シーン1 派遣カップル始めました その1

「えっと、ここでいいんだよな……?」

 俺は手に持った名刺から視線を外して、目の前のビルを見上げた。

 看板の三階と四階の欄には確かに『霧島芸能事務所』とあって、どうやらここで間違ってはいないようだ。正直なところ「本当にあったのか」っていう感じなのだが。

「……まあ、ここまで来た以上は、行くしかないんだけど……」

 俺はしばらくその看板を胡散臭そうに眺めていたが、やがて意を決して三階へと上り始めた。気が進まないけど、でも何かを期待しているような、そんな自分でもよくわからない複雑な気分だった。


 さて、本格的に語り出す前にここいらで少し、なぜ俺が今日この霧島芸能事務所なる場所を訪れたのか、その経緯を自己紹介も交えてしていきたいと思う。

 俺の名前はなるりようすけ。この春、高校二年生になったばかりだ。

 成績は普通。運動神経も普通。人付き合いも普通。容姿も、……まあ多分普通。

 基本的に特筆すべき点もない平凡な人間なんだけど、たった一つだけ、これだけは誰にも負けないって言えることも、あるにはある。それは演劇が――演技が好きってことだ。

 俺は子供の頃から何かを演じることが好きだった。自分が自分でありながら別人になれるということが、単純にとても刺激的だった。ワクワクした。

 演技が好きってことは、自然と将来の夢も役者ってことになった。

 俺は両親に拝み倒し、小学校高学年の頃からアクターズスクールに通い始めた。そうして中学に上がった頃には、とある俳優養成所のオーディションも受けるようになった。

 だが、結果はいつも惨敗。一次審査すら通らない。

 それもまあ当然と言えば当然の結果で、なぜなら俺は演技をするのは好きだが、お世辞にも演技力があるとはいえなかったからだ。

 生徒を集めるのがビジネスなはずのアクターズスクールからさえも「役者を目指すというのは難しいのでは? 諦めた方がいいよ?」と正面切って言われる始末。

 だが前向きなだけが取り柄の俺は、それでも夢を諦めることはなかった。

 高校に上がってアクターズスクールに限界を感じてやめた後でも、独学で演技の勉強を続けてオーディションは受け続けたが、やっぱり結果は出なかった。

 そうして先日、俺はもう何枚目かわからない不合格通知を手にしながら、フラフラとした足取りでオーディション会場からの帰り道を歩いていたんだ。

 沈んだ心と疲れた身体、そして喉の渇きを癒すためにとある喫茶店に入り、通りに面した窓際の席でイチャイチャしているカップルに嫉妬と八つ当たりのこもった視線を投げかけつつ、俺が一番安いアイスコーヒーを頼んだ時だった。

「きみ、ちょっと話を聞いてもらってもいいかしら?」

 不意に美人のお姉さんが声をかけてきて、返事を聞く前に俺の正面の席に座った。

 お姉さんは言った。「きみには才能があるわ」「見ていてピンときたの」「うちの事務所で働いてみない?」「レッスン指導あり、現場実践あり、高給も保証するから」と。

 そうしてお姉さんは名刺を手渡してきて、あっけにとられている俺に「是非訪ねてきてね」と言い残し、いつの間にか注文していた生チョコ&三種のアイス盛り盛りDXパフェを綺麗に平らげてから去っていったのだ。

 その名刺には、霧島芸能事務所と書いてあった。

 当然のことだが、俺は当初その名刺を即行で破り捨てようと思った。

 だって考えてもみてくれ。いきなり知らない美女に声をかけられて「才能がある」とか「ピンときた」だぞ? どう考えてもあり得ないだろ?

 ホイホイと釣られて行ったが最後、高そうな絵を売りつけられるか、怖そうなお兄さんに囲まれるか、変な宗教に勧誘されるかってのがオチだ。バカバカしい。

 ……だけど、俺は結局その名刺を捨てられませんでした……。

 才能がある。芸能事務所。レッスン指導に現場実践。あとついでに高給保証。

 そのどれもが、オーディションに落ちて沈んでいた俺には魅力的な響きだったんだ。

 俺は数日間、行くべきか行かざるべきか悶々と悩み続けた。

 普通に考えれば明らかに怪しい。でも、もしかしたら……? いや、しかし……!

 そんな感じで散々頭を悩ませた俺だったが、結局とりあえず事務所くらいは訪ねてみることにしたというわけだ。

 とはいえ――最終的な決め手になったのは、他ならぬその名前、だったのだが。


「し、失礼します」

 三階に上った俺は、看板と同じ字体で霧島芸能事務所と書かれたドアをノックして、恐る恐る中に入った。

 ドアを開けた瞬間、サングラスをかけたおっさんに腕を掴まれたりしたら――そんな警戒をしていた俺だったが、そんなことはなかった。というか、中には誰もいなかった。

「んー、誰ー? どちらさまですかきみー?」

 だが、すぐにそんなやや間延びした女の人の声が聞こえてきた。

「おや? きみはもしかして……」

 奥のソファで一人の女性が立ち上がり、やけにダラダラした歩き方でこっちに来ると、遠慮なく盛大なあくびを一つかましてから俺の顔を見た。

「え、えっと、はじめまして。俺、鳴瀬了介といいます。高校二年生です。先日、その、ここの人? から名刺をもらって、一度訪ねて来てくれと言われたので……」

 この前会ったお姉さんとは違ってだらしない感じの人だなぁ……、と思いながらも、俺はかなり緊張しながらそう挨拶した。

 なんか人もいないし想像してたのとちょっと違うけど、今自分が芸能事務所に足を踏み入れていると思うと、どうしても浮足立ってしまう。

「おーおー、来てくれたんだねきみー。待ってたよー。でも、はじめましてはヒドいじゃないのきみー。私の顔を覚えていないのかい?」

 女性はうれしそうにバシバシと俺の肩を叩きながら、ニヤリと顔を覗き込んできた。

「え? ど、どこかでお会いしましたっけ?」

「どこかも何も、その名刺を渡したのは私じゃないかきみー」

「ええ!?」

 その一言に、俺は驚いて女性の顔をまじまじと見つめた。

 ……そ、そんな!? この前のお姉さんはスーツもピシッと着こなしたいかにも有能って感じの人で、こんな見た目も話し方もダルダルな人じゃなかったはず……!

 だが、よく見てみると確かに目の前の女性とあの時のお姉さんは顔立ちが同じだった。

 そういえばスーツもあの時と同じだ。今はもう胸元は開いてるわスカートはシワだらけだわで見る影もないけど……。ということは、マジでこの人があの時の……!?

「なんだい、その信じられないって感じの反応はきみー。でもまあ、あの時はそういえば違うキャラだったっけかなー」

「違うキャラ?」

「まあまあ、そこはどうでもいいよ。今が素だから、それでよろしくってことでー」

 ……今が素とか、何を言ってるのか全然わからないんだけど……。

 でもとりあえず、あの時のお姉さんがこの人だってのはどうやら間違いないらしい。

「おっと、そういえば自己紹介がまだだったねきみー。私は霧島しよう。ここ霧島芸能事務所の所長をやってるよー」

「しょ、所長さん、だったんですか!?」

「そうだよきみー。でもまあ、所長っていっても私一人の事務所だから、所長兼事務員兼受付兼サボり魔って感じー?」

「最後のはいらないのでは……。ってか一人って、ここは芸能事務所なんでしょ!? 所属俳優さんとかもいないんですか!?」

「所属俳優とはまた大げさな表現だなきみー。でも、所員ってことなら、それはもちろんたくさんいるよー。あくまでも裏方は私一人ってことねー」

 あっはっはと笑う霧島さん――もとい霧島所長だったが、そんなんで芸能事務所ってやっていけるんだろうか……、と俺は呆気にとられる。

「まあまあ、そんなことよりわざわざ来てくれたってことは、うちで働いてくれるってことなんだよねきみー。いやー、うれしいねー。歓迎するよー」

「え!? あ、いや、別にそういうわけでは……」

 だがボーッとしている間もなく、所長からそんなことを言われた俺は焦る。

「ん? 違うのー? じゃあなんで今日はわざわざ来たんだいきみー?」

 そう問われて、俺は「そ、それは……」と言葉に詰まってしまった。

 ほとんど騙される覚悟でやって来ただけに、こんな展開は想定していなかったのだ。

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