シーン1 派遣カップル始めました その8
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「なんか、すげー疲れた……」
そんなこんなで新人研修はなんとか終わり、俺は怒濤の一日を振り返りながら腹の底からため息を吐いた。
「そうだね。初めての経験ばっかりだったからね……」
すると隣にいた比奈森さんも、さすがに少し疲れたといった感じで苦笑を見せた。
今俺達は霧島芸能事務所を後にして、一緒に帰り道を歩いているところだ。
空はもうすっかり夕焼けの朱に染まり、俺達の背後には道路に長い影が伸びている。
「あの、ところでさ」
しばらく歩いた後、俺は少し緊張しながらそう言って話しかけた。
演技をする時とは違う、純粋に女子に話しかける時の緊張だ。
「なに、鳴瀬くん?」
比奈森さんは、小首を傾げてこちらを向いた。
彼女の動作は演技をしている時も普段も全然変わらないように見える。
「いや、改めてこれからもよろしくってことと……、それから一つ質問があって」
「質問? なにかな」
「比奈森さんは――」
「あ、ごめんなさい。その前に一つだけいいかな? これから私のことを呼ぶときは、もうさんは付けないでほしいの。ほら、彼氏役がさん付けって変だからね」
「え? あ、そ、そうか。じゃあ……、比奈森?」
「うん、それでお願いします」
「で、でも学校では今まで通りの方がいいよな? ほら、変な噂でも立ったら面倒だし」
「あ、そうだね。鳴瀬くんに迷惑になっちゃいけないし」
……いや、迷惑になるとしたら俺じゃなくてですね……。いいんだけどさ……。
「えっと、それで質問なんだけど……。比奈森さ――比奈森は、さっきのカップルの演技の時全然平気そうだったし、やっぱ緊張とかしないタイプだったりするのかなって」
「ううん、必要なことだからって思って、がんばってやってただけだよ。もちろん練習中は、私も恥ずかしかったんだよ?」
比奈森はそう言って笑う。
だが、間もなく「でも」と続けて、少しだけ遠くを見つめるような表情になると、
「……確かに、私は他の人よりそういうことが平気なところはあるのかもしれないね」
比奈森はどこか遠くを見つめるような表情で、静かにそう言った。
その時の雰囲気が、なんだかさっきまでの比奈森とは少し違うような感じがした。
「そ、そうか、すごいな。俺はやっぱりどうしても緊張しちゃうんだよな。演技の経験があるのに情けない話だけどさ」
ちょっと気圧された俺が早口でそう言うと、比奈森はまた笑顔に戻って、
「鳴瀬くんって繊細だね。でも、私なんかを相手に緊張なんてしなくても大丈夫だよ」
……いやいや、自分の可愛さを自覚してないんですかあなたは。
それとも謙虚なのか? 可愛くていい人のうえに謙虚なの? 天使かよ。
「でも鳴瀬くん、さっきマニュアルを見てたら、この先はもっとスゴイ内容がいろいろ書いてあったんだよ」
「も、もっとスゴイ内容?」
「うん。お互いに慣れていかないと、これから大変かもしれないね。がんばろうね」
そう言って微笑む比奈森に、俺はなんだか不思議な気分になる。
だってそうは言うものの、やっぱり比奈森はまるで平然としているように見えるのだ。
「……比奈森は動じないな」
だからだろうか、俺は気がついたらそうポロッと口にしていた。
「そんなこと、全然ないよ」
すると比奈森は一瞬立ち止まった後、やがてまた歩き始めた。
「あ、私の家、こっちだから。ここまでかな」
やがて大通りに差し掛かると、比奈森はそう言ってこちらを振り返った。
「鳴瀬くん、今日は本当にありがとう。彼氏役なんて引き受けてくれて、すごくうれしかったよ。これから改めてよろしくね」
「あ、ああ、いや、こちらこそいろいろ助かったよ。これからもよろしくな」
「うん、今日はお疲れさま。それじゃまたね、鳴瀬くん」
別れの挨拶を告げ俺に背を向けると、比奈森は間もなく雑踏の中へと消えていった。
俺はその背中を見えなくなるまで見送りながら、今日一日のことを思い返していた。
今日、なんだかんだあって俺は夢への第一歩を歩き始めたわけだけど、果たしてこれから本当に上手くやっていけるのだろうか。
霧島芸能事務所で演技力を身につけ、オーディションを突破できるのか? いやそもそも、派遣カップルなんてわけのわからない仕事を本当にこなしていけるのだろうか……。
……わからない。わからないけどやるしかない。
けど一つだけ、これだけはハッキリとわかるということもある。
それは、こんな不安だらけの中で、比奈森みたいな女の子が俺のパートナーになってくれたという事実だけは本当に運がよかった、ということだった。
◇
「ふぅ……」
自分の部屋に入ってドアを閉めると、自然とため息が漏れて肩の力が抜けた。
一人になれる場所だと、少しだけ気が楽になる。
周りの人の反応を気にする必要がなくなって、気を張る必要がなくなるから。
といっても、昔と違って今はもう慣れてしまったからほとんど緊張とかはしなくなったんだけど、さすがに今日は特別だった。
だってまさか男の子とあんなことを――手をつないだり、腕に抱きついたり、肩を抱き寄せられたり、それからハグとか、おでこをくっつけあったりとか――あんな恥ずかしいことをいきなりやるなんて思ってなかったから。
彼氏がいて、彼女として振る舞うなんて今までした経験がないから、たとえそれがそういう役だったとしても、やっぱり恥ずかしかった。すごく恥ずかしかった。
……はぁ、今でも思い返すと、ちょっと頬が熱くなってくるかな……。
でも、仕方ないよね。あんなことをしちゃったんだもん。
「……ほんと、あんな恥ずかしい――ってダメ……。思い出すとまた顔が熱く……」
私は頬に手を当てて、軽く深呼吸をする。
それでも『仮面』のおかげでなんとか取り乱さずに乗り切れたのはよかったと思う。
もし『仮面』がなかったら、あの時きっと恥ずかしさに耐えきれずに目でも回して倒れていたかもしれない。そうしたら、きっとみんなに迷惑をかけていたに違いない。
それから、今日をなんとか耐えられたのは、変な言い方かもしれないけど使命感みたいなものもあった。自分で望んだ状況だから、ある程度の覚悟をしてたっていうのはある。
それでもまさかいきなりあんなことになるとは思ってなかったから、切り抜けられたのはやっぱり長年かけて作り上げてきたこの『仮面』があったからなんだろう。
「けど、今日みたいなのがこれからも続くんだよね? ……ううん、これからはもっと、恥ずかしいことをしないといけなくなるはずだから『仮面』ももっと強くしないとダメなんだろうな……。うん、がんばらないと……!」
私はそんなことを呟きながら、秘密のひきだしからノートを取り出して机の前に座る。
それは、私が『仮面』の研究をするために使っているノートだった。
その日の反省、上手く対処できなかったこと、思ったのと違った反応が返ってきた場合などなどを振り返って、問題点の洗い出しと改善をするための大事なアイテム。
夜寝る前にこのノートにいろいろ書き込んで『仮面』の精度を上げるのが、私の長年の日課だった。だから、ある意味日記みたいなものと言えなくもない。
私はペンを片手に、まずは霧島芸能事務所について書こうと考える。
芸能事務所ということで事前にいろいろと想像していたけど、実際に行ってみると所長さんの印象ばかりが残っている。それだけインパクトが大きかったんだろう。
紆余曲折はあったけれど、結局私は所長さん――霧島祥子さんの計らいで彼氏役を見つけることができた。その代わり、私はあそこで派遣カップルというお仕事をしなくてはいけなくなったけど、それは仕方がないことだと思う。
……霧島祥子さん。とても綺麗な人だったなぁ。
女子の私から見てもドキッとするくらいの美人で、ああいう人には少し憧れてしまう。
それから、とってもいい人だ。勘違いしてやって来た私を相手になんてする必要はないのに助けてくれて、しかもみんながウィンウィンになるようなアイデアをすぐに考えついてしまった。つまり、頭もいい人だ。
頭がいいといえば、派遣カップルっていうのもすごいアイデアのお仕事だと思う。
最初聞いた時はそんなのあるんだって驚いたけど、でも話をよく聞くとなるほどって思った。人間はイメージを重視する生き物だっていうことを、霧島さんはよくわかっているんだろう。それをお仕事にするなんてアイデアはすごい。私はせいぜい自分の『仮面』を作り上げることくらいしか思いつかなかったのに。
「霧島祥子さんは頭のいい人だし、人を見る目に自信を持ってたから、私の『仮面』も見抜かれないように注意しないと……」
私はノートに霧島祥子さんと書いて『要注意 *でも美人さん』と付け加えた。
「それから……」
あの事務所には、思ってもみなかった人がいた。
学校で同じクラスの鳴瀬了介くん。
なんと、鳴瀬くんは霧島さんに才能を見抜かれてあの芸能事務所で働くことになったというすごい人だ。実は演技の経験もあるんだとか。
そして一番重要なのは、その鳴瀬くんが私の彼氏役になってくれたことだ。
まあそれと同時に、派遣カップルのパートナーにもなったんだけど、でもその二つは、私が彼女役で鳴瀬くんが彼氏役を演じるという点で意味合いとしては同じこと。
とにかく、鳴瀬くんにはいくら感謝してもしきれない。私には彼氏役が必要だけど、誰かと本当の意味で付き合うことはできないし、そんな資格もない。だから、鳴瀬くんがいなかったら、私は今頃どうしたらいいかわからずに途方に暮れていたかもしれない。
「鳴瀬、了介くん……と」
私はノートの新しいページに彼の名前を書いた。そしてそこに『とってもいい人』『恩人』なんて書き込みながら、ふと、あることに思い至った。
……そうだ、鳴瀬くんのことは特に詳しく研究しないといけないよね。
だって、私はこれから彼女としての『仮面』を作り上げていかないといけない。
そして彼女にとって一番大事な相手は彼氏である鳴瀬くんということになる。
私の『仮面』は今まで、不特定多数を相手にあらゆる状況に適応して、なんでもそつなくこなせるようにと思って作り上げてきたものだ。
でも、これからはそれじゃダメだと思う。だって彼女だったら彼氏の反応に適応しないといけないわけだから、やっぱり鳴瀬くんの研究は不可欠だ。
「鳴瀬くん……、どんな人……?」
私は鳴瀬くんのクラスでの印象を思い出してみる。
でも、そもそもあんまり印象に残っていなかった。というのも、今までほとんど会話もしたことがなく、数回挨拶を交わしたくらいしかなかったからだ。
「……えっと、部活には入ってなかったよね? 好き嫌いはどんなのがあるんだろ……?得意な教科は何かなぁ……」
私はそんなことを呟きながら思考を巡らせるんだけど、わかったことは、私は鳴瀬くんについてほとんど何も知らないということだけだった。
「鳴瀬くん、教室でもあんまり目立たない方だったような気がする……」
せっかくノートに鳴瀬くんのトピックまで用意したのに、早速行き詰ってしまった。
なので、私は頭を切り替えた。知らないことを考えても仕方がない。知ってる範囲のことをまずはまとめよう。とりあえずは、今日の出来事から。
「今日、霧島芸能事務所で起きた鳴瀬くんとの出来事は――……あ」
私はそこまで口にして、途端にかあああぁと顔が熱くなる。
だって今日鳴瀬くんとしたことといえば、派遣カップルの新人研修だ。
「て、手をつないだり、肩を抱かれたり、ハグをしたり、見つめ合ったり――ってダメだよ……! 思い出したらまた恥ずかしさが……!」
私はぶんぶんと頭を振って、その時のことを頭から追い出そうとする。
「はぁ……」
私は熱くなった顔をパタパタと仰いで冷やそうとする。
――比奈森は動じないな。
その時、鳴瀬くんのそんな言葉が思い浮かんで、私は一人呟く。
「そんなことないよ鳴瀬くん。私、こんなにも動じまくりだったんだよ?」
けど、そう思われてたってことは『仮面』がちゃんと維持できてたって証拠だから、返す返すもよかったと思う。
「動じない……かぁ。そういえば鳴瀬くんは、すごく動じてたよね……」
私は真っ赤な顔をして緊張していた鳴瀬くんを思い出しながら、くすりと笑った。
ほんと鳴瀬くん、研修の間ずっと顔が真っ赤だったよね。やっぱりそれだけ恥ずかしかったのかな? ということは、私と一緒だったんだね。なんかうれしいな。
それにしてもほんと、私なんか相手にあんなに真っ赤にならなくてもよかったのに。
「……女の子に慣れてないのかなぁ?」
そういえば、彼女はいたことないって言ってたよね?
それも不思議だなぁって思ってたんだよね。だって鳴瀬くん、あんなにも優しいのに。
……あ、これも書いておかなきゃ。鳴瀬くんはすごく優しいって。自分も真っ赤なのに私の心配ばっかりで……と。
でも、こんなに優しいのに今まで彼女がいなかったってことは、意図的に作らなかったってこと? それともすごく純情だから? もしかして、好きな人はいるけど想いを胸に秘めてたり? 単純に女の子が苦手って可能性も――それは、ちょっと困るかな……。
私は恥ずかしかったところはなるべく思い出さないようにしながら、鳴瀬くんの人となりを考えていく。
こうかな? それともああかな? と想像を巡らせていると、いつの間にかノートのページ数はかなり進んでいて、気がついた時にはちょっと驚いた。今まで誰かをフォーカスして研究なんかしたことがなかったから、なんだか不思議な気分だった。
私は鳴瀬くんの情報をまとめて、続けて彼女としての『仮面』――振る舞いやリアクションなども考えていく。
「……えっと、手を握った時、鳴瀬くんの顔は赤くなってたから、照れてたってことだよね? じゃあ私も照れた方がいいのかな? ……そっちの方が彼女っぽい反応かもしれないけど、でもそれって難しいかも……」
そうやって悩んでいると、その時のことを思い出したのか、真っ赤になって私の方を見ている鳴瀬くんの顔が頭に浮かんできた。
……なんだろう? 妙にあの表情が頭から離れない。どうしてなのかな……?
「鳴瀬くん、かぁ……」
私はなんとはなしに鳴瀬くんの名前を口にする。
「――……えさま。お姉さま。い、今お時間は空いてますか?」
だけどその時、ノックの音がしたかと思うと、ドアの向こうからそんな声が聞こえてきたので、私は思考を中断しノートを秘密のひきだしに隠し直してから立ち上がった。
とりあえず、研究は一旦中断。あのノートは誰にも見せられないものだから。
私は呼びかけの続くドアの方へと向かう。
その時ふと、もしあの時――今日の新人研修の時に、恥ずかしさに耐えきれず『仮面』がはがれていたらどうなっていただろうという考えが頭に浮かんだ。
「…………」
けど、すぐにそんなバカな考えは頭から消えた。
だって、
……『仮面』の下にある『本当の私』の顔なんて、もうずっと昔にどこかになくしてしまったのだから。
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