ。皆に配ってくれないか?」
「わかりました」
紙袋の中には、一口大に切られたシンプルなケーキがたくさん入っている。
ジャンヌが逡巡しつつ「どうぞ」と、最初にアシュリーにケーキを手渡した。
その光景にクライドは驚いたが、すぐに納得した。
風呂用のたらいをハンクと取りに行き戻ってきたら、アシュリーとジャンヌの間にある空気が今までと違った気がしたからだ。いや、二人の間というよりは、ジャンヌがアシュリーに向けるものが。
(さすがアシュリー、と言うべきか)
この令嬢は自分では気づいていないようだが、知らぬうちに他人を癒している。
だから他人は、彼女のために何かしたいと思うようになるのだ。クライドのように。
クライドの見つめる前で、癖なのか、アシュリーが渡されたケーキの匂いを嗅いだ。
オレンジがかった色のケーキ。その正体がわかったのかアシュリーの顔が輝いた。満面の笑みで口に運ぶ。よかった。気に入ったようだ。
「クライド様、黒狼の首を支える役目を代わりますよ」
両手にケーキを持ったハンクがやってきた。
先ほど黒狼の耳が動いてからは、一度も反応しない。そろそろ潮時かと思いながら「大丈夫だよ」と返した。
「クライド様は食べないんですか? なかなか美味いっすよ」
「俺はいいよ。その分をアシュリーにやってくれ。好みの味だろうから」
ハンクはぴんときたようだ。
「じゃあこのケーキは、クライド様がこの味で作ってくれと、わざわざメイドに頼んだものなんですね?」
察しがいい。優しい甘さの中に、すりおろした人参の風味が香るケーキ。前日の夕食でアシュリーが美味しそうに人参スープを飲んでいたから、きっと好きだろうと思ったのだ。
「婚約者への愛っすね」
「そんなのじゃないよ」
苦笑した途端、ふと以前にかけられた言葉が脳裏に浮かび、胸の内が重くなった。
『クライド殿下はトルファ国のことなど、どうでもいいと思っておられるのですか』
敵意のこもった響きに、今でも気持ちが暗くなる。四年前のことだ。サージェント家の前当主が亡くなり、クライドが正式に跡を継ぐことになった。
養子に入ることは幼い頃から決まっていた。当時から高齢の前当主には子どもがなく、親戚の男子にも、結界を張れるほどの魔力の持ち主はいなかったからだ。
けれど名乗りを上げたクライドに、兄弟たちも王室関係者たちも反対した。
直系王族の、しかも次男だ。もっと他に適任がいるだろうと。
反対意見に屈さず強行したのは、クライド自身だ。魔獣を死なせたくなかった。
これまでも王室内で、先祖の敵である魔獣を生かしておく必要はないという意見はあった。
けれど生態のわからない魔獣を下手に刺激して何か起こっては危険だ、という穏健派の意見の方が強かった。危険が及ぶくらいならサージェント家に任せておいて遠巻きに見ていたほうが賢い、というのが彼らの本音であろう。
他にも、せっかく生き残った魔族なのだから研究に使えばいいという意見や、国の武力のためにその強大な魔力を活かせばいい、という意見もあった。
だが結局、二百年間黒狼は目覚めなかった。そういった意見は宙に消え失せ、魔獣の存在は宙ぶらりんになった。
役に立たないのに危険な厄介者。そしてトルファ国の憎き敵。
それが魔獣に対する認識で、このまま寿命を終えて静かに死ぬのを今か今かと待っている。それが王室関係者や兄弟たちの一致した思惑なのだ。
だから王室の意見に背き、あまつさえ国の敵を保護しようとするクライドに、彼らの目は冷たかった。
『何を考えているんだ。王族としての矜持はないのか』
『兄上、おかしいですよ。どうされてしまったのです?』
『クライド様は魔族を愛でる、異端の王族ですな』
心無い言葉もかけられたし、嘲笑も受けた。それは今も続いている。
もちろん彼らの言い分はわかる。魔族は忌むべきものだし、六百年前にたくさんのトルファ国民が魔族に殺されたのも事実だ。助ける理由はない。
自分が異端だとも、王族失格だとも充分わかっている。
それでも望みを叶えたいのだ。
黒狼に、子どもの頃の恩返しがしたい。
そのためにこの四年間、王族としての自分の立場を無くしても、慕ってくれる弟たちの反対にあっても、突き進んできた。味方はどこにもいない。
覚悟していたことだ。それでも張り詰めた毎日に疲れていた──。
クライドは顔を上げた。ジャンヌの隣で、アシュリーが目を細めて人参ケーキを頬張っている。
小さな口で少しずつ、しかし食べる速度は速い。マナーはいいし食べ方も綺麗なのだが、好きなものを前にすると無心になってしまうようだ。
(本当に小動物みたいだな。タヌキ、リス? いや、ウサギか)
微笑ましくて、気がつけば笑みが浮かんでいる。疲れも悩みも忘れて、穏やかな気分になっているから不思議だ。
(黒狼のことも光が見えてきた)
何しろ初めて反応したのだ。信じられなかった。
駄目かもしれないと、歯を食いしばって悩んでいた日々が嘘のようだ。
(アシュリーのおかげだな)
特に気に入って婚約者に選んだわけではない。たまたまだ。
それでも今は、もう放したくない──。
「なんだかクライド様、楽しそうですね」
ハンクが不思議そうに言った。
「そうか?」
「そうですよ。でもジャンヌを放っておいて大丈夫ですか? あいつ気が強いし、アシュリー様に対して、結構きつい態度をとってますよ。……あれ、でも今はおとなしい気がしますね。なんでだろう?」
ハンクは首を傾げながら、少し離れたところにいるジャンヌのほうに寄っていった。
ハンクとジャンヌは宮殿から派遣された魔術師である。
魔獣の世話兼クライドの護衛というのはただの名目で、実際は国王がクライドに魔獣の保護を諦めさせるため送り込んだスパイかと、最初は警戒もした。
しかし、そうではなかった。貴重といえどただの魔術師に王室のごたごたを知らせたくなかったのか、はたまた二百年間も眠り続ける魔獣をクライドが起こすなんてできないと高を括っているのか、二人は何も知らなかった。
保護しているものが魔獣だとも知らず、ここへきた当初は絶句していた。
けれどクライドの頼みどおり、熱心に魔獣の世話をしてくれる。この四年間で信頼関係もできた。とても心強い。
けれど彼らの立場を考えると、信頼し過ぎてはいけないと自分を戒めてもいる。
彼らが今仕えているのはクライドだが、本来は国であり、国王である。だからそれらに歯向かうクライドに心底味方をするわけにはいかないし、またさせるわけにもいかない。
協力してくれることには心から感謝している。彼らがいなければ黒狼の世話は立ち行かない。
けれどやはり、どこまでいっても自分は一人きりだ。真の味方はどこにもいない──。そんな思いが拭えない。
ふと顔を上げると、顔を真っ赤にしたジャンヌがハンクにぶちぎれていた。
「ハンク、あんた馬鹿なんじゃないの! 何をふざけたことを言うのよ。私がどれだけ我慢して、考えないようにしていたと思ってんの──!」
(また余計なことを言ったな)
ため息を吐き、心の中でハンクの言葉を反芻する。『ジャンヌがアシュリーにきつい態度をとる──』。
(大丈夫だよ)
確信を込めて微笑んだ。
(相手がアシュリーだからな)
〇 〇 〇
ジャンヌが人参ケーキを食べるアシュリーを見つめていると、ハンクが近寄ってきた。その顔に浮かぶ笑みから、ろくでもないことを言ってくると予想する。案の定、
「なあ、アシュリー様ってなんか小動物っぽくないか?」
激しく動揺した。ハンクは適当な性格をしているくせに、意外に鋭い。
けれどジャンヌはそれを認めるわけにいかない。
「何を馬鹿なことを言ってるのよ。そんなわけないでしょう」
「いや、絶対にそうだって。イタチ? タヌキか? いや、違うな」
「ちょっと、やめ──!」
「あれだ。ウサギだ!」
なんたる直球。一切の誤魔化しもできないストレートな言葉に、ジャンヌはぶち切れた。
「ハンク、あんた馬鹿なんじゃないの! 何をふざけたことを言うのよ。私がどれだけ我慢して、考えないようにしていたと思ってんの──!」
アシュリーがどこかウサギに似ていると、ジャンヌが一番わかっている。
クライドに近づかれて全身をふるふると震わせたり、人参ケーキを小さな口で素早く食べる仕草が、ウサギを彷彿とさせるからだ。
今もそうだ。突然怒り出したジャンヌにアシュリーは目を見張ったが、それでも人参ケーキは食べ続けたままだ。無意識なのか。貴族令嬢なのに。それほどケーキが好きなのか。
鈍感なハンクが感心したように首をひねった。
「アシュリー様は甘いものがお好きなんですねえ」
「好きです。でも人参も大好きで、だからその二つが合わさったこのケーキは最強です」
人参が好きだなんて、やっぱりウサギじゃないの。そんなことを思った自分が嫌になる。
ジャンヌはクライドが好きなのだ。四年前にサージェント家に派遣されて以来、ずっと憧れている。
他に類を見ないほどの美貌。魔力も身体能力も高く、頭もいい。けれどそれに驕ることなく努力家で、自分で決めたことを貫き通す強さを持っている。
そんなクライドに夢中にならないわけがない。
(でも──)
だがそんなクライドよりも、ジャンヌには好きなものがあった。そう、ウサギである。
ふわふわの毛に、ぴんと立つ長い二本の耳。つぶらな瞳に、ころんと丸い尻尾。小さな鼻をヒクヒクさせて二本足で立ち上がったり、体を丸めてふるふると震えていたりするのだ。
これほど可愛いものは他にない。
けれど誰にも言ったことはない。サバサバ系美女の──と自分で思っている──ジャンヌがウサギ好きだなんて似合わないからだ。
だからこっそりと、ウサギの形をしたイヤリングをつけたり、下着にウサギを刺繍したり、部屋にウサギの絵を飾ったりしている。
もちろんイヤリングは髪で隠し、刺繍は見えないところにあしらい、絵はその上から違う絵を飾っている。
そんな時、突然クライドが婚約者を連れてきた。驚いたし、ショックだった。当のアシュリーがどこから見ても平凡な女性だからなおさらだ。
さらに気にくわないのは、アシュリーがクライドを嫌がっているふりをすること。
わざと怯えたふりをして逃げて、クライドの気を引こうとしている。
クライドを嫌がる女性なんて存在するわけがないのに。
(不愉快な方だわ)
そう思ったから、馬鹿にした態度をとった。
それなのに、アシュリーはジャンヌを見ると逆に安心した顔をする。おかしい。
苛立ちと戸惑いから、廏舎の掃除にいつもより力が入った。元々綺麗好きなこともあり、床だけでなく壁も隅々まで磨く。ぴかぴかになった馬房に一瞬満足するも、中央に寝そべる黒狼に目をやるとすぐに気持ちが暗く沈んだ。
どれほど頑張っても、出口の見えない黒狼の世話に疲れていた。
派遣された当初はわからなかったけれど、今ではクライドが国に楯突いていて自分たちが間違ったことをしているとわかっている。
だからこそ結果が欲しかった。黒狼が目覚める兆候でもいい。どんな小さなことでもいいから、何か実感できれば頑張れた。
けれど黒狼は眠ったまま、何の反応もなかった。四年間ずっと。
自分の進むべき道がどんどん見えなくなっていく。苦しい毎日だった。
『でも、この馬房はぴかぴかですよ──』
アシュリーの目を丸くした表情が浮かんだ。手放しで褒めてくれた。認めてくれた。
本来なら、魔獣の世話をするジャンヌたちを侮蔑するはずの貴族のお嬢様に。
胸が熱くなり、涙が出そうになるのを必死に堪えた。
心が動くとは、ああいう時を言うのだろう──。
(私は嫌みな態度をとったのに)
自分の心に素直になれば、ただただアシュリーへの申し訳なさしかない。
ジャンヌはゆっくりと顔を上げた。
目の前で、アシュリーはまだ人参ケーキを食べ続けている。一口サイズだからすぐ食べ終わりそうなものだが、すぐなくならないように大事に食べているらしい。
そんな姿を見ていたら、今までの自分が情けなくてたまらなくなった。
祖父の影響で、ジャンヌは騎士道精神も持ち合わせている。だから戒めを込めて、
「懺悔──っ!!」
と、思いきり自分の両頬を叩いた。
馬房中にものすごい音が響いた。アシュリーもクライドもハンクも驚いていたが、なんでもない。悪いことをしたら自分を罰せよ、だ。
「アシュリー様、今まで申し訳ありませんでした!」
平身低頭して詫びた。
ひどい態度をとった。許されなくても仕方ない。そう覚悟していたのに──。
「申し訳なかった、って何のことですか?」
と、きょとんとした顔で返された。
(えっ、これは本音……だわ。嘘でしょう。今までの私の嫌みが、本気でわかっていらっしゃらなかったの?)
なんて大きな方だ、と脱帽した。さすがウサギに似ている方だ。
その夜、ジャンヌはキッチンメイドから台所を借りた。
小麦粉を丁寧にふるいにかけ、卵とバターと砂糖を混ぜる。そこへ人参を細かくすりおろして加え、オレンジ色になった生地を平たく伸ばした。
作っているのは、人参クッキーである。
生地を一つ一つウサギの形に整えながら、そういえばお菓子作りは久しぶりだなと思った。
趣味の一つであり、結構得意なのだ。それでも今までは黒狼を目覚めさせることにいっぱいいっぱいで、こんなことをする心の余裕がなかった気がする。
(喜んでくれるかしら?)
不安になったけれど、甘いものと人参が大好きだと言っていたから大丈夫なはずだ。渡した時のアシュリーの顔を想像して、心の中がくすぐったくなった。
クライド様にも少しおすそわけしよう。そしてハンクには絶対にあげない。
そんなことを考えながら、ジャンヌは笑顔でせっせとクッキーを焼いた。